神の御姿であるからこそ
(クリスマス説教集)


説教日:2017年12月24日
聖書箇所:ピリピ人への手紙2章5節ー11節


 本主日は2017年の降誕節の主日です。今日も、2012年から降誕節の礼拝において取り上げてきたピリピ人への手紙2章5節ー11節に記されているみことばからお話しします。そこには、

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

と記されています。
 2014年から昨年まで3回に渡って、6節ー7節前半に、

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。

と記されている中の、6節で、

 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

と記されているみことばについてお話ししました。
 これまでお話ししてきたことの中心は、新改訳(第3版)で6節前半に、

 キリストは神の御姿である方なのに

と記されているときの「なのに」と訳されていることばです。
 新改訳(第3版)では、

 キリストは神の御姿である方なのに

と訳されていますが、ここに「なのに」を表すことばがあるのではありません。原文のギリシア語では、

 キリストは神の御姿である

と言われているときの「である」と訳されていることば(ヒュパルコーン)が、「存在する」「ある」や、「・・・である」などを表す(ヒュパルコー)の現在分詞なのです。これは英語の分詞構文に当たるものです。
 昨年お話ししたことばをそのまま用いますが、これをどのように訳すかについては、二つの可能性があります。
 一つは、新改訳のように「であるのに」と訳して「譲歩」を示すことです。これには、「神の御姿」であられ、無限、永遠、不変の栄光の主である方が、

 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた

ということは、本来は、ありえないことであるのに、キリストはそうされたという意味合いがあります。さらに、このことの背後には、このようなことは、本来、無限、永遠、不変の栄光の主である神さまがなさることではないという理解があります。
 もう一つの可能性は、このことば(ヒュパルコーン)を「であるから」と訳すことで、全体としては、

 キリストは神の御姿であるから

と訳すことになります。これは「理由」を示しています。この訳は、

 キリストは神の御姿であるから

こそ、

 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた

ということを示しています。さらに、このことの背後には、このようなことこそが無限、永遠、不変の栄光の主である神さまにふさわしいことであるという理解があります。
 文法の上ではどちらの訳も可能ですので、これのどちらの理解を取るべきであるかの判断は、イエス・キリストがどのような方であるかということ、さらには、神さまがどのような方であるかということにかかわっています。
 これまで、この点についてみことばが示していることを、いろいろな面からお話しして、ここでは、

 キリストは神の御姿であるから

こそ、

 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた

という理解を取るべきであるということをお話ししました。
 今日は、これについて、復習しつつ、さらに、別の面からお話ししたいと思います。
 ちなみに、これは、普段お話ししている黙示録2章18節ー29節に記されているイエス・キリストのテアテラにある教会へのみことばの最後において「勝利を得る者」に「諸国の民を支配する権威」があたえられるという約束がどのようなことかを理解するうえでの鍵になることとも関連しています。


 みことばが一貫して示していることの一つは、人は無限、永遠、不変の栄光の神さまを、直接的に見ることも知ることもできないということです。これは人が罪を犯して堕落してしまっているからではなく、神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であり、いかなる被造物とも絶対的に区別される方であられることによっています。ですから、人ばかりでなく、最も聖い御使いたちも神さまを直接的に見ることも知ることもできません。
 神さまがいかなる被造物とも絶対的に区別される方であることは、神さまの聖さの根底にあります。神さまが聖い方であるということの最も基本的な意味は、神さまがいかなる被造物とも絶対的に区別される方であるということです。
 それでは、どうして人や御使いは神さまを知ることができるのでしょうか。これには二つのことがかかわっています。
 一つは、神さまが人や御使いに合わせて、人や御使いに分かるように、ご自身を啓示してくださっているということです。具体的には、それは、人間的な言い方になりますが、無限に身を低くし、その栄光を隠して被造物世界にかかわってくださる「役割」を負っておられる御子のお働きによることです。ヨハネの福音書1章1節ー3節に、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されているように、御子は御父のご計画に従って、創造の御業を遂行された方です。また、同じヨハネの福音書1章18節に、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されているように、「父のふところにおられるひとり子の神」と言われている御子が、神さまがどのような方であるかということを説明してくださいましたし、今も、示してくださっています。
 これは、いわば、啓示の客観的な面です。
 もう一つは、いわば啓示の主観的な面、すなわち、神さまが与えてくださっている啓示を受け取る側の能力のことで、神さまが人や御使いを神さまを知っているものとしてお造りになったということです。いくら客観的に神さまの啓示が与えられていても、神さまへのわきまえが与えられていない動物には、それを受け止めることができません。特に、人は神のかたちとして造られ、神さまを知っています。それで、人は造られたその時から、そこにご臨在してくださっている神である主との愛にある交わりに生きることができましたし、そのように、神である主との愛にある交わりに生きることが、人のいのちの本質です。これが神のかたちとして造られている人の本来の姿です。
 これには、歴史的に大きな問題が生じてしまいました。それは、人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったということです。それによって、人は神さまを知らないものになってしまったのでしょうか。
 しかし、神さまは人を神のかたちとして、神さまを知っているものとして造られました。それで、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったとしても、人がそのようなものとして造られていることには変わりがありません。人は罪を犯して堕落してしまったことによって、造り主である神さまを知らないものになってしまったのではなく、造り主である神さまを知っていながら、造り主である神さまを神としないものになってしまったのです。ローマ人への手紙1章21節ー23節に、

それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

と記されているとおりです。これが、人の罪の本質です。ここから、あらゆる種類の罪が生まれてきます。
 このように、すべての人が罪のもたらした霊的な暗闇の中に生まれ、神ならぬものを神としてしまっている状態にあります。これに対して、神さまが、私たちご自身の民への一方的な愛のゆえに、御子イエス・キリストによって贖いの御業を遂行されて、私たちの罪を贖ってくださいました。これによって、私たちを罪の力と罪の闇の中から贖い出してくださり、神のかたちとして造られている人の本来のあり方であり、いのちの本質である、神さまとの愛にある交わりに生きるものとしてくださいました。その最も基本的な現れが、御子イエス・キリストにあって、神さまの愛に包まれ、神さまを愛し、神として礼拝し、いっさいの栄光を神さまに帰することにあります。

 みことばが一貫して示しているもう一つのことは、御子イエス・キリストの存在とお働き、特に、その十字架の死において、神さまがどのような方であるかということ、すなわち、神さまの栄光が最も豊かに、また最も鮮明に現されているということです。
 このことは、新約聖書においてより豊かに啓示されていますが、新約聖書において初めて啓示されるようになったのではありません。
 直ちに思い出されるのは、イザヤ書52章13節ー53章12節に記されている「『』のしもべの第4の歌」として知られている預言のみことばです。これは、52章13節に、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と記されているみことばから始まっているように、「」のしもべが栄光を受けることを述べています。

 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

に用いられている「高められ、上げられ」ということば(ルームとナーサー)の組み合せは、イザヤ書6章1節で、

 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

と言われているときの「高くあげられた」と訳されていることば(ルームとナーサー)の組み合せと同じです。「」のしもべの場合には、これに、さらに「非常に高くなる」と言われていて、もう一つの「高くなる」ということば(ガーバー)が「非常に」(メオード)と強調されて重ねられています。このことは、この「」のしもべこそが、イザヤが見た幻の中で、「高くあげられた王座に座しておられる主」であることを示唆しています。
 そして、これによって示唆されていることは、「」の栄光の御臨在に触れて、自らの罪のために滅ぼされることを直感したイザヤに、「」の御臨在の御許にある祭壇には罪の贖いのための備えがあって、実際に、イザヤは自分の罪が贖われて、滅びを免れるようになったことによっても支持されます。6章1節後半ー7節に、

そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の
 その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。
 「ああ。私は、もうだめだ。
 私はくちびるの汚れた者で、
 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
 しかも万軍のである王を、
 この目で見たのだから。」
すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
 あなたの不義は取り去られ、
 あなたの罪も贖われた。」

と記されているとおりです。
 「『』のしもべの第4の歌」では、53章3節ー6節に、

 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
 悲しみの人で病を知っていた。
 人が顔をそむけるほどさげすまれ、
 私たちも彼を尊ばなかった。
 まことに、彼は私たちの病を負い、
 私たちの痛みをになった。
 だが、私たちは思った。
 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
 しかし、彼は、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
 私たちはみな、羊のようにさまよい、
 おのおの、自分かってな道に向かって行った。
 しかし、は、私たちのすべての咎を
 彼に負わせた。

と記されており、10節に、

 しかし、彼を砕いて、痛めることは
 のみこころであった。
 もし彼が、自分のいのちを
 罪過のためのいけにえとするなら、
 彼は末長く、子孫を見ることができ、
 のみこころは彼によって成し遂げられる。

と記されています。
 その、高く上げられた王座に着座すべき「」のしもべは、

 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれ

その「いのちを罪過のためのいけにえ」としたのです。それによって、「」の民の罪が贖われ、「」の民は癒され、「」の民に真の平安がもたらされました。
 ですから、イザヤが幻の中で見た「高くあげられた王座に座しておられる主」は、このように、ご自身の民のために、誰もが、

 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと

思うほどの苦しみを味わわれた「」のしもべであると考えられます。
 そして、10節に、

 しかし、彼を砕いて、痛めることは
 のみこころであった。
 もし彼が、自分のいのちを
 罪過のためのいけにえとするなら、
 彼は末長く、子孫を見ることができ、
 のみこころは彼によって成し遂げられる。

と記されているように、「」のしもべが、ご自身の民のために苦しみを受けたことは「」のみこころから出たことでした。「」のしもべが、ご自身の民のために苦しみを受けることによって、「」のみこころが成し遂げられるのです。
 「」のみこころは、「」がどのような方であるかということを端的に(分かりやすくはっきりと)表しています。「」のしもべが、ご自身の民のために苦しみを受けたことは、「」がどのような方であるかということを表しているのです。
 この「」のしもべについての預言のみことばは、イエス・キリストの生涯とそのお働き、特に、イエス・キリストが私たちご自身の民の罪の贖いのために、十字架におかかりになって死んでくださったことにおいて成就しています。そして、イエス・キリストが私たちご自身の民のために十字架におかかりになったことにおいて、神さまの栄光は最も豊かに現されました。
 このこととに関しては、すでにお話ししましたので引用はしませんが、ヨハネの福音書12章20節ー33節、特に、23節ー24節、27節ー28節、33節を見てください。
 また、黙示録5章には、天において御座についておられる方、すなわち神さまの御臨在の御前に立っている栄光のキリストのことが記されています。この栄光のキリストは、私たちご自身の民のために十字架にかかって死んでくださり、私たちが永遠のいのちに生きるようになるために、栄光を受けて死者の中からよみがえられた方です。この栄光のキリストはイザヤ書52章13節で、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と預言されていた、栄光を受けて高く上げられた「」のしもべです。
 黙示録5章6節では、

さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。

と記されていて、この栄光のキリストのことが「ほふられたと見える小羊」と言われています。この方は私たちご自身の民のために十字架にかかって死んでくださった方であることがはっきりと分かるのです。
 ここでこの栄光のキリストのことが「ほふられたと見える小羊」と言われていることの旧約聖書の背景として、イザヤ書53章7節のみことばがあることが広く認められています。7節ー8節には、

 彼は痛めつけられた。
 彼は苦しんだが、口を開かない。
 ほふり場に引かれて行く羊のように、
 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
 彼は口を開かない。
 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。
 彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
 彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、
 生ける者の地から絶たれたことを。

と記されています。
 そして、黙示録5章9節ー10節には、御座の前で仕えている「四つの生き物と二十四人の長老」たちが歌った讃美が、

あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。

と記されています。ご自身の民の贖いのために十字架にかかって死なれたイエス・キリストこそが天において讃えられるべき方です。その讃美はさらに拡大します。続く11節ー12節には、

また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。
 「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

と記されています。ここでも栄光のキリストは「ほふられた小羊」として讃えられています。そればかりでなく、さらに続く13節には、

また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。
 「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」

と記されていて「御座にすわる方と、小羊」がまったく同じことばで讃えられています。これによって、イエス・キリストがご自身の民の贖いのために十字架におかかりになって死んでくださったことによって現されている栄光こそが、父なる神さまの栄光の現れであることが示されています。

 このことは、また、一つのみことばを思い起こさせます。それは、ヘブル人への手紙2章5節ー10節に記されている、

神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。
 むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。
 「人間が何者だというので、
 これをみこころに留められるのでしょう。
 人の子が何者だというので、
 これを顧みられるのでしょう。
 あなたは、彼を、
 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、
 彼に栄光と誉れの冠を与え、
 万物をその足の下に従わせられました。」
万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

というみことばです。
 今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、引用した中の最後の部分である9節ー10節に、

ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

と記されていることです。
 ここでは、イエス・キリストの十字架の「死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたもの」であり、「神が多くの子たちを栄光に」導いてくださるためのものでした。このことは、それによって、創造の御業において神さまが人を神のかたちとしてお造りになって、歴史と文化を造る使命をお委ねになったこことに表されているみこころが実現するということとのかかわりで示されていますが、今は、そのことはおいておきます。
 ここで注目したいのは、

神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされた

と言われていることです。「救いの創始者」はイエス・キリストのことです。そして、「多くの苦しみ」は十字架の死の苦しみを頂点として、イエス・キリストが地上の生涯において経験されたさまざまな苦しみのことです。イエス・キリストが「救いの創始者」として「多くの苦しみを通して全うされた」ということは、この後、17節ー18節に、

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

と記されていることに示されています。ここでは、このように、イエス・キリストが人となって来てくださり、その生涯をとおしてさまざまな苦しみを味わわれて「救いの創始者」となられたことは、神さまにとって「ふさわしいことであった」と言われています。
 やはり、本来、神さまはそのようなことをなさる方ではないのに、そうされたというのではなく、それは神さまに「ふさわしいことであった」のです。


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