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説教日:2014年4月20日 |
このようなことを踏まえて、12節で、パウロは、 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。 と述べています。ここに出てくる、 キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら という条件文は、言うまでもなく、事実、そのように宣べ伝えられている、ということを示すものです。そして、パウロは、 どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。 と問いかけます。これは単なる問いかけではなく、「どうして」ということばから始まっていて、驚きを示すものです。先ほどお話ししましたように、パウロはイエス・キリストが死者の中からよみがえられたことが、まごうことのない事実であることを伝えてきました。「それなのに、どうして」という、驚きを伝えています。 これは、直訳調に訳しますと、 どうして、あなたがたの中のある人たちは、死者の復活はない、と言っているのですか。 となります。この「ある人たち」がどれほどいたのかについては、学者たちの間でも見方が別れています。おそらく、新改訳は「ある人たち」と訳すことによって、その人たちが一部の人たちであるという印象を与えるので、それを避けるために、 どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。 と訳しているのではないかと思います。 しかし、この「ある人たち」ということば(ティネス)は、その人たちが一部であるという意味合いをもっています。そうではあっても、パウロはここでこのことを取り上げてかなり詳しく論じています。それは、これがたいへん危険な兆候だからです。というのは、このコリントにある教会が属していたギリシア・ローマの文化圏にあっては、魂は不滅であるという考え方と、物質的なものが悪の根源で、物質的なものである肉体は魂の牢獄であり、救いは、魂が肉体から解放されて、天的な領域に行くことにあるというような考え方が一般的なものであったからです。魂が聖いものであり、不滅であれば、そして、人の悪の根源が肉体にあるのであれば、肉体が滅んで、魂が肉体から解放されることが救いとなるわけです。それは、聖書のみことばが教えている死者の復活とは、まったく違います。それで、コリントにある教会の信徒たちの一部は、このような考え方に従って、 死者の復活はない と主張していたと考えられます。 このような考え方がギリシア・ローマの文化圏にあって一般的な考え方であれば、この時は、ただ「ある人たち」だけが、 死者の復活はない と主張していたとしても、それが他の人々に影響を与えるようになる危険性があることは十分予測できます。それで、パウロはここでこの問題を取り上げていると考えられます。 このような問題は、今日にもあります。イエス・キリストが十字架にかかって死んだことは信じるが、死者の中からよみがえったことは信じられない、と言う方がおられます。そのように言う人は、おそらく、人が死ぬことは自然なことであるし、その当時のローマ帝国においては十字架にかけられて処刑された人々もたくさんいたから、イエス・キリストが十字架にかけられたということもありえる。けれども、死んでしまった人が復活したということは、科学的に証明されていないから、イエス・キリストが死者の中から復活されたことは信じられないというように考えているのでしょう。 もう50年近く前のことですが、私が日本の神学校で学んでいたとき、一人の先生が、ある牧師はイエス・キリストの復活を信じていないので、復活節には説教ができないということで、他の説教者に頼んで、イエス・キリストの復活の説教をしてもらっている、ということをお話ししておられました。そのことで、その牧師の回りの人々は、その牧師は誠実であると言っているとのことでした。そのお話を聞いたときには、その牧師の誠実さに痛く感じ入ったものです。けれども、今になって考えてみますと、そのことだけに限って見ますと、その牧師は誠実なのかも知れませんが、そもそも、福音のみことばが明確にあかししている、イエス・キリストの復活を信じていないのに牧師になったことは誠実なことだろうか、あるいは、牧師になってから、イエス・キリストの復活を信じられなくなってしまったのかも知れませんが、それでも、そのまま牧師を続けることが誠実なことなのだろうか、という疑問が残ります。 また、多くの人が、大切なことはイエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったことであって、それに比べると、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたということは、それほど重要なことではないと、口には出しませんが、実質的には、そう考えている、あるいは、感じているのではないかと思います。それはイエス・キリストを信じて間もないころの私の感じ方でもありました。 このこととの関連で注目したいことがあります。それは、パウロが宣べ伝えたこととして記されているのは、 キリストは死者の中から復活された ということです。これに対して、「ある人たち」が主張していたことは、 死者の復活はない ということです。 この二つのことには、死者の中からの復活と、死者の復活という、微妙な違いがあります。この二つのことのどちらにおいても、「死者」ということばは複数形です。それで、これを文字通りに「死者たち」と言うことにします。パウロが宣べ伝えた、 キリストは死者たちの中から復活された ということは、イエス・キリストは十字架におかかりになって死なれて、「死者たち」の一人となられたけれど、その「死者たち」の中からよみがえられたということです。この場合は、他の「死者たち」はよみがえっているわけではありません。これに対して、 死者の復活はない ということは、そもそも死者たちがよみがえることはないということです。 この微妙な違いが示していることを誤解しているのですが、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことは特別であって、自分たちのような者が復活するということは、希望的な観測であるというような、漠然とした思いをもっている方々もおられます。もちろん、イエス・キリストの復活は特別なことです。けれども、それは、他の死者たちとは無関係であるという意味で特別なのではありません。それにつきましては後ほどお話しします。いずれにしましても、このような考え方は、パウロが、 キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。 という問いかけの中で、驚きをもって、強く否定していることです。 13節で、パウロは、 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。 と述べています。ここでパウロは、 死者の復活はない という「ある人たち」の主張を取り上げて、もしそれが本当であれば、イエス・キリストも復活されることはなかったと論じています。私たちは普段、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたから、死者の復活があると言っています。けれども、ここでは、死者たちの復活がないなら、イエス・キリストもよみがえられなかったと言われています。 これは、何となく、死者の復活は当然のことで、その一つの事例として、イエス・キリストは復活されたということのように聞こえますが、そういうことではありません。これは、父なる神さまのみこころを踏まえて理解すべきことです。そのみこころは、私たちご自身の民を、イエス・キリストの復活にあずからせてくださって、復活させてくださることにあります。イエス・キリストが復活されたのは、ご自身のためではなく、私たち主の民をご自身の復活にあずからせてくださって、よみがえらせてくださるためでした。それで、 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。 ということになります。 これより後の20節ー22節には、 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。 と記されています。また、ローマ人への手紙6章4節ー5節には、 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。 と記されていますし、ヨハネの福音書6章38節ー40節には、 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます と記されています。この父なる神さまのみこころに従いますと、 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。 ということになります。 死者の復活は当然のことではなく、父なる神さまの一方的な愛と、御子イエス・キリストの恵みによることです。エペソ人への手紙2章4節ー9節に、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 と記されているとおりです。 パウロはコリント人への手紙第一・15章13節で、 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。 と述べた後、続く14節で、 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。 と述べています。 ここに出てくる「実質のないもの」と訳されていることば(ケノス)は、文字通りには、器が空であることを意味しています。それが比喩的な意味に用いられて、内容がないこと、根拠がないこと、意味がないこと、真実でないこと、価値がないこと、力がないこと、目的がないこと、結果をもたらさないことなどを表します。新改訳はこのようなことをより総合的に表す「実質のないもの」としています。 ここでは、議論のために、イエス・キリストが復活されなかったということが本当ならという仮定をしています。そして、その明確な論理的な結論[ということを表すことば(アラ)があります]は二つあって、一つは、「私たちの宣教は実質のないものになる」ということであり、もう一つは、「あなたがたの信仰も実質のないものになる」ということだと言います。そして、続く15節では、その最初の結論である、「私たちの宣教は実質のないものになる」ということをさらに説明してというか、さらに推し進めて、 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。 と述べています。ただ「私たちの宣教は実質のないものになる」ばかりか、「私たちは神について偽証をした者ということにな」るというのです。それがどういうことかは、ここに記されていることで十分お分かりになると思います。 これに続く16節ー17節前半には、 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、 と記されています。 これは、実質的に、13節ー14節前半で、 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、 と同じことを述べています。新改訳ではいくつかのことば遣いが異なっていますが、実際に異なっているのは、13節の「死者の復活がないのなら」が16節で「死者がよみがえらないのなら」となっていることだけです。 ですから、16節ー17節前半では、13節ー14節前半で言われていることを、わざわざ繰り返しています。そして、これに続く17節後半ー19節においては、先ほどの14節で、 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。 と言われているときの、もう一つの明確な論理的な結論である「あなたがたの信仰も実質のないものになる」ということをさらに説明しています。 まず、17節ー18節には、 もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。 と記されています。 これは、ピリピ人への手紙2章6節ー9節に、 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。 と記されていることに照らして理解すべきことです。ここでは、イエス・キリストがその地上の生涯を通して、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに完全に従いとおされたので、父なる神さまはそのことへの報いとして、イエス・キリストに栄光をお与えになったと言われています。これは、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださったことを意味しています。 このようなことは言うこともはばかられるのですが、あえて言いますと、イエス・キリストが十字架の上で、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださって死なれたまま、よみがえることがなかったとしたら、イエス・キリストは完全に父なる神さまのみこころに従っていなかったということになります。そうであれば、私たちのための罪の贖いは成し遂げられなかったことになります。それで、コリント人への手紙第一・15章17節ー18節では、 もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。 と言われているのです。 さらに、そうであれば、19節で、 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。 と言われているとおりになります。そればかりか、先ほど引用しました、ヨハネの福音書6章38節ー40節に記されている、 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます というイエス・キリストの御業も空しく終わり、父なる神さまのみこころも実現しなかったということになります。それは、「最初の福音」にまでさかのぼっていけば、霊的な戦いにおいてサタンが勝利したということになってしまいます。 けれども、コリント人への手紙第一・15章20節では、雲の裂け目から明るい光が差してくるように、 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 と言われています。私たちは栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストに、確かで、生きた望みを置いており、「すべての人の中で一番哀れな者」であるどころか、すべての人の中で、最も祝福された者としていただいています。 |
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