今日は、2001年の復活節(イースター)に当たります。今年も、これまで数回取り上げてお話ししてきました、ヨハネの福音書11章1節〜44節に記されている記事からお話ししたいと思います。
昨年は、30節〜38節の前半に当たる、30節〜32節に記されていることから、一つのことをお話ししました。今日は、それに続く、33節〜38節に記されていることを取り上げてお話ししたいと思います。
30節から見ますと、そこには、
さてイエスは、まだ村にはいらないで、マルタが出迎えた場所におられた。マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」イエスは涙を流された。そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
と記されています。
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今日取り上げます33節〜38節に記されていることは解釈がとても難しく、注解者たちの意見も分かれています。その問題の中心は、33節で、
そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
と言われていることを、どのように理解するかということです。ちなみに、最後の、
霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて
と訳されている部分は(従属節ではなく)それとして独立しています。それで、ここでは、マリヤと、マリヤとともにいるユダヤ人たちが泣いているのをご覧になったイエス・キリストが、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」たということを、それとして伝えています。
これに対して、本当に、イエス・キリストは「霊の憤りを覚え」られたのか、そうであれば、いったい、何に憤られたのだろうか、というような疑問が出てきます。
まず、状況のことですが、33節では、マリヤと、マリヤと一緒にいたユダヤ人たちが「泣いていた」と言われています。これは、声を上げて泣くことを表わしています。これには、その当時の習慣も関わっていたと思われます。その当時の習慣では、お葬式のときには、貧しい家でも、最低二人の「笛を吹く人々」と、職業的に「泣く女性」を雇わなければなりませんでした。マルタとマリヤの家は裕福な家であったようですので、そのような人々をたくさん雇っていて、賑やかだったと考えられます。
39節から分かりますように、この時はラザロが死んでから四日も経っていました。それでも、このように人々がマルタとマリアのところに来ていたのは、その当時、死者が出たことを嘆くことは、七日間続いてなされたからです。
マリヤと、マリヤと一緒にいたユダヤ人たちが泣いていたことをご覧になったイエス・キリストは、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」たと言われています。
「霊の憤りを覚え」の「霊」は、御霊のことではなく、イエス・キリストご自身の霊です。ですから、「霊の憤りを覚え」というのは、イエス・キリストご自身の内側深くに「憤り」があったことを意味しています。
「霊の憤りを覚え」の「憤りを覚え」と訳された言葉(エムブリマオマイ)は、馬が鼻を鳴らすことを表わす言葉で、人に適用されると、怒ること、憤ること、憤慨することなどを表わします。それで、一般には、この時、イエス・キリストのうちに激しい憤りがあったと考えられています。
その一方で、この言葉は、マタイの福音書9章30節とマルコの福音書1章43節では、イエス・キリストが、ご自身がおいやしになった人に、ご自身のことを誰にも言わないようにと、「厳しく戒められた」ことを表わすのに用いられています。この場合、イエス・キリストのうちに憤りがあったと考えることはできません。このことから、ヨハネの福音書11章33節においても、イエス・キリストのうちに憤りがあったと考えなくてよいという主張もあります。
いずれにしても、この時、イエス・キリストのうちには、憤りか、少なくとも、それに似た激しいものがあったことは確かです。
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33節では、これに加えて、イエス・キリストが「心の動揺を感じ」た、と言われています。
この「心の動揺を感じ」と訳されている部分を直訳しますと「ご自身を動揺させ」となります。
「動揺を感じ」と訳されている言葉(タラッソー)は、ヨハネの福音書では、この他に5回出てきますが、そのうちから12章27節と13章21節を見てみましょう。
12章27節には、十字架につけられる時が迫ってきていることをお感じになったイエス・キリストが、
今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。「父よ。この時からわたしをお救いください。」と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
と言われたことが記されています。この「今わたしの心は騒いでいる。」の「騒いでいる」が、この言葉(タラッソー)で表わされています。これは、いよいよ十字架におつきになることが目前に迫ってきた時のイエス・キリストの思いを表わしていますから、単なる不安ではなく、存在を揺るがすような、深い心の動揺を示しています。
また、13章21節には、イエス・キリストの地上の生涯の最後の夜の過越の食事の席で、イスカリオテ・ユダの裏切りを告げられた時のことが、
イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」
と記されています。この「霊の激動を感じ」の「激動を感じ」が、この言葉(タラッソー)で表わされています。これも、ご自身が愛して心を注いでこられた弟子の一人がご自身を裏切るようになった時の思いを表わしていますから、とても激しい動揺を示しています。
ですから、「心の動揺を感じ」と言われているのは、イエス・キリストのうちに、とても激しい動揺があったことを示していることが分かります。
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このように、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」ということは、そのうちの一つの「霊の憤りを覚え」か「心の動揺を感じ」だけでも、とても激しい内側の動きを示しているのですが、その二つを連ねて、さらに強めて表わされています。イエス・キリストのうちには、そのような、激しい憤りと動揺があったのです。そして、イエス・キリストのうちにこれほど強い憤りと動揺があったことが、ここに記されていることの意味を考えるうえでとても大切なことです。
それでは、イエス・キリストは、いったい何に対して、そのような激しい憤りと動揺を感じておられたのでしょうか。これについては、いくつかの見方がありますが、広く受け入れられている二つの見方だけを取り上げます。
一つは、その場を支配していた、人間の罪とその結果である死と悲惨の現実に対してであるという見方です。
「神のかたち」に造られている人間が、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった結果、人類が罪とその結果である死の力に縛られてしまっていることと、そのために、ラザロの死のような悲しむべき出来事が起こってしまっていることに対する、激しい憤りと動揺が、イエス・キリストのうちにあったということです。
私たちも、あまりにもひどいことを見たり聞いたりしますと、「こんなひどいことが、あってもいいのか。」という、憤りがわき上がってきます。
イエス・キリストのうちに、このような意味での激しい憤りと動揺があったことは、間違いありません。このことにつきましては、さらに、後でお話しします。
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問題は、もう一つの見方です。それは、イエス・キリストが、そこにいた人々の不信仰に対して、激しい憤りと動揺を感じておられたというものです。せっかく、イエス・キリストがそこに来られたのに、人々はイエス・キリストを信じないで、何の望みもないかのように泣いていたということに対して、イエス・キリストは、激しい憤りと動揺をお感じになったということです。
これは、必ずしも、第一の見方と矛盾するものではないと考えられています。イエス・キリストは、ラザロの死において現実的なものになっている、人間の罪とその結果である死と悲惨の現実に対してだけでなく、そこにいた人々の不信仰に対しても、激しい憤りと動揺を感じておられたというのです。
このような見方に対して、「イエス・キリストが、そのようなものをお感じになるわけがない」とお考えになって、ついていけないものを感じる方もおられると思います。
結論的に言いますと、私もこのような見方を取ることはできません。けれども、それは、イエス・キリストが、人々の不信仰に対して、そのような激しいものをお感じになるはずはないと思うからではありません。
たとえば、マタイの福音書23章に記されている、律法学者とパリサイ人に対するイエス・キリストの糾弾の激しさ、特に、33節に記されている
おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。
というような言葉は、不信仰に対するイエス・キリストの思いの激しさを物語っています。
ただ、それは、私たちの場合のように、自己中心的な悔しさから出た思いの激しさではありません。この激しい糾弾に続いて、37節〜39節には、
ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。あなたがたに告げます。「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。
という、イエス・キリストの嘆きが記されています。また、これと同じ頃のものと思われる嘆きを記している、ルカの福音書19章41節〜44節は、
エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。
という言葉で始まっています。
イエス・キリストの糾弾は、深い嘆きに裏打ちされていました。そして、その嘆きは、涙をともなうものでした。そのようにして語られた糾弾の激しさは、律法学者、パリサイ人の中から、それに触れることによって目を覚まして、救いを受け取る人々が出てくることを願っておられるからこその激しさであると言うべきでしょう。
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ですから、イエス・キリストが、人々の不信仰に対して、激しい憤りと動揺をお感じになること自体をあり得ないこととすることはできません。しかし、ヨハネの福音書11章33節で、
そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
と言われているときのイエス・キリストの憤りと動揺の激しさは、人々の不信仰に対してのものだと考えることはできないと思います。というのは、1節〜44節に記されていることから、そこで泣いているマリヤやユダヤ人が、特に、不信仰であったという結論を出すことはできないからです。
これに対しまして、ある疑問が出てきます。
35節〜38節には、
イエスは涙を流された。そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
と記されています。ここに示されているイエス・キリストの憤りと動揺の激しさは、人々の不信仰に対してのものではないかという気がします。そこにいた何人かの人々が、
盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。
というような不信仰なことを言ったので、イエス・キリストは、再び(「またも」)、「心のうちに憤りを覚え」られたのではないかということです。
この「またも」という言葉は、イエス・キリストがお感じになった、激しい憤りが、33節で「霊の憤りを覚え」たと言われているのと同じものであることを示しています。それで、「またも心のうちに憤りを覚え」ということが、人々の不信仰に対してのことであるとすれば、33節で「霊の憤りを覚え」たと言われているのも、人々の不信仰に対してのことであるということになります。
けれども、イエス・キリストが、人々の不信仰に対して「心のうちに憤りを覚え」られたという理解には問題があります。
まず、
盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。
と言ったのは一部の人々でした。全体としては、イエス・キリストが涙を流されたことに、イエス・キリストのラザロに対する愛の深さを見て取っているのです。
また、この、
盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。
という言葉は、まったくの不信仰から出た言葉ではありません。イエス・キリストが「盲人の目をあけた」方であることは認めています。そのイエス・キリストがラザロを愛しておられたのに、それでもだめだったのかという、嘆きの言葉でもあるわけです。
さらに、弟子たちを初めとする、その当時の人々の信仰のあり方からすれば、
盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。
と言ったからといって、その人々が、他の人々より不信仰であったと言うことはできません。
それなのに、イエス・キリストが、この人々の信仰の至らなさに対しては、このような、激しい憤りをもたれたとすることには無理があります。
それで、38節に記されている、
そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。
ということは、基本的には、36節に記されている、
ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。
というユダヤ人たちの言葉を聞いて、イエス・キリストが、愛するラザロが失われたことに対する激しい憤りを、新たにされたということだと考えられます。
これらのことから、33節で、
そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
と言われていることは、ラザロの死において痛いほどの現実となっている、人間の罪とその結果である死と悲惨に対して、イエス・キリストが、激しい憤りと動揺を、ご自身のうちに感じておられたこと(だけ)を示していると考えられます。
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35節では、ラザロの葬られている墓に向かう途中で、
イエスは涙を流された。
と記されています。
33節では、マリヤとユダヤ人たちが「泣いていた」と言われています。これは、声を上げて泣いていたことを示しています。これに対して、イエス・キリストは、涙を流されました。それは、それを見たユダヤ人たちが、
ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。
と言ったように、人目をはばかることのない涙でした。
ここには、イエス・キリストが、何に対して涙を流されたのかが記されていません。自然に読めば、それはラザロの死に対しての涙であると思われます。それとともに、これまでお話ししてきたことから考えられるのは、ラザロの死においてその姿を現実的に示している、人間の罪とその結果である死と悲惨に対する涙です。
ところが、私が最も信頼している注解書のうちの二つは、イエス・キリストがラザロの死に対して涙を流されたという見方に異議を唱えています。その理由は、この時、イエス・キリストは、まさに、ラザロをよみがえらせようとしておられるからであるというのです。
これは、一つには、先ほどお話ししました、マリヤとユダヤ人が泣いていることが不信仰から出たことで、それに対して、イエス・キリストが、激しい憤りと動揺を感じられたとする解釈とつながっています。確かに、そこにイエス・キリストがおられるのに、なおも望みがないかのように泣いているのは不信仰であると言う人からしますと、当のイエス・キリストがラザロの死に涙を流されることは、おかしいということになります。
けれども、先ほどお話ししましたように、イエス・キリストはマリヤやユダヤ人たちが泣いていることを不信仰だとして、激しい憤りと動揺を感じられたと考えることはできません。
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しかし、この解釈を取らない人からも、間もなくラザロをよみがえらせようとしておられるイエス・キリストが、そのラザロの死を悼んで涙を流されるのは、おかしいのではないかという疑問も出されています。確かに、私たちが愛する者を亡くしたときに嘆き悲しむのは、地上においては、もはや、その人を取り返すことができないからです。
けれども、たとえば、さまざまな機会にお話ししました、マタイの福音書8章16節、17節には、
夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」
と記されています。
ここでは、イエス・キリストが「霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった」ことは、決して、機械的なことではなくて、イエス・キリストは、ご自身の前に立っている人々の痛みや苦しみや悲しみのすべてを、ご自身のこととしてお引き受けになったということが教えられています。イエス・キリストは、神の御子としての御力を働かせて「霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった」時に、その神の御子としての御力を働かせて、人々の痛みや苦しみや悲しみのすべてを、ご自身のこととしてお引き受けになられたのです。
イエス・キリストは、ご自身が、間もなく、おいやしになる人々が背負っている痛みと苦しみと悲しみのすべてを、ご自身のものとして背負われました。その時、イエス・キリストにとっては、その人々が背負っている痛みと苦しみと悲しみが、そのまま、ご自身の痛み、ご自身の苦しみ、ご自身の悲しみとなって、深く刺さってきたはずです。その時に、ヨハネの言葉を使えば、イエス・キリストは「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」られたはずです。
イエス・キリストはこのような方です。そうであれば、間もなくよみがえらせるのだからということで、ラザロの死に涙を流されなかったと考えることはできません。
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イエス・キリストは、平然と、ラザロをよみがえらせたのではありません。ラザロの死に直面して、人々が泣いているのに、ご自身は、平然として、自信たっぷりに「まあ、私に任せなさい。」などと言われて、ラザロをよみがえらせたのではありません。むしろ、そこに牙をむき出している人間の罪とその結果である死と悲惨の現実に、ご自身が誰よりも深く「刺されて」、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」られたのです。また、そうであるからこそ、ラザロをよみがえらせてくださったのだと考えなければなりません。
私たちであっても、ある悲惨な現実に直面して、そのようなことがあってはならないという、憤りにも似た思いをもつことがあります。そして、できることなら何とかしたいと思いますし、実際に、何かを始めることさえあります。
私たちは、イエス・キリストがラザロの死に直面して、そこに牙をむき出している人間の罪とその結果である死と悲惨の現実に、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」られ、さらに、人目をはばかることなく涙を流されたことを見ました。そして、それは、ラザロの場合だけでなく、ご自身が接してくださったすべての人々の痛みと苦しみと悲しみを、ご自身のものとして背負ってくださったことの、典型的な現われであることも見ました。
その私たちの目に、何が見えるでしょうか。
イエス・キリストは、人間の罪とその結果である死と悲惨の現実に、このような「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」ておられたからこそ、そして、ご自身のことのように涙を流しておられたからこそ、私たちの罪を贖ってくださり、私たちを罪とその結果である死と悲惨から贖い出してくださるために、十字架に向かって、真っ直ぐに進んでくださったのだということが見えてきます。
そして、そこに、何としてでも、私たちを罪とその結果である死と悲惨から贖い出そうとしてくださったイエス・キリストの愛が映し出されていることが見えてきます。
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