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説教日:2016年12月25日 |
ここで、 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 と言われていることは、7節前半で、イエス・キリストが、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。 と言われていること、すなわち、今から2千年前に人としての性質を取って来てくださったことより前のことを述べています。イエス・キリストが人としての性質を取って来てくださったことを「受肉」と呼びますが、受肉される前のキリストのことは「先在のキリスト」と呼びます。それで、 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 と言われていることは「先在のキリスト」のことを述べています。 また、ここで「神の御姿」と言われているときの「御姿」と訳されていることば(モルフェー)は、7節で、イエス・キリストが、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり と言われている中にも出てきて、「姿」と訳されています。 このことば(モルフェー)は、ギリシアの文学の流れの中で、「感覚によって捉えることができるもの」としての「現れ」や「形」を表すようになったようです。とはいえ、その「現れ」や「形」がその本質と切り離されるという考え方はなく、あるものの本質は、そのものの「現れ」や「形」に示されていると考えられていました。それで、 キリストは神の御姿である と言われていることは、先在のキリストが父なる神さまの本質と属性(、性質、特質)にあずかっておられることを意味しています。 6節では、これに続いて、 神のあり方を捨てられないとは考えず と記されています。この「神のあり方」と訳されていることば(ト・エイナイ・イソス・セオー)は、文字通りには「神と等しくあること」です。そして、この「神のあり方」(「神と等しくあること」)は、その前で、 キリストは神の御姿である と言われているときの「神の御姿である」ことを指していて、二つのことばは実質的に同じことを示しています。 それで、イエス・キリストが「神の御姿である」ことは、イエス・キリストが、ある意味で神さまの属性にあずかっている御使いや神のかたちとして造られている人とは違って、父なる神さまの本質と属性に「完全に」あずかっておられることを意味していると考えられます。そして、先在の キリストは神の御姿である と言われているときの「御姿」(モルフェー)はその本質のと属性の現れです。ですから、 キリストは神の御姿である ということは、先在のキリストが父なる神さまの本質と属性に完全にあずかっておられ、それを完全に現しておられることを意味していると考えられます。このことは、後ほどお話しすることと深くかかわっています。 新改訳は6節前半を、 キリストは神の御姿である方なのに と訳しています。ここでの問題は「なのに」と訳されていることです。原文のギリシア語では、 キリストは神の御姿である と言われているときの「である」と訳されていることば(ヒュパルコーン)が現在分詞です。それで、これは英語の分詞構文に当たるものです。これをどのように訳すかについては、二つの可能性があります。 一つは、新改訳のように「であるのに」と訳して「譲歩」を示すことです。これには、「神の御姿」であられ、無限、永遠、不変の栄光の主である方が、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた ということは、本来は、ありえないことであるのに、キリストはそうされたというような意味合いがあります。さらに、このことの背後には、このようなことは、本来、無限、永遠、不変の栄光の主である神さまがなさることではないという理解があります。 もう一つの可能性は、このことば(ヒュパルコーン)を「であるから」と訳すことで、全体としては、 キリストは神の御姿であるから と訳すことになります。これは「理由」を示しています。この訳は、 キリストは神の御姿であられるから こそ、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた ということを示しています。さらに、このことの背後には、このようなことこそが無限、永遠、不変の栄光の主である神さまにふさわしいことであるという理解があります。 文法の上ではどちらの訳も可能ですので、これのどちらの理解を取るべきであるかの判断は、イエス・キリストがどのような方であるかということ、さらには、神さまがどのような方であるかということにかかわっています。 テモテへの手紙第一・6章15節後半ー16節に、 神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。 と記されているように、神さまは、人が直接的に見ることのできない方です。それは、ただ単に、神さまが物質的な方ではないので目に見えないということではありません。物質的な存在ではないので見えないということであれば、御使いたちも物質的な存在ではないので見ることはできません。人が神さまを直接的に見ることができないのは、それ以上に、神さまが、その存在においても、その一つ一つの属性においても、無限、永遠、不変の栄光の主であり、ご自身がお造りになったすべてのものと「絶対的に」区別される方であるからです。神さまが神さまのお造りになったものと「絶対的に」区別されるということが、神さまの聖さの本質です。 私たちはあらゆる点において有限であり、時間的に経過していくものであり、変化していくものです。それで、私たちの存在の限界と物事を知って理解する能力の限界のために、私たちは神さまに当てはめられる「無限」、「永遠」、「不変」を、ありのままに知ることはできません。私たちは「無限」、「永遠」、「不変」を、自分たちの限界の中で、私たちなりに理解しているだけです。また、それゆえに、私たちは、神さまがご自身のお造りになったすべてのものと「絶対的に」区別されるということも、ありのままに知ることができません。 そのようなわけで、人は神さまを直接的に見ることはできませんし、神さまがどのような方であるかを、直接的に知ることはできません。しかし、それと同時に、神のみことばである聖書は、人は神のかたちとして、神さまを知っているものとして造られていると教えています。このことをどのように考えたらいいのでしょうか。 それは、神さまが神のかたちとして造られている人にご自身を啓示してくださったことによって、しかも、人の能力の限界に合わせて、人に分かるようにご自身を啓示してくださっていることによって、人は神さまがどのような方であるかを知ることができるということを意味しています。 これらのことは、あらゆる点において無限、永遠、不変の栄光の主である神さまと、神さまがお造りになったものとの「絶対的な」区別に基づくことですので、神のかたちとして造られている人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、生じたことではありません。また、その意味で、これらのことは御使いたちにもそのまま当てはまります。どんなに聖い御使いであっても、神さまを直接的に見ることも、直接的に知ることもできません。御使いたちも、神さまが御使いたちに分かるように、ご自身を啓示してくださって初めて、御使いたちなりに、神さまを知ることができるのです。 そして、神のみことばである聖書は、神さまがどのような方であるかを啓示してくださるのは、御子のお働きによるということを示しています。 ヨハネの福音書1章1節ー18節には、ヨハネの福音書の序文(プロローグ)が記されています。その最後の18節には、 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 と記されています。 神のかたちとして造られている人の場合は、神さまと神さまがお造りになったものとの間の「絶対的な区別」によって、神さまを直接的に見ることも知ることもできないというだけではありません。さらに、人は神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっているために、神さまが与えてくださっている啓示を、歪めてしまっているという現実があります。 その現実が、ローマ人への手紙1章19節ー23節に、 それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 と記されています。 19節で、 神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。 と言われているときの「彼ら」は、18節で「不義をもって真理をはばんでいる人々」と言われている人々のことです。これは、一般的には異邦人のことであると考えられていますが、より広く、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人々のことであると考えられます。神さまはご自身がお造りになったこの世界をとおして、ご自身のことを啓示しておられます。そのことは、20節に、 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる と記されているように、人の外の世界をとおして啓示が与えられているというだけのことではありません。神のかたちとして造られている人がその啓示を受け止めることができる能力を与えられているということをも意味しています。もし人にその能力がないとしたら、いくら神さまの啓示が与えられているとしても、人はそれを受け止めることができませんので、神さまの啓示が人には意味をもっていないということになってしまいます。それでは、 神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。 と言うことはできません。 神さまが人にご自身の啓示を受け止める能力を与えてくださったことの中心にあるのは、神のかたちとして造られている人が造り主である神さまを知っている者として造られているということです。 ですから、神のかたちとして造られている人は、自分の外から与えられる神さまについての啓示と、内側に与えられている神さまについての啓示にあずかっています。 それで、21節には、 彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。 と記されています。ここに記されていることは、人が初めから神さまを知っているものとして造られているということを踏まえています。ここで、 彼らは神を知っていながら、 と言われているときの「神」は、続いて その神を神としてあがめず と言われているときの「神」ですから、この世界のすべてのものをお造りになった「神」のことです。神のかたちとして造られている人は初めから造り主である神さまを知っているものとして造られており、人が人である以上それは変わることがありません。 それなのに、人が造り主である神さまを「神としてあがめず、感謝もせず」と記されているのは、人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていることによっています。その結果どのようなことが行われているかということが、23節に、 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 と記されています。 ここでは、「不滅の神の御栄えを」と言われているときの「不滅の」ということば(アフサルトス)と「滅ぶべき人間」と言われているときの「滅ぶべき」ということば(フサルトス)が対比されています。また、「滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物」ということばでは、「かたちに似た物」と訳されているように、「似た物」(ホモイオーマ)と「かたち」(エイコーン[原型があって、それに似せた像])という同義語が組み合わされています。この場合は、人が実際にしていることですが、自分たちの描く神のイメージに従って想像力を働かせて「滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもの」を現実離れしたものに作り上げて「神」としてしまうことを示しているのではないかと思われます。 また、 滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました と言われているときの「代えてしまいました」ということは、新改訳が示しているとおり「取り換えてしまう」ことを表しています。あるいは「すり替えてしまいました」とすればその巧妙さが表されるのではないかと思われます。 ここでは、もともと神のかたちとして造られ、それゆえに、造り主である神さまを知っているものとして造られている人が、自らの罪によって、まことの神さまを神とすることがなくなったときに、自分たちの描く神のイメージに合う「神」を造り出してしまうという現実が示されています。 それも、それが人であれ動物であれ、自分たちより優れたものと思われるもの、特異な能力を持っていると思われるものが原型となって、それに似たものが造り出されます。そのことの根底にある「神」のイメージは、より強く、より大きく、より華麗であり、より栄華に富んだもので、人を圧倒するものです。それは、そのようなものの像を造った者自身が、自ら欺かれて、その前にひれ伏してしまうようになるほど、人を圧倒するものです。 堕落後の人は、そのような栄光になじんでいます。私たち主の契約の民も、イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖っていただき、復活にあずかって新しく生まれるまでは、そのような栄光になじんできました。それで、気をつけていませんと、「不滅の神の御栄えを」そのような、人を威圧し圧倒する栄光のイメージで考えてしまうかも知れません。そして、人が自分たちのイメージで考える「神」の栄光は、まことの神さまの無限の栄光に比べれば「月とスッポンだ」とか、「太陽の前の蛍の光だ」というように考えてしまうかも知れません。身近なことばで言えば、「もっとすごい栄光なのだ」ということです。 しかし、先ほど引用しましたヨハネの福音書1章18節には、 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 と記されていました。 私たちはイエス・キリストをとおして初めて、まことの神さまがどのような方であるかを知ることができます。神さまの栄光がどのような栄光であるかも、イエス・キリストをとおして初めて知ることができます。それは、イエス・キリストご自身とそのお働きと教え、特に、十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業をとおして、神さまと神さまの栄光を知ることができるということです。 イエス・キリストは私たちご自身の民の罪を贖ってくださり、永遠のいのちに生きる者としてくださるために、人としての性質を取って来てくださいました。そして、十字架にかかって私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって受けてくださいました。このことにおいて、イエス・キリストの栄光が最も豊かに、また明確に現されています。そして、このイエス・キリストの栄光こそが、父なる神さまの栄光がどのような栄光であるかを示しています。 このこととの関連で、一つのことを見てみましょう。 ヨハネの手紙第一・3章16節には、 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。 と記されています。このことは、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださったことによって抽象的な愛が分かったということではありません。なによりも、4章7節ー8節において、 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。 と言われているときの「神から出ている」愛が分かったということであり、「神は愛である」ということが分かったということです。そのことは、続く9節ー10節に、 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 と記されていることからも分かります。 私たちはイエス・キリストの十字架の死を客観的に眺めて、愛が分かったというのではありません。実際に、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、罪を贖っていただいて初めて、真の意味で、神さまが愛であるということを知るようになりました。それで、このようにして神さまの愛を知ったということは、私たちが実際にその神さまの愛に触れて、その愛に生かされているということを意味しています。そして、このことに基づいて、私たちは、 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。 と教えられています。 このことも、イエス・キリストのお働き、特に、その十字架の死において、神さまと神さまの栄光が最も豊かに、また鮮明に現されているということを示しています。 これらのことから、ピリピ人への手紙2章7節ー8節において、イエス・キリストが、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた ばかりでなく、 人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた と言われていることにおいて、父なる神さまと父なる神さまの栄光が最も豊かに、また、鮮明に現されたと言うことができます。 そうであれば、6節において新改訳が、 キリストは神の御姿である方なのに と訳していることばは、 キリストは神の御姿であられるから と訳した方がよいと考えられます。 先ほどお話ししましたように、 キリストは神の御姿である ということは、先在のキリストが父なる神さまの本質と属性に完全にあずかっておられ、それを完全に現しておられることを意味していると考えられます。そうであるとしますと、 キリストは神の御姿であられるから こそ、つまり、キリストは父なる神さまの本質と属性に完全にあずかっておられ、それを完全に現しておられるからこそ、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた ばかりでなく、 人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた ということになります。 このことは、神さまが御子イエス・キリストをとおしてなしてくださったことが、当然のこと(当たり前のこと)であるということを意味してはいません。当然のことということになりますと、それは、私たちが自らの罪のためにさばきを受け、滅びるべきものであったということにあります。その私たちを、神さまは「あえて」愛してくださって、御子イエス・キリストをとおして、これらのことをなしてくださったのです。 そして、この十字架にかかられたイエス・キリストにおいて、父なる神さまと父なる神さまの栄光が最も豊かにまた鮮明に現されています。 私たちはこのイエス・キリストこそが栄光の主であると告白しています。私たちご自身の民のために十字架につけられて死んでくださったにもかかわらず、栄光の主であられるというのではなく、私たちご自身の民のために十字架につけられて死んでくださったからこそ、父なる神さまの栄光に満ちておられる主であられると告白しているのです。 私たちはこのイエス・キリストの御前にひれ伏します。それは、イエス・キリストが私たちを威圧し、圧倒するからではありません。イエス・キリストが私たちご自身の民のために十字架につけられて死んでくださったことに現されている、イエス・キリストと父なる神さまの愛に圧倒されて、御前にひれ伏しているのです。 ですから、私たちは、かつて私たちがそれと知らないで罪の暗やみの中にあったときになじんでいた「神」のイメージが生み出す、人を威圧し、圧倒する「神」の栄光を規準にして神さまの栄光を考えることを心して退けていきましょう。そして、それは、パウロが、 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 と述べているものにほかならないことを心に刻んでおきたいと思います。 そのためには、十字架につけられたイエス・キリストにおいてこそ、父なる神さまの栄光が最も豊かに、また、鮮明に現されているということを、それ以上深く心に刻んでいく必要があります。 |
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