悲しみの中に慰めを
(クリスマス説教集)


説教日:1999年12月19日
聖書箇所:マタイの福音書2章1節〜23節


 1996年の「クリスマス礼拝」の前の週に「ただ一度の礼拝のために」という題の下に、マタイの福音書2章1節〜12節に記されている、「東方の博士たち」がイエス・キリストを礼拝するために、はるばるユダヤの地にやって来たことについてお話ししました。その時には、この「東方の博士たち」の礼拝に、神さまを礼拝することの本質が見られることを学びました。
 今日は、同じマタイの福音書2章1節〜12節の記事を含めて、23節までを視野に入れながら、それとは違う観点からお話ししたいと思います。
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 2章1節で、

イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、

と言われていますように、イエス・キリストがお生まれになったのは「ヘロデ王の時代」でした。この「ヘロデ王」は、一般に「ヘロデ大王」と呼ばれている人物です。
 まず、この「ヘロデ王」について簡単にお話しします。
 紀元前2世紀の半ば、セレウコス王朝の第4代の王であるアンティオコス四世・エピファネスが、エルサレム神殿を荒らし、旧約聖書の律法の規定で汚れた動物とされていた豚を主の祭壇でいけにえとして献げて、神殿を汚しました。
 これをきっかけとして、アンティオコスに対する反乱が生じ、ユダヤ側の勝利に終わりました。その時の指導者は、祭司マッタティアの子、マッカバイオスと呼ばれるユダでした。その後、この家系がユダヤを治めるようになりました。これを「ハスモン王朝」と呼びます。
 ユダの死後は、その兄弟ヨナタン、ヨナタンの死後は、その兄弟シモンが優れた指導をしました。しかし、シモンが暗殺された後は、ハスモン王朝の後継者たちは、ヘレニズムの精神に心酔するようになりました。
 シモンの子、ヨハネ・ヒルカノスは、サマリヤとエドムを征服しました。そして、その子、ヤンナエウスは、ヘロデの祖父アンテパスを、エドムの総督に任命しました。このヘロデの家系はエドム人の家系です。
 ヘロデの父アンテパテルの時代になって、ハスモン王朝の後継者を巡る争いが激しくなったすきに、アンテパテルとヘロデはローマに取り入って、紀元前47年、アンテパテルは、ユダヤにおけるローマの代官、ヘロデはガリラヤの4分の1を治める者としての地位を得ました。
 その後、パレスチナに戦乱と内戦があって、ローマに逃れたヘロデは、ローマの元老院からユダヤの王として任命されます。彼は、紀元前37年にこの戦乱を収めました。
 ユダヤ人の歴史家であるヨセフスによりますと、このヘロデ、すなわち、マタイが言う「ヘロデ王」は、紀元前4年に70歳で死んだということです。それで、一般に、イエス・キリストの誕生は、紀元前4年の数年前と考えられているわけです。
 ヘロデの人となりと事業については、ヨセフスによって詳しく記録されています。
 ヘロデは有能な戦略家であり、雄弁でした。
 彼は、エジプトの女王クレオパトラと結んでオクタビアヌスと戦ったアントニウスの側についていましたが、アントニウスが破れて、オクタビアヌスが皇帝になりアウグストを名乗るようになった時には、すぐさま、オクタビアヌスを表敬訪問して、彼の支持を取り付けました。
 ヘロデは建築にも力を注ぎ、円形闘技場や戦車競争の競技場を建設したり、自らのために豪華な宮殿を建てました。また、ユダヤ人の気を引くために、エルサレム神殿をより大きなものとして再建することを手がけました。それは、紀元前19年に始まったと言われていますが、イエス・キリストの時代にもなお進行中でした。
 このように、ヘロデは、「ヘロデ大王」と呼ばれるように、政治家としての手腕に優れていました。その一方で、マタイの福音書2章と関わっていることですが、ヘロデの王位に対する執着にはすさまじいものがありました。
 ヘロデは、ハスモン王朝のアリストブロスを、自分の王位を脅かす者と考え、巧妙に水死に見せかけて殺害しました。アリストブロスは、彼の妻であるマリアンネの兄弟でした。ヘロデは、さらに自分の妻のアリアンネと、その母アレクサンドラも殺害してしまいます。
 そればかりか、自らの死の4年前(紀元前8年)には、やはり、自分の王位を危うくする者との疑いから、マリアンネとの間にできた二人の息子を殺害しています。
 晩年になると、王位への執着と、猜疑心がますますひどくなり、その死のわずか5日前に、自分の長男であるアンテパテルをも、自分の王位を狙う者として処刑しました。
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 イエス・キリストは、このように自分の王位に異常な執着を見せて、自分の家族や親族に対しても猜疑心を抱いて、殺害してしまうような状態にあったヘロデの晩年にお生まれになりました。ヘロデは、その時すでに、マリアンネによる自分の二人の息子を殺害していました。
 このような状況の中でイエス・キリストがお生まれになったということが、マタイの福音書2章全体の背景になっています。16節〜18節に記されている、ヘロデがベツレヘムとその近郊の2歳以下の男の子を一人残らず殺したことも、このような状況の中で起こっています。
 私たちは、神さまが約束してくださった救い主が、今から2千年ほど前に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったことは、神さまのご計画と約束によることであることを知っています。
 マタイの福音書2章4節〜6節には、

そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
   『ユダの地、ベツレヘム。
   あなたはユダを治める者たちの中で、
   決して一番小さくはない。
   わたしの民イスラエルを治める支配者が、
   あなたから出るのだから。』」

と記されています。
 ここで「民の祭司長たち、学者たち」が取り上げているのは、紀元前700年頃に活躍した預言者ミカの言葉で、ミカ書5章2節に記されています。そのように、救い主であるイエス・キリストがお生まれになる場所も、神さまが預言者を通して語っておられたのです。
 さらに、同じマタイの福音書1章1節では、

 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

と言われていますように、イエス・キリストは「アブラハムの子孫、ダビデの子孫」としてお生まれになりました。
 アブラハムはイスラエル民族の祖先ですが、イエス・キリストは、創世記12章3節の、

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

というアブラハムへの約束、さらに、22章18節の、

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

という、約束約束に従って、「アブラハムの子孫」としてお生まれになりました。
 また、「アブラハムの子孫」の中でも、サムエル記第二・7章12節〜14節に記されている、

わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

というダビデへの約束に従って、「ダビデの子孫」としてお生まれになりました。
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 これらのことからも、救い主であるイエス・キリストの誕生は、神さまのご計画と約束によることであることが分かります。それで、私たちは、イエス・キリストが、自分の王位に異常な執着を見せて、自分の家族や親族をも疑い、これを殺害してしまうような状態にあったヘロデの晩年にお生まれになったことも、偶然たまたまのことではなく、そこに神さまのご計画があったと信じています。
 その神さまのご計画の背景として考えられることは、人類の歴史の初めに、最初の人アダムが造り主である神さまに対して罪を犯して、神さまの御前に堕落してしまったことにまで遡ります。
 ご承知のように、最初の人アダムは、「蛇」を通して働きかけたサタンの誘惑に乗ってしまったエバとともに、神さまの戒めに背いて罪を犯し、神さまの御前に堕落してしまいました。それによって、人類は罪によって腐敗した本性をもつものとして生まれ、罪がもたらすしと滅びへの道を歩むものとなってしまいました。これらのことは、創世記3章に記されています。
 しかし、神さまは、その直後に宣告された「蛇」へのさばきの言葉の中で、

  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

創世記3章15節

と宣言されました。これは、神さまが、「蛇」を通してエバを誘惑したサタンに対するさばきの言葉を、やはり「蛇」を用いて宣告されたものです。
 ここでは、

  彼は、おまえの頭を踏み砕き、

と言われていますように、サタンに対する最終的で決定的なさばきは「女の子孫」によって執行される、ということが宣言されています。
 人類を罪へと誘って堕落させたサタンを神さまがおさばきになるのに「女の子孫」をお用いになるということは、「女の子孫」が神さまの側に立つようになることを意味しています。そこに、「女の子孫」の救いが示されています。それで、教会は、この創世記3章15節の言葉を、「最初の福音」と呼んできました。
 「女の子孫」は、二重の意味で用いられており、人類の歴史を通して存在し続けた「群れ」(神の子どもたちの共同体)を意味すると同時に、そのかしらである救い主をも意味していると考えられます。
 先ほどの神さまのさばきの宣言で、さらに、

  おまえは、彼のかかとにかみつく。

と言われていますように、サタンも、「女の子孫」を亡き者にしようとして攻撃を仕掛けると言われています。
 このことは、まず、アダムの家族において、カインがアベルを殺すということに実現しました、それ以後も、たとえば、ノアの時代の洪水によるさばきによって、すべての人がさばきを受けた時に、ノアとその家族が保存されることがなかったとしたら、「女の子孫」の約束も途絶えてしまっていたことでしょう。しかし、神さまの恵みとあわれみによって、「女の子孫」の約束は保存されていきました。
 そして、先ほど見ましたように、「女の子孫」である救い主は、「女の子孫」の中でも「アブラハムの子孫」として来られ、「アブラハムの子孫」の中でも、「ダビデの子孫」として来られることが、約束されるようになりました。
 「女の子孫」である救い主、イエス・キリストが、自分の王位に異常な執着を見せて、自分の家族や親族をも疑い、これを殺害してしまうような状態にあったヘロデの晩年にお生まれになったことも、これらのことに関わっています。サタンは、そのような状態になってしまっているヘロデを用いて、「女の子孫」のかしらである救い主イエス・キリストを亡き者にしてしまおうとしたのです。
 それが、マタイの福音書2章16節で、

その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。

と言われている、恐ろしくも悲しい出来事として実現してしまいました。
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 この時、ヘロデは、まことに巧妙に振る舞っています。
 ヘロデが「民の祭司長たち、学者たちをみな集めて」と言われているのは、ユダヤ社会の最高法廷であったサンヘドリンを招集したことを意味していると思われます。サンヘドリンの招集でないとしても、ヘロデは、身近なご用学者に秘かに尋ねたということではなく、当時のユダヤ社会の宗教的な権威者たちすべてを招集しています。
 それは、ヘロデが、聖書の教えについての全員の見解を確かめたかったからであると考えたくなります。しかし、ヘロデが、それほど聖書の御言葉を信じていたとは思われません。また、しっかりと確かめるにしても、なぜ、「民の祭司長たち、学者たち」全員を集めなくてはならなかったのでしょうか。それで、そこには他の理由があったのではないか、と思われます。どうも、これは、博士たちを信用させるための手口であったのではないでしょうか。
 ヘロデは、「分かりました。このことはとても大切なことですので、『民の祭司長たち、学者たちをみな集めて』検討することにしましょう。」というようなことを言ったのでしょう。言葉にしなくても、博士たちには、ユダヤの王が、真剣にこのことを考えていると写ったわけです。
 このことによって、ユダヤ人の王としてお生まれになった方の誕生のことは、旧約聖書の預言者の言葉に記されていることであるということが、博士たちに分かるようになりました。博士たちは、ますます、自分たちの確信を深めていくことになったはずです。
 同時に、ヘロデが、「民の祭司長たち、学者たちをみな集めて」旧約聖書からの答えを求めたということは、ユダヤ人の王ヘロデが、神を敬い、その御言葉を重んじる人物であるという印象を、博士たちに与えたことでしょう。
 7節では、

そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。

と言われています。ヘロデは、博士たちからの情報もしっかりと集めています。
 博士たちは、メソポタミア地方で知恵者として王に仕えていた人々です。政治の世界の裏表に対するわきまえももっていた人々です。普通ですと、自分たちが探しているユダヤ人の王として定められた方が、現在の王の家系の者ではないことが分かった時点で警戒するはずです。しかし、博士たちは、すっかりヘロデを信用しています。
 さらに、8節では、

そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」

と言われています。ここでも、ヘロデは、自らを神を敬う者に見せかけて、博士たちを、それと悟られないように「諜報員」に仕立て上げて送り出しています。
 これらのことの中に、何度も身に迫ってきた危機を巧みに乗り越えてきたヘロデの、戦略家としての狡猾さがうかがえます。同時に、その背後で働いているサタンの巧妙さのようなものも感じ取ることができます。
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 創世記3章15節に記されているサタンに対するさばきの言葉の中に約束されている、「女の子孫」のかしらである救い主による「女の子孫」たちの救いが背景となって、イエス・キリストは、自分の王位に異常な執着を見せて、自分の家族や親族をも疑い、これを殺害してしまうような状態にあったヘロデの晩年にお生まれになりました。
 そこに、「東方の博士たち」の来訪があった時に、ヘロデは、ベツレヘムとその近郊にいる2歳以下の男の子を殺害しました。私たちは、この悲しい出来事をどのように捉えたらいいのでしょうか。
 一つには、それは、自らの王位に異常なまでに執着し続けたために、猜疑心に駆られて、妻や子どもたちまで殺害してしまったヘロデの罪の深さのせいであると捉えることが出来ます。それがいちばんはっきりとした理由です。
 しかし、そのことで私たちは、神さまの御前にへりくだらなければなりません。私たちも人を信じることが出来ないために、秘かな猜疑心に駆られることがあるのではないでしょうか。それによって人を殺すとまではいかなくても、内側に芽生えた不信感によって、心の中では実質的に、その人の尊厳性を抹殺してしまっているというようなことがあるのではないでしょうか。
 ヘロデの猜疑心は身内の者たちに向けられました。確かに、赤の他人と思っている人が自分をだまそうとしていることが分かっても、腹は立っても、苦しむことはありません。自分の近くにいてくれる人に対してこそ、私たちを苦しめる猜疑心というか不信感というものが生まれてきます。
 その根は、その人を最後まで信じようとしない、私たち自身のうちにあります。そして、よく考えてみますと、それは、その人を信じないという以上に、自分自身を信じることが出来ないので、その人も自分を信じてくれていないのではないかと疑うことが多いのです。
 ヘロデの姿から、神さまの御前に心をかたくなにし続けてしまう人間の罪が行き着くところの恐ろしさを見る思いがします。それで、私たちは、神さまが、御子イエス・キリストの十字架の死によって、同じ罪をうちに宿す私たちの罪を贖ってくださり、悔い改めへと導いてくださっていることに、感謝の思いをもって、身を低くしたいと思います。
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 同時に、ベツレヘムとその近郊にいる2歳以下の男の子がヘロデの手によって殺害されたことが、創世記3章15節に記されている「最初の福音」の御言葉を背景として起こったと見ることによって、ベツレヘムで生まれた神の御子イエス・キリストは、その男の子たちと一つであられたのである、ということが見えてきます。
 その時は、イエス・キリストはエジプトに逃れることによって、その難を免れています。しかし、それは、イエス・キリストだけが「いい思いをする」ためではありません。より長い目で見ますと、その時イエス・キリストがエジプトに逃れるように導かれたのは、地上の生涯の最後に、ヘロデによる殺害よりももっと恐るべき十字架刑によって処刑されるためでした。それは、その男の子たちをも含めて、私たちの身代わりになって、私たちの罪に対する神さまのさばきをその身に負われての死の苦しみを味わってくださるためでした。そして、それによって、私たちを、罪の結果である死と滅びから解放してくださるためでしたし、私たちを、新しいいのちに生かしてくださるためでした。
 事実、マタイの福音書2章17節、18節では、その男の子たちの殺害が、預言者エレミヤを通して語られた預言の成就であると言われて、

  ラマで声がする。
  泣き、そして嘆き叫ぶ声。
  ラケルがその子らのために泣いている。
  ラケルは慰められることを拒んだ。
  子らがもういないからだ。

という、エレミヤ書31章15節の言葉が引用されています。
 実は、このエレミヤ書31章15節の言葉は、これに続く16節で、

  主はこう仰せられる。
  「あなたの泣く声をとどめ、
  目の涙をとどめよ。
  あなたの労苦には報いがあるからだ。

と言われていますように、神さまの恵みによる回復の約束を述べる慰めの言葉への導入に当たります。
 北王国イスラエルも、南王国ユダも神さまに背いて罪を犯し続け、その刑罰を受けて国は滅び、民は捕らえられて異国の地へと連れられて行ってしまいました。「ラマで声がする。」の「ラマ」は、イスラエルとユダの境界にある町で、そこに捕囚となって連れて行かれる民が集められた所です。そこでは、大きな悲しみの声が上がったのです。
 しかし、それでも、そのように深い罪を犯し続けたた民をも、神さまは愛してくださり、その恵みによって回復し、慰めを与えてくださるというのが、このエレミヤを通しての預言の言葉の主旨です。
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 そして、その慰めを告げる預言の言葉は、ついに、31節〜34節に記されています、

見よ。その日が来る。── 主の御告げ。── その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。── 主の御告げ。── 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。── 主の御告げ。── わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。── 主の御告げ。──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

という新しい契約の約束へと至ります。
 ここでは、人間が、いくら神さまの律法をもってしても、外側から教えられて努力するだけでは、自分自身を変えることも出来ないことが徹底的に明らかになったその時にこそ、神さまが、私たちの心を新しく造り変えてくださると約束されています。そこでは、人間の出番はなくなり、神さまの一方的な恵みだけが頼みとなります。
 それは、実際には、「女の子孫」のかしらである救い主として来てくださった御子イエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪がすべて清算され、私たちの罪がきよめられることによって、私たちの現実となります。
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 先ほど、私たちは、ヘロデを責めることができるどころか、私たち自身のうちに、身近な人を信じることが出来ない不信や猜疑心に苦しむことがあるという、悲しい事実を認めました。それだけでなく、私たちのうちには、罪が生み出すさまざまな弱さと醜さがあります。
 しかし、私たちは、いくらそれを認めても、自分自身の力では自分の心を造り変えることが出来ません。
 けれども、まさに、そのような私たち自身の罪と弱さの現実を認めて、すべてをお委ねする時に、「女の子孫」のかしらである救い主として来てくださった御子イエス・キリストが、ご自身の十字架の死に基づく贖いの恵みによって、私たちのうちに新しい心を造り出してくださいます。
 そのようにして、私たちの贖いとなってくださるために来てくださった神の御子イエス・キリストは、身を低くして悲しむ私たちに、慰めの言葉を語ってくださいます。

悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
マタイの福音書5章4節

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
マタイの福音書11章28節〜30節


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