聖霊によって(2)
(クリスマス説教集)


説教日:2004年12月19日
聖書箇所:マタイの福音書1章18節〜25節


 昨年のクリスマスには、その当時の社会的な通念に照して見たときに、マタイの福音書1章18節〜25節に記されているヨセフとマリヤがどのような状況に置かれていたかということを中心としてお話ししました。今年も、このマタイの福音書1章18節〜25節に記されていることに基づいてお話を続けます。
 まず、1年前のお話の復習をしておきたいと思います。
 18節には、

イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。

と記されています。

その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、

と言われているときの「妻と決まっていた」ということは、今日の言葉では「婚約していた」ということに当たります。けれども、その当時の考え方では、それはすでに結婚しているけれどもまだ一緒に住んでいない状態、いわば、結婚の第一段階に当たることでした。一般には、この状態が1年ほど続いてから二人が一緒に生活するようになったようです。このように、この時、ヨセフとマリヤは実質的に結婚しているのと同じ関係にありました。それで、19節では、ヨセフのことが「夫のヨセフ」と言われていますし、20節ではヨセフに現れた主の使いがマリヤのことを「あなたの妻マリヤ」と呼んでいます。
 この時、マリヤとヨセフが何歳くらいであったかということですが、その当時のユダヤ社会では、男性は18歳から20歳の間に結婚するのが一般的であったようです。女性はそれより早く、中には12歳くらいで結婚する例もあったようです。それで、この時、ヨセフは20歳くらい、マリヤは、それより少し年下で、十代の半ば過ぎくらいであったと考えられます。ですから、この時のマリヤは、私たちが時々目にする、幼子イエスを腕に抱く成熟した女性という絵画に描かれたイメージとはだいぶ違うわけです。
 このような、いわば結婚の第一段階とも言うべき状態にある二人がこの関係を解消するためには、正式な離婚の手続きが必要でした。さらに、旧約聖書に記されているモーセ律法の規定では、この状態にある人が姦淫の罪を犯すなら、結婚している人が姦淫の罪を犯したことと同じように、石打の刑に処せられることになっていました。実際には、石打の刑は執行されることはなかったようですが、それは大変不名誉なことで、その父親は娘が死んでくれることを願うほどであったと言われています。
 ですから、

ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。

と言われていることは、それが聖霊のお働きによることであるということは知られていませんでしたから、きわめて深刻な事態であったわけです。
 この「わかった」と言われていることから、誰がわかったのかということが問題となります。けれども、この言葉(ヒュリスコーの受動態・3人称・単数)は、この場合は、とても意味が弱いもので、「・・・となった」というような意味合いを伝えていると考えられます。つまり、この場合は、

ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になった。

という事実を伝えているということです。
 もちろん、マリヤが身重になったということはヨセフにも知られるようになりました。そのことは、19節に、

夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

と記されていることから分かります。当然それは、マリヤの両親にも分かったはずです。けれども、それが聖霊のお働きによるということまでは、マリヤの両親にもヨセフにも、分かりませんでした。ですから、マリヤの両親もヨセフも、マリヤが何らかの形で不義を犯したと判断するほかはありませんでした。かりにマリヤが無理やりに手込めにされた場合であっても、その当時の社会では、もはやマリヤはヨセフと結婚できないとされていたようです。

夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

というときの「正しい」ということは、ヨセフが主の律法の戒めを守っている人であることを示しています。そのようなヨセフにはマリヤと別れる道しか残されていなかったと考えられます。そうではあっても、ヨセフはマリヤを社会的に辱めるようなことはしたくないと考えて、そのために最もよいと思われる道を考えていたのです。


 20節に記されている、

彼がこのことを思い巡らしていたとき、

という言葉は(不定過去形ですので)ヨセフがすでに考えた末に決断をしていたということを暗示しています。ですから、これはヨセフがどうしようかと迷っている時に、主が御使いによってことの次第を示してくださったということではありません。その意味で、これは、その前の19節で、

夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

と言われていることと矛盾しません。
 主はヨセフが結論を出すまで待っておられて、ヨセフがマリヤを内密に去らせる決断をした時にことの次第を明らかにしてくださいました。このことにも意味があるはずですが、それを理解するための手がかりは見当たらないような気がします。けれども、ヨセフの場合とマリヤの場合とでは、主がことの次第を明らかにしてくださる時が違っているということには注目していいのではないかと思われます。
 マリヤの場合には、ルカの福音書1章26節〜38節に記されていますように、マリヤが身重になる前に、ことの次第が告げられています。さらに、これもルカの福音書に記されていることですが、この後マリヤはただちに「親類のエリサベツ」のもとに行きます。そして、そこに3ヶ月滞在しました。エリサベツは子が与えられないままに老年になっていましたが、主の御業によって身重になって6ヶ月になっていました。このエリサベツはバプテスマのヨハネの母となります。ヨセフが、マリヤが身重になっていることを知るようになったのは、そのことが、はた目にもはっきりと分かるようになってからのことでしょうから、マリヤがエリサベツのもとから帰って来てからのことであったと考えられます。
 いずれにしましても、もし、主が前もってマリヤにことの次第を告げてくださったのであれば、ヨセフにも前もって告げてくださっていてもよかったのではないかと思いたくなります。そうすれば、ヨセフも無用な心配をしなくてすんだのではないかという気がします。ということは、主がマリヤと同じように前もってヨセフにことの次第を告げてくださらなかったので、ヨセフはさまざまなことを考えて結論を出さなければならなかったということです。そして、そのこと、つまり、ヨセフがいろいろなことを考え合わせて結論を出さなければならなかったということこそが、ヨセフに必要なことであり、主はヨセフにその機会をお与えになったのではないかと考えられます。
 どういうことかと言いますと、ヨセフはマリヤが身重になったということしか知らない時に、自分には身に覚えがないことですので、マリヤの側に問題があると考えました。そして、そのような場合に何をどのように考えなければならないかということを、社会通念にしたがって考えることによって、このような問題が社会的にどれほど重く厳しいものであるかを、自分たちのこととして考えさせられたわけです。それは、そのような問題についてのうわさ話を聞いた場合とはわけが違います。
 主は、ヨセフがそのようなことを自らのこととして考え抜いたうえで、マリヤを社会的に辱めることはしないというように、マリヤのことを思いやる決断をするまで待っておられました。その決断において、ヨセフがなおもマリヤのことを思いやる人物であることが明らかにされました。そして、ヨセフがそのような決断をした時に、ことの次第を明らかにしてくださいました。それによって、マリヤが置かれている状況の厳しさを、真に自分のこととして理解することができるようになったのだと考えられます。そして、そのことを理解して初めて、マリヤの夫として、マリヤのために、また生れてくる子のために自分をささげていくべき決意をすることができたはずです。
 昨年もお話ししましたが、その当時の社会では、不義を働いた妻は離婚すべきであると考えられていて、そのような妻を離婚できない夫はかえって世間の物笑いとなったと言われています。ヨセフはマリヤの置かれている社会的な状況の厳しさばかりでなく、自分が負わなければならないものが何であるかも自覚していくことになったはずです。
 そのようにして、主は夢の中でのことでしたが、ヨセフのもとに御使いを遣わして、ことの次第を明らかにしてくださいました。20節、21節には、

彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

と記されています。
 ここでヨセフは「ダビデの子ヨセフ」と呼ばれています。これは、これに先立つ1節〜17節に記されています「イエス・キリストの系図」を見れば分かりますが、ヨセフはダビデ王の子孫であったのです。ヨセフはナザレというガリラヤの町の大工でしたが、世が世であれば、王位継承者であったはずの人物でした。
 ダビデ王はイスラエルの王国を確立した王でした。それとともに、ダビデ王は神である主から一つの約束を受け取っていました。サムエル記第二・7章12節〜16節には、預言者ナタンをとおして語られた主の約束の言葉が記されています。それは、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。

というものです。
 この神である主の約束は、その後も繰り返し語られていきます。ダビデの血肉の子孫であるイスラエルの王たちは自らの罪のために高ぶり、主の御前に背教し、偶像礼拝にはしってしまいます。その結果、まず、王国は北王国イスラエルと南王国ユダに分裂しました。北王国イスラエルは背教を重ねて主のさばきを招き、アッシリヤに滅ぼされてしまいます。首都サマリヤの陥落は紀元前722年のことです。南王国ユダも、何人かの王による改革が試みられましたが、背教の流れは止まらず、ついにバビロンによって滅ぼされてしまいます。紀元前587年のことです。
 これによって、ダビデの血肉の子孫による地上的な王国の王座が、ダビデに約束された永遠の王座ではないことが、歴史の出来事をとおして示されることとなりました。言い換えますと、ダビデに約束されたダビデの子の永遠の王座は、武力や経済力などの血肉の力を積み上げ、敵を血肉の力で屈服させることによって築き上げる地上的な王国の王座ではないということです。そのような王国の王座が永遠のものではないことは、人類の歴史をとおして実証されてきました。
 ダビデの血肉の子孫である王たちの背教によってさばきを招いた歴史は、南王国ユダがバビロンによって滅ぼされたことをもって結末を迎えます。ユダの滅亡の十年前の紀元前597年のバビロンの捕囚によってバビロンの地に捕え移された民の中に、神である主は預言者エゼキエルを起こしてくださいました。そのエゼキエルを通して、神である主は、南王国ユダになおも残された民の罪を徹底的に示されます。それは587年の最終的なさばきの執行につながっていきます。しかし、それと同時に、ご自身の約束が取り消されていないことも示してくださいました。それは、もはや人間のもつ血肉の力が、神である主の御前にはまったく無力なものであることが徹底的に示された後に、神である主の一方的な恵みによる回復が図られるという形で示されています。
 エゼキエル書37章1節〜14節には、有名な「干からびた骨の谷」の幻が記されています。そこには、

主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる。』と言っている。それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。―― 主の御告げ。――

と記されています。11節で、

人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。

と言われていますように、この「干からびた骨」はイスラエルの民を象徴的に表しています。それが、14節で、

わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。

と言われているのです。まさに、人の力のまったく尽きたそのような時に、主の一方的な愛に基づく恵みによって、救いの御業がなされるのです。このことを受けて、イスラエルの民の回復の預言がなされるのですが、その結論部分に当たる24節〜28節には、

わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行なう。彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた国、あなたがたの先祖が住んだ国に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちとがとこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。わたしの聖所が永遠に彼らのうちにあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知ろう。

と記されています。
 もちろん、これも、旧約聖書の枠の中にありますので、地上的なひな型(模型)としてのイスラエルの民をモデルとして語られています。しかし、ダビデにアタ約束された永遠の王座が血肉の力の積み上げによって支えられるものではないことは明確に示されています。
 夢でヨセフに現れた御使いは、ダビデの血肉の子孫で、王位継承者でもあったヨセフに、

ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

と告げました。
 これは、余りにも短い説明ではないかという気がします。これが短いのは、ヨセフにはこれで十分であったからです。ヨセフはこれだけで、自分に語られたことの意味を悟ることができたということです。
 御使いはヨセフに、

恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。

と言いました。この「恐れないで」ということは(不定過去形の禁止を示すもので)、これは、この時だけ恐れてはいけないということではなく、この先のことも含めてずっと恐れてはいけないということを意味しています。
 では、具体的に何を恐れてはいけないというのでしょうか。まず考えられることは、これまでお話ししてきたことに見られるヨセフが理解していたであろうマリヤの置かれている状況の厳しさです。それは、この後自分にも降りかかってくることになる社会的な状況の厳しさにもつながっています。それらのことを恐れてはいけないと言われていることは言うまでもありません。しかし、ここには、それ以上のことがあります。それは、これから御使いによって告げられることですが、ヨセフは主の救いのご計画にかかわっていくことになります。当然、自分がそのようなことにとてもふさわしい者ではないということを痛感することから、そのことに対する、恐れが湧いてくることになります。そのすべてにおいて恐れてはいけないということが語られているのです。
 なぜ恐れてはいけないと言われたのでしょうか。それは、すべてのことを神である主が成し遂げてくださるからです。しかし、そうであるからといって、マリヤとヨセフの前にある障害が取り除かれたわけではありません。このこととの関連で、一つのことを考えたいと思います。
 すでにお話ししましたように、主は、まずマリヤに御使いガブリエルをお遣わしになって、マリヤが聖霊のお働きによって身重になることを知らせてくださいました。けれども、それは、今日の人々だけでなく、その当時の人々にとっても、途方もないことです。そのようなことを御使いから告げられたと十代の乙女が言ったとしても、誰も信じなかったはずです。そのことを考えますと、主は全能の神ですから、もっといろいろなことをしてくださってもよさそうなものだと考えたくなります。たとえば、この時からマリヤの胎に永遠の神の御子が宿られたのですから、マリヤに特別な力が与えられて、マリヤが奇跡的なことを行うようになったとか、そこまでいかなくても、マリヤが神々しい風ぼうになったというような、劇的な変化が起こっていたとしたらどうだったでしょうか。人々はマリヤに特別なことが起こっているということを認めざるを得なかったはずです。
 実際、ルカの福音書1章には、エリサベツの夫で老祭司ザカリヤは主の聖所において香を焚いている時に、御使いガブリエルが現れてバプテスマのヨハネの誕生を告げました。それを信じなかったザカリヤは、ヨハネの誕生の時まで口をきくことができなくなったので、人々はザカリヤに特別なことが起こったということを知るようになりました。
 しかし、同じ御使いガブリエルをとおして主が告げてくださったことを信じて受け入れたマリヤには、そのような不思議なことはまったく起こりませんでした。その結果といっては語弊がありますが、マリヤは社会的に苦しい立場に置かれることになりましたし、やがて、夫ヨセフも同様な立場に置かれることになりました。
 とはいえ、このことに関してマリヤとヨセフに奇跡的なことが起こっていないわけではありません。というのは、マリヤには御使いガブリエルが遣わされて、マリヤの身に起こることについて告げられましたし、ヨセフには夢を通して御使いが遣わされてマリヤの身に起こっていることの意味が告げられたからです。それなら、そのようなことが少なくとも、マリヤとヨセフの住んでいるナザレの町の人々にも告げられたらよかったのではないかとも考えたくなります。しかし、主はそのようなことはなさいませんでした。ただ、マリヤとヨセフに必要なことを示してくださっただけです。
 マリヤとヨセフに示されたことは、この出来事が御霊のお働きによることであるということと、それが旧約聖書をとおして約束されてきたことの成就であるということでした。それは、マリヤとヨセフが信じるために必要なことでした。そして、それ以上のことは示されませんでしたし、それ以外のことも起こりませんでした。
 御使いがヨセフに「恐れてはいけない」と言ったのは、先ほども言いましたように、すべては神である主がなしてくださることであるからです。ヨセフはそのことを信じるために必要なことを御使いをとおして主から示されました。ヨセフに残されていることは、恐れないで、主を信頼して自分に委ねられていることに忠実であることだけです。そして、実際に、ヨセフもマリヤも、主が御使いを通して語ってくださったことを信じて、それに従いました。主は、そのことをとおしてご自身の御業を遂行されることをよしとされました。これは、今日の私たちに委ねられている使命の遂行についても当てはまります。
 御使いは、ヨセフに、

ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

と言いました。この、

あなたの妻マリヤを迎えなさい。

ということは、マリヤとの結婚を解消しないようにということですが、これにはそれ以上の意味があります。それは、これに続く、

その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

と言われていることとつながっています。この、

その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

ということは、マリヤの胎に宿っている方は、聖霊のお働きによって宿った方であるということを伝える言葉です。ですから、

あなたの妻マリヤを迎えなさい。

ということは、「ダビデの子ヨセフ」がそのような方を宿しているマリヤを妻として迎え入れるということです。それは、聖霊によってマリヤの胎に宿った方を「ダビデの子」の家系に迎え入れるということを意味しています。ここに、血肉のつながりによらない「ダビデの子」の存在が啓示されているのです。
 ヨセフはダビデの血肉の子孫であり、世が世であれば王位継承者であったはずですが、実際には、ナザレの町の大工でした。また、ユダヤもローマの属領として苦しんでいました。それゆえに、ダビデの血肉の子孫である王たちの背教のことを人一倍心痛む思いで受け止めていたであろうヨセフにとっては、衝撃的なことであったはずです。先祖ダビデに約束された永遠の王座に着座されるダビデの子は、自分たち血肉の子孫とは違う方であるということが示されたのです。自分自身を含めてダビデの血肉の子孫の罪深さと無力さを痛感していたであろうヨセフにとっては、まったく新しい光が見えてきたということになります。
 御使いはさらに、聖霊によってマリヤの胎に宿られた方について、

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

と言いました。
 この方がダビデの血肉の子孫ではなく、聖霊によってマリヤの胎に宿られた方であることの意味が、ここで明らかにされています。

その名をイエスとつけなさい。

と言われているときの「イエス」という名は、ヘブル語では「ヨシュア」で、「主は救い(あるいは、助け)」という意味です。これはモーセの後継者でイスラエルの民を約束の地であるカナンに導き入れたヨシュアの名の成就です。
 この方は、マリヤの胎に宿った方として、まことの人でした。しかし、もしこの方がダビデの血肉の子孫であったなら、この方自身が自らのうちに罪を宿しているものとして生れてくることになったでしょう。けれども、この方は、聖霊によってマリヤの胎に宿られた方として、ご自身のうちに罪を宿しておられませんでした。そのために、ご自身の民の罪を背負って、ご自身の民の身代わりになって罪の刑罰をお受けになることがおできになったのです。コリント人への手紙第二・5章21節には、

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

と記されています。
 ダビデに約束された永遠の王座に着座される方は、永遠に王としてご自身の民を治められます。この方は、この世の王や権力者たちのように、武力や経済力などの血肉の力を積み上げ、それにものを言わせて支配する方ではありません。むしろ、ご自身の民を罪と死の力から贖い出してくださるために、十字架にかかってご自身のいのちをもおささげになった方です。そのようにして、私たちを永遠のいのちへと導き入れてくださる方です。
 先ほど、血肉の力が尽きてしまったときに、そして、血肉の力の尽きるところにおいてこそ、神である主の愛に基づく一方的な恵みが示されるということをお話ししました。血肉の力が尽きることが最も端的に現れるのは、死の時です。それで、あの「干からびた骨」の幻が示されたわけです。
 聖書は、人の死は人の罪に対する神さまのさばきの結果であると教えています。ただそのように教えているだけでなく、その血肉の力の尽きるそのところにおいて、神である主の愛に基づく一方的な恵みが働くようになると教えています。それは、私たちの罪を贖ってくださるために十字架にかかって死んでくださり、私たちを永遠のいのちに生かしてくださるために死者の中からよみがえられたイエス・キリストによる贖いの恵みです。
 それが、御使いがヨセフに、

この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

と告げたことの中心にあることです。クリスマスは、この方が、実際に、私たちと同じ人の性質を取って来てくださったこと、聖霊のお働きによってマリヤの胎に宿って来てくださったことを覚える時です。


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