無限の栄光の主であられる方が
(クリスマス説教集)


説教日:2013年12月22日
聖書箇所:ピリピ人への手紙2章5節ー11節


 本主日は2013年の降誕節です。今年も昨年に引き続きまして、ピリピ人への手紙2章5節ー11節に記されているみことばについてお話しいたします。そこには、

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

と記されています。
 昨年は、この部分が5節の、

 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。

という戒めで始まっていることについてお話ししました。降誕節の礼拝において、無限、永遠、不変の栄光の主であられるイエス・キリストが、限りなく身を低くし、人の性質をお取りになって、来てくださったことをお話しするのであれば、6節の、

 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

というみことばから始めればいいと思われます。けれども、ギリシャ語の原文では、この6節に記されているみことばは関係代名詞で始まっていて、5節の、

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

という戒めとつながっていますので、5節と6節で一つの文になっています。
 5節の、

 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。

という戒めの「そのような心構え」とは、この前の1節ー4節に記されています、

こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

という戒めに示されています。これが5節で、

 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。

と言われているときの「そのような心構え」の具体的な内容です。5節では、さらに、

 それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

と言われていて、「そのような心構え」をもつことの究極のモデルがイエス・キリストご自身であることが示されています。[注] そして、6節ー11節において、その究極のモデルであるイエス・キリストのことが、さらに説明されています。

[注]5節の「見られるものです」は新改訳の補足で、原文にはありません。この点については、学者たちの間で理解の仕方がいくつかに分かれています。結論的には、新改訳のように理解するのが妥当と思われます。


 この5節ー11節に記されていることは、新約聖書の中で最も理解するのが難しい個所の一つとされていて、いくつかの立場から、とても多くの論文が記されています。私も福音派の優れた学者の方々の著作に導かれて、いくつかの代表的な立場の主張に触れてきました。その上でのことですが、ここでパウロが述べていることの主旨は、私たちが用いている新改訳の訳文から汲み取ることができると信じています。もちろん、いくつかの難しい問題がありますので、注釈が必要です。具体的な問題につきましては、改めて(来年になりますが)、お話しすることとしまして、今日は、ここに記されているみことばの構造に注目して、そこから見えてくることについてお話しします。
 6節ー11節に記されていることを全体的に見ますと、この箇所は、大きく、二つに分けられます。
 前半の6節ー8節には、

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

と記されています。
 このみことばでは、永遠の神であられ、無限の栄光の主であられるイエス・キリストが、限りなく身を低くし、人としての性質をお取りになって、来てくださったことを記しています。この部分の主語はイエス・キリストです。ちなみに、このように人としての性質を取って来てくださる前のイエス・キリストのことを「先在のキリスト」と呼びます。またこの6節ー8節は、通常、パウロがその手紙でいろいろなことを論じているときのことば遣いではなく、詩のようなことば遣いで記されています。
 これに対しまして、後半の9節ー11節には、

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

と記されています。
 このみことばでは、神さまがイエス・キリストを高く挙げられたことが記されています。この部分の主語は神、すなわち、父なる神さまです。また、この部分はパウロが手紙でいろいろなことを論じているときのことば遣いで記されています。
 今日は、このうちの前半の6節ー8節に記されているみことばについてしかお話しできませんが、この6節ー8節に記されているみことばは、さらに、6節ー7節と7節の最後ー8節の二つに分けられます。そして、それぞれが同じような構成になっていて、お互いに対応しています。そのことをごく大ざっぱにまとめますと、次のようになります。
 6節ー(最後の部分を除く)7節には、

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。

と記されています。
 ここでは、永遠の神であられ、無限の栄光の主であられるイエス・キリスト、先ほどのことばで言いますと、「先在のキリスト」のことが記されています。そして、ここでは、この無限の栄光の主であられるイエス・キリストが、何を、また、どのようになされたかが記されています。具体的には、イエス・キリストが、

神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。

と言われています。イエス・キリストは「神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無に」されました。どのように「ご自分を無に」されたのかと言いますと、「仕える者の姿をとり、人間と同じようになられ」たことによってです。
 これに対しまして、7節の最後ー8節には、

人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

と記されています。
 ここでは、「人としての性質をもって現れた」イエス・キリストのことが記されています。この「人としての性質をもって現れた」イエス・キリストが何を、また、どのようになされたかが記されています。具体的には、イエス・キリストが、

自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

と言われています。イエス・キリストは、ご「自分を卑しく」されました。どのようにしてかと言いますと、「死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われ」たことによってです。

 6節ー8節に記されていることが、このような構造になっていることから、一つの大切なことが見えてきます。
 6節ー7節に記されていますように、永遠の神であられ、無限の栄光の主であられるイエス・キリストは、

ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。

このことに、イエス・キリストが無限に身を低くされたことが表されています。

 このことは、今から2千年前に、私たちが今住んでいるこの世界の歴史の事実として起こりました。そして、このことがヨハネの福音書1章14節には、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されています。
 ここで「ことば」と言われている方は、同じ1章の1節ー3節において、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

とあかしされています。「ことば」は永遠の神であられ、永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられます。そして、この「ことば」は創造の御業を遂行された方です。
 この方が、今から2千年前に、人としての性質を取って、来てくださいました。そして、「この方の栄光」は「父のみもとから来られたひとり子としての栄光で」、「恵みとまことに満ちて」いたと言われています。[注]

[注]新改訳は「満ちている」という形容詞が男性形であることに基づいて、「この方は恵みとまことに満ちておられた。」と訳しています。しかし、この形容詞は不変化詞ですので、女性形の「栄光」を説明している可能性もあります。この14節後半では「この方の栄光」のことが取り上げられていますので、ここでも、「この方の栄光」のことを述べていると考えられます。

 「この方の栄光」が「父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」ということは、「この方の栄光」が父なる神さまの栄光であり、この方において、父なる神さまの栄光が現されているということ、ひいては、この方において父なる神さまがどのような方であるかが示されているということを意味しています。ヨハネの福音書においては、1章18節に、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されています。また、14章9節には、イエス・キリストが弟子のピリポに語られた、

 わたしを見た者は、父を見たのです。

というみことばが記されています。
 このように、今から2千年前に、永遠の神であられ、無限の栄光の主であられるイエス・キリストが人としての性質を取って、来てくださいました。このことに、イエス・キリストが限りなく身を低くされたことが現れています。これは驚くべきことです。けれども、それだけではありませんでした。今私たちが取り上げていますピリピ人への手紙2章6節ー8節においては、そのようにして、限りなく身を低くされて、「人としての性質を」取って来てくださったイエス・キリストは、さらに、その人としてのあり方においても、

自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

と言われています。永遠の神であられ、無限の栄光の主であられるイエス・キリストは、神としてのあり方において身を低くされた上に、人としてのあり方においても身を低くされました。しかも、それぞれのあり方において「極みまで」身を低くしておられます。
 十字架刑は、人類が考え出した最も残虐な刑罰の方法の一つです。それはローマ帝国においては、奴隷やローマ帝国への反逆者たちに執行されたもので、ローマの市民権をもっている人々には執行されませんでした。イエス・キリストはその地上の生涯において、父なる神さまのみこころに従い通されました。普通であれば、そのような人は神さまの祝福を受けて、地上でも幸せな生活をするということになっています。また、イエス・キリストは、この罪に満ちた世界に来られて、ご自身がこの世にあることからくる、さまざまな苦しみや痛みを味わわれただけではありません。マタイの福音書8章15節ー16節には、

夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

と記されています。イエス・キリストは永遠の神としての御力を働かせて、いとも簡単に人々の病をいやし、悪霊たちを追い出されたというのではないのです。むしろ、

 彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。

と言われていますように、永遠の神としての御力を働かせて、病に冒され、悪霊につかれていた人々の苦しみや痛みをご自身のこととして汲み取られました。その上で、その人々の病をおいやしになり、悪霊を追い出されました。そのように、ひたすら痛み苦しむ人々とともにあり、人々への愛のうちを歩まれたイエス・キリストが、最後には、人々から捨てられ、奴隷やローマ帝国への反逆者であるかのように、十字架刑に処せられて殺されました。人として、これほどの無念はないでしょう。これほどの悲惨はないでしょう。そのことは、ささいなことに傷つき、くやしさを募らせる、私のような者にもよく分かります。ただ、そのような自分を省みますと、そのくやしさの奥には罪の自己中心性が渦巻いています。しかし、イエス・キリストのうちには、そのような罪のシミはありませんでした。
 先ほどお話ししましたように、ピリピ人への手紙2章6節ー11節の全体的な構造においては、6節ー8節には、イエス・キリストがなされたことが記されており、9節ー11節には、父なる神さまがなされたことが記されています。ですから、6節ー8節に記されている、これらすべてのことは、永遠の神であられ、無限の栄光の主であられるイエス・キリストが、まったくご自身の意思によって、なされたことです。もちろん、イエス・キリストは父なる神さまのみこころに従われました。そのことも、いやいやではなく、ご自身の意思によって、進んでなされたことです。
 このことの前に、私たちは驚愕いたします。永遠の神であられ、無限の栄光の主であられるお方が、そこまで身を低くされたとは、いったいどうしてなのでしょうか。それは、

 死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

というみことばによって示されています。
 先ほどお話ししましたイエス・キリストの十字架の死がもたらす、人としての悲惨さや無念さは、人の目に見えるものです。私たちが容易に想像できることです。けれども、イエス・キリストの十字架の死にはそれ以上のことがかかわっていました。それはただ、神さまの啓示のみことばである聖書によってあかしされていることです。
 どういうことかと言いますと、人としてのイエス・キリストはユダヤ人としてお生まれになりました。ユダヤの社会を律していて、イエス・キリストもそれに従っておられたモーセ律法では、申命記21章23節において、「木につるされた者は、神にのろわれた者」であるとされていました。父なる神さまのみこころに従い通され、ひたすら人々への愛に生きられたイエス・キリストは、「神にのろわれた者」として、十字架につけられて殺されました。パウロはガラテヤ人への手紙3章13節において、その申命記21章23節に記されているみことばを引用して、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。

と述べています。イエス・キリストは、私たちが神さまに対して犯した罪がもたらしたのろいを、私たちに代わってお受けになったというのです。
 その罪ののろいとは、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰である永遠の死であり、滅びです。私たちが犯す罪は、どれも無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに対して犯すものです。それで、その重さは無限です。そのような罪を贖うためには、無限の償いが必要です。けれども、どのような被造物も、その罪を贖うことはできません。神さまに対して罪を犯してしまっている私たち人間は、自分の罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を受けなければならない状態にあります。とても、他の人の罪を贖うことができないばかりか、自分の罪も贖うことはできません。また、罪のない御使いたちも、たとえ、聖書に出てくる、ガブリエルやミカエルといった最も位の高い御使いであっても、無限の重さをもっている人の罪を贖うことはできません。ただ、永遠の神であられ、無限の栄光の主であられるイエス・キリストだけが、私たちの罪を贖うことがおできになります。
 永遠の神であられ、無限の栄光の主であられるイエス・キリストは、私たちの罪を贖うことがおできになる方であるだけではなく、実際に、そのために、ご自身のすべてをお捨てになりました。それが、ピリピ人への手紙2章6節ー7節において、

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。

と言われていることであり、さらに、7節の最後ー8節において、

人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

と言われていることです。
 永遠の神であられ、無限の栄光の主であられるイエス・キリストが「人間と同じようになられた」ことによって、人の罪が満ちているこの世界にあることからくるさまざまな苦しみと悲しみ、病に冒され、悪霊につかれている人々の悲惨と苦悩をご自身のこととして共感してくださるようになられました。それだけでも、永遠の神であられ、無限の栄光の主であられる方の限りないへりくだりです。けれども、それだけではありません。永遠の神であられ、無限の栄光の主であられるイエス・キリストは、それらすべての悲惨と苦悩の根本原因である人の罪を贖ってくださるために、敢然と、十字架に向かって進んで行かれ、神さまの御前にのろわれた者として、ご自身のいのちを注ぎ出されました。
 永遠の神であられ、無限の栄光の主であられるイエス・キリストがどうして、私たちのためにご自身のすべてをお捨てになったのでしょうか。それは、ただ、イエス・キリストが私たちを愛してくださったからだ、と言う他はありません。そんなに簡単に言っていいことなのかと問われそうです。確かに、そうです。この私自身がこのように言う自分自身のことばの軽さを感じてしまいます。もちろん、私たちは、イエス・キリストの愛のことを、平然と、他人事であるかのように言うことはできません。イエス・キリストの愛を受け止め、受け入れて、イエス・キリストがその愛によって備えてくださった、ご自身の十字架の死による罪の贖いにと、死者の中からのよみがえりによって、生かしていただくことなしに、イエス・キリストの愛について語ることはできません。

 このこととの関連で、さらに二つのことをお話ししたいと思います。
 先ほど、ヨハネの福音書に記されているいくつかのみことばに基づいて、人としての性質を取って、来てくださった永遠の神であられるイエス・キリストにおいて、神さまの栄光が現されており、神さまがどのような方であられるかが示されている、ということをお話ししました。その父なる神さまの栄光がどのような栄光であるか、ひいては、父なる神さまがどのような方であられるかは、イエス・キリストが私たちご自身の民のために十字架におかかりになったことによって、最も豊かに、また鮮明に現されました。ローマ人への手紙5章8節には、

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

と記されています。ここでは、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださったことによって、

 神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

と言われています。イエス・キリストの私たちへの愛と、父なる神さまの私たちへの愛は一つです。私たちは、ピリピ人への手紙2章6節ー8節において、

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

とあかしされている、イエス・キリストの愛において、真の意味で、父なる神さまの愛を知ることができるのです。もちろん、マタイの福音書5章45節に、

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる

というイエス・キリストの教えが記されていますように、神さまが陽を上らせ、雨を降らせてくださることに、神さまの愛といつくしみが現されています。けれども、その心が罪の暗やみに閉ざされている人には、その愛を汲み取ることはできません。また、私たちのために十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストの愛を離れては、真の意味で、父なる神さまの愛を知ることはできません。
 このことを心に刻みますと、ピリピ人への手紙2章6節ー7節に、

 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。

と記されているときの、

 キリストは神の御姿である方なのに、

というみことばの「なのに」は、「なので」と理解して、このみことばは、

 キリストは神の御姿である方なので、

と訳した方がよいという主張にも根拠があると思われます。ギリシャ語の原文では、ここには、「なのに」あるいは「なので」ということばはなく、分詞で表されていますので、文法の上では、どちらの理解も可能です。もし、

 キリストは神の御姿である方なのに、

ということが、神さまは、本来、私たちのような者のために、ご自身をお捨てになるような方ではない、という意味合いを伝えるとしたら、この部分は、むしろ、

 キリストは神の御姿である方なので、

と訳した方がよいでしょう。実際に、神さまは私たちのような者たちに心を注いでくださり、を愛してくださって、私たちが永遠のいのちに生きるようになるために、ご自身の御子をも遣わしてくださいました。
 このこととのかかわりでは、先ほど引用しました、ローマ人への手紙5章8節のみことばとともに、ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節に記されています、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

という教えが思い起こされます。
 もう一つのことはすでにお話ししたことの再確認ですので、ごく簡単にお話しします。
 6節には、

 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

と記されています。
 この場合の「キリスト」は、先ほどお話ししましたように、関係代名詞で表されていて、5節で、

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

と言われているときの「キリスト・イエス」のことです。それで、6節ー8節に記されています、

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

というみことばは、「キリスト・イエスのうちにも見られる」「心構え」のありようを示しています。
 私たちはここに記されています、永遠の神であられ、無限の栄光の主であられるイエス・キリストが、私たちのために十字架にかかって死んでくださったほどに、ご自身のすべてをお捨てになったことに具体的に現れている「心構え」をもって、神の家族の兄弟姉妹たちを愛するようにと招かれています。ヨハネの手紙第一・3章16節には、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と記されています。


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