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説教日:2017年4月16日 |
ここで「しかし、今や」と訳されていることば(ニュニ・デ)[注]は、パウロの手紙の中では、それまで記されて来たこととの関連で、大切なことを示すときに用いられています。それも、この場合のように、「しかし、今や」と訳されて、それまで述べられてきたことと対比する形で記される場合と、「こうして」とか「こういうわけで」などと訳されて、それまで述べてきたことを受けてさらに発展させる場合があります。 [注]ニュニは「今」を表すニュンにイオタをつけて強調形にしたものですが、意味はニュンと同じです。この後引用します、コリント人への手紙第一・13章13節におけるように、時間的な意味合いが弱まったり、なくなったりすることがあります。 それまで述べられてきたことと対比する形の例は、ローマ人への手紙3章21節に、 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。 と記されていることや、6章22節に、 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。 と記されていることなどに見られます。 また、それまで述べてきたことを受けて、さらに発展させる形の例は、コリント人への手紙第一・13章13節に こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。 と記されていることなどに見られます。 ここコリント人への手紙第一・15章では、この20節に先立つ12節ー19節では、コリントにある教会の信徒たちの中に死者の復活を否定する人々がいることに対して、死者の復活がなければどのようなことになるかを示しています。そして、20節では、それと対比する形で「しかし、今や」と語り出されています。 ここでは、続いて、 キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 と言われています。 今日おもに注目したいのは、ここに出てくる「初穂」(アパルケー)ということばによって示されていることで、特に、このことばの用例の広がりから考えられることです。 この「初穂」は旧約聖書のモーセ律法の規定を背景としています。代表的にいくつか引用しますと、レビ記23章10節ー14節には、 イスラエル人に告げて言え。 わたしがあなたがたに与えようとしている地に、あなたがたが入り、収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来る。祭司は、あなたがたが受け入れられるために、その束を主に向かって揺り動かす。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。あなたがたは、束を揺り動かすその日に、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊をささげる。その穀物のささげ物は、油を混ぜた小麦粉十分の二エパであり、主への火によるささげ物、なだめのかおりである。その注ぎのささげ物はぶどう酒で、一ヒンの四分の一である。あなたがたは神へのささげ物を持って来るその日まで、パンも、炒り麦も、新穀も食べてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。 と記されています。また、申命記18章4節には、 あなたの穀物や、新しいぶどう酒や、油などの初物、羊の毛の初物も彼[祭司]に与えなければならない。 と記されています。さらに申命記26章1節ー10節には、 あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に入って行き、それを占領し、そこに住むようになったときは、あなたの神、主が与えようとしておられる地から収穫するその地のすべての産物の初物をいくらか取って、かごに入れ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所へ行かなければならない。そのとき、任務についている祭司のもとに行って、「私は、主が私たちに与えると先祖たちに誓われた地に入りました。きょう、あなたの神、主に報告いたします」と言いなさい。祭司は、あなたの手からそのかごを受け取り、あなたの神、主の祭壇の前に供えなさい。あなたは、あなたの神、主の前で、次のように唱えなさい。「私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。エジプト人は、私たちを虐待し、苦しめ、私たちに過酷な労働を課しました。私たちが、私たちの父祖の神、主に叫びますと、主は私たちの声を聞き、私たちの窮状と労苦と圧迫をご覧になりました。そこで、主は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。今、ここに私は、主、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。」あなたは、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前に礼拝しなければならない。 と記されています。 これらのみことばから分かりますが、「初穂」(ヘブル語・ビックリーム[複数形])あるいは「初物」(ヘブル語・レーシート、これには「最上のもの」という意味合いがあります)は聖別されて、「主」への感謝を表すために献げられるものでした。それは祭司たちに与えられ、彼らの働きを支えるものでした。 また、イスラエルにおいては、「初穂」、「初物」はその地の収穫全体を代表的に表していました。 申命記26章8節ー10節では、イスラエルの民が告白すべきことが、 主は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。今、ここに私は、主、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。 と記されています。 カナンの地の究極の所有者は「主」です。というのは、カナンの地に限らず、創造の御業において地と海を区別され(創世記1章9節ー10節)、地を「人のすみか」に形造られた(イザヤ書45章18節)のは「主」であるからです。また、この地の収穫も、すべて、創造の御業において「種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹」(創世記1章12節)を芽生えさせてくださり、人に与えてくださった(創世記1章29節)「主」によってもたらされたものです。その「主」が、出エジプトの贖いの御業において、カナンの地をイスラエルの民に相続地として与えてくださいました(申命記26章9節)。それでカナンの地もその地の産物も、すべて「主」のものであり、賜物として人に与えられたものです。イスラエルの民は、「主」を礼拝するときに「初穂」、「初物」を「主」に献げて、このことを「主」に告白しました。このことは、「初穂」、「初物」はその地の収穫全体を代表的に表していることを意味しています。 パウロは「初穂」、「初物」を全体を代表的に表しているという意味において用いています。その用例を見てみましょう。 ローマ人への手紙11章16節には、 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。 と記されています。この「初物」はコリント人への手紙第一・15章20節で「初穂」と訳されていることば(アパルケー)で表されています。旧約聖書の背景に照らしますと、 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。 と言われているときの「初物」は「主」に献げられるものとして聖別されたものであり、聖いものです。それで、この「初物が聖ければ」ということばも、それが現実であるという仮定法が用いられています。ここでは「初物」は、それが最初の収穫であるというだけでなく、その土地からの収穫全体がどのようなものであるか、この場合は、「聖い」ということを示しているということになります。 ローマ人への手紙16章5節には、 私の愛するエパネトによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。 と記されています。ここで「アジヤでキリストを信じた最初の人」と訳されている部分を直訳調で訳しますと、「キリストへのアジアの初穂」となります。エパネトはローマの属州であるアジアにおいてキリストに献げられた「初穂」であるということです。それで、このエパネトはこの後、イエス・キリストを信じるようになる人々を代表的に表しています。 このことには大切な意味があります。それは二つの点から考えられます。 一つは、すでにお話ししましたように、「初穂」は全体を代表的に表しています。そして、その「初穂」を与えてくださったのは「主」です。そうであれば、「主」はその「初穂」が代表的に表している全体をもたらしてくださるはずです。その意味で、「初穂」は、それが代表的に表している全体があることの保証です。 もう一つは、エパネトはキリストにあって新しく生まれた人であり、新しく造られた人です。ローマ人への手紙6章4節には、 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 と記されていますし、コリント人への手紙第二・5章17節には、 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 と記されています。 このキリストにあって新しく生まれているエパネトがアジアにおける「初穂」であると言われていることは、イエス・キリストの恵みによって、アジアにまったく新しい存在が生み出されたということを意味しています。しかも、その新しさは、「主」に献げられたものとして、「主」のものとなったという点にあります。つまり、その新しさは「主」との関係における新しさです。 このことは「・・・の初穂である」ということばは、そこにまったく新しい存在がもたらされていることを意味しています。 これらのことと同じことは、コリント人への手紙第一・16章15節に、 ご承知のように、ステパナの家族は、アカヤの初穂であって、聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました。 と記されている「ステパナの家族」にも当てはまります。ここで「アカヤの初穂」と訳されていることば(アパルケー・テース・アカイアス)はエパネトが「キリストへのアジアの初穂」と言われているときの「アジアの初穂」と同じ言い方(アパルケー・テース・アスィアス)です。 * もう一つの用例として注目したいのは、ローマ人への手紙8章23節に、 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 と記されていることです。 これは、この前の19節ー22節で、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。 と言われていることを受けています。 ここでは、「被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている」と言われているのですが、それが「産みの苦しみ」であるということは、新しい何かが生み出されようとしていることを示しています。それが、 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 という「望み」のうちにあることで、そのうめきも絶望のうめきではありません。 このことを受けて、23節では、 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 と言われています。ここでは、私たちも「望み」のうちにあってうめいていると言われています。そして、その私たちは「御霊の初穂をいただいている」と言われています。ここに記されていることについては、二つのことの微妙な意味合いをめぐって意見が分かれていますが、ここに記されていることの主旨ははっきりしています。ここで言われていることは、14節ー16節に、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 と記されていることと関連しています。私たちはすでに「子としてくださる御霊」を受けた「神の子ども」であり、実際に、その祝福と特権にあずかって、父なる神さまに向かって「アバ、父」と語りかけています。 そうではあっても、この祝福と特権は「御霊の初穂をいただいている」ことによるものであって、終わりの日に再臨される栄光のキリストがもたらしてくださる祝福と特権は、これよりはるかに栄光に満ちたものであるということです。それは、11節に、 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。 と記されていることが実現するということですので、やはり、御霊によってもたらされる祝福であり特権です。 パウロの手紙以外の用例にも同じようなことが示されていますので、それを見てみましょう。 ヤコブの手紙1章18節には、 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。 と記されています。ここで、 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。 と言われているときの「真理のことば」は、この数節後の21節に、 みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。 と言われていることとの関連から、福音の真理のみことばのことであると考えられます。また、「みこころのままに」と言われていることは、父なる神さまが「私たちをお生みにな」ったことは、父なる神さまの一方的な愛から出ていることで、救いの恵みによることであるということを示しています。そして、 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。 という言い方は、私たちが神さまの子どもとされていることを示唆しています。 ここでは、そのことの目的が、 私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。 と言われています。「被造物の初穂」の「被造物」には「彼の」ということばがありますので、「ご自身の被造物」です。これは父なる神さまがそのみこころにしたがってお造りになったものであり、神さまがご自身のものとして所有しておられるものです。その神さまの被造物が、ここでは明確に表されないで、前提とされていることですが、ローマ人への手紙8章20節のことばを用いますと、人の罪による堕落によって虚無に服してしまいました。ここで、 私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。 と言われていることは、父なる神さまが私たちを「真理のことばをもって」生んでくださったことによって、神さまがご自身の被造物に対するみこころが実現し始めていて、そのみこころが被造物全体において実現するようになることを意味しています。 「初穂」についてのこれらの用例を踏まえて、コリント人への手紙第一・15章20節に、 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 と記されていることを見てみたいと思います。 まず、注目したいのは、ここでは、「眠った者」(複数形で「眠った者たち」)と「死者」(複数形で「死者たち」)が使い分けられているということです。「眠った者たち」と「死者たち」の関係は部分(「眠った者たち」)と全体(死者たち」)の関係にあります。「眠った者たち」はローマ人への手紙8章23節に記されていることに沿って言いますと、すでに「御霊の初穂」をいただいて父なる神さまの子どもとされている状態で「主」の御許に召された主の民のことです。その人々は肉体的に死んでおり、私たち地上にある者たちの目から見ますと「死者たち」に数えられます。けれども、ルカの福音書23章43節には、十字架につけられたイエス・キリストが、同じ時に十字架につけられた状態の中でイエス・キリストを信じた犯罪人の一人に、 まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。 と語られたことが記されています。「主」の御許に召された主の民たちは、「第三の天」(コリント人への手紙第二・12章2節)とも呼ばれる「パラダイス」において「主」イエス・キリストと父なる神さまの愛に包まれたいのちの交わりのうちに生きています。それで、この「主」の御許に召された主の民たちのことを「眠った者たち」と呼びます。これはこの人々を私たち地上にあるものたちから見たときの呼び方であって、この人々が「パラダイス」において眠っているわけではありません。 イエス・キリストが「眠った者の初穂として死者の中からよみがえられた」ことには、「初穂」についての用例から、三つほどのことを汲み取ることができます。 第一に、この場合、「初穂」としてのイエス・キリストは「眠った者たち」全体を代表的に表しています。それでイエス・キリストが「眠った者の初穂として死者の中からよみがえられた」ことは、「眠った者たち」も「死者の中から」よみがえるようになることを示しています。 第二に、「眠った者たち」も「初穂」として聖別されて、神さまに献げられたイエス・キリストと同じ特質をもつものとして「死者の中から」よみがえるようになります。ヨハネの手紙第一・3章2節に、 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。 と記されているとおりです。また、それは、ローマ人への手紙8章29節に、 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。 と記されているように、私たちを「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」という父なる神さまの永遠からのみこころが実現することでもあります。 第三に、イエス・キリストが「眠った者の初穂として死者の中からよみがえられた」ことは、私たち主の民だけにかかわることではありません。それは、すでに、主にあって「眠った者たち」ばかりでなく、今もなお地上にあって「御霊の初穂をいただいて」神の子どもとしての祝福と特権にあずかっている私たちとともに望みのうちにあってうめいている全被造物にかかわる父なる神さまのみこころがすでに実現し始めていることを意味しています。 このことは、「初穂」についての用例として取り上げました、ローマ人への手紙8章23節に、 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 と記されていることとその前後の文脈の中で示されていることや、ヤコブの手紙1章18節に、 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。 と記されていることにおいて触れられているだけではありません。復活節において取り上げてお話ししていますコリント人への手紙第一・15章でも、今お話ししている20節ー22節に続く23節ー28節において取り上げられています。そこには、 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。 と記されています。 ここに記されていることについては、いろいろな機会にお話ししてきたことですが、イエス・キリストがテアテラにある教会に対して語られたみことばの中で、ご自身のことを「神の子」として示しておられることとかかわっていることでもあります。それで、このことについては、日を改めてお話しします。 |
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