神の永遠の栄光が
(クリスマス説教集)


説教日:2015年12月20日
聖書箇所:ピリピ人への手紙2章5節ー11節


 本主日は2015年の降誕節です。本主日も、2012年の降誕節から3回にわたってお話ししてきました、ピリピ人への手紙2章5節ー11節に記されているみことばからお話しします。
 昨年は6節ー7節前半に、

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。

と記されている中の、

 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

というみことばについてお話ししました。
 きょうは、それについて少し補足を加えつつ、振り返りながら、ピリピ人への手紙2章5節ー11節に記されていることとは少し違った観点から、お話ししていきたいと思います。
 この、

 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

ということは、7節前半で、

 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。

と言われていることより前のイエス・キリストのことを述べています。今から2千年前にイエス・キリストが人としての性質を取って来てくださったことを「受肉」と呼びます。そして、受肉される前のキリストのことを「先在のキリスト」と呼びます。それで、

 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

というみことばは「先在のキリスト」のことを述べています。
 ここで「神の御姿」と言われているときの「御姿」と訳されていることば(モルフェー)は、このことばを2回用いているホメロス以来のギリシアの文学の中で、いろいろな意味合いで用いられてきて、「感覚によって捉えることができるもの」としての「現れ」や「形」を表すようになったようです。とはいえ、その「現れ」や「形」がその本質と切り離されるという考え方はなく、あるものの本質は、そのものの「現れ」や「形」に示されていると考えられていました(NIDNTTE, 2nd ed., vol.3, p.337)。それで、

 キリストは神の御姿である方

と言われていることは、先在のキリストが父なる神さまの本質と属性(性質)にあずかっておられることを意味しています。
 けれども、御使いたちや神のかたちとして造られている人も神さまのさまざまな属性にあずかっていますので、それとどのように違うのかという疑問がわいてきます。
 ここ6節では、これに続いて、

 神のあり方を捨てられないとは考えず

と記されています。ここで「神のあり方」と訳されていることば(ト・エイナイ・イソス・セオー)は、文字通りには「神と等しくあること」です。この「等しい」と訳されていることば(形容詞イソス)は、数や大きさや質において等しいことを表しています。ですから、ここで言われている、イエス・キリストが「神と等しくある」ということは、イエス・キリストが父なる神さまに等しい方であられ、まことの神であられることを意味しています。
 これらのことを合わせて見ますと、6節で、先在の

 キリストは神の御姿である

と言われているのは、先在のキリストが父なる神さまの本質と属性に完全にあずかっておられ、それを完全に現しておられることを意味しています。
 このことは、イエス・キリストが御子であられるということとのかかわりで考えると分かりやすいかと思います。御子は父なる神さまからお生まれになった方として、父なる神さまの本質と属性に完全にあずかっておられるということです。人の場合には、子どもが父の性質を完全に受け継ぐということはありませんが、御子は父なる神さまの本質と属性に完全にあずかっておられます。
 ただし、この場合、先に父なる神さまがおられて、後から御子イエス・キリストが父なる神さまの本質と属性にあずかるようになったということではありません。父なる神さまも御子も無限、永遠、不変の神であられますから、御子がお生まれになった時があるわけではありません。もしそのような時があったとしたら、御子は時間の中でお生まれになったということで、永遠の存在ではないことになってしまいます。御子は永遠に父なる神さまからお生まれになっている方として存在しておられます。それと同じで、御子イエス・キリストは永遠に父なる神さまの本質と属性に完全にあずかっておられ、それを完全に現しておられます。
 また、神さまの本質と属性の現れとは神さまの栄光のことです。それで、ヘブル人への手紙1章3節には、

 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れである

と記されています。このことから、

 キリストは神の御姿である

と言われていることは先在のキリストが父なる神さまと分かちもっておられる栄光とかかわっていると考えられます。
 先在のキリストが父なる神さまと栄光を分かちもっておられるといっても、それで、父なる神さまの栄光の半分が先在のキリストのものとなっているという意味ではありません。あるものを二人で分かち合うことによって半分になるということは、有限なものについて当てはまることです。神さまの栄光は無限の栄光ですから、このような有限な数あるいは量に当てはまることが、そのまま当てはまるわけではありません。この場合は、先在のキリストが永遠に父なる神さまの栄光に完全にあずかっておられて、永遠に父なる神さまの栄光と等しい栄光をもっておられるということを意味しています。


 そのことは、イエス・キリストの「大祭司の祈り」と呼ばれる祈りを記しているヨハネの福音書17章5節に記されている、

今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。

という祈りにも示されています。
 ここで、イエス・キリストが、

 世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光

と言っておられる栄光が、先在のキリストの栄光です。
 この場合、「世界が存在する前に」ということが問題となります。「前に」とか「後に」ということは時間的に経過していくものに当てはまることです。そして、時間は経過し変化していくこの世界の時間ですから、この世界が造られて存在するようになった時から始まっています。ですから、「世界が存在する前」といっても、「世界が存在する」ようになる前の時間があるわけではありません。
 それなのに「世界が存在する前」というような言い方をするのは、私たち人間が存在においても、考える力においても有限であり、時間と空間の中にあるためです。私たちは「永遠」というと、時間がいつまでも続いていることを考えます。また、「無限」というと、空間がどこまでも広がっていることを考えます。けれども、神さまはこの時間的に経過し、変化していく世界、また、空間的に広がっている世界をお造りになった方ですから、この世界の時間や空間を超越しておられます。それで、私たちは神さまに当てはまる「永遠」や「無限」を知りませんし、知ることができません。また、「永遠」と時間の関係や、「無限」と空間の関係がどうなっているのかも知りませんし、知ることもできません。
 このようなわけで、私たちは「世界が存在する前に」という言い方をしますが、これは私たち人間の限界に合わせた言い方です。
 「世界が存在する前に」というのは、神さまが創造の御業を遂行する前ということで、時間も始まっていません。それで、「世界が存在する前に」ということは、「永遠において」ということを意味しています。ただ、ここでは、その永遠におけることを、この「世界が存在する」ようになることとのかかわりで考えていますので、「世界が存在する前に」という言い方をしています。
 そして、イエス・キリストは、「世界が存在する前に」父なる神さまと栄光を「ごいっしょにいて持っていました」と言っておられます。御子イエス・キリストは永遠に父なる神さまと栄光を「ごいっしょにいて持って」おられるのです。繰り返しになりますが、だからといって、その栄光が父なる神さまと御子イエス・キリストの間で「半分こ」になっているわけではありません。御子は永遠に父なる神さまの栄光と等しい栄光をもっておられます。
 このように、ピリピ人への手紙2章6節で、

 神の御姿である

と言われている先在のキリストは、永遠に父なる神さまの栄光と等しい栄光に満ちておられ、その輝きに包まれておられます。そして、これに続いて、永遠に父なる神さまの栄光と等しい栄光に満ちておられ、その輝きに包まれておられる方が、

神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

と言われています。永遠に父なる神さまの栄光と等しい栄光に満ちておられ、その輝きに包まれておられる方が、私たちのために贖いの御業を遂行してくださったというのです。

 このこととの関連で、改めて、先ほど取り上げましたヨハネの福音書17章5節に記されている、

今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。

というイエス・キリストの祈りのことばを見てみましょう。
 この祈りのことばから、私たちは、イエス・キリストがが永遠に父なる神さまと栄光を分かちもっておられるということをくみ取ることができます。けれども、イエス・キリストはこのこと自体を述べておられるわけではありません。この、イエス・キリストの祈りのことばは、その前の1節ー4節に記されていることばを受けています。それで、1節ー5節を見てみますと、そこには、

父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。

と記されています。
 ここで、

 父よ。時が来ました。

と言われているときの「」(ヘー・ホーラ)は父なる神さまの永遠からのみこころにおいて定められた「」で、イエス・キリストが私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために十字架におかかりになって死なれる「」です。また、私たちご自身の民を永遠のいのちに生きる者としてくださるために栄光を受けて死者の中からよみがえってくださる「」です。
 イエス・キリストはこのような「」が来たことを、父なる神さまに告白しておられます。
 この「」がイエス・キリストにとってどのような「」であったかについて、イエス・キリストご自身が語っておられることばが、同じヨハネの福音書12章27節ー28節前半に、

今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。「父よ。この時からわたしをお救いください」と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください。

と記されています。ここにも「この時」(ヘー・ホーラ)が出てきます。
 ここで、

 今わたしの心は騒いでいる。

と言われているときの「騒いでいる」と訳されていることば(タラッソー)は、この日本語が示す意味合いより、さらに強い動揺を示していて、恐れや不安などによって心がかき乱されることを意味しています。
 これが記されている12章27節の文脈を見ますと、23節ー24節には、

人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

と記されています。ここでも「」(ヘー・ホーラ)が来たと言われています。そして、イエス・キリストは、ちょうど「一粒の麦」が「地に落ちて死」んで「豊かな実」が結ばれるように、イエス・キリストがご自身のいのちをお捨てになることによって「豊かな実」が結ばれるようになることを示しておられます。そして、そのことによって、イエス・キリストは栄光をお受けになると言われています。
 ですから、27節ー28節前半で、イエス・キリストが、

今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。「父よ。この時からわたしをお救いください」と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください。

と言われるときの「この時」は、イエス・キリストが私たちご自身の民のために十字架におかかりになって死なれる「」を意味しています。その「」が間近に迫って来ていることに対して、イエス・キリストは心がかき乱されておられます。
 無理もありません。イエス・キリストは、人間が考え出した処刑の仕方のうちでも最も残酷なものに数えられる十字架刑の苦しみをお受けになられます。それだけでも、私たちの想像を絶する苦しみです。けれども、それだけではありません。イエス・キリストはその十字架の上において、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって、すべてお受けになろうとしておられます。1章18節において、イエス・キリストのことが「父のふところにおられるひとり子の神」であられることが示されています。御子イエス・キリストは父なる神さまの愛の「ふところ」のうちにおられます。父なる神さまと御子イエス・キリストの間には永遠にして無限の愛の交わりがあるのです。そのイエス・キリストが、父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰としての地獄の刑罰をお受けになるというのです。それは、もう、私たちの想像をはるかに越えて恐ろしい刑罰ですが、イエス・キリストはそれがどのようなことであるかを知っておられます。
 その上で、イエス・キリストは、

 父よ。御名の栄光を現してください。

と祈っておられます。先ほど引用しました23節では、イエス・キリストは、

 人の子が栄光を受けるその時が来ました。

と言われました。そして、ここでは、

 父よ。御名の栄光を現してください。

と祈っておられます。
 このことは、イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって、すべてお受けになることによって、イエス・キリストは栄光をお受けになり、父なる神さまの栄光が現されるようになるということを示しています。

 このことは、17章1節に記されている、イエス・キリストの、

 父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。

という祈りのことばにも表されています。

 子の栄光を現してください。

という祈りでは、イエス・キリストがご自身の栄光を求めておられるように思われます。それはそうなのですが、イエス・キリストは、それが、

 あなたの子があなたの栄光を現すため

のことであると述べておられます。イエス・キリストが最終的に求めておられることは、ご自身によって、父なる神さまの栄光が現されることでした。
 そして、続く2節では、イエス・キリストがどのようにして父なる神さまの栄光を現されるのかが示されています。その2節には、

それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。

と記されています。
 イエス・キリストは、父なる神さまに、

 あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになった

と述べておられます。これはすでになされたことですので、父なる神さまが救いに関する永遠のご計画において、先ほどお話ししました5節のことばで言いますと「世界が存在する前に」、御子に「すべての人を支配する権威を」お与えになったということを意味しています。
 そして、その目的については、

 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため

であると言われています。これは、イエス・キリストが十字架におかかりになって私たちご自身の民の罪を贖ってくださり、栄光を受けてよみがえってくださることによって、私たちをそれにあずからせてくださって、永遠のいのちに生きる者としてくださることを指しています。
 ここでイエス・キリストは、ご自身の民のことを「あなたからいただいたすべての者」と呼んでおられます。このことは、6章39節に記されています、

わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。

というイエス・キリストの教えを思い起こさせます。
 17章2節では、父なる神さまは、イエス・キリストが私たちご自身の民に永遠のいのちを与えてくださるようになるために、イエス・キリストに「すべての人を支配する権威を」お与えになったと言われています。イエス・キリストは父なる神さまから、ご自身の民を支配する権威を与えられただけではなく、「すべての人を支配する権威を」与えられました。このことは、ここには示されていませんが、終わりの日に、イエス・キリストがすべての人をおさばきになることにもつながっています。
 いずれにしましても、2節では、イエス・キリストが「すべての人を支配する権威を」与えられているのは、ご自身の民に永遠のいのちを与えてくださるためであることが示されています。1節からのつながりで言いますと、これが、イエス・キリストが、

 あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。

と祈っておられることの意味です。イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちご自身の民に永遠のいのちを与えてくださることによって、イエス・キリストの栄光が現されます。そして、それによって父なる神さまの栄光が現されるようになるというのです。
 そして、3節では、イエス・キリストが与えてくださる永遠のいのちの本質が示されています。そこには、

 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

と記されています。
 「唯一のまことの神である」父なる神さまを知ることと、父なる神さまがお遣わしになった御子イエス・キリストを知ることは切り離すことができません。というのは、1章18節に、

 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されており、14章9節に、

 わたしを見た者は、父を見たのです。

というイエス・キリストの教えが記されていますように、イエス・キリストこそが、父なる神さまを私たちに啓示してくださる方であるからです。その啓示はみことばによる教えによるだけでなく、イエス・キリストが、

 わたしを見た者は、父を見たのです。

と言われるように、イエス・キリストご自身が父なる神さまがどのような方であるかを啓示しておられます。
 また、「唯一のまことの神である」父なる神さまを知るということは、全人格的なことです。それは、父なる神さまとの愛の交わりに生きることにおいて、父なる神さまを知ることです。そして、それが永遠のいのちの本質です。けれども、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、罪を贖っていただき、復活のいのちによって新しく生まれていなければ、だれも父なる神さまの御許に近づくことはありませんし、近づくことはできません。また、父なる神さまとの愛の交わりに生きることはありませんし、父なる神さまとの愛の交わりに生きることはできません。14章6節には、

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 これらのことを受けて、4節で、イエス・キリストは、

あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。

と祈っておられます。
 これは、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちご自身の民に永遠のいのちを与えてくださることによって、イエス・キリストの栄光が現されること、そして、それによって父なる神さまの栄光が現されるようになることを、いわば、先取りする形で述べておられるものです。
 そして、これに続いて5節で、

今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。

と祈っておられるのです。

 このような流れを踏まえてこの5節のイエス・キリストの祈りのことばを読みますと、一つのことが見えてきます。
 これまでお話ししてきましたように、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちご自身の民に永遠のいのちを与えてくださったことによって、イエス・キリストの栄光が現されました。その栄光は、「世界が存在する前に」イエス・キリストが父なる神さまと「ごいっしょにいて」もっておられた栄光であるということです。そして、それによって現された父なる神さまの栄光も御子イエス・キリストが「世界が存在する前に」父なる神さまと分かちもっておられた栄光であるということです。
 父なる神さまと御子イエス・キリストが永遠に分かち合っておられる栄光は、神のかたちとして造られている人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、見失われてしまっていました。しかし、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちご自身の民に永遠のいのちを与えてくださったことによって、父なる神さまと御子イエス・キリストが永遠に分かち合っておられる栄光が、最も、鮮明に、また豊かに現されるようになったのです。
 そして、その栄光を見ることができるのは、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、罪を贖っていただき、復活のいのちによって新しく生まれている人々、すなわち、イエス・キリストが「あなたからいただいたすべての者」と述べておられるイエス・キリストの民たちです。私たちは御子イエス・キリストにある父なる神さまの一方的な愛と恵みによって、この栄光を仰いで父なる神さまを礼拝する特権にあずかっています。


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