眠った者の初穂として(2)
(イースター説教集)


説教日:2016年3月27日
聖書箇所:コリント人への手紙第一・15章20節ー22節


 今日は2016年の復活節です。2009年の復活節から、コリント人への手紙第一・15章に記されています、復活についてのパウロの教えを取り上げてお話ししています。昨年の復活節には20節ー22節に記されています、

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

というみことばから、このみことばの教えの背景となっていることをいくつかお話ししました。今日も昨年に引き続いて、この個所からのお話を続けます。
 まず、今日お話しすることとの関連でこれに先立つ部分に記されていることを振り返っておきます。
 コリント人への手紙第一・15章に記されていることは、1節ー2節に、

兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。

と記されていますように、すでにパウロがコリントにある教会の信徒たちに宣べ伝えて、彼らが信じて受け入れている福音を改めて伝えて、再確認することです。それは、パウロが、コリントにある教会の信徒たちのためには、改めて福音を知らせる必要があると考えたからです。パウロがそのように考えたことには理由がありました。それは12節に、

ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。

と記されていますように。コリントにある教会の信徒たちの中に、「死者の復活はない、と言っている人」(複数形・人々)がいたからです。
 ここでは、この人々がどのような理由によって「死者の復活はない、と言っている」のかは示されてはいません。コリントにある教会の信徒たちは、それを説明しなくても分かっていたからでしょう。このことは、この人々がその当時の一般的なギリシア・ヘレニズム的な発想、考え方にしたがって死者の復活のことを考えていたということを示唆しています。
 その当時の一般的なギリシア・ヘレニズム的な考え方においては、霊魂は不滅であると考えられていました。このギリシア・ヘレニズム的な考え方においては、物質的なものは悪であり、人間の悪は肉体を源としているというように考えられていました。それで、不滅の霊魂が肉体という牢獄から解き放たれることが救いであるというようにも考えられていました。そして、死によって霊魂が肉体という牢獄から解放されるとも考えられていました。ところが、聖書が教えている死者の復活は、肉体と霊魂からなる人が栄光を受けて死者の中からよみがえるということです。そこに「からだのよみがえり」が含まれています。これはギリシア・ヘレニズム的な考え方には合わないものです。善をなす神が悪の根源である物質的な肉体に関わるとか、それをよみがえらせて永遠に続くものとするというようなことは、とても考えられないことだったのです。
 使徒の働き17章16節ー34節には、パウロがアテネのアレオパゴスにおいて福音をあかししたことが記されています。30節ー31節には、パウロが、神さまがイエス・キリストを死者の中からよみがえらせたことに触れたことが記されています。これに対して、32節節には、

死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう」と言った。

と記されています。このアテネの人々の反応、「お話にならない」とばかりにあざ笑うこと、そこまですることは礼を失するということでしょう、「いずれまた」といって話を遮ることの背景には、このようなギリシア・ヘレニズム的な発想があったと考えられます。
 「死者の復活はない」と言っているコリントにある教会の信徒たちも同じようなギリシア・ヘレニズム的な発想をもって死者の復活を考えていたと思われます。この人々は霊的なものを善とし物質的なものを悪とするという「善悪の二元論」を根本原理としてもっていて、それに従って、死者の復活のことを考えていたということです。とはいえ、これはその人々が自分はこのような「善悪の二元論」を考え方の根本原理としてもっていて、それに従って考えているということに気づいているというわけではありません。その当時の文化とそれに影響を受けている社会全体が「善悪の二元論」という発想をもって動いているときには、その社会に生まれて育った人には、それが自然で当たり前のこととになります。ですから、自分の中にそのような根本前提があるということに気づきにくいのです。それは、いつの時代のどの文化の中で生まれて育った人にも当てはまることです。当然、私たちにもこれと同じ問題があります。
 「死者の復活はない」と言っているコリントにある教会の信徒たちはこのような「善悪の二元論」に基づく神観、世界観、人間観(神についての考え方、世界についての考え方、人間についての考え方)にしたがって死者の復活のことを考えていたと考えられます。


 このような問題があるコリントにある教会の信徒たちに対して、パウロは、ここコリント人への手紙第一・15章1節ー2節で、

兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。

と語り始めています。
 今お話ししていることとの関わりで注目したいのは、新改訳の2節冒頭(ギリシア語では2節最後)に出てくる、

 もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら

ということばです。ここで「よく考えもしないで」と訳されたことば(エイケー)は、「理由もなく」、「根拠もなく」、「むなしく」、「いたずらに」、「考慮すべきことを考慮しないで」、「でたらめな仕方で」というようなことを表しています。この、

 もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら

ということばは、それに続く(新改訳、ギリシア語ではその前の)

 私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば

ということを補足しています。「よく考えもしないで信じた」のに「福音のことばをしっかりと保ってい」ると思い込んでしまうこともありえます。
 この「よく考えもしないで信じた」ということは、今お話ししました、コリントにある教会の信徒たちの中の「死者の復活はない」と言っている人々に当てはまることです。この人々は、自分自身のうちにいつの間にかしみ込んでしまっている「善悪の二元論」というギリシア・ヘレニズム的な発想をもったまま、それに従って福音を理解しているわけです。
 それでは死者の復活はあると信じているなら問題はないのでしょうか。そのようなことはありません。「よく考えもしないで」死者の復活はあると信じている人々もいるからです。先ほどのギリシャ的な発想に従って死者の復活を考えるとしますと、死者の復活とは霊魂不滅のことだという思い違いする可能性があります。あるいは、ギリシャ的な発想をもっていない人々であれば、死んだ者が蘇生することだという思い違いをすることもあります。あるいはまた、罪を犯す前のアダムの状態に復帰することだという思い違いをすることもあります。
 そればかりではありません、今日の私たちの間に忍び込んでくる可能性があることですが、めんどうなことはことはどうでもよい、とにかく、「からだのよみがえり」を信じていればよいのだというような主張もあります。これについては、二つのことをお話ししたいと思います。
 第一に、以前お話ししたことがありますが、そのような主張は、福音は単純明快なものであるという主張と結びついています。確かに、イエス・キリストをあかししている福音には単純明快なものであるという一面があります。その福音は子どもでもわかるものです。また、福音の神髄あるいは核心は、主イエス・キリストが私たちご自身の民の益のために制定してくださった聖礼典である洗礼と聖餐において示されているという単純さがあります。それは、ローマ人への手紙6章3節ー4節に記されています、

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

というみことばに示されているように、御霊によってイエス・キリストと一つに結び合わされて、イエス・キリストとともに古い自分に死んで、イエス・キリストとともに新しいいのち、復活のいのちによみがえることにあります。また、福音の神髄あるいは核心は、ヨハネの福音書6章53節ー55節に記されている、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。

というイエス・キリストの教えに示されていますように、私たちはイエス・キリストが十字架の上で裂かれた肉と、流された血にあずかることによって永遠に生きるということにあります。
 このように福音の神髄あるいは核心は、単純明快なものです。けれども、福音は浅薄なものではありません。
 使徒の働き2章に記されていますが、イエス・キリストの弟子たちは、最初の聖霊降臨節(ペンテコステ)において、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださった聖霊に満たされ、聖霊に導いていただいて、イエス・キリストを旧約聖書において神である主が約束してくださった贖い主であることを悟り、イエス・キリストの地上の生涯における教えとお働きの意味を理解するようになりました。それ以来、イエス・キリストの血によって確立された新しい契約の民として召された人々が、歴史の荒波にもまれながら、それぞれの時代において、イエス・キリストの福音のみことばに聞き、みことばの教えを理解し、その理解を深めてきました。
 けれども、それによって福音のみことばの教えの底が見えたということはありません。また、福音のみことばが時代遅れになったということもありません。それは、福音のみことばがあかししている御子イエス・キリストとそのお働き、特に、十字架の死と死者の中からのよみがえりの意味が、創造の御業において神のかたちとして造られて、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられている人にかかわる神さまのみこころの全体と深く関わっているとともに、そのみこころの全体を理解するための鍵となっているからです。
 第二のことですが、先ほどお話ししましたように、

 もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら

と語ったパウロは、ここでコリントにある教会の信徒たちの中に「死者の復活はない」と言っている人々のことを問題として取り上げています。そして、改めて福音を宣べ伝えています。それは3節ー8節に記されています、

私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。

というみことばにまとめられています。
 ここでパウロは自分がコリントにある教会の信徒たちに「最もたいせつなこととして伝えた」ことが何であるかを示しています。その意味で、これは福音の神髄あるいは核心に当たることです。それは、「キリストは」ということば(主語)が示していますように、イエス・キリストが地上の生涯においてなされた御業の頂点に当たる十字架の死と死者の中からのよみがえりのことです。
 ここでパウロは「聖書の示すとおりに」ということばを繰り返しています。この場合の聖書は、旧約聖書のことです。これによってパウロは、イエス・キリストが十字架にかかって死なれたことと、死者の中からよみがえられたことは旧約聖書において預言的に示され、約束されていたことの成就であったことを示しています。そのことによって、イエス・キリストが十字架にかかって死なれたことと、死者の中からよみがえられたことが後の時代の人間の想像力によって生み出された作り話なのではなく、父なる神さまのご計画に基づいて成し遂げられたものであることが示されています。
 ここで「聖書の示すとおりに」と言われているときの「聖書」ということばは、基本的には、旧約聖書の特定のみことばのことではなく、旧約聖書全体を指していると考えられます。もちろん、旧約聖書がどこも同じようにイエス・キリストの死とよみがえりのことを預言的に示しているわけではありません。けれども、旧約聖書は全体として、イエス・キリストのことを預言的にあかししているのです。ヨハネの福音書5章39節には、

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。また、特に、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりについては、ルカの福音書24章25節ー27節に、死者の中から復活されたイエス・キリストが、エルサレムから「エマオという村に行く途中であった」二人の人にご自身を現されたことが記されています。そこには、

するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

と記されています。
 ここで注目したいのは「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で」ということばです。これは、ヘブル語聖書の区分を反映しています。ヘブル語聖書は三つに区分されています。第一の区分は、「律法」と呼ばれる最初の5つの書(創世記ー申命記)で、「モーセ5書」あるいは「モーセ」とも呼ばれます。第二に区分されるのは、「預言者たち」と呼ばれます。これには、「前の預言者たち」と呼ばれるヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記と、「後の預言者たち」と呼ばれるイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、十二小預言書が含まれています。第三区分は「諸文書」と呼ばれるもので、第一区分と第二区分に含まれていない書からなっています。その中でいちばん大きな書が詩篇ですので、この第三区分が「詩篇」と呼ばれることもあります。
 それで、この三つの区分を反映して、

 イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

と言われているのです。ここでは、イエス・キリストのことが「聖書全体」にわたって記されていることが示されています。しかも、この「モーセおよびすべての預言者から始めて」ということばは、モーセ5書が基礎的な文書であり、その基礎の上に「預言者たち」と呼ばれる文書があり、さらに「諸文書」があるというように、ある種の進展があることを示唆しています。
 ルカの福音書24章ではさらに33節ー49節に、イエス・キリストが、エルサレムに戻ったその二人と「十一使徒とその仲間」たちに現れてくださったことが記されています。44節ー47節には、

さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

と記されています。
 先ほどお話ししたことから分かりますが「モーセの律法と預言者と詩篇」というのは、ヘブル語聖書の三つの区分を反映していて、旧約聖書聖書全体を指しています。そして、ここでは「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえる」ということが、旧約聖書全体に記されていることが示されています。

 コリント人への手紙第一・15章3節後半ー4節に、

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、

と記されていることは、これと同じように、基本的には、イエス・キリストが「私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと」や「三日目によみがえられたこと」が旧約聖書全体にわたって記されているということを意味していると考えられます。そして、旧約聖書全体の中にも、そのことがより鮮明に示されている個所もあるということです。
 このことから、パウロが伝えた福音の神髄あるいは核心にあることが旧約聖書が全体にわたって預言的に示していたことであるという視野の広がりをもっていることが分かります。そして、ここでパウロはそのことを伝えているのです。福音の神髄あるいは核心にあること単純明快なことですが、その意味は旧約聖書全体において示されていることに関わっているという広がりと豊かさをもっているのです。
 その旧約聖書全体にわたってというときにも、先ほど触れました「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で」ということばに示されているように、より基礎的な啓示があり、その基礎的な啓示の上に立って進展し拡大している啓示があります。
 それは、創造の御業において、神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、神のかたちとしてお造りになった人にこの世界の歴史と文化を造る使命を委ねられたことから始まっています。
 そして、そのような使命を委ねられた人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまい、罪によって暗やみの主権者と結び合わされて、神である主に敵対して歩むものとなってしまい、死の力に捕らえられしまったことが示されています。また、それとともに、神である主がその一方的な恵みによって、「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主を約束してくださったことが示されています。
 そして、ノアの時代の大洪水によるさばきの執行のことなど、途中をかなり省略しますが、これらのことを背景として、アブラハムが地上のすべての民族のための祝福をもたらすものとして召されて、契約を与えられ、アブラハムの子孫によって地上のすべての民族が祝福を受けるようになることが示されました。
 そして、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエルの民がエジプトの奴隷の状態になったことを用いて、人が暗やみの主権者と罪の奴隷の状態にあることを示しつつ、主がそのような価値のない民をあえてお選びになって、エジプトの奴隷の状態から贖い出してくださり、契約を結んでくださって、ご自身の民として、ご自身の御前に仕える祭司の国としてくださったことが啓示されています。
 主は、この時にイスラエルの民と結んでくださった契約に基づいて、イスラエルの民の間に聖所をお与えになり、そこにご臨在されました。そして、この聖所をお用いになって、主の御臨在の御許に近づくためにはいのちの血が流されなければならないことを、動物のいけにえをとおして、お示しになりました。
 さらに主は、ダビデと契約を結んでくださって、ダビデの子の王座を永遠に確立してくださることを約束してくださるとともに、その永遠の王座に着座するダビデの子が主の御名のための神殿を建てることを示してくださいました。そして、預言者たちをとおしてこのダビデの子こそが約束のメシヤであり、その主権の及ぶところに回復がもたらされ、それが罪と死の力に捕らえられた人だけでなく全被造物におよび、ついには主の栄光の御臨在のある新しい天と新しい地がもたらされることも示されています。
 大ざっぱなまとめですが、コリント人への手紙第一・15章3節後半ー4節に、

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、

と記されていることは、これらすべてのことに関わる意味をもっています。
 今お話ししている20節ー22節に記されています、

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

というみことば、最初の人アダムが神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって死がもたらされたことと、「私たちの罪のために死なれた」イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、イエス・キリストにあるすべての人が生かされるようになったことが示されています。これは、天地創造の御業の初めに神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が堕落してしまった後に、神である主が一方的な愛に基づく恵みによって約束してくださった贖い主がイエス・キリストであることを意味しています。
 コリント人への手紙第一・15章では、このことから始まって、さらに、23節ー27節において、

しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた」からです。

と記されています。
 これは、「女の子孫」のかしらとして来られて、その十字架の死と死者の中からのよみがえりをもって贖いの御業を成し遂げられたイエス・キリストが暗やみの主権者をを滅ぼされるだけでなく、「最後の敵である死も滅ぼされ」ることを示しています。
 そればかりではありません。

 「彼は万物をその足の下に従わせた」からです。

と言われているときの、

 彼は万物をその足の下に従わせた

ということは、詩篇8篇6節に記されているみことばの引用です。そして、詩篇8篇6節に記されている、

 彼は万物をその足の下に従わせた

というみことばは、神である主が神のかたちとしてお造りになった人に、歴史と文化を造る使命をお委ねになったことを記しています。ですから、コリント人への手紙第一・15章27節では、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストが、神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになって、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとして造られている人にお委ねになったことを実現しておられることを示しています。
 ですから、ここでパウロは、

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと

ということが、天地創造の御業から始まって、世の終わりに至るまでの歴史の全体に対して意味をもっていることを示しつつ、単純明快な福音の限りない豊かさを示しているのです。そして、これが、「よく考えもしないで信じたのでな」く、「この福音のことばをしっかりと保ってい」ることであるということを示しているのです。


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