歴史の現実の中で
(クリスマス説教集)


説教日:2001年12月23日
聖書箇所:ルカの福音書2章1節〜20節


 ルカの福音書2章1節〜20節には、救い主であられるイエス・キリストがお生まれになった時のことが記されています。今日は、この記事に見られることですが、主の降誕が歴史の現実の中で起こったということに注目してお話ししたいと思います。
 1節、2節には、

そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。

と記されています。
 これを読みますと、「全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た」ので、ローマ帝国の主権の及ぶところで一斉に「住民登録」がなされたというような印象を受けます。しかし、そのような印象は、今日のように交通網が整備されており、情報化の進んだ社会における「住民登録」のイメージに基づくものです。
 実際には、これは、ローマ帝国全体に及ぶ「住民登録」が一斉になされたという意味ではないようです。帝国の行政の改革に着手していたアウグストは、おもに徴税のために、必要に応じて「住民登録」を実施する意志を示していました。ここに記されているのは、そのようなアウグストの意志に沿って、ユダヤでも「住民登録」がなされたということであると考えられます。また、その頃の「住民登録」は、何年もの年月をかけてなされたようです。
 ここに記されている「住民登録」についてはいくつかの疑問点が指摘されていますが、それに対するさまざまな解決案も出されています。けれども、確かな結論に導かれるには、歴史的な資料が十分ではありません。いくつかの問題が残ってはいますが、この「住民登録」そのものを否定するほどの問題はありません。
 イエス・キリストがお生まれになったユダヤは、ローマ帝国の支配下にありました。しかし、イエス・キリストの地上の生涯を記している福音書では、ローマ帝国やローマ皇帝に対してはほとんど関心が寄せられていません。ローマ帝国の関係者はあちこちに登場しますが、その名前が記されているのは、二つの出来事との関係においてだけです。一つは、いま私たちが取り上げている記事にみられますように、イエス・キリストの降誕とのかかわりで、「皇帝アウグスト」と「シリヤの総督」であった「クレニオ」の名前が記されていることです。もう一つは、ルカの福音書ですと23章に記されていますが、イエス・キリストが十字架につけられて殺されたこととのかかわりで、ポンテオ・ピラトの名前が記されていることです。
 福音書は、ユダヤ人とその生活圏に関心を注いでいます。それは、ユダヤ人が旧約聖書の中に記されている救い主の約束を受け継いできていたからですし、イエス・キリストも、人としてはそのユダヤ人としてお生まれになり、ユダヤ社会において活動されたからです。しかし、イエス・キリストの降誕と十字架の死については、これをユダヤ人とのかかわりだけではなく、それを越えたより広いローマ帝国とのかかわりをも示しています。


 このことには、二つの意味があると考えられます。
 一つは、イエス・キリストの降誕と十字架の死が、私たちの住んでいるこの地上の世界の具体的な歴史の中で起こったということを示しています。イエス・キリストの降誕と十字架の死は、単なる物語の世界の出来事ではなく、現実の歴史の中の出来事なのです。
 それで、イエス・キリストの生涯と十字架の死によって成し遂げられた救いは、ただ単に私たちの気持ちを変えてくれるだけのものではありません。私たちの現実を変えてくれるものです。それは、私たちが裕福なものになるとか、病気や事故に遭わなくなるというように、私たちの回りの現実を変えてくれるということではありません。そうではなく、私たち自身の現実を変えてくれるのです。
 もちろん、それは、私たちが思うように私たちの現実が変わるようになるという意味ではありません。神さまのみこころに沿って私たちの現実が変わるということで、具体的には、私たちと神さまとの関係のあり方が変わり、私たち自身が造り変えられるということです。
 イエス・キリストが成し遂げてくださった救いは、イエス・キリストが十字架の上で血を流し、そのいのちを注ぎ出してくださることによって成し遂げられた救いです。ピリピ人への手紙2章6節〜8節には、

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

と記されています。
 イエス・キリストは、永遠の神の御子であられます。それで、イエス・キリストが、人の性質をお取りにならなければ、ご自身が十字架にかかって死ぬことはできません。イエス・キリストがお生まれになったのは、その生涯の最後に十字架にかかって死んでくださるためでした。
 当然、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったのは、そうしなければならない理由があったからです。イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださって初めて私たちが救われるというということです。神さまが御子イエス・キリストをとおして私たちのために成し遂げてくださった救いは、そのような救いです。
 それでは、その救いとはどのようなものでしょうか。
 マルコの福音書10章45節には、

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

というイエス・キリストの言葉が記されています。
 また、ローマ人への手紙3章23節〜25節には、

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。

と記されています。
 さらに、ペテロの手紙第一・2章22節〜24節には、

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

と記されています。
 イエス・キリストがお生まれになったのは、十字架にかかって死んでくださるためでした。そして、十字架にかかって死んでくださったのは、私たちのために「贖いの代価として」ご自身のいのちを与えてくださるためでしたし、ご自身が、私たちの罪のための「なだめの供え物」となってくださるためでした。そのために、イエス・キリストは、「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ」たのです。

キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

と記されていますように、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださらなかったなら、私たちの救いはどこにもありません。ですから、聖書が示している救いは、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことによって成し遂げられた救いです。
 そうしますと、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださって成し遂げてくださった救いは、私たちを私たち自身の罪と、罪の結果である死と滅びから救い出してくださるものであることが分かります。私たちを、私たちの罪とその結果である死と滅びから救い出してくださるために、イエス・キリストは、ご自身のいのちを私たちのための「贖いの代価」とし、私たちの罪のための「なだめの供え物」としてささげてくださらなければなりませんでした。
 このイエス・キリストの十字架の死がなければ、どんなに華々しく奇跡的な、神さまの御業がなされても、人は救われることはありません。形として救われたかのように見えても、それは一時的なことでしかありません。
 そのような例を見てみましょう。
 その昔、神である主は、モーセをとおして、ユダヤ人の父祖であるイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から救い出してくださいました。しかし、エジプトの奴隷の状態から解放すること自体のためには、御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださる必要はありませんでした。実際、神である主がなされたことは、イスラエルの民を奴隷としていたエジプトに対して十のさばきを執行されたことと、紅海の水を分けてイスラエルの民を通らせ、その水を元に戻して、エジプトの軍隊を壊滅させたことです。
 また、エジプトを出たイスラエルの民は、荒野を旅しているときに、飲み水がなくなったり、食べ物がなくなったりしたことがありましたので、その度に、神である主に向かってつぶやいて、不平不満をぶつけました。神である主は、そのようなイスラエルの民のために、岩から水を出してくださって渇きをいやし、毎日変わることなく、マナやうずらを与えてくださって、飢えをいやしてくださいました。しかし、ただ、飢えや渇きをいやすというだけのことであれば、そのために、御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださる必要はありませんでした。
 ヨハネの福音書4章13節、14節に記されていますように、渇くということをめぐって、イエス・キリストは、サマリヤ人の女性に、

この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

とお教えになりました。
 また、マナについては、ヨハネの福音書6章48節〜51節に記されていますように、イエス・キリストは、ユダヤ人たちに、

わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。

とお教えになりました。
 イスラエルの民はエジプトの奴隷の状態から解放されました。そのために、当時の最強の帝国であったエジプトの王パロを震撼させるようなさばきが執行されました。また、イスラエルの民が渇いた時には超自然的な方法で水が与えられましたし、飢えることがないようにと、日ごとにマナが与えられました。けれども、そのイスラエルの民は、荒野で滅んでしまいました。どんなに目を見張るような奇跡を目撃し、それによって飢えや渇きをいやしていただいても、それによってイスラエルの民が救われることはありませんでした。
 これらのイエス・キリストの教えでは、一時的な渇きと飢えのいやしと、永遠のいのちに生かされることが対比されています。そして、イエス・キリストは、私たちを永遠のいのちに生かしてくださろうとしておられることが示されています。イエス・キリストがお生まれになったのは、十字架にかかって死んでくださるためでした。それは、ご自身のいのちを私たちのための「贖いの代価」とし、私たちの罪のための「なだめの供え物」としてささげてくださるためでした。それによって、私たちを、罪の結果である死と滅びの力から解放して、永遠のいのちに生かしてくださるためでした。私たちと神さまとの関係を阻害していた罪を贖って、私たちを神さまとの交わりにあるいのちに生かしてくださるのです。
 福音書がイエス・キリストの降誕と十字架の死については、救い主の約束を受け継いできたユダヤ人とのかかわりだけではなく、より広いローマ帝国とのかかわりをも示していることは、第二に、イエス・キリストの降誕と十字架の死が、ユダヤ人という一つの民族だけでなく、全世界の人々にとって意味をもっていることを示しています。さらに言いますと、イエス・キリストの降誕と十字架の死は、空間的に、全世界の人々にとって意味をもっているだけでなく、時間的に、あらゆる時代の人々にとって意味をもっているのです。
 そのことは、これまでお話ししてきたことからも分かります。というのは、先ほど引用しました、ローマ人への手紙3章23節に、

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

と言われていますように、あらゆる時代の、すべての人々が神さまの御前に罪を犯して堕落しているために、聖なる神さまのさばきに服さなければならず、造り主である神さまとの交わりのうちに生きるいのちを失っているからです。そして、今すでに、すべての人は、自分自身の罪の結果である死と滅びの道を歩んでいます。
 それで、イエス・キリストは、「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ」たのです。それによって、私たちのための「贖いの代価として」ご自身のいのちを与えてくださり、ご自身が、私たちの罪のための「なだめの供え物」となってくださいました。
 イエス・キリストの降誕と十字架の死が、ユダヤ人という一つの民族だけではなく、あらゆる時代のすべてのの人々にとって意味をもっているということは、今日のテキストとしてお読みしましたルカの福音書2章8節〜14節に記されている、御使いが伝えたメッセージにも示されています。
 まず、11節には、

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

という御使いの言葉が記されています。これを伝えた「主の使い」(9節)は、おそらく、1章に出てくるガブリエルであろうと考えられます。このメッセージを聞いたのは、その地方で羊の番をしていた羊飼いたちでした。それで、これは、基本的に、救い主が与えられるという約束を受け継いできたユダヤ人に対する救いの知らせです。
 もちろん、ユダヤ人が受け継いできた救い主の約束に示されている救いは、初めから、全世界の人々の救いを視野にいれていました。それは、旧約聖書を全体として読めばすぐに分かります。創世記の初めの部分に記されている贖い主の約束は、一民族のためのものではなく、すべての民をその視野に入れています。ただ、その贖い主は私たちと同じ人の性質をもっている一人の方としてお生まれになりますから、ある時代のある民族の一員としてお生まれになるわけです。そのために、ユダヤ人の先祖であるアブラハムが選ばれたのです。しかし、イエス・キリストがお生まれになった当時のユダヤの人々は、ユダヤ人中心の見方をしておりましたので、神さまの救いが全世界の人々に等しく与えられるということを理解することが難しかったのです。
 いずれにしましても、ガブリエルであると思われる御使いの言葉に続いて、13節、14節には、

すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
  「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
  地の上に、平和が、
  御心にかなう人々にあるように。」

と記されています。
 この、

  いと高き所に、栄光が、神にあるように。
  地の上に、平和が、
  御心にかなう人々にあるように。

という言葉は讃美の言葉ですが、その讃美は、当然、この救い主の誕生によって始まった、神である主の救いの御業を讚えています。それで、これは、神である主の救いの御業がどのようなものであるかを示す啓示でもあります。
 この讃美の言葉においては、「いと高き所」、すなわち、神さまがご臨在される天と、その下にある「」が視野に入っています。それで、ここで言われている「御心にかなう人々」はユダヤ人という地上の一民族の枠を越えた人々のことが視野に入っていると考えられます。
 これまでお話ししてきたことととの関連で、この御使いたちの讃美において特に注目したいことがあります。それは、

  地の上に、平和が、
  御心にかなう人々にあるように。

という讃美に出てくる「御心にかなう人々」がどのような人々であるかということです。「御心にかなう人々」(アンスローポイ・ユードキアス)は、「神さまがお喜びになる人々」のことを意味しています。
 私たちの回りでは、しばしば、「神に喜ばれる人」になるために、神さまの戒めをしっかり守って、「神に喜ばれる生活」をしましょうというように勧められます。つまり、私たちが「神に喜ばれる生活」をすることによって、「神に喜ばれる人」になれるというのです。
 しかし、この「御心にかなう人々」(アンスローポイ・ユードキアス)という言葉の基本的な意味は、そのようなことではありません。むしろ、これは、神さまがご自身の主権的なみこころによって、その人々を喜んでくださり、一方的な恵みによって救ってくださるということを表わしています。このことは、教理的にそのように考えられるだけではなく、文献学的にも、死海写本の発見などによって確証されるようになりました。
 ですから、「御心にかなう人々」(アンスローポイ・ユードキアス)であることは、その人々の行ない次第で決まるのではなく、神である主の一方的な恵みのみこころによっています。エペソ人への手紙1章5節には、

神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されています。この「ただみこころのままに」の「みこころのまま」(ヘー・ユードキア・トゥー・セレーマトス)は「みこころのよしとするところ」です。ここにも、神さまの主権に根差している「よしとするところ」(ユードキア)という言葉が出てきます。(先ほどの御使いたちの讃美の中に出てくるユードキアスはユードキアの複数形です。)
 大切なことは、御使いたちの讃美に出てくる「御心にかなう人々」は、その人々が神さまのみこころを行なうことによって「御心にかなう人々」になるということではないということです。エペソ人への手紙1章5節に記されていますように、まず、神さまの一方的な愛と恵みが永遠にあって、その愛と恵みに基づいて、神さまが「ただみこころのままに」お選びになった人々が、御使いたちの讃美に出てくる「御心にかなう人々」なのです。
 では、神さまはどのような人々をお選びになったのでしょうか。言い換えますと、「御心にかなう人々」とはどのような人々なのでしょうか。それは、その人々のために、神さまは救い主をお遣わしになったのですから、イエス・キリストがお生まれになった目的をみれば分かります。
 すでに、お話ししましたように、イエス・キリストがお生まれになったのは、十字架にかかって死んでくださるためでした。それは、ご自身のいのちを私たちのための「贖いの代価」とし、私たちの罪のための「なだめの供え物」としてささげてくださるためでした。それによって、私たちを、罪の結果である死と滅びの力から解放して、造り主である神さまとの交わりのうちにある永遠のいのちに生かしてくださるためでした。
 ルカの福音書5章31節、32節には、

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。

というイエス・キリストの言葉が記されています。
 ですから、「御心にかなう人々」は、もともと、神さまに対して罪を犯して、神さまに敵対して歩んでいた罪人です。その罪人が、神さまの一方的な恵みによって、自分の罪を認めて悲しむようになるとともに、神さまがイエス・キリストを救い主として遣わしてくださり、その十字架の死によって、罪の贖いを成し遂げてくださったことを信じようになるのです。そして、実際に、イエス・キリストを救い主として信じて迎え入れることによって、神さまの愛と恵みを受け取って、その愛と恵みによって生かされるようになります。イエス・キリストの救いにあずかって、神さまの愛と恵みによって生かされることが、永遠のいのちの本質です。
 このように、「御心にかなう人々」は、決して、自分たちの「よい行ない」によって、「御心にかなう人々」になったのではありません。初めから終わりまで、御子イエス・キリストにある神さまの一方的な愛と恵みによって「御心にかなう人々」とされているのです。もちろん、「御心にかなう人々」は神さまを愛し、神さまを敬います。それで、神さまのみこころを大切にして、それに従います。しかし、それは、「御心にかなう人々」として受け入れてもらうためではありません。御子イエス・キリストにあって「御心にかなう人々」としていただいている者として、そうするのです。

  地の上に、平和が、
  御心にかなう人々にあるように。

という御使いたちの讃美は、「御心にかなう人々」に対する神さまの永遠の愛と恵みが、イエス・キリストの誕生とともに歴史の現実となったということ、私たちの現実となったということを伝えています。
 そして、「御心にかなう人々」に対する神さまの永遠の愛と恵みが、イエス・キリストの誕生とともに歴史の現実となったということが、また、

  いと高き所に、栄光が、神にあるように。

という、御使いたちの讃美の理由ともなっています。
 私たちも、神さまのこのような愛と恵みに満ちた栄光をほめ讚えたいと思います。


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