死者に語りかけられる主


説教日:2003年4月20日
聖書箇所:ヨハネの福音書11章1節〜44節


 きょうは2003年の復活節です。これまで、もう10年ほどになるでしょうか、復活節においては、ヨハネの福音書11章1節〜44節に記されているイエス・キリストがベタニヤのマルタとマリヤの兄弟ラザロをよみがえらせてくださったことについてお話ししてきました。きょうもそのお話を続けます。これまで何回かにわたって1節〜40節に記されていることをお話ししてきました。きょうは、最後の部分である41節〜44節に記されている、

そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

ということについてお話ししたいと思います。
 お話としては1年ぶりだからということもありますが、改めて、必要な補足を加えながら全体的なことをお話しいたします。これによって、きょう取り上げる最後の部分を全体的な視野の中で見ることができるようになると思います。
 1節〜3節には、

さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

と記されています。
 これに先立つ10章39節、40節に、

そこで、彼らはまたイエスを捕えようとした。しかし、イエスは彼らの手からのがれられた。そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。

と記されていますように、ラザロが重い病気になった時、イエス・キリストは迫害の手を逃れてヨルダン川の川向こうに滞在しておられました。マルタとマリヤは、そのイエス・キリストのもとに使いを遣わして、ラザロが病気であることを知らせました。
 11章4節には、

イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」。

と記されています。ここに記されているイエス・キリストのことばが、この時に起こったことの意味をまとめています。新改訳では、最初の部分は、

この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。

と訳されています。しかし、原文には「だけ」ということばはありません。それでこれは、

この病気は死で終わるものではなく

となります。これに「だけ」ということばが加えられて

この病気は死で終わるだけのものではなく

となっているのは、おそらく、実際にラザロは死んでしまったということを踏まえて、そのこととの調和を図ったからでしょう。けれども、ここに記されているイエス・キリストのことばは、そのような調和を図っていません。
 この「死で終わる」ということば(プロス・サナトン)は、有名なキルケゴールの『死に至る病』の「死に至る」に当たることばです。「死に至るものではない」ということは普通ですと致命的なものではないという意味になりますが、実際にはこの病気は致命的なものでした。それで、これは最終的な目的を表わしていると考えられます。
 病気は、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことへのさばきとしての意味をもっています。それは、罪に対するさばきによって、いのちの源であられる主との交わりを絶たれてしまっているために、死の力に捕えられてしまっている人間の現実を思い起こさせるものです。その意味では、病気は死に向かうという方向性をもっています。しかし、このラザロの病気からは、「死に向かうものである」という性格が取り除かれているというのです。
 そして、これとの対比で、

神の栄光のためのものです。

と言われています。そして、さらに、

神の子がそれによって栄光を受けるためです。

ということばが加えられています。
 言うまでもなく、「神の子」(定冠詞付きの単数)は「神の御子」で、イエス・キリストのことです。この「栄光を受ける」ということは、「栄光を現わす」ということば(ドクサゾー)の受動態で表わされていて、特にヨハネの福音書の文脈では、御子イエス・キリストの栄光が現わされ、啓示されるようになることを意味しています。このことは、ラザロの病気をとおして、1章14節で、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と言われている、イエス・キリストの恵みとまことに満ちている栄光が啓示されるようになることを意味しています。言うまでもないことですが、イエス・キリストの恵みとまことに満ちている栄光というのは、イエス・キリストが私たちの罪を贖ってくださるために十字架にかかって死んでくださったことと、私たちを復活のいのちによって生かしてくださるために死者の中からよみがえってくださったことをとおして現わされる栄光のことです。
          *
 このこととの関連で、二つのことに注意しておきたいと思います。
 一つは、このラザロの病気には、このように、神さまの確かな目的があったということです。けれども、それは人の目からは隠されています。
 ラザロが病気になったのには原因がありました。それは、具体的なことは記されていませんので分かりませんが、私たちが経験するのと同じように、細菌などの感染によって生じたことであるはずです。マルタとマリヤにとっては、自分の兄弟が高熱を出して苦しむようになってしまい、どのような手を尽くしてもだめな状態になってしまったということです。それには、さらに深い原因があります。この世界に病気があるのは、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまったために下されているさばきの結果です。それは、病気にかかった人が他の病気にかからなかった人より罪が深いという意味ではありません。また、病気にかからない人の方が神さまから愛されているという意味でもありません。実際、5節で、

イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

と言われているように、この不幸は、イエス・キリストから愛されている兄弟と姉妹たちに起こりました。
 しかし、これですべてなのではありません。これらのことすべてを越えて、御子イエス・キリストにあって、神さまのみこころが働いているのです。そして、それは、これらの悲しむべきことをとおして、また、これらの悲しむべきことのまっただ中において、神さまの栄光が現わされるようになるという最終的な目的をもっています。そして、このことはラザロの場合だけのことではありません。ラザロの病気と死をとおして現わされた神さまの栄光はまた、私たちすべてをとおして現わされる栄光でもあります。
 ここで注意すべきもう一つのことは、このように私たち神の子どもたちの生涯をとおして、最終的には神さまの栄光が現わされるようになりますが、その栄光は、神の御子イエス・キリストの恵みとまことに満ちた栄光が現わされることをとおして現わされるということです。
 すでに色々な機会にお話ししてきましたが、テモテへの手紙第一・6章15節、16節には、

神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。

と記されています。ちょうど私たちは肉眼で太陽を直接見ることができないように、私たちは神さまの無限、永遠、不変の栄光をありのままに見ることはできません。私たちは、私たちが知ることができるように示された神さまの栄光を知ることができるだけです。そして、その神さまの栄光は、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と言われている御子イエス・キリストをとおして私たちに啓示されています。私たちは、御子イエス・キリストをとおして啓示された恵みとまことに満ちた栄光を知ることによってだけ、神さまの栄光を知ることができます。
 このことは、11章40節に記されている、

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。

というイエス・キリストのことばにも当てはまります。このラザロの病気と死をとおして現わされる神さまの栄光は、御子イエス・キリストをとおして現わされる恵みとまことに満ちた栄光です。そして、ラザロの病気と死をとおしてだけでなく、私たちが経験するさまざまな悲しみと苦しみの中に現わされる神さまの栄光も、御子イエス・キリストをとおして現わされる恵みとまことに満ちた栄光です。そして、これこそが父なる神さまの栄光の啓示に他なりません。
 この御子イエス・キリストをとおして現わされた恵みとまことに満ちた栄光は、イエス・キリストが十字架にかかって死なれたことにこの上なくはっきりと現わされています。それは、栄光の主がご自身の民のためにいのちをお捨てになったことに現わされている栄光です。ですから恵みとまことに満ちた栄光は、血肉の力をと栄華を積み上げて人の上に立ち、人を圧倒し押さえつける、この世の栄光とは本質的に違っています。恵みとまことに満ちた栄光は、栄光の主が、罪が猛威を振るっているこの世界に降りてこられて、ご自身の民の苦しみと悲しみと痛みをご自身のこととして味わわれ、その根本的な原因である罪を贖うために、ご自身のいのちをお捨てになったことにある栄光です。
 もし私たちがこの恵みとまことに満ちた栄光を知らないなら、父なる神さまの栄光を知ったとは言えません。もし私たちがこの恵みとまことに満ちた栄光によって生かされることがなければ、そして、これを生活の中に映し出すことがなければ、父なる神さまの栄光を現わしたと言うことができません。
          *
 5節では、

イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

と言われています。それで、私たちは、イエス・キリストは一刻も早く病気で苦しんでいるラザロと、心配しているマルタとマリヤのところに駆けつけるはずだと考えます。しかし、6節には、

そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた

と記されています。イエス・キリストはベタニヤからの使いが到着してからなお2日の間そこに留まっておられました。これには理由があったと考えられます。
 17節では、

それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。

と言われています。ベタニヤからイエス・キリストがおられた所までは、徒歩で1日の道のりでしたから、使い者のたちが来るのに1日かかり、イエス・キリストと弟子たちがベタニヤに行くのに1日かかります。そして、イエス・キリストが知らせをお聞きになってからヨルダンの川向こうに留まっておられた2日と合わせると4日です。ですから、使いが出発して間もなく、ラザロは死んでしまったのです。
 イエス・キリストが、知らせを聞いてなおも2日間、ヨルダンの川向こうに留まっておられて、4日目にベタニヤに来られたのは、その当時、死者のたましいは、その人が死んだ後も3日間その人のからだに入ろうとして、その人の回りをさまよっているが、からだが腐り始めるとそこを離れてしまうという考え方があったこととかかわっていると思われます。39節に記されているように、マルタは、

主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。

と言っています。イエス・キリストがベタニヤに来たときには、ラザロのからだはすでに腐敗が始まっていました。これによって、この時イエス・キリストがラザロをよみがえらせたのは、ただ単にラザロのたましいを元に返したのではないことが示されるようになります。この点については、後ほど改めてお話しします。
          *
 ベタニヤに戻ってこられたイエス・キリストを、最初に出迎えたのはマルタでした。21節〜27節には、

マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

と記されています。
 この時イエス・キリストがマルタに語られた、

わたしは、よみがえりです。いのちです。

ということばは、ギリシャ語では、エゴー・エイミ ・・・・ という強調の現在形で始まるものです。これには、以前お話ししたことですが、旧約聖書の背景があります。
 出エジプト記3章14節には、神さまがモーセに啓示してくださったご自身の御名が記されています。それは、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

というものでした。これはヘブル語で記されていますが、ギリシャ語に訳しますと、先ほどのエゴー・エイミ ・・・・ という強調の現在形で表わされることになります。それで、

わたしは、よみがえりです。いのちです。

というイエス・キリストの言葉は、イエス・キリストが

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる契約の神である主、ヤハウェであられることを示すものです。そして、この、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名は、この方が永遠に在る方、何ものにも依存しないでご自身で在る方、すなわち独立自存で在る方、永遠に変わることなく在る方であられることなどを表わしていると考えられます。このことは、ご自身のことを、

わたしは、よみがえりです。いのちです。

と言って示してくださったイエス・キリストが、ヨハネの福音書の冒頭の1章1節〜3節において、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と紹介されている永遠の「ことば」であられるということを思い起こさせます。
 しかも、この、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名は、主が贖いの御業を遂行なさるに当たってご自身の民に啓示してくださった御名です。それで、主が、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる方であるということが、ご自身の民にとって意味をもっているということを示しています。そして、それは、人間の世界の歴史が移り変わり、どのように事情が変わってしまっても、主はご自身の契約をとおして約束してくださったことを必ず成し遂げてくださるということを意味しています。
 この場合には、すでにラザロが死んでから4日たって、そのからだも腐敗し始めているという状況になっても、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる方であるイエス・キリストは、

わたしは、よみがえりです。いのちです。

という意味をもった方として、深い悲しみの中にあるマルタとマリヤとともにいてくださり、死んでしまっているラザロとともにいてくださるということを意味しています。そして、そのことのゆえに、

この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。

と言われているのです。

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる方であるイエス・キリストが、

わたしは、よみがえりです。いのちです。

という意味をもった方としてともにいてくださるので、マルタもマリヤも、ラザロも、さらには私たちも、イエス・キリストとの関わりでよみがえりにあずかり、永遠のいのちを持つようになります。そのことが、イエス・キリストの、

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。

ということばに示されています。
          *
 マルタに続いて、マルタから知らせを受けたマリヤがイエス・キリストのみもとに来ました。32節〜35節には、

マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」イエスは涙を流された。

と記されています。
 ここで、イエス・キリストが「霊の憤りを覚え」られたというのは、非常に激しい憤りを覚えられたということを示しています。それは、そこにいた人々に対する憤りではなく、本来は、このような悲しいことが起こってはならないのに、それが起こるということ、そして、実際に、それが起こってしまっていることに対する憤りです。
 そして、「心の動揺を感じ」られたというときの「動揺を感じ」ということば(タラッソー)は、12章27節で、イエス・キリストが十字架の死を目前にして、

今わたしの心は騒いでいる。

と言われたときの「騒いでいる」ということばと同じことばで表わされています。イエス・キリストは、この時、ご自身の十字架の死を前にしてお感じになったのと同じような深い苦しみと悲しみを感じられたのです。それは、ご自身が愛しておられたラザロが死んでしまったことの悲しみと、兄弟であるラザロを失ってしまったマリヤと彼女とともにいる人々の悲しみの深さをご自身のこととして受け止められてのことでした。そして、イエス・キリストは、そのような深い苦しみと悲しみの中で涙を流されました。
 イエス・キリストは空しく涙を流されたのではありません。これによって、イエス・キリストは、何としてでもこのような悲惨を取り除こうという決意を新たにされたと考えられます。そして、このような涙をもって、私たちのさまざまな悲惨の根本的な原因である罪を贖うために、父なる神さまのみこころにしたがって十字架におつきになる道を進んでくださったのです。
 先ほど、神さまの栄光は御子イエス・キリストの恵みとまことに満ちた栄光をとおして私たちにあかしされているということをお話ししました。聖書では、このイエス・キリストの栄光は、特に、イエス・キリストの十字架の死をとおして現わされたと、繰り返しあかしされています。それは、これまでお話ししてきたことに合わせて言いますと、私たちがこの罪の力が猛威を振るっている世で深い悲しみと苦しみを味わうときに、イエス・キリストが私たちとともにいてくださって、私たちの苦しみと悲しみをご自身のこととしてくださることに現わされている栄光です。そして、そのことがもたらす涙をご自身のものとされて、私たちの罪を贖ってくださるために、父なる神さまのみこころにしたがって十字架にかかられたことに現わされた栄光です。それこそが、御子イエス・キリストをとおして現わされた父なる神さまの栄光です。
          *
 39節、40節に、

イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

と記されているやり取りがあってから、41節には、

そこで、彼らは石を取りのけた。

と記されています。昨年お話ししましたように、これはイエス・キリストが墓の中に入っていくためのことではなく、死んでしまったラザロが墓の中から出てくるためのことでした。
 そこでイエス・キリストは、

父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。

と言って、父なる神さまにお祈りになりました。これは、すでにお話ししましたように、イエス・キリストが、

この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。

と言われたことを受けています。
 ここでイエス・キリストがラザロをよみがえらせたことは、父なる神さまのみこころにしたがってのことでした。それは、父なる神さまが御子イエス・キリストの恵みとまことに満ちた栄光を現わしてくださることであり、それによって、神さまの栄光が現わされるためなのです。繰り返しになりますが、御子イエス・キリストの恵みとまことに満ちた栄光は、この世にある私たちの悲しみと苦しみのまっただ中において現わされるものです。そして、神さまはそのことをとおしてご自身の栄光を現わしてくださるのです。
 ここでイエス・キリストは、

父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。

と言っておられます。イエス・キリストはこれより前に父なる神さまに祈っておられ、父なる神さまはその祈りをお聞きになっておられます。それがいつのことだったのかという疑問が残ります。それは、ベタニヤからの使いの者たちからラザロの病気のことをお聞きになったイエス・キリストが、

この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。

と言われた時には、すでになされていたと考えられます。
 6章38節〜40節には、

わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

というイエス・キリストのことばが記されています。
 イエス・キリストがご自身の十字架の死をとおして成し遂げられた贖いに基づいて、終わりの日に私たちを栄光のうちによみがえらせてくださるのは、父なる神さまのみこころによることです。ラザロの墓の前でイエス・キリストが祈られた祈りによって、この時もイエス・キリストは父なる神さまのみこころを行なっておられることが示されています。
          *
 11章43節、44節には、

そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

と記されています。
 これは、5章25節に、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。

と記されているイエス・キリストのことばを思い起こさせます。これは、

今がその時です。

ということばが示しているように、その時すでに始まっていたことです。イエス・キリストによって語られた福音のみことばを聞いて、そこにあかしされているイエス・キリストを信じる者は、みな生きるようになります。ラザロがイエス・キリストの御声を聞いて墓から出て来たことは、この、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。

というイエス・キリストの教えを象徴的に示している出来事でした。
 そればかりでなく、その出来事は、続く5章28節、29節に、

このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。

と記されている、世の終わりにイエス・キリストが再臨される日の、救いとさばきの時に起こるべきことを象徴的に示している出来事でもありました。
 このように、ラザロがイエス・キリストの御声を聞いて墓から出て来たことは、私たちの思いを、世の終わりのイエス・キリストの再臨の日の救いの完成に向ける出来事です。
 それと同時に、私たちは、死んでいたラザロに向かって、

ラザロよ。出て来なさい。

と言われた方は、ご自身のことを、

わたしは、よみがえりです。いのちです。

として示してくださった方であることを思い起こします。そして、この方は、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる方であり、この福音書の冒頭において、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と紹介されている永遠の「ことば」であられます。
 この時のラザロのからだは、マルタが、

主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。

と言うとおり、腐敗が始まっていて、取り返しがつかない状態になっておりました。ですから、イエス・キリストが、

ラザロよ。出て来なさい。

と言われた時に、ラザロのからだは新しく造り変えられています。もちろん、それは元のラザロのからだに造り変えられたということですが、その腐敗し始めているからだに、

すべてのものは、この方によって造られた。

とあかしされている方の御手が及んで、新しく造り直されたことは確かです。
 ですから、ここでは、天地創造の初めに、

光よ。あれ。

というみことばを初めとする一連のみことばによってこの世界とその中のすべてのものをお造りになった方が、その創造の御業を遂行なさったみばをもって、

ラザロよ。出て来なさい。

と呼びかけられたのです。そればかりでなく、

わたしは、よみがえりです。いのちです。

という方として贖いの御業を遂行なさる方が、そのみことばをもって、

ラザロよ。出て来なさい。

と呼びかけられたのです。
 最後に、このことを覚えて、ピリピ人への手紙3章20節、21節に記されているみことばをお読みいたします。

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。


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