2021年12月19日(降誕節)

   ご自身を利するためではなく
ピリピ人への手紙2章5節ー11節

 本主日は2021年の降誕節の主日です。昨年の降誕節の礼拝説教は杉本先生が担当してくださいましたので、私のお話は2年ぶりのことになりますが、2012年の降誕節の礼拝からピリピ人への手紙2章5節ー11節に記されているみことばからお話ししてきました。
 そこには、

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
 キリストは、神の御姿であられるのに、
 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
 人間と同じようになられました。
 人としての姿をもって現れ、
 自らを低くして、死にまで、
 それも十字架の死にまで従われました。
 それゆえ神は、この方を高く上げて、
 すべての名にまさる名を与えられました。
 それは、イエスの名によって、
 天にあるもの、地にあるもの、
 地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
 すべての舌が
 「イエス・キリストは主です」と告白して、
 父なる神に栄光を帰するためです。

と記されています。
 これまで、まず、5節に、

 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

と記されていることから分かりますが、ここでは、6節ー11節に記されているイエス・キリストのことが、私たちお互いのあり方に深くかかわっているということをお話ししました。――6節は(男性形・単数・主格の)関係代名詞から始まっていて、ギリシア語本文で5節の最後に出てくる「キリスト・イエス」を受けています。それで、5節に記されていることと6節に記されていることは切り離すことができません。
 この5節についてお話しした時には、新改訳第三版の、

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

という訳に基づいてお話ししていましたので、今日は、2017年版の、

 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

という訳について、ややこしいお話になりますが、いくつか注釈しておきます。
 同じ5節の訳ですが、第三版と2017年版ではかなり違っています。それは、この5節のギリシア語に省略があって、これを訳すときには、文脈などから判断して、何らかのことばを補わなければならないことによっています。
 第三版では後半で、

 それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

と言われています。これは、ギリシア語の順序を反映しています。しかし、最後の「見られるものです」ということばはギリシア語にはありません。ただ、このようなことばを補って、この部分を5節の最後に置いていることは、ここで言われていることの主旨――続く6節ー8節に記されている「キリスト・イエス」ご自身のあり方が、私たちの模範となっているということ――に沿っていると考えられます。
 2017年版で、

 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

と訳されているときの「この思い」も、ここに記されていることの意味を汲み取っての訳です。
 ここには「思い」(名詞)ということばはありません。この2017年版の訳に合わせて言いますと、ここには「思いを抱く」という動詞があります。このことば(フロネオー)は、単純には、「思う」とか「考える」を意味しています。ここでは、その命令法ですので、「思いなさい」とか「考えなさい」となります。当事者ではないので想像するだけですが、おそらく、2017年版は「思いなさい」を「思いを抱きなさい」として、これを二つに分けて「思いを(あなたがたの間で)抱きなさい」訳しているのではないかと思われす。このようにしているのは、ここでは、「この(こと)を」ということば(トゥート)が冒頭に出てきて強調されていることによっていると考えられます。それで、

 あなたがたの間でも、この思いを抱きなさい

としないで、「この思いを」を前に置いて、強調していると思われます。
 このこととともに、ここには注目すべきことがあります。それは、この5節に出てくる「思いを抱く」(「思う」)という動詞(フロネオー)が、その前の2節ー4節に、

あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。

と記されている中に2回出てくる(「同じ思いとなり」、「思いを一つにして」)ということです。
 そして、5節は、この2節ー4節に記されていることを受けて記されているので、このことからも、2017年版は、

 この思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

というように、「この思いを」を前に置いて強調していると思われます。
 5節で、

 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

と言われているときの、「キリスト・イエスのうちにある」ということばは、より直訳調には、「それは、また、キリスト・イエスのうちにもあるものです」ということです。そして、これは5節の最後に置かれています。
 先ほど、第三版の訳についてお話ししたときに触れましたように、これが5節の最後に置かれていることによって、続く6節ー8節に記されている「キリスト・イエス」ご自身のあり方が、私たちの模範となっているということを示しています。このようなことから、この、「それは、また、キリスト・イエスのうちにもあるものです」は最後に置いた方がよいと考えられます。

          *
 2014年の降誕節からは、6節ー11節に記されていることについてのお話をしてきました。
 6節ー11節に記されていることは、大きく、6節ー8節に記されていることと、9節ー11節に記されていることに分けられます。
 今は、前半の6節ー8節に記されていることについてお話ししていますが、そこは、

 キリストは、神の御姿であられるのに、
 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
 人間と同じようになられました。
 人としての姿をもって現れ、
 自らを低くして、死にまで、
 それも十字架の死にまで従われました

と記されています。
 すでにお話ししたことで、今日お話しすることとかかわっていることをまとめておきます。
 6節で、

 キリストは、神の御姿であられるのに、

と言われているときの「御姿」と訳されていることば(モルフェー)は、7節で、

 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、

と言われているときの「姿」と訳されていることばと同じことばです。[注]

[注]7節の最後で「人としての姿をもって現れ」と言われているときの「姿」と訳されていることばは、これとは別のことば(スケーマ、「外形」、「見える形」)です。

 この「御姿」また「姿」と訳されていることば(モルフェー)は、単に見える形を示しているだけではなく、「あるもの」の形をもっていることは、その「あるもの」の性質や特徴にもあずかっているということをも意味しています。
 6節では、その「あるもの」のモルフェーは、見ることができない「神の」「御姿(モルフェー)」です。それで、ここで、

 キリストは、神の御姿であられる

と言われていることは、ことばの上からは、キリストが「」すなわち父なる神さまの性質や特徴にあずかっているということを意味しています。――これだけでは、どの程度、父なる神さまの性質や特徴にあずかっているかは分かりません。
 しかし、このことには、さらに注目すべきことがあります。
 それは6節で、続いて、

 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

と記されていることです。
 この「神としてのあり方」と訳されていることばは、直訳調に訳すと「神と等しくあること」となります。
 ここでは、この「神と等しくあること」は、その前の「神の御姿であられる」ことを言い換えて、説明しています。それで、この二つのことばは実質的に同じことを表していて、同じことを別の面から述べています。
 このことから、イエス・キリストが「神の御姿であられる」ことは、イエス・キリストが神の本質と属性(特質)に完全にあずかっておられること、すなわち、イエス・キリストが無限、永遠、不変の神であられることを意味していることが分かります。
 また、ここで「神の御姿であられる」と言われていることと、「神と等しくあること」という言い方は、イエス・キリストと「」すなわち父なる神さまとの区別と関係を示しています。
 そのことは、この後に記されていることにおいて、さらに、示されています。
 8節に、

 自らを低くして、死にまで、
 それも十字架の死にまで従われました。

と記されていることにおいては、イエス・キリストが誰に従われたのかは明記されていません。言うまでもなく、これは、イエス・キリストが父なる神さまとそのみこころに従われたということです。
 また、それに続く9節においては、

 それゆえ神は、この方を高く上げて、
 すべての名にまさる名を与えられました。

と記されていて「」と「この方」の区別と関係が明確に示されています。
 さらに、最後の11節においても、

 すべての舌が
 「イエス・キリストは主です」と告白して、
 父なる神に栄光を帰するためです。

と記されていて、「イエス・キリスト」と「父なる神」の区別と関係が明確に示されています。
          *
 それで、ここでイエス・キリストが「神の御姿であられる」と言われていることと、「神と等しくあること」という言い方によって示されていることは、ヨハネの福音書1章1節に、

 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

と記されていることと実質的に同じことです。
 詳しい説明は省いて結論的なことだけになりますが、ヨハネの福音書1章1節に、

 初めにことばがあった。

と記されているときの「初めに」は、創世記1章1節に、

 はじめに神が天と地を創造された。

と記されているときの「はじめに」に相当します。それで、神さまが「天と地」すなわちこの世界のすべてのものを「無から」創造された時には、すでに、「ことば」すなわち御子イエス・キリストが、ずっと存在しておられたということを伝えています。実際、ヨハネの福音書1章では、3節に、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されていて、御子イエス・キリストが(ここでは明記されてはいませんが、父なる神さまのみこころに従って)創造の御業を遂行されたことが示されています。
 私たちが生きている時間と空間は、この世界の時間であり空間ですから、時間は創造の御業とともに始まっており、空間は創造の御業とともに広がり始めています。しかし、この世界の「すべてのもの」をお造りになった御子イエス・キリストは、時間の流れの中や空間の広がりの中にはおられません。御子イエス・キリストはこの世界の時間と空間を超えた方であり、永遠であり無限の方です。
 また、1節では、続いて、

 ことばは神とともにあった。

と言われています。
 これによって、「ことば」すなわち御子イエス・キリストが、永遠に「」すなわち父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられることが示されています。
 1節では、さらに、

 ことばは神であった。

と言われています。
 大切なことは、ここでは、この前に、

 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。

と記されていることを踏まえた上で、

 ことばは神であった。

と言われているということです。「ことば」すなわち御子イエス・キリストが「」であられるということは、永遠に「」すなわち父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられるということを離れては考えられないことなのです。
 このことが大切なことであるので、ヨハネは続く2節において、改めて、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と記しています。これによって、「この方」すなわち御子イエス・キリストが、永遠に、「」すなわち父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられることが強調されています。
 そして、その上で、3節で、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と言われています。
 「すべてのもの」は「この方」、すなわち、永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられる御子イエス・キリストによって「造られ」ました。
 それで、天地創造の御業は、御子イエス・キリストが父なる神さまを愛して、父なる神さまのみこころに従って遂行された御業であり、父なる神さまが御子イエス・キリストによって、ご自身の愛をお造りになった「すべてのもの」に注がれた御業であると考えることができます。
 さらに、ヨハネの福音書1章では14節に、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されています。
 この「ことば」すなわち御子イエス・キリストは、永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられ、父なる神さまを愛して、父なる神さまのみこころに従って、「すべてのもの」をお造りになった方です。ここでは、その方が人としての性質を取って来てくださったことが記されています。ここでは、この方のことが「父のみもとから来られたひとり子」と言われています。これも、この方が永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられる方であることを示唆しています。
 ここでは、

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

と言われているとともに、

 私たちはこの方の栄光を見た。

と言われています。「ことば」すなわち御子イエス・キリストが人としての性質を取って来てくださって初めて、私たちはこの方とこの方の栄光を見ることができるようになりました。
 言い換えますと、御子イエス・キリストは人としての性質を取って来てくださる前には、人は誰も御子イエス・キリストを見ることはできませんでした。このように、人としての性質を取って来てくださる前の御子イエス・キリストのことを、神学の用語では「先在のキリスト」と呼びます。繰り返しになりますが、先在のキリストは、永遠に父なる神さまとの無限の愛の交わりのうちにおられる、まことの神であられます。

          *
 ピリピ人への手紙2章6節で、

 キリストは、神の御姿であられるのに、
 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

と言われていることは、この先在のキリストのことを示しています。
 先在のキリストは人が見ることはできない方であることを踏まえますと、ここで、先在の

 キリストは、神の御姿であられる

と言われていることには意味があると考えられます。ここでは、先在のキリストが「」すなわち父なる神さまの本質と属性に完全にあずかっておられるとともに、それを完全に現しておられることを意味していると考えられるからです。
 そして、神さまの本質と属性の現れとは、神さまの栄光のことです。それで、

 キリストは、神の御姿であられる

と言われている先在のキリストの栄光は、父なる神さまの栄光に完全にあずかっている栄光です。この栄光は、ヨハネの福音書17章5節に記されている、

父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。

という、イエス・キリストの祈りに示されている、「世界が始まる前に」父なる神さまと「一緒に持っていたあの栄光」です。
 ピリピ人への手紙2章6節ー7節前半に、

 キリストは、神の御姿であられるのに、
 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
 人間と同じようになられました。

と記されていることは、ヨハネの福音書1章14節に、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されていることに当たります。
 どちらも、父なる神さまと等しい無限、永遠、不変の栄光に満ちたまことの神であられ、永遠に父なる神さまとの無限の愛の交わりのうちにおられる御子イエス・キリストが、父なる神さまを愛し、父なる神さまのみこころにしたがって、人としての性質をとって来てくださったことを示しています。
 すでに繰り返しお話ししてきましたように、ピリピ人への手紙2節6節に記されている、

 キリストは、神の御姿であられるのに、

という新改訳2017年版の訳は、分詞構文を「譲歩」の意味で訳しています。しかし、これまでお話ししたさまざまなことから、これは、

 キリストは、神の御姿であられるので(神の御姿であられるからこそ)、

というように、「理由」を表していると理解したほうがよいと考えられます。
 もう一つ注目したいのは、これに続いて、

 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

と訳されている部分です。
 先ほどお話ししたように、ここで「神としてのあり方」と訳されていることばは、先ほどお話ししたように、直訳調に訳すと「神と等しくあること」となります。
 また、「捨てられないとは考えず」と訳されていることばは、この2017年版が示している理解とともに、否定詞(ウーク)を除いた二つのことば(ハルパグモス・ヘーゲオマイ)を、「自分の益のために用いるべきものと考える」ということを意味するイディオムであるという理解があります。
 おそらく、これをイディオムであるする方がよいのではと思われます。すでに父なる神さまの本質と属性に完全にあずかっておられる、先在のキリストは、「神と等しくあること」をご自身を利するためのものではなく、むしろ、私たちご自身の民のためのものであるとお考えになって、

 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
 人間と同じようになられました。

ということです。
 この世の主権者たちは、「主権者であること」を、人々の上に立って支配して、自分の権力欲を満たすこと、自分を富ませて、自分のさまざまな欲望を満たすことなど、自分を利するために利用しています。先在のキリストは、これとはまったく違っていました。
 さらに、このことは、私たちの罪の深刻さが踏まえられています。私たちの罪は無限、永遠、不変の栄光の主に対する罪であり、永遠の刑罰に相当します。そのような私たちの罪を贖ってくださるのは、「神と等しくある」方による贖いの御業しかありえません。実際に、御子イエス・キリストはこのために、

 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
 人間と同じようになられました。

御子イエス・キリストは「神と等しくあること」を、ご自身を利するためのことではなく、私たちご自身の民のために罪の贖いを成し遂げてくださるためのこととお考えになってくださったのです。
 ここで心に留めておきたいのは、先ほどお話ししましたように、ピリピ人への手紙2章6節ー11節に記されていることにおいては、一貫して、イエス・キリストと父なる神さまとの関係が踏まえられているということです。そして、そこには、特に、ヨハネが繰り返し述べている、父なる神さまの本質と属性に完全にあずかっておられるイエス・キリストと父なる神さまとの間には無限、永遠、不変の愛の交わりがあるということです。
 6節ー7節前半に、

 キリストは、神の御姿であられるのに、
 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
 人間と同じようになられました。

と記されていることにおいては、イエス・キリストの私たちご自身の民への愛がこの上なく豊かに示されています。
 それはまた、イエス・キリストが父なる神さまを愛しておられ、父なる神さまのみこころにしたがって、私たちご自身の民のために、

 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
 人間と同じようになられました。

ということを意味しています。このことにおいて、父なる神さまの私たちへの愛も、御子イエス・キリストをとおして、この上なく豊かに示されています。