よみがえりの主ご自身を
(イースター説教集)


説教日:2000年4月23日
聖書箇所:ヨハネの福音書11章1節〜44節


 きょうは2000年の復活節、イースターに当たります。これまで復活節におきましては、おもに、きょうも取り上げましたヨハネの福音書11章1節〜44節に記されています、一般に「ラザロのよみがえり」として知られている記事からお話ししてまいりました。きょうも、この個所から、一つのことをお話ししたいと思います。
 初めに、復習にもなりますが、この記事の背景となっていることについて、お話ししたいと思います。
 1節〜3節に記されていますように、ベタニヤ村のマルタとマリヤの兄弟ラザロが病気で死にかけておりました。マルタとマリヤは、その時ヨルダン川の川向こうにおられたイエス・キリストの御許に使いの人を送って、ラザロが病気であることを伝えました。
 しかし、6節にありますように、イエス・キリストはすぐにベタニヤに行かないで、なお二日そこに留まっておられました。イエス・キリストがおられた所とベタニヤは徒歩で一日かかる距離にあったと言われています。17節にありますように、二日後にイエス・キリストがそこを発ってベタニヤに行かれると、ラザロが墓の中に入れられてから、すでに四日が経っていました。これらのことから計算しますと、使いの人々がベタニヤを発って間もなく、ラザロは死んだことが分かります。ですから、ラザロが病気にかかっていることをお聞きになったイエス・キリストが、なお、二日の間ヨルダンの川向こうに留まっておられたのは、ラザロをよみがえらせる奇跡を行なうために、ラザロが死を迎えるのを待っておられたということではありません。
 確かに、ラザロをよみがえらせることが、イエス・キリストのみこころでした。それなのに、なお、二日の間そこに留まっておられたのは、どうしてでしょうか。実は、その当時の一般的な考え方の中に、死者の魂は三日間は死体の近くにあって、死体の中に戻ろうとしている、という考え方がありました。それで、イエス・キリストが、死後三日の間にラザロをよみがえらせたとしますと、人々は、ラザロが蘇生しただけであると考えるかもしれません。
 39節には、マルタが、

主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。

と言ったと記されています。それは、ラザロが死んでから四日も経ってしまったので、もうイエス・キリストでもどうすることもできない、という思いを表わしています。
 ですから、イエス・キリストがラザロが病気であることをお聞きになってから、なお二日の間そこに留まっておられたのは、イエス・キリストが、死体のそばをさまよっているラザロの魂を呼び戻して蘇生させたのではなく、ラザロを死の力から解き放ってよみがえらせてくださったのであることをお示しになるためであったと考えられます。
 その意味で、このイエス・キリストの御業は、たとえば、マルコの福音書5章21節〜43節に記されている、会堂管理者ヤイロの娘が死んでしまったときに、その手を取って、「タリタ、クミ」という言葉とともによみがえらせてくださったことと、少し、状況が違います。
 ヤイロの娘の場合には(私たちはそのような解釈をいたしませんが)、その当時の人々からすれば、イエス・キリストは、さまよっている魂を呼び戻して、ヤイロの娘を蘇生させたのであると言うこともできました。けれども、ラザロの場合には、そのように説明して済ますことはできません。確かに、イエス・キリストはラザロを死の力から解き放って、よみがえらせてくださったのです。
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 そうではあっても、これは、イエス・キリストがラザロを死の力から解き放って、よみがえらせてくださったということ自体を、際立たせるためのことではありません。むしろ、25節、26節に記されています、

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。

というイエス・キリストがマルタに語られた言葉を確証するものとしての意味をもっています。
 もし、イエス・キリストがラザロを死の力から解き放って、よみがえらせてくださったということが、ここに記されている記事の中心であるとしたら、それは、私たちにはあまり関係のないお話になってしまいます。その当時でも、ラザロの場合にはよみがえらせていただけたけれども、すべての人が同じような奇跡にあずかったのではありませんし、今日ではそのような可能性は、まずありません。せいぜい、イエス・キリストは死んだ人をもよみがえらせた力がある方であるということを示しているということで終わってしまいます。
 けれども、このイエス・キリストの御業は、先程の、

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

というイエス・キリストの言葉の確かさを、マルタとマリヤを初めとして、私たちにあかしし確証するものです。
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 このことは、イエス・キリストがなさった奇跡的な御業や、聖書に記されている、その他の奇跡的な御業をどのように理解するかということに深く関わっています。
 私たちは、自分や愛する人が重い病を背負ったり、あるいは、愛する人を亡くしたりすることがあります。今はそうではなくても、必ずそのような経験をします。そのような場合に、イエス・キリストによってラザロを生き返らせていただいたマルタやマリヤがうらやましくなります。もしここにイエス・キリストがおられたら、どんなによかったことか、と思います。
 それは、21節と32節にありますように、兄弟ラザロが死んだ後にイエス・キリストに会ったマルタとマリヤが、

主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。

と言ったことに、どこか通じるものだあります。
 二人が同じことを言ったということは、おそらく、ラザロが死んでしまったときに、二人で「ここにイエスさまさえいてくださったなら。」と言って嘆いたからでしょう。マルタとマリヤも、もしここにイエス・キリストがおられたら、どんなによかったことか、と思う私たちと同じよな思いに駆られていたのです。
 そうではあっても、マルタとマリヤの場合には、兄弟ラザロを生き返らせていただいたのだから、そのように嘆くには当たらないことになったという点で、私たちとはまったく違っています。けれども、この二人にも、また、この時、イエス・キリストによって生き返らせていただいたラザロにも、人生の厳しい現実が待っておりました。この三人が、その後どれほど生きたかは定かではありませんが、それぞれ、地上の旅路を終えて、この世を去っていきました。
 人類が造り主である神さまに対して罪を犯して堕落し、いのちの源である神さまとの交わりを絶たれてしまったことによって、創世記3章19に記されています、

 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。
 あなたはそこから取られたのだから。
 あなたはちりだから、
 ちりに帰らなければならない。

という神である主の言葉のとおりに、すべての人が死の力に捉えられてしまって、ちりに帰るという現実が、厳然と、そこにあります。
 もちろん、これは、マルタやマリヤやラザロが罪の刑罰を受けて滅んでしまったという意味ではありません。ローマ人への手紙8章23節で、

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と言われていますように、私たちは「からだの贖われることを待ち望んで」いる状態、すなわち、私たちのからだがイエス・キリストの復活のの栄光にあずかって、栄光あるからだに造り変えられることを待ち望んでいる状態にあります。
 そのようになるまで地上にある私たちのからだは、アダムにあって堕落している人間としての「弱さ」をなおも負っているものとして、肉体的な死を迎えます。
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 問題点を浮き彫りにするために、別の例を取り上げますと、その昔、モーセの時代に、イスラエルの民が荒野で食べるものがなくなって飢えたときに、神さまは、それまで誰も見たことも食べたこともないマナをもって、彼らを養ってくださいました。ちなみに「マナ」とは、「何?」という意味の言葉です。
 今も、世界には旱魃などで飢えている人々がたくさんいます。つい最近も、東アフリカでの惨状が伝えられました。そのような状態にある人々は、荒野を旅する間ずっとマナをもって養われたイスラエルの民のことを(もし、そのことを事実であると信じればの話ですが)、うらやましく思うことでしょう。
 そうではありましても、やはり、イスラエルの民が荒野でマナを食べて生き延びたということは、一時的なことでしかありませんでした。ヨハネの福音書6章49節に記されていますように、イエス・キリストは、荒野でマナをもって養われたイスラエルの民について、

あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。

と言われました。
 これは、イエス・キリストが、少年が持っていた五つの大麦のパンと二匹の魚をお用いになって、女性と子どもを含めるとどれほどになったでしょうか、男性だけで五千人の人々を満腹になるまで食べさせてくださったことをきっかけとして始まる教えの中で語られた言葉です。
  6章26節、27節にありますように、その教えの初めの方で、イエス・キリストは、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。

と言われました。そして、さらに、35節にありますように、

わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

とお教えになりました。
 その人々は、イエス・キリストが奇跡的な力をもってパンを増やされたことを目の当たりに見たばかりか、そのパンを食べて満腹した人々です。しかし、イエス・キリストは、その人々が「しるし」を見なかったと言われます。あるいは、その「しるし」をイエス・キリストが意図されたように受け入れなかったということでしょうか。
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 ここには重大な問題があります。
 それは、イエス・キリストがなさった奇跡的な御業、あるいは、神である主がなさった奇跡的な御業にあずかって、さまざまな困難な状況から救い出された人々は、確かに、一時的な解放を得られたけれども、長い目で見ると、あるいは、結果的には、そのこと自体によっては救われなかったということです。そのような奇跡的な御業にあずかって、その恩恵を受けたということは、必ずしも、その人が神である主の民であるということを意味してはいませんでした。
 さらに言いますと、そのような奇跡的な御業にあずかって、その恩恵を受けたことに基づいて、奇跡的な御業をなさった神である主を信じた人々が、必ずしも、主の民であることを意味してはいませんでした。
 モーセの時代に主が紅海を分けてイスラエルの民を救い出し、エジプトの軍隊を滅ぼされたのを見たイスラエルの民について、出エジプト記14章31節では、

イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。

と言われています。けれども、その世代の人々は、主に逆らい続けて、荒野で滅びました。
 イエス・キリストがやはり荒野のようなところで、少年が持っていた五つの大麦のパンと二匹の魚をお用いになって、男性だけで五千人の人々を養ってくださった奇跡的な御業にあずかって、その恩恵を受けた人々について、ヨハネの福音書6章14節、15節では、

人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。

と言われています。人々は、イエス・キリストが申命記18章15節と18節に約束されている預言者、すなわち、メシヤであると信じました。それで、自分たちの王として立てようとしました。
 けれども、イエス・キリストは、それを受け入れられませんでした。また、そのことをきっかけとして語られたイエス・キリストの教えを聞いた人々は、6章60節で、

そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

と言われており、さらに、66節で

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

と言われていますように、イエス・キリストから離れていきました。
 それらの奇跡的な御業は、神である主がなさったものであり、イエス・キリストがなさったものです。また、人々は、そのような奇跡的な御業をなさった方を信じました。これらの点に間違いはありません。それでは、一体、何が問題だったのでしょうか。
 その問題を示しているのは、先ほども引用しました、

そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。

という御言葉です。人々は、イエス・キリストのみこころを無視して、イエス・キリストを王として立てようとしました。王として立てるのだから、当然、イエス・キリストにとってもよいことであると、勝手に考えています。
 人々は、自分たちの考えているイメージに合わせてイエス・キリストを信じたのです。言い換えますと、自分たちの願うように動いてくれる存在として、神である主やイエス・キリストを信じたのです。そして、決してそのことを認めて悔い改めることはありませんでした。神である主が自分たちの都合通りに動いてくれないときには、「つぶやき」をもって不平不満をぶちまけました。イエス・キリストが本当に知ってもらいたいこととして教えられた教えを聞いたときには、とんでもないことを言っているということで、イエス・キリストの許を去っていきました。
 自分たちの願うように動いてくれる存在として、神である主やイエス・キリストを信じるところでは、実質的に、自分が神である主の上に立っています。そのように、神さまを自分の都合に従わせようとすることが人間の罪の本質です。しかし、奇跡的な御業そのものを信じるかぎり、誰も、自分自身の罪を認めて悔い改めることはありません。なぜなら、罪の悔い改めは、福音の御言葉に耳を傾けて、福音の御言葉にしたがって神である主を信じることによって初めて可能なことだからです。
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 モーセの時代に、神である主が荒野でマナをもってイスラエルの民を養い続けてくださったことは、やがて、神である主が約束によって備えてくださる本当のいのちの糧、すなわち、福音の御言葉によってあかしされている贖い主を待ち望むべきことを教えるものでした。
 同様に、イエス・キリストの時代に、イエス・キリストがやはり荒野のようなところで、少年が持っていた五つの大麦のパンと二匹の魚をお用いになって、男だけで五千人の人々を養ってくださったことは、

わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

というイエス・キリストの言葉を受け入れ、「いのちのパン」であるイエス・キリストによって、永遠のいのちを持つものとして養われるべきことを教えるものでした。
 このことを、より一般化してお話ししますと、聖書の中に記されている神である主の奇跡的な御業は、いつもなされていたのではありません。それは、三つの時代に集中しています。第一は、出エジプトの時代に、おもに、モーセを通してなされた御業です。もう一つは、イスラエルの王国時代に、預言者たちを通してなされた御業です。そして、第三に、新約聖書の時代に、イエス・キリストと使徒たちを通してなされた御業です。
 これら三つの時代、すなわち、神である主の奇跡的な御業が集中的になされた時代には、共通したことがあります。それは、この三つの時代に、神さまの啓示の御言葉が集中的に語られ、それが記されたということです。このことは、これら三つの時代になされた神である主の奇跡的な御業は、神さまの啓示の御言葉が確かなものであることをあかしし確証するものであったということを意味しています。
 それで、その奇跡的な御業にあずかったり、それを見たり聞いたりした人は、その奇跡的な御業そのものに引かれるのではなく、それが確証している御言葉があかししていることを信じて受け入れるべきでした。
 そして、聖書が全体としてあかししているのは、イエス・キリストです。ヨハネの福音書5章39節に記されていますように、イエス・キリストは、

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

と言われました。
 このことを、これまでお話しした二つのことに当てはめますと、イエス・キリストが、荒野のようなところで、少年が持っていた五つの大麦のパンと二匹の魚をお用いになって、男だけで五千人の人々を養ってくださったことにあずかった人々は、その御業によって確証された、

わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

というイエス・キリストの言葉にしたがって、「いのちのパン」であるイエス・キリストを信じて受け入れ、イエス・キリストがくださる永遠のいのちを受け取るべきでした。
 また、イエス・キリストがラザロを死の力から解き放って、生き返らせてくださったことに接した人々は、その御業が確証している、

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

という御言葉があかししているイエス・キリストご自身を、その御言葉があかししているように信じて、永遠のいのち、すなわち、復活のいのちを受け取るべきなのです。それこそが、イエス・キリストが本当に私たちに与えようとしておられるものです。
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 けれども、実際には、荒野のようなところでイエス・キリストに養っていただいた人々は、もっと、あのような奇跡的な形で養ってもらいたいと思って、あるいは、もっと奇跡的な御業を見ようとして、イエス・キリストの御許に行きました。それで、ヨハネの福音書6章26節、27節に記されていますように、イエス・キリストは、その人々に向かって、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。

と警告されました。そして、それに続いて、

なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。

とお教えになり、諭されました。
 イエス・キリストがなさった奇跡的な御業は、あくまでも、イエス・キリストが語っておられる御言葉の確かさをあかしし確証するものです。神さまのみこころは、人々が奇跡的な御業そのものではなく、それが確証している神さまの御言葉、すなわち、福音の御言葉に耳を傾け、その御言葉にしたがって(その御言葉に導かれ、その御言葉に基づいて)、イエス・キリストを信じて受け入れることでした。
 福音の御言葉は、神さまを自分たちの都合にしたがって動かそうとする人間の罪を明らかにします。そして、その罪を悔い改めて、神である主が備えてくださっている、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いを受け入れるように導きます。
 けれども、人々は、その奇跡的な御業そのものに引きつけられてしまいました。結果的に、その奇跡的な御業が、かえって、人々の目を、イエス・キリストの御言葉から逸らせてしまうことになったのです。
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 今日、イエス・キリストがラザロを死の力から解き放って、生き返らせてくださったことを記す記事を読む私たちも、同じ問題を持っているかもしれません。私たちも、そのイエス・キリストの御業が確証している、

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

というイエス・キリストの御言葉があかししている、イエス・キリストご自身のことよりも、ラザロが生き返ったということの方に引きつけられてしまいやすいのではないでしょうか。父なる神さまと御子イエス・キリストが私たちを愛して、私たちのために備えてくださっている永遠のいのちを、遠い先のおぼろげなものと感じて、そのような漠然としたものよりも、とにかく目の前のことを何とかしてもらうことが先決だと考えやすいのではないでしょうか。ただ、実際には、奇跡的な御業がなされないので、それに引きつけられないですんでいるということではないでしょうか。
 それでも、私たちは、永遠のいのちも大切だけれども、神さまの奇跡的な御業がいつもなされるようになれば、もっといいのではないかと考えたりしないでしょうか。
 しかし、神さまは、私たちの状態を、私たち以上にご存知です。私たちの心が、罪の暗やみに覆われているために、私たちのうちには、霊的な事柄に対する思い違いがあります。もし、日常のように奇跡的な御業がなされるなら、私たちはそれに夢中になって、父なる神さまと御子イエス・キリストが本当に備えてくださっているものを見失ってしまうことになるでしょう。
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 このことが、今日では、奇跡的な御業が日常のように行われない理由の一つでしょう。
 しかし、いちばん大きな理由は、すでに聖書が完成し、イエス・キリストの御言葉、福音の御言葉の確かさがあかしされ確証されているからです。
 事実、今日に至るまで、神の子どもたちが、福音の御言葉によってあかしされているイエス・キリストを信じて、永遠のいのちの豊かさのうちを歩み続け、天の御国にお帰りになった歴史を造ってきました。これも、福音の御言葉に対する確かなあかしです。
 私たちは、この日、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛と恵みの御手にお委ねした人々のことを覚えて礼拝をしています。それは、これらの方々の歩みがあかししている、福音の御言葉の確かさを、私たちがしっかりと受け止めて、その御言葉が映し出している父なる神さまと御子イエス・キリストの愛と恵みに私たち自身をお委ねすることなくしては、真に意味のあるものとはなりません。

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

という御言葉をもって、ご自身を私たちにお与えになった、御子イエス・キリストを、その御言葉に基づく信仰によって受け入れることが、永遠のいのちを持つことの初めであり、終わりであり、すべてです。


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