死の極みからのよみがえり


説教日:2004年4月11日
聖書箇所:ヨハネの福音書19章28節〜37節


 今日は2004年の復活節(イースター)に当たります。
復活節には、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことを覚えます。そして、そのことに表わされている父なる神さまの愛とイエス・キリストの恵みを、感謝をもって受け止めます。
 イエス・キリストの死者の中からのよみがえりは、死んだと思われていた人が何らかのことで蘇生したということではありません。そればかりでなく、イエス・キリストは確かに死んだのだけれども、もう一度生き返ったということでもありません。今日はその点についてお話しします。
 もちろん、イエス・キリストは確かに十字架の上で死なれました。イエス・キリストが十字架に付けられた日のことを記しているヨハネの福音書19章31節〜34節には、

その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。

と記されています。
 十字架刑は、囚人の手首とくるぶしのところに大きな釘を打ち込んで十字架に付けるものです。そのために骨が砕ける痛みと、そこに全身の重さがかかることによる激痛があるわけです。しかし、それだけでなく、人は呼吸をするために足を踏ん張らなければならないのですが、その痛みのために足を踏ん張ることができませんので、十分な呼吸ができなくなります。そのことから、肺と心臓を中心とする内臓にさまざまな症状と深い痛みが生じてくると言われています。長い場合には、二日ほどそのような苦しい状態が続いて、死に至ると言われています。
 「すねを折る」ということは、大きな鉄の鎚で足の骨を打ち砕いてしまうことです。実際にそのようにされた遺骨も発見されているそうです。大きな鉄の鎚で足の骨を打ち砕くというようなことは聞くだけで恐ろしいことですが、十字架に付けられて苦しんでいる囚人にとっては、それ以上の苦しみからの解放を意味していました。すねを折られた囚人は、そのようにされたことのショックと出血があるだけでなく、まったく足を踏ん張ることができなくなって息ができなくなり、窒息して死んでしまいます。
 しかし、イエス・キリストは、その前に息を引き取られました。そのことは、囚人の処刑の際に死を確かめることでは「専門家」でもある、ローマの兵士たちが確かめました。確かめただけでなく、

兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。

と言われています。これは、死んでいるかどうかを確かめるためにぐっと槍で突いて、イエス・キリストが動くかどうかを見たということではありません。そこでは、

すると、ただちに血と水が出て来た。

と言われています。「血と水が出て来た」ことについては、その槍が肺にまで達したことを意味するという見解と、心臓にまで達したことを意味するという見解に分かれます。いずれにしても、その兵士は思いきり槍を突き立てたのです。それには悪意が込められています。その兵士はイエス・キリストへのさげすみの思いに駆られてそうしたのだと考えられます。そのさげすみの思いは、すでにイエス・キリストが十字架に付けられる前に兵士たちの間に見られたものです。その兵士は、メシヤであると主張したのに、結局何もできないで死んでしまったということに対するさげすみの思いを込めて、思いきり槍を突き刺したのでしょう。けれども、このことは、その兵士の思いを越えて、イエス・キリストが確かに死なれたということを示すことになりました。
 ですから、イエス・キリストは死んだように見えたけれども実際には死んでいなかったので、生き返ったということではありません。イエス・キリストは確かに死なれて後、よみがえられたのです。


 けれども、イエス・キリストの場合は、ただ単に一度死んだ者が生き返ったというだけのことではありません。それは、イエス・キリストの死が特別な意味をもっている死であったからです。
 34節では、

しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。

と言われていました。これは、今お話ししましたように、イエス・キリストが確かに死なれたことを意味しています。そのことは、このことばを読めばすぐに分かります。けれども、ヨハネはこれに続く35節に、

それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。

と記しています。これは、

しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。

ということが、とても大切な意味をもっているということを伝えているということを思わせます。それで、ヨハネは、このことには大切な意味があるということを伝えているのだと思われます。
 まず考えられることは、イエス・キリストは十字架に付けられて死んだ後においてもなお、さげすみを受けられたということです。そのこととともに、この「血と水」には象徴的な意味があると考えられます。そして、一般には、この「血と水」はどちらも「いのちときよめ」を象徴的に表わしていると考えられています。
 「」については、6章53節、54節に、

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」

と記されています。また、同じヨハネが記しているヨハネの手紙第一・1章7節には、

しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

と記されています。
 そして、「」については、ヨハネの福音書4章14節に、

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

と記されています。さらに、イエス・キリストの地上の生涯の最後の日の夜のことを記している13章3節〜5節には、

イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」シモン・ペテロは言った。「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」

と記されています。
 神さまは、ローマの兵士がさげすみに駆られてイエス・キリストのからだに思いきり槍を突き立てたことをお用いになって、イエス・キリストが十字架に付けられて死なれたことの意味を鮮やかにお示しになったのです。
 それにしても、なぜ囚人たちのすねを折らなければならなかったのでしょうか。それについては、

その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。

と言われています。それは、申命記21章22節、23節に、

もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。

と記されていることにしたがってのことです。つまり、イエス・キリストは、

木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。

という律法の規定通りに「神にのろわれた者」となられたのです。このことの意味について、ガラテヤ人への手紙3章13節には、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。

と記されています。
 イエス・キリストはご自身の罪のために死なれたのではありません。私たちの罪をその身に負って死なれたのです。コリント人への手紙第二・5章18節〜21節に、

これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

と記されているとおりです。また、そのことは、すでに預言者イザヤによって預言されていたところです。イザヤ書53章4節〜6節には、

  まことに、彼は私たちの病を負い、
  私たちの痛みをになった。
  だが、私たちは思った。
  彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
  しかし、彼は、
  私たちのそむきの罪のために刺し通され、
  私たちの咎のために砕かれた。
  彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
  彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
  私たちはみな、羊のようにさまよい、
  おのおの、自分かってな道に向かって行った。
  しかし、主は、私たちのすべての咎を
  彼に負わせた。

と記されています。
 このようにイエス・キリストの死は普通の死ではありませんでした。十字架に付けられて死んだということだけでも、それは普通の死ではなく、犯罪者に対する最も過酷な刑罰を加えられたことによる悲惨な死でした。そうではあっても、その当時、十字架に付けられて死んだ人々は他にもいました。実際、イエス・キリストの両脇には、ローマに反逆して暴動を起こしたと思われる強盗が十字架に付けられて処刑されました。
 しかし、似ているのはそこまでです。イエス・キリストが十字架に付けられたときのことを記しているマルコの福音書15章25節には、

彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。

と記されています。そして、33節、34節には、

さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

と記されています。イエス・キリストは、午前九時から十字架刑という人の手による最も残酷な刑罰の苦しみを味わっておられました。その苦しみを受けつつ、十二時からは、父なる神さまの御怒りによる刑罰をお受けになりました。それこそが、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきでした。これがどれほど恐ろしいものであるか、私たちは想像することもできません。
 前にお話ししたことがありますが、黙示録6章12節〜17節には、世の終わりに、そのさばきが執行される時になったことを予感した人々のことが記されています。そこでは、

私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

と言われています。
 これはまだやがて来たるべき御怒りに対する予感におののく姿ですが、イエス・キリストは十字架の上で神さまの聖なる御怒りによる私たちの罪へのさばきを余すところなくお受けになりました。それで、イエス・キリストの心も身体もそれに耐えきれなくなり、先ほど触れましたように、イエス・キリストは強盗たちよりもかなり早く息を引き取られたのであると考えられます。
 ヨハネの福音書19章28節〜30節には、イエス・キリストが息を引き取られた時のことが、

この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。

と記されています。
 この時イエス・キリストは、

わたしは渇く。

と言われました。照りつける太陽の下で十字架に付けられていたイエス・キリストの渇きは大変なものであったでしょう。それで、兵士たちはイエス・キリストのことばを聞いて、のどが渇いたと言っていると考えました。それに対して、ヨハネは、イエス・キリストがそのように言われたのは「聖書が成就するため」のことであったと述べています。これは旧約聖書のどこかから直接引用したことばではありませんが、新改訳の欄外引用にあります詩篇69篇21節を意識してのことであると思われます。そこには、

  彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、
  私が渇いたときには酢を飲ませました。

と記されています。

  彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、

というのは、食事をともにすることに触れています。食事をともにすることは、親しい交わりをもつことを意味しています。ですから、

  彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、

ということは、その親しい交わりをとおして喜びや慰めが与えられる時である食事において、「苦味」(ローシュ・「毒」という意味もある)を与えられたということで、親しい友に裏切られたことを表わしています。それと同じことを、並行法で、

  私が渇いたときには酢を飲ませました。

ということで表わしています。
 詩篇69篇21節に記されているダビデと考えられる詩人が経験した親しい友の裏切りは、地上で人が味わう最も屈辱的で苦しい経験の一つです。イエス・キリストは、それをご自身の十字架の死において最後まで味わわれました。ご自身が罪人たちを愛してその贖いのためにこの上ない苦しみを味わっておられるとき、罪人たちはその愛に応えるどころが、渇いた時には酢を飲ませました。

イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。

と記されているように、イエス・キリストはそのような屈辱的で苦しい経験をご自身のものとして味わわれて初めて、

完了した。

と言うことがおできになったということでしょう。
 いずれにしましても、イエス・キリストが十字架に付けられて死なれたことは、最後にイエス・キリストご自身が、

完了した。

と言われた、そのような意味をもった死でした。言い換えますと、このイエス・キリストの十字架の死は、父なる神さまから委ねられた使命を果たすための死であり、イエス・キリストは十字架にかかって死なれたことをとおしてその使命を果たされたのです。
 このように、イエス・キリストの死は父なる神さまから委ねられた使命を果たすための死でしたし、イエス・キリストはご自身の十字架の死をとおして、その使命をお果たしになりました。イエス・キリストの死者の中からのよみがえりは、このような意味をもった死を死なれた方としてのよみがえりです。具体的には、私たちの罪と咎をすべてその身に負ってくださって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになって死なれたことからのよみがえりです。
 それは、イエス・キリストが十字架の死に至るまで、父なる神さまのみこころに従いとおし、委ねられた使命を実現されたことに対する報いであり、父なる神さまの承認のしるしでもあります。ピリピ人への手紙2章6節〜11節に、

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

と記されているとおりです。
 イエス・キリストは私たちの罪と咎をすべてその身に負ってくださって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになって死なれました。これによって私たちの罪はまったく贖われています。さらに、イエス・キリストは、そのような死を死なれた方としてよみがえられました。そのような徹底的なさばきによってもたらされた死は、死の極みとも言うべき死ですが、イエス・キリストはそのような死の力を打ち破ってよみがえられたのです。
 このようにしてよみがえられたイエス・キリストにあっては、もはや死の影はないばかりか、死の可能性もまったく取り去られています。それは、積極的には、イエス・キリストが栄光あるいのち、復活のいのちを私たちのために獲得してくださってよみがえられたということを意味しています。私たちはこの死の極みとも言うべき死を打ち破ってよみがえられたイエス・キリストのうちにあります。
 ローマ人への手紙6章9節、10節には、

キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。

と記されています。これは、言うまでもなく、私たちがイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって古い自分に死んで、新しい自分に生きるようになるためであることを述べている中で語られたみことばです。これを4節からのつながりで読んでみましょう。そこには、

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。

と記されています。


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