福音のみことばをしっかりと保って
(イースター説教集)


説教日:2009年4月12日
聖書箇所:コリント人への手紙第1・15章1節〜10節


 今日は、2009年の復活節に当たります。復活節においては、十字架にかかってご自身の民の罪の贖いを成し遂げてくださったイエス・キリストが、3日の後に死者の中からよみがえってくださったことを覚えます。それで、これまで、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりとその意味について、みことばから学んで参りました。
 先ほど、コリント人への手紙第1・15章1節〜10節に記されているみことばをお読みいたしました。今日は、ここに記されているみことばの導入の部分に当たる、1節、2節に記されている、

兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。

というみことばから、いくつかのことをお話ししたいと思います。


 ここに記されていることを取り上げる前に、コリント人への手紙第1・15章を全体として見たときに考えられることで、今日お話しすることと関連していると思われることをお話ししておきたいと思います。
 コリント人への手紙第1・15章には、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりと、その意味について記されています。これは、この手紙の直接の読者であるコリントにある教会の信徒たちの間にあった問題を踏まえてのことです。その問題とは、12節に、

ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。

と記されていることです。この場合の「死者の復活はない、と言っている人」は複数形です。コリントにある教会の信徒たちの中には、「死者の復活はない」と主張している人々がいたのです。当然、それは他の人々にも影響を与えて、惑わされて混乱してしまっている人々もいたと考えられます。
 「死者の復活はない」と主張している人々がどのような人々であるかについては、これ以上のことは記されていません。しかし、それがどのような人であるかを推測することはできます。使徒の働き17章16節〜34節には、パウロがアテネのアレオパゴスにおいて福音をあかししたことが記されています。そして、32節、33節には、

死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう。」と言った。こうして、パウロは彼らの中から出て行った。

と記されています。
 ギリシャ人は、すべてというわけではありませんが、霊魂の不滅を信じていました。しかし、死者の復活ということは、ギリシャ人の考え方には合わないものでした。というのは、ギリシャ人にとっては物質的なものは悪であり、人間の悪は肉体を源としているというような考え方があったからです。不死なる霊魂が肉体という牢獄から解放されることが救いであるというような思想もありました。そのような人々にとって、死者がよみがえるということ、すなわち「からだのよみがえり」というようなことは、とても救いとは思えなかったでしょうし、神のなすこととは思えなかったでしょう。
 もちろん断定はできませんが、コリントの教会において「死者の復活はない」と主張している人々も、このようなギリシャ文化に特徴的な考え方をもっていたのではないかと思われます。いずれにしましても、「死者の復活はない」と主張している人々は、その当時の一般的な考え方を規準にして、福音のみことばを理解していたことはまず間違いないと思われます。

 それは、今日でも同じです。
 実は、今年の復活節にこのコリント人への手紙第1・15章に記されていることを取り上げようと思い立ったのは、この数週間に、このことに関連する問題で、いくつか質問をいただいたからです。そのうちの1つは、私たちの教会のホームページの掲示板に掲載されていますから、ご覧になられた方もおられるでしょう。その他にも、類似の問題に関して個人的にメイルをいただきまして、お返事を記してきました。
 語弊のないように申しておきますが、私は、このような問題に直面して悩まれる方々に問題があるとは、まったく考えておりません。むしろ、後ほどお話ししますが、私はそのような方々に可能性を感じています。それで、私なりのお返事を記してきました。
 イエス・キリストが十字架にかかって死なれたということについては、「まあそういうことがあっただろう」と考える人は多いと思います。というのは、その当時、実際に十字架による処刑が行われていたからです。もちろん、「まあそういうことがあっただろう」と考える人々が、イエス・キリストの十字架の死がご自身の民の罪の贖いのためであったと信じるわけではありません。
 しかし、イエス・キリストが死者の中からよみがえったということについては、ほぼすべての人が「そんなばかな」と言うことでしょう。というのは、イエス・キリストやイエス・キリストがよみがえらせてくださったラザロやヤイロの娘のことはおいておいてのことですが、死んだ状態から蘇生した人はあっても、だれも死者の中からよみがえった人はいないからです。もちろん、人々はイエス・キリストがラザロやヤイロの娘をよみがえらせてくださったことも信じません。
 それでは、どうして、聖書の中にはイエス・キリストが死者の中からよみがえったということが書いてあるのかということについては、その当時には、神々の再生という神話があって、そのようなことをキリストに当てはめたのだというような説明がなされます。このことが教会のホームページの掲示板で取り上げられている問題でした。そして、このようなことが学者によって主張されていると言われますと、一段と、説得力が増してきますので、悩む方がおられるわけです。
 あるいは、より「洗練された」説明では、人間が自らの主体性において新しい自分となることを決断して、変わっていくことがイエス・キリストの教えで、そのことを、復活という神話で表したのだというような説明もあります。それで、今日では、同じことを、古代人の神話的な表現ではなく、たとえば、人間の主体性を強調する実存哲学のように、今日の哲学のモデルで表現したほうが分かりやすいし、宣教にも有利であるというような主張になります。
 これらの説明はまったく違うように見えますが、どちらも共通の根から出ています。それは、神さまの超自然的な働きかけはないという「自然主義的な」考え方です。これも一種の信仰のような立場であって、確かな根拠があるわけではありません。
 いずれにしましても、コリント人への手紙第1におきまして、パウロは「死者の復活はない」と主張している人々と、その教えに惑わされて混乱している人々がいることに対処するために、この15章を記しています。
 パウロがこのような問題に対処するために、この15章全体にわたって記されていることを記したということは、大切なことを示しています。この15章に記されていることは、イエス・キリストの死者の中からの復活の事実だけでなく、イエス・キリストの復活には、私たち人間の思いをはるかに越えた意味の深さと広さと重さがあるということを明らかにしています。具体的には、神さまの永遠からのご計画に基づく、創造の御業の目的と、アダムにあって全人類が罪を犯して堕落してしまったこととそれがもたらした悲惨、それに対して、神さまが備えてくださった贖い主イエス・キリストによる贖いの御業の成就と、終わりの日におけるすべてことの完成に至るまでのすべてにかかわる、広く豊かな意味があるということです。そして、私たちのよみがえりも、この私たちの思いをはるかに越えた広く豊かな意味をもっていることの中に位置づけられています。
 パウロは、「死者の復活はない」と主張している人々と、その教えによって惑わされて混乱している人々に、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりの、このように広く豊かな意味を明らかにすることによって答えつつ、説得しています。このことは、私たちにとっても大切なことを示しています。それは、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことを信じるということは、イエス・キリストのよみがえりの事実を信じるということだけでなく、この15章全体においてパウロが明らかにしているような、イエス・キリストのよみがえりの広く豊かな意味を理解して、それを受け入れることであるということです。イエス・キリストの死者の中からのよみがえりの広く豊かな意味を理解することによって、よみがえられたイエス・キリストに対する私たちの信仰は強められ、深められるのです。

 このようなことを念頭において、この15章に記されていることの最初の部分を見てみましょう。1節、2節には、

兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。

と記されています。
 1節には、

兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。

と記されています。
 ここで「私があなたがたに宣べ伝えた」ということと「あなたがたが受け入れた」ということは(不定過去時制で表されていて)すでに起こったことを示しています。そして「それによって立っており」ということは(完了時制で表されており)すでに起こったことの結果がこの時まで続いていることを示しています。ですから、ここでは、パウロが福音を宣べ伝え、コリントの教会の信徒たちはそれを信じて受け入れ、福音によって立つようになったということだけでなく、それ以来、ずっと、福音によって立ち続けているということが示されています。
 そうであるとしますと、ここに記されていることは、どこかおかしいのではないかと感じられます。というのは、パウロは読者たちに福音を知らせると言った後に、その福音はすでにパウロが彼らに宣べ伝えたものであるばかりでなく、彼らが「受け入れ、また、それによって立っている福音」であると言っているからです。この「それによって立っている」と訳されたことばは「そのうちに立っている」とも訳すことができます。いずれにしましても、福音がすでに宣べ伝えられているばかりか、読者たちがそれを受け入れて、それによって立っているのに、なおも福音を知らせるとはどういうことなのでしょう。
 これに対しては、福音は何度でも宣べ伝えられる必要があるものであるということを指摘している人もいます。確かに、福音はとても豊かなものですので、繰り返し教えられる必要があります。
 けれども、それは、ここでパウロが言おうとしていることではありません。すでにお話ししましたように、コリントにある教会の信徒たちの中には「死者の復活はない、と言っている人」たちがいました。そのようにして、パウロが宣べ伝えた福音が曲げられてしまっていました。さらに、そのような教えによって惑わされて、混乱してしまっている人々がいたと考えられます。それで、パウロはここで改めて福音を「知らせる」、つまり、本来の福音を「明確にする」と言っているのです。
 このような事情は2節において、よりはっきりとしてきます。2節には、

また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。

と記されています。原文のギリシャ語では、

 この福音によって救われるのです。

ということばが最初に来ていて、しかも、前の部分とつながっています。(「この福音によって」の「この福音」は関係代名詞です。)それを生かして1節から続けて訳しますと、

兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、それによって立っており、それによって救われるようになるものです。

という感じになります。
 すでにお話ししましたように、「私があなたがたに宣べ伝えた」ということと「あなたがたが受け入れ」ということは、すでに起こったことを示しています。また、「それによって立っており」ということは、すでに起こったことの結果がこの時まで続いていることを示しています。そして、これに続く「それによって救われるようになる」ということは(現在時制で表されており、この場合には、将来的な意味合いがあると考えられますので)今この時、救われている状態が継続しているとともに、将来において完成に至るという意味合いを伝えています。
 この後に、

もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、

という、条件文が続いています。これは、現実的なことを示す条件文ですが、実質的には、

ただしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていればのことですが。

という但し書きのようなものです。そして、実際にこのようなことを付け加えなければならない現実があったことを示しています。つまり、「よく考えもしないで信じた」り、パウロが「宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保って」いないために、「死者の復活はない」という主張をしたり、そのような教えによって惑わされて、混乱してしまっている人々がいたのです。

 これはとても深刻なことです。というのは、この、

もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、

ということが「それによって救われるようになる」ということにつながっているからです。つまり、「よく考えもしないで信じた」り、パウロの「宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保って」いないなら、誤った福音に捕えられてしまって、救われるようにはならないからです。
 実際に、パウロは、「死者の復活はない」というような誤った教えのことを取り上げている12節〜19節で、

ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

と述べています。

 2節に戻りますが、ここで「よく考えもしないで信じた」と言われているときの「よく考えもしないで」と訳されたことば(エイケー)は、「いたずらに」、「むなしく」とか、「理由もなく」、「根拠もなく」とか、「考えるべきことを考えないで」というようなことを表しています。
 また、「私の宣べ伝えたこの福音のことばを」(直訳「私がどんなことばをもってあなた方に福音を宣べ伝えたか」)と訳されている部分をどのように理解するかについては、学者の間でも意見が分かれていますが、この新改訳の訳のようでいいと思います。この場合の「私の宣べ伝えたこの福音のことば」は、パウロが宣べ伝えた福音のことば遣いのことではなく、福音の実質的な内容のことを指していると考えられます。コリントの教会の信徒たちの中には、その福音の実質的な内容をきちんと理解していないために、「死者の復活はない」というような主張をしたり、その誤った教えに惑わされ、混乱してしまっている人々がいたということです。それで、パウロは、福音の実質的な内容をきちんと理解して、それをしっかりと保ち続ける必要があることを示しています。
 このようなことから、1節と2節を全体的に見ますと、

兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、それによって立っており、それによって救われるようになるものです。

ということばは、福音が宣べ伝えられたときの本来の姿を示しています。実際に、コリントにある教会にはこれが当てはまる信徒の方々もいたはずです。しかし、中には、

もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、

あるいは、意訳的に、

ただしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていればのことですが。

ということばが示しているように、「よく考えもしないで信じた」人々や、パウロが「宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保って」いないために、「死者の復活はない」というようなことを言ったり、そのような教えによって、惑わされて混乱してしまっている人々もいたのです。
 そして、繰り返しになりますが、パウロは、このような問題があるので、確かな根拠に基づいて信じることが必要であることと、パウロが宣べ伝えた福音のみことばの実質的な内容をしっかりと保っている必要があることを示しています。
 これらのことは、最初にお話ししたことにつながっています。パウロは「死者の復活はない」と主張している人々や、その教えによって惑わされて混乱している人々に、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりの広く豊かな意味を明らかにすることによって答えつつ、説得しています。それは、この人々が福音を「何の根拠もなく」「いたずらに」信じるのではなく、福音の実質的な内容をきちんと理解して、それをしっかりと保ち続けるようになるためのことです。

 振り返って考えてみますと、パウロが15章全体を割いて、イエス・キリストの復活の意味の広がりと豊かさを記しているのは、このような問題があったからこそのことです。コリントの教会にこのような問題がまったくなかったなら、15章に記されているような豊かな教えは記されなかったことでしょう。
 もちろん、パウロはこの15章に記されていることを、コリントの教会の信徒たちすべてに向かって語りかけています。すべての信徒がイエス・キリストの復活の広く豊かな意味を理解して、イエス・キリストに対する信仰を強められ、誤った教えの風にもてあそばれることがないようになってほしいと思っています。
 そうではあっても、99匹の羊を残して、迷ってしまった1匹の羊を捜し求められるイエス・キリストのお働きに照らして見ますと、このような中で、パウロが特に心にかけていたのは、「迷える羊」に当たる人々、すなわち、「死者の復活はない」と主張している人々や、その教えによって惑わされて混乱している人々であったと考えられます。この人々は、この15章に記されているパウロの教えに照らして自らの考えを吟味することができるなら、このような問題を持っていなかったときよりも確かな自覚をもって、パウロの教えを受け止めることができるはずです。このようなことを考えますので、先ほど、さまざまな情報源からえられた考え方に直面して悩んでおられる方々に可能性を感じると言ったのです。
 今日、福音は単純なものであるということから、神さまが啓示してくださったみことばが示している深く豊かな真理を知ろうとすることを放棄してしまう傾向があります。確かに、福音はイエス・キリストご自身が制定してくださった聖餐式において示されていることに表示されているように単純なものです。しかし、それは、コリント人への手紙第1・1章25節に記されている、

 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い

というみことばに合わせて言えば、神さまの単純さです。福音は単純ではありますが、浅薄なものではありません。底知れず深く、人間の思いを越えて豊かなものです。キリストの教会の2千年の歩みの中で、みことばに基づく深い思索がなされてきましたが、その深さと豊かさがきわめ尽くされたことはありません。実際に、この世のさまざまな考え方の批判にさらされ、より一層、真理としての光を放つようになってきました。自らの限界のためにさまざまな疑問を抱きつつ、みことばの真理を追究するほうが、福音のみことばのより深く豊かな意味を追い求めることを放棄してしまう姿勢より、はるかに豊かな実りをもたらすと信じています。
 私たちも、この復活節にちなんで、神さまが福音のみことばを通して私たちに啓示してくださっている、イエス・キリストの復活の広く豊かな意味を、心して受け止めたいと思います。また、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりについてあかししている福音のみことばの実質的な内容をしっかりと保ち続けることによって、神さまが終わりの日に完成してくださる救いの恵みにあずかり続けたいと思います。


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