主の確かな約束の中で
(イースター説教集)


説教日:2005年3月27日
聖書箇所:ヘブル人への手紙13章1節〜6節


 今日は2005年の復活節に当たります。これは、私たちの罪の罪責を私たちに代わって負ってくださり、十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストが、死者の中からよみがえってくださったことを覚えるときです。
 今日取り上げる聖書箇所はヘブル人への手紙13章1節〜6節です。これは先週の木曜集会でも取り上げてお話しした箇所ですが、今日はそれとは別の角度からお話ししたいと思います。
 このヘブル人への手紙1章1節〜6節に記されていることには、これを全体としてまとめるテーマのようなものがあります。それは、1節において、

兄弟愛をいつも持っていなさい。

と記されている戒めに示されています「兄弟愛」です。実際には、このテーマは6節で終らないで、さらに7節〜9節に記されていることまで及んでいると考えられます。けれども、今日は6節までしか取り上げることができません。


 この、

兄弟愛をいつも持っていなさい。

という戒めで「兄弟愛」と訳された言葉(フィラデルフィア)は、もともと血肉の兄弟を愛する愛を表していました。新約聖書においては、それがイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって死とほろびの中から贖い出されて神の子どもとされた人々によって構成される「神の家族」、「信仰の家族」の兄弟姉妹たちへの愛を表すようになりました。ここには、「神の家族」、「信仰の家族」があることが踏まえられています。
 また、

兄弟愛をいつも持っていなさい。

という戒めで「いつも持っていなさい」と訳されている言葉は「とどまる」とか「存続する」ということを表すことば(メノー)の命令形です。しかも、その主語は「兄弟愛」です。それで、この部分は、

兄弟愛が続くようにしなさい。

と訳すことができます。つまり、ここではすでに「兄弟愛」があることが踏まえられており、それをずっと保ち続けること、兄弟姉妹を愛し続けることを戒めているのです。
 ヨハネの手紙第一・3章14節には、

私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。

と記されています。私たちがイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪を赦され、罪の結果である死と滅びの中から贖い出され、イエス・キリストの復活のいのちにあずかって新しく生れていることは、神の家族の「兄弟を愛している」ことに現れてくるというのです。
 実際に、「兄弟愛」はキリストのからだである教会、神の家族の中で生き生きと実践されていました。テサロニケ人への手紙第一・4章9節、10節には、

兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。

と記されています。
 このように、ヘブル人への手紙13章1節では、すでにある「兄弟愛」がずっと続くように戒められています。そして、この「兄弟愛」を実践することが2節〜9節においてより具体的に述べられていると考えられます。
 2節には、

旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。

と記されています。
 「旅人をもてなすこと」は、「兄弟愛」を自分が知っている信仰の家族の兄弟たちだけでなく、さらにそれを広げることを意味しています。信仰の家族の兄弟たちが見知らぬ土地を旅をしているときに、主の御名によって迎え入れてくださる兄弟たちがいるということは、信仰の家族の広がりと、主にあって一つであることを実感させてくれる祝福です。ローマ人への手紙12章13節にも、

聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。

と記されています。また、ペテロの手紙第一・4章7節〜9節には、

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。

と記されています。この「親切にもてなし」と訳されている言葉(フィロクセノス)はヘブル人への手紙13章2節で「旅人をもてなすこと」と訳されている言葉(フィロクセニア)の形容詞です。
 そして、3節には、

牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。

と記されています。
 この「思いやりなさい」と訳されている言葉は(ミムネースコマイ)は「覚えている」、「忘れないでいる」、「思い起こす」、「心に留めている」ということを表しています。これは現在形で表されていますから、それが常になされることを意味しています。
 また「苦しめられている人々」と訳されている言葉(カクーケオーの受動態・現在分詞)は、新約聖書ではここのほか同じヘブル人への手紙11章37節に出てくるだけです。36節〜38節には、

また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、―― この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。―― 荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。

と記されています。37節で、

また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、

と言われているときの「苦しめられ」というのがこの言葉です。ですから、13章3節で「苦しめられている人々」と言われているのは、信仰のゆえに迫害を受けて「苦しめられている人々」のことです。
 ヘブル人への手紙全体から感じ取ることができますが、この手紙が宛てられたキリストのからだである教会、神の家族は、厳しい迫害にさらされていたと考えられます。そして、ここに記されているように、実際にイエス・キリストを信じる信仰のゆえに「牢につながれている人々」や「苦しめられている人々」が兄弟たちの中にいたのです。ここでは、「自分も牢にいる気持ちで」、「また、自分も肉体を持っているのですから」という言葉に示されていますように、これらの人々と同じ立場に立っているように、同じ囚人仲間であり、苦しみをともにする者であるかのように、覚え続け、思いやるようにと戒められています。
 ある方のお父さんは牧師でした。その方の少年時代牧師であるお父さんは信仰のゆえに投獄され、ご家族は大変な苦労をされました。その方はお母さんから頼まれて、教会の中心的な会員で農業をしている方の所に作物を分けていただけないかとお願いしに行きました。ところが、その教会員は「お前の家にやるようなものはない」と言って冷たく追い返したそうです。少年であったその方が衝撃を受けたことは言うまでもありません。幸いその方は、お父さんの足跡にしたがって牧師になられました。
 ローマ帝国の支配下で迫害が起こっている地域にあって、実際に、信仰の家族の兄弟たちが投獄され、さまざまな苦しみを受けているとき、自分を守るために、その兄弟たちと距離を置くということは大きな誘惑でした。そのようなときにこそ、「兄弟愛」が本物かどうか試されたのです。
 2節では「旅人をもてなすこと」が語られており、3節では、「牢につながれている人々」や「苦しめられている人々」を、その人々と一つである者として思いやることが語られています。このことは、マタイの福音書25章31節〜46節に記されているイエス・キリストの教えを思い起こさせます。前半の31節〜40節を見てみますと、そこには、

人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」すると、その正しい人たちは、答えて言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」

と記されています。
 栄光の主が、

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。

と言われる言葉の中に、「旅人をもてなすこと」や、「牢につながれている人々」や「苦しめられている人々」を思いやること出てきます。
 もちろん、これは、その人々が「「旅人をもてなすこと」や、「牢につながれている人々」や「苦しめられている人々」を思いやったことが功績となって救われるということではありません。その人々が主の恵みによって救われて主の民となったことが、「旅人をもてなすこと」や、「牢につながれている人々」や「苦しめられている人々」を思いやることとして現れてきているということです。これは、先ほど引用しましたヨハネの手紙第一・3章14節に、

私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。

と記されていることと同じことです。
 そして、「その正しい人たち」が「『主よ。いつ、私たちは』そのようなことをしましたか」と問いかけることは、ヘブル人への手紙13節2節で、

こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。

と言われていることに通じるものです。
 「旅人」は神の家族の兄弟とはいえ、間もなく自分のところを去ってしまう人です。このような兄弟を迎え入れてもてなすことは、この世の計算で言いますと、何の利益もありません。それは犠牲を払うだけのことです。また、先ほどお話ししましたように、「牢につながれている人々」や「苦しめられている人々」と自分を一つにして、その人々を思いやることは、現実的に危険なことでもありました。この二つのことは、罪の自己中心性が支配しているところでは実現しません。
 ヘブル人への手紙13章4節には、

結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。

と記されています。これも「兄弟愛」の延長線上にあります。このことは、前にお話ししたことがありますエペソ人への手紙の5章22節に記されている、

妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。

という戒めを思い起こさせます。この戒めには「従いなさい」という言葉がなく、これは独立した文で表されていない戒めです。その「従いなさい」という言葉は、その前の21節において、

キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。

と記されている戒めの「従いなさい」という言葉です。これによって、

キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。

という戒めに示されているキリストにある「兄弟愛」の中に夫と妻の関係があることをくみ取ることができます。

結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。

ということは、「すべての人に」という言葉があることから分かりますが、結婚している人々だけに語られているのではなく、結婚していない人々にも語られています。

寝床を汚してはいけません。

というのは、遠回しの言い方で、結婚における性的な関係が主のみこころに沿って聖く保たれることを求めるものです。これも、「すべての人に」求められていることで、結婚している人々が自分たちの結婚における関係をそのように保つだけでなく、結婚していない人々も兄弟姉妹たちの結婚を尊重することを求めています。
 5節前半には、

金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。

と記されています。

金銭を愛する生活をしてはいけません。

というのは、直訳調に訳しますと、

金銭を愛することのない生き方でありなさい。

となります。ここでは、「金銭を愛することのない」という言葉(アフィラルグロス)が先にあって強調されています。この「金銭を愛することのない」生き方は、「いま持っているもので満足」するということと表裏一体の関係にあります。つまり、金銭を愛することは「いま持っているもので満足」できない状態を生み出すのです。そして、どんなに多くの富を持っていても、決して満足することがなくなってしまうという状態になってしまいます。
 さらに、マタイの福音書6章24節には、

だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

というイエス・キリストの教えが記されています。このイエス・キリストの教えは、金銭を愛する人においては、その金銭がその人を支配するようになることを示しています。その人は金銭に仕えるようになり、その生活の目的が金銭にあり、価値の基準が金銭になってしまいます。
 ヘブル人への手紙13章4節の文脈では、これが「兄弟愛」とどのように関わっているかが問題となります。これは、すでにお話ししました、「旅人をもてなすこと」や、「牢につながれている人々」や「苦しめられている人々」を思いやることは、物質的には得るものは何もなく、むしろ、犠牲を払い、自らを危険にさらすことでもあるということ、そして、それゆえに、罪の本質的特性である自己中心性から解放されていて初めてできることであるということと対比されます。「旅人をもてなすこと」や、「牢につながれている人々」や「苦しめられている人々」を思いやることは、金銭を愛する人の価値観と真っ向から対立するのです。
 それでは、神の子どもたちは富や金銭を持ってはいけないのでしょうか。決してそのようなことはありません。ここで戒められているのは、金銭を愛し、それに献身し、それに仕えることの危険です。それが、「兄弟愛」をも、口先だけのものにし、破壊してしまうようになります。
 ではどうしたらいいのかということですが、

いま持っているもので満足しなさい。

と戒められていますように、「いま持っているもので満足」することです。そうしますと、金銭への貪欲から自由なものとして、自分の富を「兄弟愛」に活かす道が開けてきます。その代表的な例が、「旅人をもてなすこと」や、「牢につながれている人々」や「苦しめられている人々」を思いやることです。
 これにはもう一つの問題があります。ヘブル人への手紙の読者たちが厳しい状況におかれていて迫害を受け、投獄されたり苦しめられていたということも、この、

金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。

という戒めにかかわっていると考えられます。自分が置かれている状況が厳しいために、不安に駆られますと、人は金銭に頼るようになります。そこから、いつの間にか、イエス・キリストが、

あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

と言われるような状態になってしまうのです。
 それで、ヘブル人への手紙13章では、続く5節後半に、

主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

と記されています。
 これは、私たちを主ご自身の御言葉の約束の上に立たせてくれるものです。厳しい状況の中にあって、不安を抱えている兄弟姉妹たちは、金銭を頼みとするように誘惑されています。この手紙の著者は、その兄弟姉妹たちに、

金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。

というだけでは不十分であるということを知っているのです。そのような状況にある兄弟姉妹たちが、信仰によって、

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。

という、主ご自身の約束の御言葉の上に立つようになったとき、初めて「いま持っているもので満足」できるようになり、金銭を愛することから自由な生活をすることができるようになります。そればかりでなく、自分たちのもつものをもってお互いに仕え合う「兄弟愛」が生きたものとなり、「旅人をもてなすこと」や、「牢につながれている人々」や「苦しめられている人々」を思いやることに現れてくるのです。

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。

という主の御言葉は、旧約聖書からの引用です。申命記31章6節には、

強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

と記されています。これは、モーセが約束の地に入ろうとしているイスラエルの民に向けて語った言葉です。また、8節には、イスラエルの民を約束の地に導き入れるヨシュアに対する、

主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。

という言葉が記されています。そして、ヨシュア記1章5節には、主がヨシュアに語られた、

わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

という言葉が記されています。
 ヘブル人への手紙13章5節では、

主ご自身がこう言われるのです。

と言われていますから、直接的には、主がヨシュアに語られた言葉を念頭に置いていると考えられます。ここで、

主ご自身がこう言われるのです。

と言われているときの「」は補足です。ここでは「ご自身が」が強調の言葉であり、強調の位置にあります。実際に、

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。

と言われたのは「主」ですから、「」を補って「主ご自身が」と訳しているわけです。大切なことは、それが主ご自身の約束の御言葉であるということです。

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。

という主の言葉には、否定を示す言葉が五つも出てきます。

わたしは決してあなたを離れず、

という言葉と、

あなたを捨てない。

という言葉のそれぞれに二つ(ウー、メー)ずつ、そして、二つの文をつなぐ言葉(ウーデ)も否定を表すことばです。それらは、互いに打ち消す否定ではなく、否定を積み上げて強調するものです。それを、生かして訳しますと、

わたしは決してあなたを離れないし、決してあなたを捨てることもない。

となります。
 この「離れる」という言葉(アニエーミ)は「放棄する」とか「放り出す」というようなことを表します。また、「捨てる」という言葉(エグカタレイポー)は「後に残す」とか「見捨てる」ということ、つまり、見捨てて行ってしまうことを表します。ここでは、決してそのようなことをしないと主が約束してくださっているのですが、それも、

わたしは決してあなたを放り出さない

というそれ自体に二つの否定語を連ねて「決してしない」ことを強要している言葉の上に、

わたしは決してあなたを見捨てない

という、やはりそれ自体に二つの否定語を連ねて「決してしない」ことを強要している言葉を積み上げる形で、さらに強調しているわけです。私たちの言葉では「絶対にそのようなことはしない」ということです。その真実において無限、永遠、不変の主ご自身が、絶対に私たちを途中で放り出したり、私たちを見捨てて行ってしまうことはしないと言っておられるのです。
 この約束に対する応答を記している6節を見てみましょう。そこには、

そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。
  「主は私の助け手です。私は恐れません。
  人間が、私に対して何ができましょう。」

と記されています。

  主は私の助け手です。私は恐れません。
  人間が、私に対して何ができましょう。

という言葉は、詩篇118篇6節に記されている、

  主は私の味方。私は恐れない。
  人は、私に何ができよう。

という告白の言葉の引用です。これは、10節で、

  すべての国々が私を取り囲んだ。

と言われているように、まことに厳しい状況におかれている中での主に対する信頼の告白です。まさにヘブル人への手紙の読者たちの置かれている状況に当てはまります。
 それでは、

  主は私の助け手です。私は恐れません。
  人間が、私に対して何ができましょう。

と告白しているヘブル人への手紙の読者たちの中に、主への信仰のゆえに投獄され、さまざまな苦しみにあっている人々がいることをどう考えたらいいのでしょうか。実際に、人間から迫害を受け、人間の手によってさまざまに苦しめられているのです。それでも、

人間が、私に対して何ができましょう。

と、本気で言えるのでしょうか。
 実は、このことにこそ、

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。

という主の約束のポイントがあります。
 この約束は[不定過去仮定法と二つの否定の言葉(ウー、メー)の組み合わせで表されていて]、将来にわたって決してそのようなことをしないということを表しています。
 このことと、これがもともとは、約束の地に入ろうとしているイスラエルの民や、特に、そのイスラエルの民を約束の地に導き入れようとしているヨシュアに語られた言葉であるということを考え合わせますと、一つのことが見えてきます。それは、神である主は私たちを御子イエス・キリストによって成し遂げてくださった贖いの御業にまったくあずからせてくださるようになるまでは、決して、私たちを途中で放り出されることはないし、決して、私たちを見捨てて行ってしまわれることはないということです。
 私たちはこのことに対して、

  主は私の助け手です。私は恐れません。
  人間が、私に対して何ができましょう。

と告白するのです。
 今日は復活節です、このことに合わせて言いますと、ヨハネの福音書6章39節、40節には、

わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

という、私たちの主イエス・キリストの言葉が記されています。主は、この御言葉に示された私たちの救いを完成してくださるまでは、決して、私たちを途中で放り出されることはないし、決して、私たちを見捨てて行ってしまわれることはありません。
 そして、私たちは、このような主の約束に保証されている望みの中に生きている者として、「兄弟愛」を深めるように招かれています。


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