キリストの愛を映し出す祝福
(クリスマス説教集)


説教日:2012年12月23日
聖書箇所:ピリピ人への手紙2章5節ー11節


 きょうは20012年の降誕節です。それで、いつもお話ししていますヨハネの黙示録からのお話はお休みしまして、降誕節に関連するお話をします。
 今年の降誕節から取り上げるのは、ピリピ人への手紙2章5節ー11節に記されています、

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

というみことばです。
 これは、これに先立つ1節ー4節に記されている、

こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

という、パウロの教えを受けて記されています。それで、この5節ー11節に記されていることは、一見すると、イエス・キリストのことだけを述べているように見えますが、私たちのあり方と深くかかわっています。
 この5節ー11節のうちの5節に記されている、

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

ということばは、今引用しました1節ー4節に記されている教えと、6節ー11節に記されている教えをつなぐものです。
 このように、いわば「つなぎ」となっている5節を、その前の1節ー4節にではなく、6節ー11節とつなげて区切っているのは、文法の上で6節が5節と切り離しがたくつながっているからです。独立した文という点からしますと、それは5節から始まっています。どういうことかと言いますと、6節には、

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

と記されています。この節は、その前の5節で、

 それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

と言われているときの「キリスト・イエス」を指す関係代名詞で始まっていて、5節との繋がりを示しているのです。
 先ほど引用しました1節ー4節で、パウロは主の民である私たちの間のお互いのあり方について教えています。そして、5節において、そのあり方は、私たちの主であられる「キリスト・イエス」が私たちに対して示してくださっているあり方であると述べています。そして、6節ー11節において、それを具体的に説明しています。つまり、私たちの主であられる「キリスト・イエス」が私たちに対してどのようにかかわってくださっているかが、私たち主の民のお互いの間のあり方に映し出されるということです。
 きょうは、6節ー11節に記されていることを、具体的に取り上げる前のこととして、このこと、すなわち、1節ー4節に記されているパウロの教えとの関連から考えられることについて、お話ししたいと思います。


 今お話ししましたように、このピリピ人への手紙2章5節ー11節に記されていることを、その前の1節ー4節に記されていることとの関連で見ますと、ここでは、私たちの主であられる「キリスト・イエス」が私たちに対してどのようにかかわってくださっているかが、私たち主の民のお互いの間のあり方に映し出されるということが示されています。これは、ヨハネの福音書13章1節ー17節に記されていることと対応しています。それで、まず、ヨハネの福音書13章1節ー17節に記されていることを見て、今お話していることにかかわっている一つのことを明らかにしたいと思います。
 まず、そこに記されている基本的な教えを見てみましょう。3節ー5節には、

イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

と記されています。また、少し飛びますが、12節ー17節には、

イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。

と記されています。
 ここには、イエス・キリストが弟子たちの足を洗われて、模範をお示しになり、弟子たちもそれに倣って、お互いの足を洗うようにと教えられたことが記されています。足を洗うことは、その当時になされていたことです。しかもそれは、しもべがなす務めの中でも、最も卑しい務めであると考えられていました(ISBE, revised, vol. 2, p333)。
 今お話ししていることとの関連で注目したいのは、最後の17節に記されている、

あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。

という教えです。これには、いくつかの注釈が必要です。

 あなたがたがこれらのことを知っているのなら

というみことばは条件節ですが、この場合は、弟子たちが「これらのことを知っている」という意味合いを伝えています。それで、

 あなたがたはこれらのことを知っているのですから

とも訳すこともできます。
 また、この場合の「これらのこと」は、14節ー15節に記されています、

それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。

というイエス・キリストの教え、あるいは「これらのこと」という複数形からして、これだけでなく、この前の12節後半ー13節に記されています、

わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。

という教えをも含めた、イエス・キリストの教えを指しています。
 また、17節後半は、

 それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。

と訳されていますが、直訳調に訳しますと、

 それらを行うなら、あなたがたは祝福されています。

となります。
 この二つの訳の示すことの間には、微妙な違いがあります。問題となるのは、後半の部分です。新改訳は、

 あなたがたは祝福されるのです。

と訳しています。これは新国際訳(NIV)の訳でもあります。これに対して、直訳調の訳は、

 あなたがたは祝福されています。

となります。これは改定標準訳(RSV)、新アメリカ標準訳(NASB)、新欽定訳(NKJV)などの訳でもあります。
 新改訳の、

 それらを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。

という訳が示すのは、それらを行うことによって、神さまからの祝福を受けるということです。その場合の「祝福」は「それらを行う」こととは別のことです。これに対して、直訳調の、

 それらを行うなら、あなたがたは祝福されています。

という訳が示しているのは、「それらを行う」こと自体が、神さまからの祝福である、あるいは、神さまからの祝福の現れであるということです。
 ここでのイエス・キリストの教えの趣旨は、この直訳調の訳が示している、「それらを行う」こと自体が神さまからの祝福である、あるいは祝福の現れであるということであると考えられます。というのは、生まれながらに罪の性質を宿している私たちには、ここでイエス・キリストが弟子たちに教えられたことを行うことができないからです。
 このことを理解するために、もう少し、このイエス・キリストの教えについてお話ししたいと思います。
 まず踏まえておきたいのは、イエス・キリストが弟子たちの足を洗われたのは、単なる、教訓のためのポーズではないということです。それは、1節に、

さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

と記されていることの現れです。イエス・キリストが弟子たちの足を洗われたのは、弟子たちに対する真の愛から出たことです。
 さらに、それに劣らず大切なことは、そのことをもって、弟子たちに、お互いの足を洗うようにと教えられたことも、弟子たちへのまことの愛から出ているということです。
 そのことは、ここでイエス・キリストが弟子たちの足を洗われたことには、その当時、一般的になされていたことを越えた意味があることとかかわっています。先ほど引用しました3節ー5節には、イエス・キリストが弟子たちの足を洗い始められたことが記されていました。先ほどは飛ばしましたが、これに続く6節ー10節前半には、

こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。

と記されています。
 ここに記されていることを理解する鍵は、7節に記されている、

わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。

というイエス・キリストの教えです。もちろん、ペテロは当時、一般的になされていたしもべの勤めである足を洗うことを、イエス・キリストがなさっておられるということは分かっていました。しかし、イエス・キリストがなさっておられることには、そのことを越えた意味がありますが、ペテロはその意味を理解することができなかったのです。結論的なことを言いますと、ペテロが、この時にイエス・キリストがしておられることを理解することができなかったのは、この時、ペテロは、イエス・キリストがご自身の民の罪を贖うために十字架につけられて、死ななければならないことを理解することができなかったからです。
 イエス・キリストは、私たちの罪を負って十字架におかかりになり、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになりました。それによって、私たちを、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばき、すなわち、永遠の死と滅びから救い出してくださいました。この時のペテロには、このことがまったく理解できませんでした。もちろんそれは、ペテロだけのことではありません。ほかの人々もそのことをまったく理解できませんでした。ペテロも、その当時の人々が考えていたように、メシヤはその御力によって、自分たちを虐げている敵であるローマ帝国を打ち倒し、その圧倒的な力によって人々を従わせ、モーセ律法を基盤として、自分たちユダヤ人を中心とした理想的な世界を確立するというように理解していたからです。人々の目に理想的な国と映るものであっても、この世の国々のうちの一つを確立するということです。
 しかし、そのペテロも、イエス・キリストが十字架におかかりになって、死んでくださった後に、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストが注いでくださった御霊によって導かれて、イエス・キリストの十字架の死が自分たちの罪を贖うための死であったことを理解し、悟るようになりました。これが、7節に記されている、

わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。

というイエス・キリストの教えの意味していることです。
 また、イエス・キリストは、8節に記されていますように、

 もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。

と教えておられます。
 この場合、イエス・キリストが洗ってくださるということは、イエス・キリストがご自身の十字架の死によって成し遂げられた罪の贖いに基づいて、私たちの罪をきよめてくださることを意味しています。それで、

もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。

という教えは、イエス・キリストがご自身の十字架の死によって成し遂げられた罪の贖いにあずかって、罪をきよめていただいていない人は、イエス・キリストと何の関係もないということを意味しています。
 さらに、10節前半に記されていますように、イエス・キリストは、

 水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。

と教えておられます。
 この「水浴した者」とは、イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた罪の贖いにあずかって、罪をきよめていただいている人のことです。イエス・キリストは、その人は、

 全身きよいのです。

と教えておられます。
 同時に、イエス・キリストは、そのように、罪をきよめられている人であっても、足を洗う必要があると教えておられます。同じヨハネがその第一の手紙1章8節ー10節に、

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

と記していますように、そのように罪をきよめられている人でも、その人のうちには、なおも、罪の性質が残っていて、その人は実際に罪を犯してしまいます。その罪も、その都度、イエス・キリストが十字架の死によって成し遂げられた罪の贖いにあずかって、きよめていただく必要があるのです。
 イエス・キリストは私たちを罪とその結果である永遠の死と滅びから贖い出してくださり、私たちを永遠のいのち、すなわち、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる者としてくださるために必要なすべてのことを成し遂げてくださいました。それは、私たちにそのようなことに値する価値があったからではありません。それはただ、イエス・キリストが、そのような無価値な私たちを愛してくださったからにほかなりません。
 イエス・キリストが私たちにお互いの足を洗うようにと教えておられるのは、私たちもイエス・キリストのように、お互いの罪の贖いのために死ぬようにという意味ではありません。そのようなことは、被造物、すなわち、神さまによって造られたものでしかない人間にはできないことですし、御使いたちにもできないことです。まして、自らの罪を絶えずきよめていただかなければならない状態にある私たちには決してできません。私たちがお互いの足を洗うということは、私たちがイエス・キリストの愛に倣うようになるという意味です。特に、その愛のうちにあって、お互いの罪を赦し合うということです。
 このことの前提にあるのは、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、罪をきよめていただいている私たちのうちに、罪の自己中心性から解放された、まことの愛が芽生えているということです。というより、私たち自身がイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれていて、そのイエス・キリストの復活のいのち、すなわち、永遠のいのちの本質的な特質が愛なのです。それで、私たちのうちに罪の自己中心性から解放された、まことの愛が芽生えているのです。
 そのようにして、私たちがお互いに愛をもって仕え合うことができるとしたら、それは、私たちがイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、罪をきよめていただいていること、さらには、イエス・キリストの復活のいのちにあずかって新しく生まれていることの現れです。それは、まことに祝福された状態にあることです。私たちにとって、これ以上の祝福はありません。このことから、先ほどの、

あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それらを行うなら、あなたがたは祝福されているのです。

というイエス・キリストの教えの意味が理解できます。私たちがイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと、イエス・キリストの復活のいのちにあずかって、罪の自己中心性から解放され、お互いに愛をもって仕え合うことができるようになっていること自体が、祝福されている状態にあることであって、そうすることによって、何かほかの祝福を受けるようになるということではありません。

 長い前置きになってしまいましたが、これらのことを踏まえて、ピリピ人への手紙2章1節ー11節に記されているパウロの教えに戻ります。
 先ほど引用しましたように、1節ー4節には、

こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

というパウロの教えが記されていました。
 新改訳では分かりにくいのですが、冒頭の、

もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、

ということばは、それぞれに「もし・・・なら」ということばがついている4つの条件節を連ねています。そのすべては、それがピリピ人への手紙の読者、すなわち、ピリピの教会の信徒たちの間に、実際に、それが現実となっていることを意味しています。それで、この「・・・があるなら」ということばは、「・・・があるのだから」とも訳すことができます。さらに、これらのことは、「キリストにあって」ということばが示していますように、イエス・キリストが実現してくださっていることです。
 ここでは、これらのことが基になって、互いに愛し合うべきことが、より具体的な形で示されています。特に、後半の3節ー4節に、

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

と記されていますように、イエス・キリストが十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いと、イエス・キリストの復活のいのちにあずかって、罪をきよめられている者、罪の自己中心性から解放されている者としての愛をもって、互いに愛し合うべきことが、具体的な形で示されています。
 そして、5節には、

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

と記されています。これによって、1節ー4節に記されている教えに示されている、イエス・キリストが十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いと、イエス・キリストの復活のいのちにあずかって、罪をきよめられ、罪の自己中心性から解放されている者としての愛をもって互いに愛し合うことは、イエス・キリストが私たちご自身の民を愛してくださった愛を映し出すことであることが示されています。
 そして、イエス・キリストがどのように私たちを愛してくださったかが、6節ー11節において、説明されています。私たちがイエス・キリストにあって、すなわち、イエス・キリストが十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いにあずかり、イエス・キリストの復活にあずかって新しく生まれている者として、互いに愛し合うことは、特に、前半の、6節ー8節に、

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

と記されているイエス・キリストのお姿を映し出すことであるということです。そのことは、私たち自身が、イエス・キリストの御姿に似た者に造り変えられていることを意味しています。また、私たちがイエス・キリストにあって互いに愛し合うことによって、イエス・キリストに似た者として成長していきます。先ほどお話ししましたように、このことは、それ自体が神さまからの祝福、あるいは祝福の現れです。
 さらに私たちは、先ほどお話ししましたように、イエス・キリストにあってお互いに愛することをとおして、イエス・キリストの私たちに対する愛を映し出すように召されています。けれども、まず、私たち自身が、イエス・キリストが十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いにあずかり、イエス・キリストの復活にあずかって新しく生まれているのでなければ、先ほど引用しました、ヨハネの福音書13章8節に記されているイエス・キリストの教えに示されてましたように、私たちはイエス・キリストとは何の関係もない者になってしまいます。もしそうであれば、私たちがどんなに互いに愛し合っていると思っていたとしても、それは、本当の意味で、イエス・キリストをあかしすることにはなりません。


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