死は無力にされて


説教日:2002年3月31日
聖書箇所:ヨハネの福音書11章1節〜44節


 今日は2002年度の復活節です。今年も、ヨハネの福音書11章1節〜44節に記されている、イエス・キリストがベタニヤ村のマルタとマリヤの兄弟ラザロを、死者の中からよみがえらせてくださったことについてお話しします。
 昨年は、30節〜37節に記されていることを中心として、イエス・キリストが、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」られたことと「涙を流された」ことについてお話ししました。今日は、そのことを受け継いでお話を続けます。
 まず、この出来事の全体的な流れをまとめておきましょう。
 ラザロが重い病気になった時、マルタとマリヤは、その時ヨルダン川の川向こうにおられたイエス・キリストのもとに使いを遣わして、ラザロの病気のことを知らせました。しかし、イエス・キリストは、使いが到着してから、なお二日の間そこに留まっておられました。そして、二日の後に、ベタニヤに向けて旅立たれました。
 ベタニヤからイエス・キリストがおられた所までは、徒歩で一日の道のりでしたから、使いは一日かけてイエス・キリストのところに来て、ラザロの病気を告げました。イエス・キリストは、その二日の後にベタニヤに向かって出発し、一日かけてベタニヤに着きました。使いがベタニヤを出てから、四日が過ぎています。そして、17節では、

それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。

と言われています。ですから、使いが出発して間もなく、ラザロは死んでしまったのです。
 イエス・キリストが、知らせを聞いてなおも二日間、ヨルダンの川向こうに留まっておられて、四日目にベタニヤに来られたのは、その当時、死者の魂はその人が死んだ後も、三日間その人のからだに入ろうとして、その人の回りをさまよっているが、からだが腐り始めるとそこを離れてしまうという考え方があったこととかかわっていると思われます。
 最初にイエス・キリストを出迎えたのはマルタでした。21節〜27節には、

マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

と記されています。
 次に、マルタから知らせを受けたマリヤがイエス・キリストのみもとに来ました。32節〜35節には、

マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」イエスは涙を流された。

と記されています。
 昨年詳しくお話ししましたので、結論的なことだけをお話ししますが、ここで、イエス・キリストが「霊の憤りを覚え」られたというのは、非常に激しい憤りを覚えられたということです。それは、そこにいた人々に対する憤りではなく、本来は、このような悲しいことが起こってはならないのに、それが起こるということ、そして、実際に、それが起こってしまっていることに対する憤りです。
 そして、「心の動揺を感じ」られたというときの「動揺を感じ」という言葉(タラッソー)は、12章27節で、イエス・キリストが、ご自身の十字架の死が目前に迫っていることをお感じになって、

今わたしの心は騒いでいる。

と言われたときの「騒いでいる」と同じ言葉で表わされています。しかも、後ほど触れますが、イエス・キリストが十字架の死が目前に迫ってきていることをお感じになったのは、イエス・キリストがラザロを死者の中からよみがえらせてくださったこととかかわっています。ですから、イエス・キリストは、この時、ご自身の十字架の死が目前に迫っていることをお感じになった時の深い苦悩と悲しみと比べられるような苦しみと悲しみを感じられたのです。
 イエス・キリストは、そのような深い苦しみと悲しみの中で涙を流されました。それは、ご自身が愛しておられたラザロが死んでしまったことの悲しみと、兄弟であるラザロを失ってしまったマリヤと彼女とともにいる人々の悲しみの深さをご自身のこととして受け止められてのことでした。
 ここに、内側の激しい思いを表わす言葉を連ねて、イエス・キリストが「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」られたということを記が記されており、「涙を流された」ことが記されているのは、このことが重い意味をもっていたからです。それで、この時、イエス・キリストが、むなしく「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」て「涙を流された」とは思われません。また、それは、一時的な激情というようなものであったとも思われません。イエス・キリストは、これによって、何としてでも、このような悲惨を取り除こうという決意を新たにされたと考えられます。それは、私たち人間のさまざまな悲惨の根本的な原因である罪を贖うために十字架にかかって、私たちの罪ののろいをご自身の身に負ってくださるという、父なる神さまから委ねられている贖いの御業を成し遂げてくださることを改めて決意させるものだったはずです。
          *
 先ほど一部を引用しました12章27節には、

今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。「父よ。この時からわたしをお救いください。」と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。

という、イエス・キリストの言葉が記されています。これは、十字架の死が目前に迫ってきていることをお感じになって言われたものです。
 ヨハネの福音書の記事の流れでは、この時、イエス・キリストが十字架の死が目前に迫ってきていることを感じ取られたことは、イエス・キリストがラザロを死者の中からよみがえらせてくださったことと深くかかわっていることが示されています。これに先立つ17節〜19節に、

イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。そのために群衆もイエスを出迎えた。イエスがこれらのしるしを行なわれたことを聞いたからである。そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」

と記されています。これによって、すでに取り決められていたイエス・キリストを殺すための計画が決定的なものになったのです。
 そのような厳しい状況の中で、イエス・キリストは、

今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。「父よ。この時からわたしをお救いください。」と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。

と言われました。この言葉には、私たちの身代わりとなって私たちの罪に対する刑罰をすべて負ってくださろうとしておられるイエス・キリストの苦しみの深さが、率直に述べられています。
 イエス・キリストが負ってくださろうとしておられる刑罰は、十字架という想像を絶する肉体的な苦痛だけではありません。永遠に父なる神さまとの愛の交わりの中にある神の御子であられる方が、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りをすべて味わわれるということです。それは、地獄の刑罰の苦しみをすべて味わい尽くされるということです。イエス・キリストは、そのことの恐ろしさと悲しさの中で、

今わたしの心は騒いでいる。

と言われたのです。この言葉によって表わされている、父なる神さまとの交わりを絶たれて、聖なる御怒りの下におかれてしまう苦しみと悲しみは、イエス・キリストにとっては、絶対に避けたいことでした。
 その一方で、イエス・キリストは、ラザロの死によってもたらされた悲しみを深く感じ、マリヤを初めとする人々の悲しみを目の当たりにして、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」て「涙を流され」ました。これは、私たちが自らの罪のために刈り取らなければならない悲惨を、ご自身のこととして感じ取ってくださったための苦しみと悲しみでした。それは、ご自身を十字架へと押し出す苦しみと悲しみでした。
 ですから、同じ言葉で表わされている二つの苦しみと悲しみが、前後してイエス・キリストを襲い、イエス・キリストはその間で引き裂かれていました。それは、

何と言おうか。「父よ。この時からわたしをお救いください。」と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。

という言葉に表わされています。そのような中で、イエス・キリストは、私たちに代わって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りをお受けになることの方をを願われました。
 さらに、

父よ。御名の栄光を現わしてください。

という言葉によって、私たちを贖ってくださり、神さまのものとしてくださるために、イエス・キリストが私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りをお受けになることをとおして、父なる神さまの御名の栄光が現わされるということが示されています。そのことのうちに、私たちに対する、父なる神さまの愛と、御子イエス・キリストの恵みが、この上なく豊かに表わされるからです。
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 これらのことを念頭において、11章38節〜40節を見てみましょう。そこには、

そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

と記されています。
 ラザロの葬られた墓について、

墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。

と言われています。それは、その当時のユダヤ社会における墓の様式を示しています。自然の「ほら穴」が墓として使われる場合もありましたし、縦や横に「ほら穴」を掘る場合もありました。当然、そこは、死体を運び込んで安置するために、人が入ることができるようになっていました。そして、埋葬した後は、その入口を大きな石で塞ぎました。
 イエス・キリストは、

その石を取りのけなさい。

と言われました。普通ですと、これは、人がその中に入るためのことであると考えます。マルタも、イエス・キリストがラザロの死体を見るために、あるいは、ラザロに対して何かをなさるために、墓の中に入ろうとしておられると考えたようです。それで、

主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。

と言いました。しかし、それは、44節に、

すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。

と記されていることから分かりますように、ラザロが出てくるために必要なことでした。ここでは、「ラザロが」ではなく「死んでいた人が」と言われています。「死んでいた人が ・・・・ 出て来た」ということが大切だったのです。
 ですから、

その石を取りのけなさい。

というイエス・キリストの言葉は、本来は、

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。

と言われた方の言葉として、希望と期待をもって受け止めるべき言葉でした。しかし、

このことを信じますか。

と問いかけられて、

はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。

と答えたマルタも、そのイエス・キリストの言葉を理解していませんでした。そのために、

その石を取りのけなさい。

というイエス・キリストの言葉に、何の希望と期待を抱くこともありませんでした。むしろ、

主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。

と言って、もはやどうすることもできないという、あきらめの気持ちを表わしています。
 もちろん、それは、マルタが特別に不信仰だったからではありません。人が死んでそのからだが腐敗し始めているという状態になっては、もはやどうすることもできないということは、誰もが当然のことと考えていることです。死者の魂はその人の死後三日間はからだに入ろうとして、その人の回りをさまよっているが、からだが腐り始めると、そこを離れてしまうという考え方も、そのことを反映しています。
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 イエス・キリストは、マルタに、

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。

と言われました。
 これは、すでに、イエス・キリストがマルタに語っておられた、

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

という言葉にマルタの心を向けさせてくださったものです。同時に、これは、マルタが、そのイエス・キリストの言葉を信じていなかったことを意味しています。
 確かに、マルタは、イエス・キリストに、

はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。

と答えています。しかし、真にイエス・キリストの言葉を理解して、信じたのではありませんでした。自分自身の考えにしたがってイエス・キリストの言葉を受け止めただけだったのです。自分の考えと発想の枠があって、イエス・キリストの言葉をその枠の中で受け止めたのです。
 どういうことかといいますと、イエス・キリストが、

あなたの兄弟はよみがえります。

と言われたときに、マルタは、

私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。

と答えました。これは、その当時の人々の一般的な考え方です。世の終わりには「よみがえりの時」があって、神さまを信じている者は、よみがえるようになるということです。
 マルタは、世の終わりの「よみがえりの時」というはるか遠くのことに漠然とした望みをおいています。「よみがえりの時」という歴史のプログラムがあって、その時になれば、神さまを信じていた者はよみがえるということです。
 これに対して、イエス・キリストは、マルタに、

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。

と言われました。
 この、

わたしは、よみがえりです。いのちです。

という言葉の「わたしは ・・・・ です」は、強調形です。それで、この部分は、

わたしが、よみがえりであり、いのちなのです。

と訳すことができます。また、これは単なる強調形ではなく、出エジプト記3章14節に記されている、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という契約の神である主の御名を思い起こさせるものです。それで、この、

わたしは、よみがえりです。いのちです。

ということは、この世界が時ともに移り変わっていっても、イエス・キリストは時を超えておられ、歴史を支配しておられる主として、決して変わりたもうことがない方であられることに基づいていることを意味しています。
 イエス・キリストは、

わたしが、よみがえりであり、いのちなのです。

と言われて、マルタの心を、世の終わりの「よみがえりの時」から、ご自身に向けさせておられます。そして、ご自身を信じるように促しておられます。復活の土台と望みは、「よみがえりの時」にあるのではなく、

わたしが、よみがえりであり、いのちなのです。

と言われるイエス・キリストご自身にあります。今、マルタの目の前におられるイエス・キリストが、

わたしが、よみがえりであり、いのちなのです。

という方であり、その方がここにおられるということが、決定的な意味をもっています。そして、この方を信じ、信頼することが、決定的に大切なことです。
 しかし、マルタは、そのことを理解していませんでした。

はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。

というマルタの答えは、イエス・キリストが世の終わりの「よみがえりの時」に神さまを信じている者をよみがえらせる働きを委ねられた「神の子キリスト」であると信じているという意味でしょう。彼女にとって、なお、その中心は世の終わりの「よみがえりの時」にあります。その時にならなければ、イエス・キリストが、「よみがえりであり、いのち」であられることは意味をもたないということになってしまいます。
 それで、イエス・キリストは、ご自身が、この時すでに、

わたしが、よみがえりであり、いのちなのです。

という方であられることを、ラザロを死者の中からよみがえらせてくださる御業をもって、あかししてくださいました。ラザロを死者の中からよみがえらせてくださったことは、

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

というイエス・キリストの御言葉を確証してくださるためのことでした。
          *
 イエス・キリストが、

わたしが、よみがえりであり、いのちなのです。

という方であるということは、ご自身が、私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださったことに基づいています。すでにお話ししましたように、イエス・キリストは、十字架という想像を絶する肉体的な苦痛だけでなく、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りをすべて味わってくださいました。それは、何としてでも、私たちの悲惨を取り除いてくださろうとしたイエス・キリストご自身が選び取られたことです。
 ラザロは肉体的に死にました。この時、死者の中からよみがえりましたが、やがてまた死にました。しかし、イエス・キリストは、ただ肉体的に死んだだけではありません。肉体的な死という点でも、十字架の死の苦しみを味わわれましたが、さらに、私たちの罪に対するさばきとしての父なる神さまの御怒りを、すべて、その身に負ってくださいました。ラザロが受けなければならなかった、ラザロの罪に対するさばきもお受けになりました。それによって、ラザロは自分の罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けることはなくなりました。
 そればかりでなく、イエス・キリストは、その罪の贖いを成し遂げてくださった後に、栄光をお受けになって、死者の中からよみがえってくださいました。それは、この時のラザロのように、肉体の死からのよみがえりであるだけではありません。私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになるという「最終的な死」あるいは「地獄の死」からよみがえられたのです。それは、イエス・キリストが、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきとしての「最終的な死」あるいは「地獄の死」をすべて味われたことによって、それを無力なものとされたということです。
 コリント人への手紙第一・15章54節、55節には、

しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」

と記されています。これは、世の終わりの「よみがえりの時」に最終的に、主の民の現実となることです。ラザロも私たちも、これにあずかることになります。しかし、このことは、イエス・キリストにあっては、すでに歴史の現実となっています。そして、そうであるから、世の終わりの「よみがえりの時」に最終的に実現するのです。
          *
 このように、イエス・キリストが、

わたしが、よみがえりであり、いのちなのです。

と言われたのは、イエス・キリストがこのような「最終的な死」あるいは「地獄の死」を経験され、その死の力を無効にされたことのあかしとして、死者の中からよみがえってくださったことに基づいています。
 もちろん、イエス・キリストがマルタに、

わたしが、よみがえりであり、いのちなのです。

と言われた時、そして、ラザロをよみがえらせて、イエス・キリストがそのような方であることをあかししてくださった時には、まだ、イエス・キリストは十字架にかかっておられませんでしたし、死者の中からよみがえっておられませんでした。しかし、イエス・キリストが十字架にかかられることと、その結果、死者の中からよみがえられることは、父なる神さまのみこころであり、イエス・キリストのご意志でもありました。それで、これは、すでに起こっているのと同じような確かさをもっていました。
 墓の入口を塞いでいた石は、この時まで、死んだ者を生きている者から断絶して、真っ暗やみの中に閉じ込める役割を果たしていました。しかし、

わたしが、よみがえりであり、いのちなのです。

という方が、

その石を取りのけなさい。

と言われた時に、死者を閉じ込めていた墓の入口は、「死んでいた者」が生きて出てくるための出口としての意味をもつようになりました。「死んでいた者」の側から見れば、生きることへの入口となりました。再び、イエス・キリストを中心とする、愛する者たちとの交わりに生きるようになることへの入口となったのです。
 これは象徴的なことです。
 イエス・キリストは、十字架にかかって死んでくださって罪の贖いを成し遂げてくださり、死者の中からよみがえってくださったことによって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきとしての「最終的な死」あるいは「地獄の死」を無力なものとしてくださいました。
 このことに基づいて、パウロは、ピリピ人への手紙1章21節〜23節で、

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。

と告白しています。

私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。

と言われていますように、イエス・キリストを信じる者にとって、肉体的な死は、「よみがえりであり、いのち」であられるイエス・キリストと、もっと近くあるようになることへの入口になったのです。


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