主の確かな約束の中で (2)
(イースター説教集)


説教日:2006年4月16日
聖書箇所:ヘブル人への手紙13章1節〜8節


 今日は2006年の復活節です。昨年の復活節には、ヘブル人への手紙13章1節〜6節に記されていることについてお話ししました。今日は、昨年からの繰り返しが多くなりますが、8節までを視野に入れながら、それを補足するお話をしたいと思います。
 昨年もお話ししましたが、1節〜6節に記されていることの中心は、1節の、

兄弟愛をいつも持っていなさい。

という戒めにあります。これは、イエス・キリストを信じて、その十字架の死による罪の贖いにあずかって罪をきよめていただき、死者の中からのよみがえりにあずかって復活のいのちによって新しく生れた者たちが構成している神の家族における兄弟愛です。
 これを受けて、2節と3節では、旅人である兄弟や牢につながれている兄弟たちを思いやりつつ愛することが取り上げられています。この場合、物理的な意味ではその人々からの見返りを受けることは期待できません。しかし、そのような兄弟を愛することは、そのような兄弟たちと一つとなってくださっている主イエス・キリストを愛する愛の現れにほかなりません。昨年も引用しましたが、マタイの福音書25章40節には、

まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。

という栄光の主であられるイエス・キリストの言葉が記されています。
 また、このような、何の見返りも期待しないで兄弟を愛することは、ご自身への見返りは何もなく、ただ私たちを愛して、十字架にかかって私たちのためにいのちを捨ててくださった主イエス・キリストの愛に通じるものです。言い換えますと、このような愛は、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生れている者のうちから出てくる愛であるのです。ヨハネの手紙第一・3章16節には、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と記されています。これは、私たちへの戒めですが、外側からの押し付けではありません。私たちのうちにイエス・キリストの復活のいのちが脈打っており、そのイエス・キリストの復活のいのちの最も自然な現れが兄弟を愛する愛であるので、このように戒められているのです。ですから、この戒めは、私たちがイエス・キリストの十字架の死によって罪を贖っていただいて、罪の自己中心性から解放されており、イエス・キリストの復活にあずかって新しく生れているということ、またそれゆえに、私たちのうちにイエス・キリストの復活のいのちが脈打っているということを踏まえています。その上で、私たちが主イエス・キリストの恵みによって、その贖いにあずかり、愛を本質的な特性とする主イエス・キリストの復活のいのちで生かされているのであるから、そのような者として歩みなさいと戒められているわけです。主イエス・キリストにある私たちの本来の姿でありなさいと戒められているということです。


 4節に記されている結婚における愛も、主イエス・キリストにある兄弟愛のうちにあります。これを、昨年お話ししたことと少し別の面から見てみましょう。主にある結婚はイエス・キリストを主として信じている兄弟姉妹の結婚です。2人はイエス・キリストを主と告白して、イエス・キリストに従っていることにおいて結びついています。そして、そのことのゆえに、お互いの罪や弱さにも関わらず、信じ合うことができます。このような2人にとっては、お互いに対する信頼の基盤が自分たちを越えた方、私たちの主イエス・キリストのうちにあるのです。
 私たちがお互いを信じるときに、その人のよさを信じるだけであれば、その信頼の基盤はもろいものになります。というのは、私たち自身のうちに罪があり、私たちはしばしば罪を犯し、自己中心の罠に陥ってしまうからです。自分自身がそのような者であることを身にしみて知っている人は、自分自身さえも信じることはできないという思いになります。一般には、そのような思いをもたないで、自分を信じるようにという勧めがなされます。父なる神さまが御子イエス・キリストをとおして示してくださった愛と恵みを知らない人々にとっては、そのようにするしか道はないことでしょう。けれども、神さまの愛と恵みを知っている者にとっては、それとは別の道があります。それは、お互いの信頼の基盤を主イエス・キリストに置くということです。
 これは、相手が罪を犯さないということを信じるのではありません。相手が罪を犯しても、必ずそれを悔い改めて、主の贖いの恵みに信頼して、その罪をきよめていただき、主との本来の関係に留まり続けるということを信じるということです。それは、相手のよさを信じるという以上に、主ご自身が、恵みによって、お互いをそのような者として支えてくださるということ、つまり、主ご自身とその恵みを信じるということです。そして、このことには、後で取り上げる5節後半の、

主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

という約束が伴っています。
 また、このことは、それまで知らなかった旅人である兄弟を信じることにも当てはまることです。普通は、そのような兄弟は知り合いなどからの紹介によって出会うことになるのでしょうが、その場合も、その兄弟がイエス・キリストを主として信じて、イエス・キリストに従っているということが、その兄弟を信頼して受け入れることの基盤となっています。当然のことながら、これは、私たちが信仰の家族としてお互いを信じ、信頼し合っていることの基盤となっています。
 5節の、

金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。

という戒めも、兄弟を愛することとのつながりで理解すべきものです。金銭を愛する生活をしないということは、金銭を大切にしないということではありません。金銭を貯めることを生き甲斐として、金銭を得ること目的として、そのために生きるような生活をしないということです。これを兄弟愛との関係で考えるのは、金銭を愛する生活をすることによって、兄弟への愛を具体的に表すことができなくなってしまう可能性があるからです。先ほど引用しましたヨハネの手紙第一・3章16節に続く17節、18節には、

世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。

と記されています。お気づきのことと思いますが、金銭を愛する愛は、先ほどの、旅人である兄弟や牢獄につながれている兄弟を愛する愛、すなわち、何の見返りも期待できない兄弟への愛と正反対のものであるのです。
 そして、ヘブル人への手紙13章に戻りますが、同じ5節では、このこととの関わりで、

主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

と言われています。昨年お話ししたとおり、この、

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。

という言葉には、否定を示す言葉が五つも出てきます。具体的には、

わたしは決してあなたを離れず、

という言葉と、

あなたを捨てない。

という言葉のそれぞれに二つずつ、そして、二つの文をつなぐ言葉も否定を表すことばです。それらは、互いに打ち消す否定ではなく、否定を積み上げて強調するものです。ですから、この、

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。

という主の約束の言葉には、これ以上ないというほどの強調が加えられており、それだけ確かな保証が示されているわけです。
 しかし、それだけではありません。さらに、

主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

という訳文からもうかがえますが、ここでは、「主ご自身」(直訳「彼自身」)が強調されています。この言葉がなくても、

主がこう言われるのです。

ということを表すことができます。それで、この言葉があるということにおいて、また、それが最初に置かれているということにおいて「主ご自身」が二重に強調されています。
 このようにこの約束は、それ自体がこの上ないほどの強調形で確かさが示されていますが、さらに、「主ご自身」が言われた約束の言葉であるということで、その確かさが示されています。
 この、

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。

という言葉は、ヨシュア記1章5節に記されている、イスラエルの民を率いて約束の地に入ろうとしているヨシュアに主が語られた、

わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

という言葉を引用していると考えられます。新改訳は、

主ご自身がこう言われるのです。

と現在時制のように訳していますが、これは完了時制です。完了時制は過去になされたことの結果が今に至るまで続いているということを表します。それで、主が、

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。

と言われたことは、ヨシュアの時代のことで終るのではなく、今日に至るまで変わることなく有効であるということを意味しています。新改訳はこのことを受けて、現在時制で表していると考えられます。
 このこと、すなわち、主が、

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。

と言われたことは、今日に至るまで変わることなく有効であるということには、確かな基盤があります。それは、8節において、

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

と記されている事実です。この、

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

という言葉を前後の文脈の中でどのように理解するかということでは意見が分かれています。ある人々は、この、

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

という言葉は、イエス・キリストの存在が、「きのう」とか「きのう」という時間の流れを越えた永遠の存在であるということを示しているのではないと主張しています。これはそのとおりであると考えられます。ここでは、イエス・キリストが永遠に存在される方であられるということを前面に出して教えようとはしていません。ただし、このヘブル人への手紙では、イエス・キリストが永遠に存在される方であられるということは、すでに示されています。たとえば、1章10節〜12節には、御子イエス・キリストに当てはまる旧約聖書の御言葉が引用されています。そこには、

またこう言われます。
 「主よ。あなたは、初めに
 地の基を据えられました。
 天も、あなたの御手のわざです。
 これらのものは滅びます。
 しかし、あなたはいつまでもながらえられます。
 すべてのものは着物のように古びます。
 あなたはこれらを、外套のように巻かれます。
 これらを、着物のように取り替えられます。
 しかし、あなたは変わることがなく、
 あなたの年は尽きることがありません。」

と記されています。
 13章8節の

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

という御言葉は、すでに教えられているイエス・キリストが永遠に存在される方であるということを踏まえています。けれども、ここではそのこと自体を教えているのではなく、そのような方であられるイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業の確かさが永遠に変わらないということ、言い換えますと、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちのための贖いの御業を成し遂げてくださって、今も私たちの贖い主として働いてくださっている

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

ということです。そうであるので、主が、

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。

と言われたことは、ヨシュアの時代のことで終るのではなく、今日に至るまで変わることなく有効であるのです。いや、モーセやヨシュアの時代の地上的なひな型としての贖いの御業の遂行において、主が、

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。

と言われたのであれば、その本体としての贖いの御業を完成してくださった御子イエス・キリストが、

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。

と言ってくださることは、もっと確かなことです。
 6節には、

そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。
 「主は私の助け手です。私は恐れません。
 人間が、私に対して何ができましょう。」

と記されています。

  主は私の助け手です。私は恐れません。
  人間が、私に対して何ができましょう。

という言葉は、詩篇118篇6節に記されている、

  主は私の味方。私は恐れない。
  人は、私に何ができよう。

という告白の言葉の引用です。これは、10節で、

  すべての国々が私を取り囲んだ。

と言われていますように、人間の目から見ますと進退窮まったというべき状況の中での主に対する信頼の告白です。
 それは、また、ヘブル人への手紙の読者たちの置かれている状況でもあります。この手紙の読者たちの中に、主への信仰のゆえに投獄され、さまざまな苦しみにあっている人々がいるのです。そのような中にあって、それでも、

  主は私の助け手です。私は恐れません。
  人間が、私に対して何ができましょう。

と告白しています。それが口先だけの告白ではないことが、イエス・キリストに対する信仰を告白して生きているゆえに迫害を受けて牢獄につながれている兄弟たちを愛することに現れてきます。自分も同じ立場に立つかもしれない危険の中でその兄弟たちを思いやり、愛することに現れてくるのです。そして、その愛を支えているのが、

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

とあかしされている方が、

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。

と約束してくださっているということです。
 先ほどお話ししましたように、この約束はもともと、約束の地に入ろうとしているイスラエルの民を率いているヨシュアに語られた言葉です。このことから二つのことが見えてきます。
 一つは、昨年もお話ししましたが、神さまは私たちを御子イエス・キリストによって成し遂げてくださった贖いの御業にまったくあずからせてくださるようになるまでは、決して、私たち離れることはなさらないし、決して、私たちを捨てられることはないということです。
 もう一つは、この、

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

とあかしされている方の、

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。

という約束は、特に、そのように、イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖っていただき、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、復活のいのちによって新しく生れている私たちが兄弟愛をもって互いに愛し合うときに、その愛を支えてくださるものであるということです。私たちが兄弟愛をもって互いに愛し合うことを妨げるものは、試練や迫害などの厳しい状況のように私たちの外にもありますし、罪の自己中心性のように私たち自身のうちにもあります。主イエス・キリストは、そのような私たちが兄弟愛のうちに生きることを、贖いの恵みをもって、あらゆる面から、また最後まで支えてくださるのです。
 7節には、

神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。

と記されています。7節、8節をどのように位置づけるかは議論が分かれるところですが、これは、その前の1節〜6節に記されていることと、9節以下に記されていることの橋渡し的な意味をもっていると考えられます。つまり、1節〜6節と9節以下の両方にかかっているということです。
 ここに述べられている「指導者たち」は「神のみことばをあなたがたに話した指導者たち」と言われています。また、「彼らの生活の結末をよく見て」と言われていることから、この「指導者たち」はすでにこの世を去った人々であると考えられます。これを、1節〜6節に記されている兄弟愛との関わりで見ますと、その兄弟愛がすでにこの世を去った「指導者たち」にまで拡大されているということになります。この「指導者たち」はその群れを愛して「神のみことばを」語ったのです。その意味で、これは兄弟愛のうちにあります。そして、その兄弟愛は「指導者たち」がこの世を去ったことによって終っているわけではないということです。
 もちろん、私たちは、それが自分の人生に決定的な影響を与えてくださった「指導者たち」であっても、すでにこの世を去った人々に祈ったり語りかけたりすることはできませんし、そのようなことは許されていません。それで、そのような意味での交わりはできません。しかし、7節に記されているような意味での交わりはできます。信仰の先達たちの歩みや教えに励まされて、この地上の歩みを続けるということです。
 そして、その「指導者たち」が愛のうちに語った御言葉の教えの中心、また、その生涯の歩みをとおしてのあかしの中心が、

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

という事実にあるのです。その「指導者たち」は人々の目を自分たちにではなく、

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

とあかしされている方に向けさせるのです。ですから、

神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。

ということは、

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

とあかしされているイエス・キリストに目を向け、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストの恵みによって、互いに愛し合う愛のうちに生きることを求めています。
 最後に、これらのことを踏まえて、ヨハネの手紙第一・4章7節〜12節に記されている御言葉をお読みいたします。

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。


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