まことの神殿
(イースター説教集)


説教日:2008年3月23日
聖書箇所:ヨハネの福音書2章13節〜22節


 今日は2008年の復活節です。そのために、主の祈りについてのお話はお休みして、ヨハネの福音書2章13節〜22節に記されている、一般に「宮きよめ」と呼ばれることについてお話しします。
 13節には、

 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。

と記されています。
 出エジプト記23章14節には、

 年に三度、わたしのために祭りを行なわなければならない。

と記されています。
 その「年に三度」行われた祭りの第1が「過越の祭り」と続く7日間の「種入れぬパンの祭り」です。これは、いわば、ひと組になっています。過越の祭りは1年の最初の月であるニサンの月の14日に行われました。ユダヤの祭りは太陰暦によっていましたので、太陽暦で言いますと3月から4月にかけての満月の日に行われました。
 第2の祭りは、聖書に記されている規定の一つの言葉の理解の仕方によって、数え方に2通りあるようですが、過越の祭りの安息日、あるいはその翌日から50日目に行われる「収穫祭」あるいは「7週の祭り」と呼ばれる祭りです。これは、後に、「50日」とのかかわりで「ペンテコステ」と呼ばれるようになります。
 3番目の祭りは、太陽暦の9月から10月にかかるティシュリの月の15日から21日に行われる「仮庵の祭り」です。ちなみに、この5日前の10日は「大贖罪の日」でした。
 このように、古い契約の下にあったイスラエルにおいては、「年に三度」の祭りが行われました。また、出エジプト記23章17節には、

 年に三度、男子はみな、あなたの主、主の前に出なければならない。

と記されています。つまり、イスラエルの成人男子は「年に三度」行われる祭りのたびに主のご臨在の御前に出なければなりませんでした。
 その主のご臨在のあるところは「聖所」と呼ばれます。古い契約の下では、その聖所は人が造った地上的なひな型、今日の言葉で言えば模型として示されていました。それをどのように造るかは、契約の神である主がシナイ山にご臨在されて、そのご臨在の御許に召されたモーセに示してくださいました。出エジプト25章8節、9節には、

彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。

と記されています。ここには「聖所」と「幕屋」が出てきますが、二つは同じ意味で用いられていると考えられます。ただ、言葉の意味するところとしては、「聖所」(ミクダーシュ)は「幕屋」より意味が広く、「幕屋」も含めて、主がご臨在される場所を示します。この「聖所」(ミクダーシュ)は、「幕屋」」の中心にある「聖所」と「至聖所」の「聖所」(コーデシュ)とは区別されます。
 「幕屋」は後にイスラエルがカナンの地に定着しますと「神殿」となります。それはエルサレムのシオンの丘に建てられました。
 このように、イスラエルの民は年に3回、主の神殿のあるエルサレムに上って行ったのです。先ほどのヨハネの福音書2章13節に、

 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。

と記されていますように、イエス・キリストもこれに従っておられました。


 14節には、

そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、

と記されています。ここで「宮の中に」と言われているときの「」は神殿の建物全体を表わす言葉(ヒエロン)です。マタイの福音書やマルコの福音書の記事によりますと、どうやら、「牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たち」がいたのは神殿の境内のいちばん外側にある「異邦人の庭」においてのことであったようです。
 ここには「牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たち」が出てきます。言うまでもなく、「牛や羊や鳩」は主にささげるいけにえの動物です。「年に三度」行われた祭りには、ユダヤばかりでなく、サマリヤのさらに北にあるガリラヤや、地中海世界のさまざまなところからエルサレム神殿にやって来て主を礼拝する人々がいました。ちなみに、サマリヤ人はエルサレム神殿を認めていませんでしたから、エルサレムに来ることはありませんでした。そのように遠くからやって来る人々は、いけにえの動物を連れて旅をするわけにはいきませんから、主の神殿の近くでそのための動物が手に入れば助かるわけです。また、「両替人たち」がいたのは、主の神殿に納める「半シェケル」(出エジプト記30章13節)が銀の純度の高いツロの銀貨で納めるようになっていたからです。ですから、「牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たち」は祭りのために主の神殿に来た人々の便宜のためにそこにいたわけです。もちろん、そのために、いわゆる「権利金」を払い、当局の許可を得て商売をしていました。
 続く15節、16節には、

細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

と記されています。

細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、

ということは、イエス・キリストの怒りがまことに激しいものであったことを示しています。問題は、その商売そのものにあったのではなく、イエス・キリストが、

 わたしの父の家を商売の家としてはならない。

と言われたように、そのような商売を神殿の中でしていることにあったのです。
 ちなみに、イエス・キリストは鳩を売っている者たちには、

 それをここから持って行け。

と言っておられます。神殿から追い出された「羊も牛も」、散らされた「」も再び集めることができます。しかし、鳩はそのようなわけにはいきません。それで、イエス・キリストは鳩を逃がして彼らに損害を与えることは避けられたのではないかと思われます。
 このヨハネの福音書に記されていることと同じようなことが、マタイの福音書とマルコの福音書にも記されています。このふたつのことは別の機会、すなわち、ヨハネの福音書に記されていることはイエス・キリストの公生涯の初めになされ、マタイの福音書とマルコの福音書に記されていることは公生涯の終わりになされた、別の出来事であると考えられます。しかし、二つの出来事は本質的に同じ問題を取り扱っています。それで、この二つの記事は同じ出来事を記していて、編集上の理由から別のところに置かれていると考える学者たちもいます。ここでイエス・キリストが問題としておられることは主のご臨在の場としての神殿の意味にかかわることであり、イエス・キリストのお働きの本質にかかわることです。それで、イエス・キリストは公生涯の初めにいわゆる「宮きよめ」をなさったと考えられます。しかし、それでも神殿で行われていることは改められることがありませんでしたので、イエス・キリストは公生涯の最後に同じ問題を取り扱われたと考えられます。
 そのマタイの福音書とマルコの福音書には、イエス・キリストが、

 わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる

というイザヤ書56章7節に記されている主の御言葉を引用しておられることが記されています。イザヤ書56章7節の「すべての民の祈りの家」という言葉や、その文脈から判断して、イエス・キリストが激しくお怒りになったのは、彼らが「異邦人の庭」において商売をしていたために、異邦人の改宗者たちが主の神殿に来ても、心を静めて主を礼拝することができなかったという状況に対してであったことを示しています。異邦人たちは主の神殿のいちばん外側にある「異邦人の庭」より奥に入ることは許されていませんでした。
 主が預言者イザヤをとおして語られた、

 わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる

という御言葉は、主の神殿が、すなわち、そこに主のご臨在があることが「すべての民」にとって大きな意味をもっているということを示すものです。事実、イスラエルの民はそのことのために主の力強い御手によってエジプトの奴隷の身分から贖い出され、主のご臨在の御前に仕える祭司の国として召されていました。出エジプト記19章4節〜6節には、

あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。

という、イスラエルの民に対する、主の御言葉が記されています。イスラエルは「すべての国々の民」に主のご臨在をあかしする「祭司の王国」として召されていたのです。
 このようなイスラエルの民の本来の召命と、その使命の中心にある主の神殿の意味を見失って、自分たちユダヤ人の便宜だけを考えていることの端的な現れが、主の神殿において「牛や羊や鳩」が売られ、両替がなされているということでした。確かに、主の神殿の中で「牛や羊や鳩」を買ったり、納める銀貨の両替ができることは、ユダヤ人にとっては便利なことでした。ユダヤ人は「異邦人の庭」においていけにえの動物を買ったり、両替をしたりして、さらにその奥に入っていって主を礼拝することができました。しかし、はるばるエルサレムにまでやって来て、主の神殿において主を礼拝しようとしている異邦人たちにとっては、礼拝の場が商売の場になってしまっていたのです。マタイの福音書21章13節には、

「わたしの家は祈りの家と呼ばれる。」と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。

というイエス・キリストの御言葉が記されています。そして、ヨハネの福音書では、

 わたしの父の家を商売の家としてはならない。

というイエス・キリストの教えが記されていますが、この二つの言葉は基本的に同じことを意味していると考えられます。
 いずれにしましても、イエス・キリストは、ここで、このような神殿の状態を糾弾しておられます。これは一般には「宮きよめ」と呼ばれていますが、その中心にあるのは主への礼拝の回復です。
 このことは、私たちにも大切なことを教えています。いま礼拝において取り上げています「主の祈り」についてのお話の中で繰り返しお話ししていますが、私たちは、神さまの創造の御業において神のかたちに造られ、歴史と文化を造る使命を委ねられているものです。そのようなものとして、神さまがご自身のご臨在の場として造られた「地」に住んでいます。私たちは神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっていましたが、御子イエス・キリストの十字架の死によってその罪を完全に贖っていただいています。そればかりでなく、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれたものとしていただいています。そのような恵みを受けて新しくされているものとして、再び歴史と文化を造る使命を委ねられており、新しい時代の歴史と文化を造るように召されています。このような、主から委ねられた使命を果たすことの中心に礼拝があります。
 このような使命を忘れて、自分たちの好みに合わせた礼拝、自己陶酔的な礼拝をささげているとしたら、私たちの礼拝自体に根本的な欠けがあることになります。今は、そのような危険が身近なものになってきているのではないかと、畏れをもって目を覚ましていたいと思います。
 ヨハネの福音書2章に戻りますと、1節とびますが、18節には、

そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」

と記されています。
 ここで「ユダヤ人たち」と言われているのは一般の人々ではなく、ユダヤの当局者たちのことで、その人々が、主の神殿においていけにえの動物の売り買いや両替を許可していたと考えられます。その意味で、その人々が主の神殿のあり方に関して指導的な立場にあったわけです。その人々がイエス・キリストに「しるし」を求めています。これは、イエス・キリストの権威を問うものです。「何の権威があってこのようなことをするのか」という問いかけです。そして、その権威の裏付けとしての「しるし」を求めています。
 これに続いて、19節、20節には、

イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」

と記されています。

この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。

というイエス・キリストのお答えはユダヤ人たちにとっては、まことに不可思議な言葉でした。このことはヨハネの福音書2章に記されていますが、3章にはユダヤ人の指導者であるニコデモとイエス・キリストの対話が記されています。3節、4節に記されていますように、イエス・キリストが、

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。

ということを教えられると、その教えがまったく理解できなかったニコデモは、

人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。

と問い返しています。ここでも同じようなことが起こっています。
 ユダヤ人たちは、

この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。

と応じています。
 「この神殿」は一般に「第2神殿」と呼ばれる神殿で、バビロンの捕囚から帰還したユダヤ人たちによって建設されました。そのごさまざまなことがあって破壊されましたが、ヘロデ大王によって大掛かりな再建工事が行われました。それで、これは再建された「第2神殿」ですが、「ヘロデの神殿」と呼ばれることもあります。その工事の完成は64年のことと言われていますから、開始から「四十六年」経ったこの時もまだそれは続けられていたようです。ちなみにこの神殿は70年にローマ軍によって破壊されます。ユダヤ人たちは、イエス・キリストが、そのような神殿を「三日」で建てると言ったと理解しました。
 弟子たちも、その時は、イエス・キリストの言葉を理解することはできませんでした。しかし、弟子たちは後にそのことを理解するようになりました。そのことが、21節、22節に、

しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

と記されています。
 このヨハネによるコメントが、その前に記されているイエス・キリストの教えを理解する鍵です。しかし、そうではあっても、

 この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。

というイエス・キリストの教えの「この神殿」が何を意味しているかをめぐっては意見が分かれています。それらの議論を省略して結論的なことだけを言いますと、まず、一つはっきりしていることがあります。それは、ヨハネのコメントでは、

 イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。

と言われています。それで、イエス・キリストが、

 この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。

と言われたときの「この神殿」はイエス・キリストの「からだの神殿のこと」であるということです。少し分かりにくいかもしれませんが、より明確なことは、イエス・キリストが、

 わたしは、三日でそれを建てよう。

と言われたのは、ご自身の復活のからだのことであるということです。つまり「三日でそれを建てよう」の「それ」はイエス・キリストの復活のからだのことです。そして、その「それ」という代名詞は、

 この神殿をこわしてみなさい。

の「この神殿」を指しています。
 そうしますと、「この神殿」はイエス・キリストの「からだ」を指しているということになります。それで、イエス・キリストが、

 この神殿をこわしてみなさい。

と言われたのは、ユダヤ人たち、すなわち、ユダヤ社会の指導者たちが、やがてイエス・キリストを十字架につけて殺してしまうようになることを意味しています。
 問題は、このことにエルサレム神殿のことはいっさいかかわっていないのかということです。これに対しては、エルサレム神殿もこのことにかかわっていると思われます。それは、ユダヤ人、すなわち、ユダヤ社会の指導者たちがエルサレム神殿の本質を見誤って、自分たちの都合に合わせて変質させてしまっているということです。建物としての神殿の形は変わってはいないけれども、その本質が腐敗してしまっていたのです。そのようなことに対してイエス・キリストがなさったことは、神殿の本来の姿、本質を回復することでした。しかし、そのことが、ユダヤ人たちには主の神殿を荒らすことと見えました。イエス・キリストはそのようなユダヤ人たちの怒りと憎しみをかって、やがて十字架につけられることになってしまったのです。
 このように、この時、エルサレムにある主の神殿においてなされていることに対して激しい怒りをお示しになり、ユダヤ人に対して、

 この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。

と語っておられるイエス・キリストご自身が「神殿」であるということになります。実際、イエス・キリストはそのようなお方です。このヨハネの福音書では1章1節〜3節に、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されています。先主日にもお話ししたことですので、結論的なことだけを言いますと、ここではイエス・キリストが「ことば」として紹介されています。この「ことば」なる方は、

 初めに、ことばがあった。

と言われていますように、天地創造の「初めに」すでに存在しておられます。そして、

 すべてのものは、この方によって造られた。

と言われていますように、天地創造の御業を遂行された方です。そのような方として、

 ことばは神であった。

と言われています。そして、1節では、

 ことばは神とともにあった。

と言われており、2節で、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と言われていますように、この方は父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにあられます。
 ヘブル人への手紙1章3節では、この方のことが、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。

とあかしされています。
 そして、ヨハネの福音書1章14節には、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されています。ここで、

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

と言われているときの「住まわれた」という言葉(スケーノオー)は、先ほどお話ししました「幕屋」にかかわっており、「幕屋を張られた」ということを表しています。永遠の「ことば」にして、無限、永遠、不変の栄光の主であられる方が、人となってきてくださって、私たちの間にご臨在してくださいました。この方こそは神さまのご臨在そのものです。それで、ヨハネの福音書14章9節に記されていますように、イエス・キリストは、

 わたしを見た者は、父を見たのです。

と教えておられます。
 このように、イエス・キリストは、神さまのご臨在そのものであられ、地上的なひな型である神殿が表しているすべてを成就しておられる方です。ひな型としての神殿では動物のいけにえがささげられましたが、動物の血は建物としての神殿の形は変わってはいないけれども、その本質が腐敗してしまっていたのです。の罪をきよめることはありません。そのために、そのいけにえは繰り返しささげられました。それによって、罪の贖いは、必要であるけれども、いまだ実現していないということをあかししていました。しかし、イエス・キリストは罪なきご自身をとこしえのいけにえとしておささげになり、ご自身の民の罪を完全に贖ってくださいました。ヘブル人への手紙10章14節に、

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

と記されているとおりです。
 このようにして、イエス・キリストは罪のために神さまの聖なるご臨在の御前から退けられていた私たちを、再び神さまの聖なるご臨在の御前に近づけてくださり、神さまを礼拝するものとして回復してくださいました。
 今日は復活節ですが、それは、イエス・キリストが、

 この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。

と言われたことを実現してくださったことを意味しています。このことによって、イエス・キリストの復活のからだというまことの神殿が建てられました。私たちはこの神殿において備えられているイエス・キリストの十字架の死に基づく贖いの恵みにあずかって、この神殿において、すなわち栄光のキリストにあって、父なる神さまを礼拝しています。
 最後に、ヘブル人への手紙10章19節〜22節をお読みいたします。

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。


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