聖霊によって(1)
(クリスマス説教集)


説教日:2003年12月21日
聖書箇所:マタイの福音書1章18節〜25節


 今日は2003年の降誕節に当たります。今日はマタイの福音書1章18節〜25節に記されている、イエス・キリストの誕生についての記事からお話ししたいと思います。今日は、おもに、ここに記されていることの背景となっている、その当時のユダヤ社会の習慣や考え方に照らして見たときに考えられることに焦点を合わせてお話しします。
 イエス・キリストの誕生のことはルカの福音書1章1節〜2章20節にも記されています。同じくイエス・キリストの誕生が御使いによって告げられたことの記事でも、ルカの福音書1章においては、イエス・キリストの母であるマリヤに焦点が合わせられています。これに対しまして、マタイの福音書1章18節〜25節においてはヨセフに焦点が合わせられています。
 ルカの福音書1章1節〜2章20節に記されていることについては、これまでの二十数年の間にお話ししてまいりました。今日お話しすることとのかかわりで、その中の一つのことに触れておきたいと思います。1章46節〜55節には、一般に「マニフィカート」として知られている「マリヤの賛歌」が記されています。その最初の部分は、

  わがたましいは主をあがめ、
  わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
  主はこの卑しいはしために
  目を留めてくださったからです。
  ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、
  私をしあわせ者と思うでしょう。
  力ある方が、
  私に大きなことをしてくださいました。

というものです。
 私たちはこのようなマリヤの賛美と告白に合わせて、マリヤは幸いな女性であったと考えます。それはそのとおりですが、その幸いとはどのようなものであるのでしょうか。


 このようなことを念頭において、マタイが記していることを見てみましょう。
 18節には、

イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。

と記されています。
 少し面倒なお話になりますが、ここで「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていた」と言われているときの、「妻と決まっていた」と訳されていることばは、一つのことば(ムネーステューオーの不定過去形・受動態・分詞)です。ここには「」ということばはありませんが、「妻と決まっていた」と訳さなければならない事情があります。
 このことばは新約聖書の中では三回用いられています。ここで一回、後の二回はルカの福音書に出てきます。
 一つは1章27節で、そこには、

この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。

と記されています。この「いいなずけで」と訳されていることば(ムネーステューオーの完了形・受動態・分詞)がそれです。これはマタイの福音書に合わせれば「妻と決まっていて」と訳してもいいわけです。
 もう一つは2章5節です。4節から引用しますと、そこには、

ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。

と記されています。ここで「いいなずけの妻である]」と訳されてることば(ムネーステューオーの完了形・受動態・分詞)が、マタイの福音書1章18節で「妻と決まっていた」と訳されていることばと同じことばです。このルカの福音書2章5節には、すでにヨセフとマリヤが結婚していたと考えられることから「いいなずけの妻である]」と訳したのであると思われます。マタイの福音書1章24節、25節に、

ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

と記されていますように、このとき二人はすでに結婚していたと考えられます。
 これらのことから察することができますが、マタイの福音書1章18節で「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていた」と言われているのは、今日の婚約よりはるかにその結びつきが深いものです。それで、マタイは19節でヨセフのことを「夫のヨセフ」と呼んでいます。ここには「」ということばがあります。そして、20節では、ヨセフに現われた御使いがマリヤのことを「あなたの妻マリヤ」と呼んでいます。ここには「」ということばがあります。このようなことから、この状態は結婚の第一段階であると考えられています。実際、この関係を解消するためには、離婚の場合と同じ手続きを必要としていました。
 一般には、このような状態は一年ほど続いて、その後に二人は一緒に住むようになったようです。
 また、今日お話しすることにも関係がありますが、申命記22章22節には、ある男性が結婚をしている女性と姦淫を犯した場合には、二人とも死に値するという規定が記されています。続く23節には、

ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、

というケースが記されています。ここで「婚約中の」ということがマタイの福音書1章18節で「妻と決まっていた」と言われていることに当たります。そして、この場合の罰則も結婚している女性の場合と同じで、二人は死に値するとされています。けれども、この少し後の28節、29節には、その女性が誰かと婚約していない場合のことが記されています。この場合には、二人が死に値するとはされていません。このように、この旧約聖書の律法の規定は結婚における夫と妻の結びつきの大切さを強調しています。そして、ある女性がある男性と「婚約中」で「妻と決まっていた」場合には、二人は結婚しているのと同じであると見なしています。
 実際には、その当時のユダヤ社会では、この旧約聖書の律法の罰則規定がそのまま執行されていたわけではありません。けれども、そのような規定があるということは皆が知っていました。マタイの福音書1章18節〜24節に記されていることには、このような文化的・社会的な背景がありました。
 改めて18節を見てみますと、そこには、

イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。

と記されています。
 ここでは、

ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。

と言われています。この場合、誰に「わかった」のかが問題となります。この「わかった」は、基本的に「見つけ出す」ことを意味することば(ヒューリスコー)の三人称単数形で、しかも受動態の動詞です。そしてこの主語はマリヤですので、マリヤが身ごもったことを「知られてしまった」というように理解することができます。それでこれは、ヨセフが、マリヤが身重になったことを知ったのだという見方があります。けれども、この時、ヨセフは、マリヤが身重になったことが聖霊のお働きによることであるということを、まだ知りません。そのことを知っているのはマリヤだけです。ですから、この「わかった」ということは、ヨセフが「わかった」ということではないと思われます。おそらくこれは、ヘブル語に見られる意味が弱い受動態を反映していて、そのことが誰かに知られたというのではなく、単純に、

ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になった

の「なった」を表わしていると考えられます。
 もちろん、マリヤが身重になったことは、マリヤの家族に分かったことですし、やがてヨセフも知ることになりました。19節には、

夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

と記されています。ここに記されていることから、ヨセフは、マリヤが身重になったことは知っていたけれども、それが聖霊のお働きによることであったことは知っていなかった、ということが分かります。
 このこととの関連で、ルカの福音書1章26節〜38節に記されていることを見てみましょう。そこには、

ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

と記されています。
 このように、マリヤは自分が身重になる前に、御使いガブリエルから、マリヤの胎に男の子が宿るようになること、それはダビデに約束された王座について永遠にご自身の民を治めるメシヤであることを示されていました。そして、それは聖霊のお働きによることであるということも示されていました。けれども、ヨセフは、マリヤが身重になったことが聖霊のお働きによることであるということを知りませんでした。
 ここに一つの疑問がわいてきます。それは、自分の妻となるマリヤが御使いからそのようなことを告げられているのに、ヨセフがそのことをまったく知らなかったのはどういうことかということです。このことから、もしかすると、ルカの福音書に記されていることかマタイの福音書に記されていることのどちらかが間違っているのではないかというような疑問さえも出てくるかもしれません。
 けれども、私たちの目にはおかしなことと映るでしょうが、その当時のユダヤ社会の一般的な考え方や習慣に照らして見ますと、これは、必ずしもおかしなことではないのです。
 まず、ヨセフのことはおいておいて、一般的なこととして、マリヤの身に起こったことを見てみましょう。
 人々の目に映るのは、ヨセフの妻になるはずのマリヤが身重になったということだけです。それがヨセフによることであれば、ヨセフとマリヤは軽率な男女だという評価が下って、社会的な恥を被ることになります。それがヨセフによることでなければ、マリヤが姦淫の罪を犯したというように考えるのが普通です。そして、先ほどお話ししましたように、旧約聖書の律法は、そのような罪を犯した者は死に値するものであるとされていました。その当時のユダヤ社会では実際には死刑は執行されてはいませんでしたが、そのような女性は社会的に恥ずべき者としての烙印を押されて、二度と結婚できなかったと言われています。
 また、それで、自分の娘がそのように不真実なことをしてしまったときには、その父親は、娘に死を選んでほしいとさえ思ったのだそうです。そうであれば、福音書には記されていませんが、マリヤがヨセフと一緒になる前に身重になったことを知ったマリヤの父は、社会的な面目を失ったと感じて苦しんだはずです。
 さらに、その当時のユダヤ社会の一般的な考え方と習慣に照らして見ますと、男性と女性が結婚する時の年齢はとても若かったということがあります。私たちは何となく、ヨセフとマリヤは結婚したときには社会経験を積んで年齢的にも成熟した男女であったというイメージを持っています。けれども、それは私たちの印象に基づくもので、実際には、ヨセフとマリヤはとても若い男女であったと考えられます。その当時のユダヤ社会では、男性は十八歳から二十歳の間に結婚するのが一般的であったようです。女性はそれより早く、中には十二歳くらいで結婚する例もあったようです。
 聖書の中にはヨセフとマリヤが何歳で結婚したかは記されていません。何も言われていない場合には、その当時のユダヤ社会において一般的な年齢になって結婚したと考えられます。それで、この時、ヨセフは二十歳くらい、マリヤは、それより少し年下で、十代の半ば過ぎくらいであったと考えられます。
 そのように、年も若いうえに正式に結婚する前に身重になってしまったマリヤが、御使いガブリエルが現われて、マリヤが約束のメシヤを身ごもるようになるが、それは聖霊のお働きによることであると告げたと説明したとしても、誰が信じるでしょうか。マリヤの両親であっても、信じられなかったはずです。ただ信じてもらえなかっただけでなく、自分の犯した罪をごまかすにしても、御使いばかりでなく、メシヤまでも持ち出すとは何事かと、さらに非難の嵐が襲ってきたことでしょう。
 それでは、夫となるべきヨセフはどうだったのでしょうか。夫となるはずの人であれば、マリヤのことを理解し、信じてくれるはずではないでしょうか。
 また、これも、その当時のユダヤ社会の一般的な考え方と習慣に照らしてのことですが、このヨセフとマリヤの場合のように夫婦になることになっていた二人は、今日の若者たちとは違って、二人だけで会って話をするということは、あまりありませんでした。当人たちは相手のことをあまりよく知らないままに、親たちの進める結婚がなされることが普通だったのです。そのことに照らして見ますと、ヨセフはマリヤのことをそんなによく知らなかったと思われます。それで、ヨセフが「あのマリヤが、まさか。」というように考える可能性は低かったと考えられます。
 このようなその当時の一般的な結婚の習慣に照らして見たときに、先ほどの疑問が解けます。ルカの福音書に記されていますように、マリヤは御使いガブリエルをとおしてマリヤの身に起こることとその意味についての啓示を受けています。けれども、マタイの福音書に記されていますように、ヨセフがマリヤの身に起こったことを理解していなかったということは、あり得ないことではなかったのです。
 マリヤは御使いガブリエルとの対話の最後に、

ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。

と言いました。それは何でもないごく自然なことばのように響きます。けれども、それは、マリヤにとっては、誰にも信じてもらえないままに、社会的な非難を受けるようになるであろうことが、自分の身に起こるということを意味していました。しかもこの時、マリヤはまだ十代の乙女でした。
 永遠の神の御子がご自身の民の贖い主となるために、聖霊のお働きによって年若き乙女の胎に宿るという、奇跡の中の奇跡とも呼ぶべきことが起こりました。けれども、それはその当時の人々の思いを超えていました。もしそれが不治の病がいやされるというような、劇的なことであったなら、誰もが驚いて、マリヤのことをうらやんだことでしょう。けれども、実際にマリヤの身に起こることは、結婚する前に身重になるということで、それによって「ふしだらで不誠実な女」という烙印を押されることになることが十分に予測できることでした。しかも、そのことをどのように説明したとしても、誰にも信じてはもらえないことでした。それは、永遠の神の御子が私たちの贖い主として来てくださったこと、その軌跡の中の奇跡は、私たちの目にはごく普通のこと、最も自然なことに見える形で起こったということを意味しています。
 これからマリヤの身に起こることはマリヤ自身がよく知っていたと思われます。それで、自分の夫となることになっていたヨセフにさえも、何も説明することはできなかったし、説明しなかったのであると考えられます。
 もちろん、マリヤは孤立無援であったのではありません。マリヤは、

ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。

という御使いガブリエルのことばにしたがって、直ちにエリサベツのもとに行って、そこで三ヶ月間過ごします。エリサベツは老祭司ザカリヤの妻で、老年になるまで子どもがなく、「不妊の女」と呼ばれていました。そのエリサベツの胎にメシヤの先駆けとなる男の子、後のバプテスマのヨハネが宿っていました。エリサベツとの交わりの中で主の約束の実現を現実的に確かめたマリヤは、三ヶ月後に自分の家に帰ってきました。
 それから間もなく、マリヤが身ごもっていることがヨセフにも知られるようになったのであると思われます。マリヤはヨセフに自分の身に起こっていることの意味を説明しませんでした。今日の私たちは、神さまの御霊の霊感によって記された聖書のみことばの光の下でマリヤの身に起こっていることを見ていますので、その意味を理解することができます。けれども、まだこのみことばの光がなかったときには、それを理解せよと言うほうが無理です。
 マリヤはこれらすべてのことを予測しながら、なおも、

  ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、
  私をしあわせ者と思うでしょう。

と告白したわけです。それは当面自分を襲ってくるであろう社会的な非難と恥辱を越えた、神さまのご計画と御業にかかわる者とされていることをしっかりと受け止めたことによる深い幸いを自覚した上での告白です。
 このことから、マリヤはこれらすべてにおいて、ひたすら主を信頼して待っていたということが感じ取れます。このような姿勢が十代の乙女の中に生まれているということ自体が驚くべきことです。そう考えますと、

  ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、
  私をしあわせ者と思うでしょう。

というマリヤの告白が聖霊に導かれての告白であったことが理解できます。また、マリヤが御使いガブリエルに言った、

ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。

ということばも、聖霊のお導きの下に言ったことばであると言うほかはありません。
 一方、ヨセフについては、

夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

と記されていました。ヨセフは「正しい人」であったと言われています。これはヨセフが罪を犯さなかったということではありません。この正しさの本質は、ヨセフが主の契約の中にとどまっていたことにあります。その主の契約は主の民に罪があることを踏まえています。その上で、その中には罪の贖いに対する備えもありました。ヨセフは主の契約のうちに備えられていた贖いの恵みに頼って、真実に主の御前を歩んでいた人であったわけです。
 この点でも、その当時の社会の考え方と習慣を踏まえておく必要があります。その当時のユダヤ社会では、自分の妻や妻となるべき女性が姦淫を犯したなら、離婚すべきであると教えられていました。
 またより広いローマの社会でも、そのような不真実な妻を離婚することは当然のこととされていて、離婚することができないような者は仲間たちの間で笑いものになりかねませんでした。
 ここに記されているヨセフの決断は、このような社会的な背景に照らして理解されます。
 ヨセフとしては、自分に身に覚えがないことなので、マリヤの側に不真実があったと判断するほかはありませんでした。それで、その当時の一般的な考え方にしたがって、マリヤと別れる道を選んだのだと考えられます。その際に、マリヤを訴えて、マリヤの持参金を自分のものにする道もありました。そうしますと、マリヤの不真実を公にすることになります。けれども、ヨセフはそのようにして自分の利益を計るよりは、マリヤがさらし者になることを避ける道を選びました。当然、マリヤに裏切られたという思いをもったでしょうが、それでも、マリヤをさらし者にすることはしてはならないと考えたのです。ヨセフは「正しい人」であったと言われていますが、決して冷徹に決まりだけを守っている人ではありませんでした。むしろ、心が豊かで思いやりに満ちた人でした。それこそがマタイが、

夫のヨセフは正しい人であった

と述べていることの中心にあったことだったのでしょう。
 このように、ヨセフは心が豊かで思いやりに満ちた人物でした。そのヨセフに、夢で、主の御使いが現われました。20節、21節には、

彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

と記されています。また、24節、25節には、

ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

と記されています。
 マリヤがそうであったように、ヨセフも主が御使いをとおして語られたみことばを信じて、それに従いました。そのことがヨセフにとって何を意味しているかは、これまでお話ししたとおりです。ヨセフはまだ妻となる女性と一緒になる前に、マリヤとの性的な交わりをもってしまった軽率な男というような評判を背負うことになります。それも、ヨセフにはよく分かっていたことであるはずです。ヨセフはそれを淡々と受け入れています。
 まだ二十歳にも満たない若者が、すでに心の豊かで思いやりに満ちた者になっていたばかりか、主のみこころを知って、それに従うことが自分にとって社会的な対面を失わせることになると分かっても、それを受け入れたのです。私たちはこのことのうちにも、聖霊のお働きがヨセフの決断を支えていたことを見ないではいられません。
 それにしても、今日の私たちの目には、これまでお話ししてきたユダヤ社会は過ちを犯した人に対して厳しすぎると感じられることでしょう。その厳しさが神である主の律法に基づいていると信じられているときには、その厳しさも増してきます。そのような社会で差別と偏見に苦しむ人々も多かったはずです。しかし、その点は、今日の私たちの社会もあまり変わっていません。犯罪を犯した人々や犯罪者のらく印を押された人々を徹底的に非難し排除していくことは、むしろひどくなってきているのではないかと気になります。
 ヘブル人への手紙5章7節〜9節には、

キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、

と記されています。
 ここに記されていますように、永遠の神の御子イエス・キリストは、人としての性質において罪の下にある人間の社会においてさまざまな苦しみを味わわれました。そして、ご自身が経験された苦しみをとおして、この社会の中にあって苦しむ人々の痛みと苦しみをご自身のことのように思いやってくださる、あわれみ深い大祭司となってくださいました。
 イエス・キリストは、差別と偏見が生まれやすい時代と社会にお生まれになりました。そして、実際に、母マリヤと父ヨセフが、ゆえなく後ろ指を指される状態にあったと考えられる家庭においてお育ちになりました。そのことの中で、罪の下にある人間の社会の理不尽さを肌でお感じになったことでしょう。そのことがこの罪の下にある人間の社会において、さまざまな形で苦しむ人々への深い思いやりとなって現われてきたと考えられます。
 ルカの福音書1章45節には、マリヤの訪問を受けたエリサベツが聖霊に満たされて語った、

主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。

ということばが記されています。この「信じきった人」ということばは女性形・単数で、マリヤをを指しています。それは、厳しい状況に置かれたマリヤにとって深い慰めになったことばです。それは、またエリサベツ自身が実感したことであったはずです。ですから、

主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。

ということは、マリヤとエリサベツの間で共有し、心の底から確認した思いでした。
 この後、マリヤは夫となるヨセフとの間にまったく同じ思いを共有していくことになったはずです。
 ルカの福音書2章24節には、ヨセフとマリヤがイエス・キリストの聖別のために「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽。」という規定にしたがっていけにえをささげたということが記されています。この「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽。」という規定は、新改訳の欄外にありますように、レビ記12章8節に記されています。これは、貧しいために、本来ささげるべき「全焼のいけにえとして一歳の子羊を一頭と、罪のためのいけにえとして家鳩のひなか、山鳩を一羽」をささげることができない者たちのために定められた規定でした。このことに表われていますように、ヨセフとマリヤの家庭は貧しい家庭でした。けれども、それは、主のみことばを信じることによってつながっている幸いな家庭であったのです。


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