神の御姿であるからこそ(2)
(クリスマス説教集)


説教日:2018年12月23日
聖書箇所:ピリピ人への手紙2章5節ー11節


 本主日は2018年の降誕節の主日です。今日も、2012年から降誕節の礼拝において取り上げてきたピリピ人への手紙2章5節ー11節に記されているみことばからお話しします。そこには、

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
 キリストは、神の御姿であられるのに、
 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
 人間と同じようになられました。
 人としての姿をもって現れ、
 自らを低くして、死にまで、
 それも十字架の死にまで従われました。
 それゆえ神は、この方を高く上げて、
 すべての名にまさる名を与えられました。
 それは、イエスの名によって、
 天にあるもの、地にあるもの、
 地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
 すべての舌が
 「イエス・キリストは主です」と告白して、
 父なる神に栄光を帰するためです。

と記されています。
 2014年から昨年まで4回にわたって、6節に、

 キリストは、神の御姿であられるのに、
 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

と記されているみことばについてお話ししました。
 まず、お話が長いこと空いてしまったので、これまでお話しした二つのことをまとめておきます。
 ここで、

 キリストは、神の御姿であられる

と言われていることは、続く7節で、

 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
 人間と同じようになられました。

と言われていることすなわち、今から2千年前にイエス・キリストが人としての性質を取って来てくださったことより前のことを述べています。人としての性質を取って来てくださる前のイエス・キリストのことを「先在のキリスト」と呼びます。
 ここで、

 キリストは、神の御姿であられる

と言われているときの「御姿」と訳されていることば(モルフェー)は、このことばを2回用いているホメロス以来のギリシアの文学の中で、いろいろな意味合いで用いられてきて、「感覚によって捉えることができるもの」としての「現れ」や「形」を表すようになったようです。とはいえ、その「現れ」や「形」がその本質と切り離されるという考え方はなく、あるものの本質は、そのものの「現れ」や「形」に示されていると考えられていました(NIDNTTE, 2nd ed., vol.3, p.337)。それで、

 キリストは、神の御姿であられる

と言われていることは、先在のキリストが父なる神さまの本質と属性(性質)にあずかっておられることを意味しています。
 ここでは、これに続いて、

 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

と言われています。ここで「神としてのあり方」と訳されていることば(ト・エイナイ・イソス・セオー)は、文字通りには「神と等しくあること」です。この「等しい」と訳されることば(形容詞イソス)は、数や大きさや質において等しいことを表しています。ですから、ここで言われている、イエス・キリストが「神と等しくある」ということは、イエス・キリストが父なる神さまに等しい方であり、まことの神であられることを意味しています。
 このことを踏まえると、この前の部分で、先在の

 キリストは、神の御姿であられる

と言われていることは、先在のキリストが父なる神さまの本質と属性に完全にあずかっておられ、それを完全に現しておられることを意味していることが分かります。
 ただし、このことは、先に父なる神さまがおられて、後から御子イエス・キリストが父なる神さまの本質と属性にあずかるようになったということではありません。父なる神さまも御子も無限、永遠、不変の神であられますから、御子がお生まれになった時があるわけではありません。もしそのような時があったとしたら、御子は時間の中でお生まれになったということで、永遠の存在ではないことになってしまいます。御子は永遠に父なる神さまからお生まれになっている方として存在しておられます。それと同じで、御子イエス・キリストは永遠に父なる神さまの本質と属性に完全にあずかっておられ、それを完全に現しておられます。
 その、神さまの本質と属性の「現れ」とは、神さまの栄光のことです。それで、ヘブル人への手紙1章3節には、

 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れである

と記されています。このことから、

 キリストは、神の御姿であられる

と言われていることは、先在のキリストが父なる神さまと分かちもっておられる栄光とかかわっていると考えられます。この場合は、先在のキリストが永遠に父なる神さまの栄光に完全にあずかっておられて、永遠に父なる神さまの栄光と等しい栄光に満ちておられるということを意味しています。
 このように、ピリピ人への手紙2章6節で、

 キリストは、神の御姿であられる

と言われている先在のキリストは、永遠に父なる神さまの栄光と等しい栄光に満ちておられる、無限、永遠、不変の栄光の主です。そして、これに続いて、この無限、永遠、不変の栄光の主であられる方が、

 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
 人間と同じようになられました。
 人としての姿をもって現れ、
 自らを低くして、死にまで、
 それも十字架の死にまで従われました。

と言われています。無限、永遠、不変の栄光の主であられる方が、私たちのために「人間と同じようになられ」、「人としての姿をもって現れ」てくださり、「十字架の死にまで」父なる神さまのみこころに「従われ」て、贖いの御業を遂行してくださったというのです。


 もう一つのことは、これまでお話ししてきたことの中心にあることです。それは6節前半に、

 キリストは、神の御姿であられるのに

と記されているときの「あられるのに」と訳されていることばにかかわっています。
 ここには「神の御姿であられるのに」と言われているときの「のに」を表すことばはありません。原文のギリシア語では、

 キリストは、神の御姿であられる

と言われているときの「であられる」と訳されていることば(ヒュパルコーン)が、「存在する」、「ある」や、「・・・である」などを表す(ヒュパルコー)の現在分詞なのです。これは英語の分詞構文に当たるものです。
 これをどのように訳すかについては、二つの可能性があります。
 一つは、新改訳のように「あられるのに」と訳して「譲歩」を示すことです。これには、「神の御姿であられ」、永遠に父なる神さまの本質と属性に完全にあずかっておられ、それゆえに、永遠に父なる神さまの栄光と等しい栄光に満ちておられる方、無限、永遠、不変の栄光の主が、

 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
 人間と同じようになられた

ということは、本来は、ありえないことであるのに、イエス・キリストはそうされたという意味合いがあります。
 さらに、このことの背後には、本来、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまは、このようなことをなさる方ではないという理解があります。
 もう一つの可能性は、このことば(ヒュパルコーン)を「であられるから」と訳すことです、そうすると、

 キリストは、神の御姿であられるから

と訳すことになります。これは「理由」を示しています。この訳は、

 キリストは、神の御姿であられるから

こそ、すなわち、「神の御姿であられ」、永遠に父なる神さまの本質と属性に完全にあずかっておられ、それゆえに、永遠に父なる神さまの栄光と等しい栄光に満ちておられる方、無限、永遠、不変の栄光の主であられるからこそ、

 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
 人間と同じようになられた

ということを示しています。
 さらに、このことの背後には、このようなことこそが無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまにふさわしいことであるという理解があります。
 文法の上ではどちらの訳も可能ですので、これのどちらの理解を取るべきであるかの判断は、イエス・キリストがどのような方であるかということ、さらには、神さまがどのような方であるかということにかかわっています。
 これまで、イエス・キリストがどのような方であるかということ、さらには、神さまがどのような方であるかということについてみことばが示していることを、いろいろな面からお話しして、ここでは、

 キリストは、神の御姿であられるから

こそ、

 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
 人間と同じようになられた

という理解を取るべきであるということをお話ししました。
 今日も、このこととのかかわりで、もう一つのことをお話ししたいと思います。ただし、それは、別の機会にお話ししたことを、今お話ししていることとのかかわりで、再確認することです。

 ヨハネの福音書12章20節ー24節には、

さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。

と記されています。
 20節で、

 さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。

と言われているときの「祭り」は、過越の祭りのことです。イエス・キリストは過越の子羊の成就として、その過越の日に十字架につけられて、その血を流されることになります。
 出エジプトの時代に、「」はイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から解放してくださるために、十のさばきをもって、エジプトをおさばきになりました。その最後のさばきは、人も家畜も含めて、エジプトの地にある初子を撃つことでした。イスラエルの民は「」のみことばに従って、過越の子羊を用意し、その日の夕暮れにそれをほふって、その血を家の鴨居と門柱に塗りました。その夜、「」はエジプトの初子を撃ちました。しかし、その家に子羊の血が塗ってあるのを見ると、そこではすでにさばきが執行されているとして、その家を通りすぎました。それが過越です。過越の子羊はその家の初子の身代わりとなっていのちの血を流したのです。その後、イスラエルの民はこのことを覚えて、過越の祭りを行ってきました。
 この過越の子羊は、やがて、「」の民を罪から贖ってくださるために来てくださる贖い主、イエス・キリストを指し示す「地上的なひな型」でした。コリント人への手紙第一・5章7節に、

 私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。

と記されているとおりです。
 この過越の祭りのためにエルサレムに上ってきた人々の中に「ギリシア人が何人かいた」と言われています。その人々がイエス・キリストに「お目にかかりたい」と願いました。ユダヤ人たちは、この祭りの間に、イエス・キリストを見捨てて十字架につけて殺してしまうことになります。そのような状況にあって、異邦人である「ギリシア人」がイエス・キリストの御許にやって来たのです。
 このことは、先ほど引用した20節ー24節の前の12節ー19節に記されていることを受けています。12節ー13節には、

その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

と記されています。そして、17節ー19節には、

さて、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたときにイエスと一緒にいた群衆は、そのことを証しし続けていた。群衆がイエスを出迎えたのは、イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからであった。それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」

と記されています。
 「大勢の群衆」がエルサレムに来られたイエス・キリストを出迎えた時、パリサイ人たちは大変な危機感を抱きました。このことから、この祭りの間に、ユダヤ人の指導者たちがイエス・キリストをローマの総督ピラトに引き渡し、イエス・キリストは十字架につけられて殺されてしまうようになります。
 この時、パリサイ人たちは、

 見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。

と言いました。「大勢の群衆」がというのではなく「」(ホ・コスモス)」と言ったのは、危機感の表れで、「みんながそうしている」というように誇張して言っていると考えられます。子どもがとてもほしいものがあって、かなりの友達がそれを持っているときに、「みんながもっている」と言って、おねだりするのも同じような誇張表現です。新改訳が「世はこぞって」と訳しているのはこのことを反映していると思われます。
 この場合、ヨハネは、このパリサイ人たちが危機感に駆られて、

 見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。

と言ったことは、彼らが意識してはいなかったけれど、また、皮肉なことに、彼らの言ったとおりになったということを伝えていると考えられています。どういうことかというと、実際に、十字架につけられて殺されたイエス・キリストによって、世界(ホ・コスモス)のすべての民から、罪を贖われて救われる人々が起こされるようになったということです。ヨハネの福音書1章29節には、バプテスマのヨハネがイエス・キリストのことを「世の罪を取り除く神の子羊」であると証ししたことが記されています。また、3章17節には、

 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

と記されています。
 この意味で、12章19節で、パリサイ人たちが、

 見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。

と言ったときの「」(「世界」)に、20節に記されている、異邦人である「ギリシア人」たちが含まれていて、その「」(「世界」)を代表的に表していると考えられます。
 その「ギリシア人」たちがイエス・キリストに「お目にかかりたい」ということでイエス・キリストの御許に来たことを受けて、イエス・キリストは、

 人の子が栄光を受ける時が来ました。

と言われました。「人の子」は旧約聖書において約束されていた贖い主を表すことばで、イエス・キリストは、ご自身がその贖い主であることを示すために用いておられました。
 ここで「人の子が栄光を受ける時」とは、イエス・キリストが十字架につけらる時、過越の子羊の本体としてご自身の民の罪を贖い、彼らにいのちを与えるためにご自身の血を流される時のことです。そのことは、これに続いて、イエス・キリストが、

まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。

と言われたことから分かります。
 このことは、イエス・キリストが私たちご自身の民の罪を贖い、彼らにいのちを与えるために十字架にかかって死んでくださったことにおいて、イエス・キリストは栄光をお受けになった、ということを意味しています。言い換えると、私たちご自身の民のために十字架につけられたイエス・キリストにおいてこそ、イエス・キリストの栄光は最も豊かに表されているということです。

 このイエス・キリストのことばはさらに続きます。
 27節ー33節には、

「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」そばに立っていてそれを聞いた群衆は、「雷が鳴ったのだ」と言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。

と記されています。
 イエス・キリストは、

今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。「父よ、この時からわたしをお救いください」と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。

と言われました。
 ヨハネの福音書には、十字架につけられて、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって、お受けになることに、

 わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。

と言われて(マタイの福音書26章38節、マルコの福音書14章34節)、「悲しみのあまり」の苦悩のうちに祈られた、ゲツセマネの祈りが記されてはいません。しかし、ここに記されていることは、まさに、それに相当することです。イエス・キリストは、

 わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。

と言われました。この悲しみとそれに伴う苦しみは、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにおられる御子イエス・キリストが、父なる神さまの聖なる御怒りを受けて、その愛の交わりを断たれることへの悲しみであり、苦しみです。実際、それが、マタイの福音書27章46節に記されている、

 わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか

という十字架の上でのイエス・キリストの叫びの意味です。
 この場合、

 今わたしの心は騒いでいる。

と記されていることは、このことばから、普通に、私たちが汲み取るより、はるかに深い悲しみと苦悩を伴う動揺を表しています。
 ここで、イエス・キリストは「この時」ということば(ヘー・ホーラ・アウテー)を2回繰り返しておられます。この「この時」は、先ほどの、

 人の子が栄光を受ける時が来ました。

という、イエス・キリストのみことばに出てくる「」(ヘー・ホーラ)に関連する「」で、イエス・キリストが過越の子羊の成就として十字架にかかられる時のことです。
 父なる神さまは、

 父よ、御名の栄光を現してください。

というイエス・キリストの祈りにお答えになって、

 わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。

と言われました。
 ここで、父なる神さまが、

 わたしはすでに栄光を現した。

と言われたのは、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが、私たちご自身の民の罪を贖うために、人としての性質を取って来てくださったことと、この時に至るまでのお働きを指しています。同じヨハネの福音書14章9節には、イエス・キリストが弟子のピリポに語られた、

 わたしを見た人は、父を見たのです。

というみことばが記されており、続く10節には、

わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。

というみことばが記されています。イエス・キリストご自身とイエス・キリストのお働きは父なる神さまの栄光を現すものです。言い換えると、父なる神さまはイエス・キリストご自身とイエス・キリストのお働きを通して栄光を現されるのです。
 父なる神さまは、

 わたしはすでに栄光を現した。

と言われたのに続いて、

 わたしは再び栄光を現そう。

と言われました。
 これは、は、イエス・キリストが、

 わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。

と言われることに現れる栄光です。
 ここで、イエス・キリストが、

 わたしが地上から上げられるとき、

と言われることが、何を指しているかが問題となります。
 これについては、ヨハネが、

 これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。

と説明しています。この説明がなければ、この、

 わたしが地上から上げられるとき、

というイエス・キリストのことばは、続いて、

 わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。

と言われていることから、十字架にかかって死なれたイエス・キリストが栄光を受けてよみがえった後、天に上げられ、父なる神さまの右の座に着座されることを述べていると考えてしまいます。実際、一般的には、この、

 わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。

というみことばは、イエス・キリストが十字架につけられることだけでなく、イエス・キリストが栄光を受けてよみがえった後、天に上げられ、父なる神さまの右の座に着座されることを述べていると理解されてます。確かに、この二つのことは、一つのことの裏表のような関係にあり、切り離すことができません。このことを認めた上でのことですが、この場合は、ヨハネが、

 これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。

と説明していることの重さを尊重しなければなりません。それで、ここで示されているイエス・キリストの栄光、すなわち、父なる神さまがイエス・キリストを通して現される栄光の中心は、イエス・キリストが私たちご自身の民の罪を贖うために十字架につけられて死なれることに現される栄光です。そして、それによって私たちご自身の民をご自身の御許に引き寄せてくださることに現される栄光です。
 その意味で、これは、イエス・キリストが、

人の子が栄光を受ける時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。

と言われている栄光と同じです。
 そして、このことばは異邦人である「ギリシア人」がイエス・キリストに「お目にかかりたい」ということで御許に来た時に語られました。それで、イエス・キリストが、

 わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。

と言われるときの「すべての人」には「ギリシア人」によって代表的に表されている異邦人たちも含まれています。
 これらのことは、私たちご自身の民のために十字架につけられたイエス・キリストにおいてこそ、父なる神さまの栄光が最も豊かに現され、父なる神さまがどのようなお方であるかが最も豊かに示されているということを意味しています。
 このようなことからも、ピリピ人への手紙2章6節ー8節に、

 キリストは、神の御姿であられるのに、
 神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
 人間と同じようになられました。
 人としての姿をもって現れ、
 自らを低くして、死にまで、
 それも十字架の死にまで従われました。

と記されているときの、

 キリストは、神の御姿であられるのに、

と訳されていることばは、

 キリストは、神の御姿であられるから、

という意味に理解した方がよいと考えられます。


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