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説教日:2010年4月4日 |
昨年の復活節には、先ほど引用しました1節、2節に記されていることを中心にしてお話ししました。今日は、これに続く、3節以下に記されていることについてお話ししたいと思います。先ほど引用しましたが、3節は、 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。 というみことばで始まっています。これは、新改訳では訳出されていませんが、「というのは」という前置詞によってその前の部分とつながっています。1節、2節に記されていますように、コリントの教会の信徒たちはパウロから福音を聞いて、受け入れ、それによって立っています。そうではあっても、中には「死者の復活はない、と言っている人」が何人かいました。それで、ここでパウロは、その福音の「最も大切なこと」を再確認しているのです。 パウロは、その福音の「最も大切なこと」は「私も受けたこと」であると述べています。ここでは誰から受けたかは示されてはいません。主の晩餐のことを記している11章23節には、 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。 と記されています。ここでも同じように、「主から受けた」ということを意味していると考えられます。というのは、パウロ自身がガラテヤ人への手紙1章11節、12節において、 兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。 とあかししているからです。ちなみに、この、 兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。 ということばは、コリント人への手紙第一・15章1節の、 兄弟たち。私は・・・あなたがたに・・・知らせましょう。 ということばと同じことばで表わされています。 先ほどお話ししましたように、福音の理解が何らかのことで曲げられてしまったときには、福音の原点にまでさかのぼって、福音の本質を理解する必要があります。それは、ここでパウロがあかししていますように、福音が人間の考えから出たものではないからです。私たちとしては神さまが啓示してくださったとおりに福音を受け止めることに徹するほかはありません。 そして、福音がそのように御子イエス・キリストをとおしての神さまの啓示によって与えられたものであるので、これは血肉の力によっては理解し悟ることができず、御霊によって理解し悟らなければならないのです。同じコリント人への手紙第一の2章14節には、 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。 と記されています。また、12章3節には、 聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。 と記されています。 15章3節前半の、 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。 というみことばに続いて、3節後半ー8節においては、パウロが伝えたことが列挙されています。そこには、 キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。 と記されています。 これを「・・・ということ」ということを表わすことば(ホティ)で区切ってみますと、次のようになります。 第一に、3節後半の、 キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 第二に、4節前半の、 また、葬られたこと、 第三に、4節後半の、 また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、 第四に、5節ー8節の、 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。 となります。 ここには、私たちの目を引くことがあります。 比較的簡単にまとめられることをいくつか先に取り上げておきます。 まず、ここでは、イエス・キリストが「私たちの罪のために」死なれたことと「葬られたこと」は、不定過去時制で表されていて、すでにそれが起こってしまっていることを表しています。これに対して、イエス・キリストが「三日目によみがえられたこと」は、完了時制で表されていて、イエス・キリストがよみがえられたことと、その結果が今日まで続いていること、つまり、イエス・キリストが今日もよみがえった方として生きておられることを表しています。 次に注目したいことは、パウロが、イエス・キリストが「私たちの罪のために」死なれたことを述べた後に、「葬られたこと」を挙げているということです。これは、イエス・キリストが仮死状態になったのではなく、確かに死んだということをあかしするものです。ある人を葬ることは、関係者たちがその人の死をしっかりと確かめたうえでなされます。 このことは、また、その後に、 また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、 と言われていることにもつながっています。イエス・キリストのよみがえりは単なる蘇生ではなく、それは確かに死んだ状態からのよみがえりであるということです。 さらにこの点は、「三日目に」ということばともかかわっていると考えられます。当時の人々の経験からも、人が死ぬと「三日目に」は、その死体の腐敗が始まっているということが知られていました。イエス・キリストの場合は、普通であればその死体が腐敗し始めているであろう時に、よみがえられたということで、やはり、単なる蘇生ではなかったということになります。 これとともに、この「三日目に」ということばは、それ、すなわち、イエス・キリストがよみがえられたことが神さまの御業であることを表すという見方もあります。たとえば、シナイ山の麓に宿営したイスラエルの民について、主がモーセに語られたみことばを記している、出エジプト記19章11節には、 彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。 と記されています。この見方が可能であるとしても、これは先ほどの見方と相容れないものではありません。 もう一つ注目したいことは、ここでパウロが挙げていることの中では、よみがえられたイエス・キリストが弟子たちにご自身を表わされたことが、圧倒的に多く記されているということです。このことは、ここでパウロがコリントの教会の信徒たちにあかししようとしていることの中心が、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことにある、ということによっています。その意味で、ここでパウロが具体的な名前や「使徒」という称号を上げている人々は、教会の基礎を築いた重要人物です。そればかりでなく、パウロは、 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。 という注目すべき事実も上げています。これはイエス・キリストが現れてくださったことが、ある少数グループの特殊な心理的な経験であったということではないということを示しています。また、その証人たちは過去の人々で、その経験については確かめようがない、ということでもない、ということも示しています。 これらのことの上に、さらに注目したいのは、イエス・キリストが「私たちの罪のために」死なれたことと「三日目に」よみがえられたことが、「聖書の示すとおりに」あるいは「聖書に従って」のことであったと言われている、ということです。 私が引用したのは新改訳第2版(使っているソフトが第2版ですので)ですが、3節後半の「聖書の示すとおりに」と4節後半の「聖書に従って」はまったく同じことばです。第3版は「聖書の示すとおりに」で統一しています。以下はこれに従います。 この場合の「聖書」は旧約聖書のことです。この手紙が記された時には、まだ新約聖書は形成の途上にあり、完成していません。ですから、「聖書の示すとおりに」ということによって、イエス・キリストが十字架にかかって死なれたことも、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことも、旧約聖書に示されていたことの成就であった、ということが示されています。 このことは、死者の中からよみがえられたイエス・キリストご自身が、弟子たちに示してくださったことです。 エマオという村に行く途中の二人の弟子に、よみがえられたイエス・キリストがご自身を示してくださったことを記している、ルカの福音書24章25節ー27節には、 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。 と記されています。 ここに出てくる「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で」ということばは、ヘブル語の旧約聖書の区分が「律法」(モーセ)、「預言者たち」、「諸文書」となっていることを反映していると考えられます。ここでは、キリストすなわちメシヤが苦難を受けて死ぬことと、栄光を受けて死者の中からよみがえることは、旧約聖書全体において預言されていたことであるということを、イエス・キリストが教えられたことを記しています。 また、その少し後の44節ー48節には、イエス・キリストが「十一使徒とその仲間」たちに言われた、 わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。 というみことばが記されています。 ここに出てくる「モーセの律法と預言者と詩篇」ということばも、先ほどのヘブル語聖書の3区分を反映しています。「詩篇」は「諸文書」の中の最も長い書物で、「諸文書」を代表しています。イエス・キリストは、 キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、 ということが、聖書全体にわたって記されているということを、弟子たちにお示しになりました。そして、その上で弟子たちをご自身の証人としてお遣わしになりました。 コリント人への手紙第一・15章に戻りますが、さらに注意したいことがあります。 ここでパウロは、イエス・キリストが「私たちの罪のために」死なれたことも、「三日目に」よみがえられたことも、「聖書の示すとおり」のことであったと述べています。このことは、ただ単に、イエス・キリストが死なれたことと、その後に死者の中からよみがえられたことが、すでに、旧約聖書に預言されていたことだ、ということではありません。そのイエス・キリストの死が「私たちの罪のため」の死であったということ、すなわち、イエス・キリストの死がどのような意味をもっているのかということも、旧約聖書に預言されていたということを示しています。 このような意味で、パウロが、イエス・キリストが「私たちの罪のために」死なれたことも、「三日目に」よみがえられたことも、「聖書の示すとおり」のことであったと述べているときに、具体的に聖書のどこを指しているのかということが問題となっています。 これについては、一般に、イエス・キリストが「私たちの罪のために」死なれたことは、出エジプトの時に、過越の小羊がほふられたことによって、その家の長子に対するさばきが執行されたと見なされたこと、すなわち、過越の小羊がその長子の身代わりとなって死んだこと、また、モーセ律法に規定されているいけにえの制度が、いけにえの動物が罪ある者の罪を負ってほふられることを定めていること、さらには、イザヤ書52章13節ー53章12節に記されている「主のしもべの第四の歌」などが挙げられています。ちなみに、イザヤ書53章5節には、 しかし、彼は、 私たちのそむきの罪のために刺し通され、 私たちの咎のために砕かれた。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 と記されています。 イエス・キリストが「三日目に」よみがえられたということにつきましては、詩篇16篇10節の、 まことに、あなたは、私のたましいを よみに捨ておかず、 あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。 というみことばや、メシヤの栄光を記している詩篇110篇1節の、 主は、私の主に仰せられる。 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、 わたしの右の座に着いていよ。」 というみことばなどがよく知られています。また、「三日目に」ということについては、ホセア書6章2節の、 主は二日の後、私たちを生き返らせ、 三日目に私たちを立ち上がらせる。 私たちは、御前に生きるのだ。 というみことばや、イエス・キリストがマタイの福音書12章39節、40節において、 悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。 とあかししておられることに基づいて、ヨナ書2章に記されているヨナが3日3晩、大きな魚の腹の中にいて出てきた経験などが挙げられています。 しかし、コリント人への手紙第一・15章では、パウロは具体的な聖書個所を上げてはいません。また、すでにお話ししましたように、よみがえられたイエス・キリストは聖書全体から、 キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえる ということを弟子たちに教えられました。それで、ここでパウロが「聖書の示すとおりに」と言うときも、同じように、旧約聖書全体にわたる教えにおいて、イエス・キリストが「私たちの罪のために」死なれたことと、「三日目に」よみがえられたことが示されている、ということを述べているのだと考えられます。 このことは、また、イエス・キリストが「私たちの罪のために」死なれたことと、「三日目に」よみがえられたことは、人間が考え出したことではない、ということを意味しています。最初にお話ししましたように、パウロは、自分の宣べ伝えた福音は、人間から出たものではなく、主イエス・キリストの啓示によって受けたものであると主張していました。この「聖書の示すとおりに」ということばも、それと同じことを、別の観点から伝えています。 ですから、頼みとしていたイエス・キリストが、こともあろうに、十字架につけられて殺されてしまったから、後から、イエス・キリストは死んで終わったのではない、よみがえったのであると言って、取り繕ったというのではありません。あるいは、イエス・キリストが死んだことへの注意をそらすために、イエス・キリストがよみがえったということを言い出したということでもありません。福音においては、イエス・キリストが十字架につけられて死んだことは、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことに劣らず大切なことなのです。ただ、このコリント人への手紙第一・15章では、すでにお話ししましたように、「死者の復活はない、と言っている人」がいるという事情により、イエス・キリストの復活の方に力点が置かれています。 パウロが、イエス・キリストの復活をこれほどまでに強調しているのには理由があります。それは、13節に、 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。 と記されており、17節、18節に、 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。 と記されていますように、イエス・キリストが復活されたことは、イエス・キリストが十字架の死をもって成し遂げてくださった私たちの罪の贖いが、確かに成し遂げられたことのあかしであるからです。 事実、ここでパウロが強調していますように、イエス・キリストは死者の中からよみがえられました。ですから、私たちは、十字架にかかって私たちの罪の贖いを成し遂げてくださって、今も生きておられる主イエス・キリストを信じています。父なる神さまは、イエス・キリストが成し遂げてくださった、罪の贖いに基づいて、私たちの罪を赦してくださるばかりでなく、私たちを罪と死の力から解放してくださり、私たちをイエス・キリストの復活にあずからせてくださって、新しく生かしてくださっているのです。それで「キリストにあって眠った」方々は滅んでしまったのではありません。それどころか、イエス・キリストにあって、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりを享受しておられます。 |
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