神の御姿であられるので
(クリスマス説教集)


説教日:2014年12月21日
聖書箇所:ピリピ人への手紙2章5節ー11節


 今日は2014年の降誕節の主日で、降誕節礼拝をしています。今日も、昨年と一昨年の降誕節礼拝において取り上げましたピリピ人への手紙2章5節ー11節に記されているみことばからお話しします。ピリピ人への手紙2章5節ー11節には、

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

と記されています。
 一昨年の降誕節においては、5節初めの、
  あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。
ということばが示しています、この前の1節ー4節に記されている、

こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

というパウロの教えとのつながりについてお話ししました。
 そして昨年は、6節ー8節に、

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

と記されていることの全体的な構造に注目して、そこから考えられることについてお話ししました。
 それをまとめておきますと、この6節ー8節に記されているみことばは、6節ー7節abcと7節dー8節の二つに分けられます。
 新改訳の訳を用いますと、6節ー7節abcには、

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず[六節]、ご自分を無にして[七節a]、仕える者の姿をとり[b]、人間と同じようになられました[c]。

と記されています。ここでは、人としての性質を取って来てくださる前のイエス・キリストのことが記されています。人としての性質を取って来てくださる前のイエス・キリストのことを「先在のキリスト」と呼びます。ここでは、「神の御姿である」先在のキリストが、

神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。

と言われています。イエス・キリストは「神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無に」されました。どのように「ご自分を無に」されたのかと言いますと、「仕える者の姿をとり、人間と同じようになられ」たことによってです。
 これに続いて、7節dー8節には、
  人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
と記されています。ここでは、「人としての性質をもって現れた」イエス・キリストのことが記されています。「人としての性質をもって現れた」イエス・キリストが、
  自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
と言われています。イエス・キリストは、ご「自分を卑しく」されました。どのようにしてかと言いますと、「死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われ」たことによってです。
 このことから分かることは、「神の御姿である方」であり、無限、永遠、不変の栄光の主であられるイエス・キリストが、無限に身を低くされたのですが、それは「人間と同じようになられ」ただけではなく、人としてのあり方においてさらに身を低くして、最も屈辱的で悲惨な「十字架の死にまでも従われ」たということです。
 今日は、6節ー8節に記されていることについて、このような全体的な構造を踏まえつつ、より具体的なことをお話ししたいと思います。とはいえ、今日お話しできることは、初めに記されていることについてです。また、ここに記されていることには、いくつかとても難しい問題がありまして、いろいろな解釈がなされています。それらを紹介することも考えましたが、私の力不足もあって、それらをやさしく説明することができませんので、かえって皆さんを迷路に誘い込むようなことになりかねません。それで、私が受け入れている理解についてお話しすることにいたします。


 6節には、
  キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
と記されています。
 ここで「神の御姿」と言われているときの「御姿」と訳されていることば(モルフェー)は、7節で、
  ご自分を無にして、仕える者の姿をとり
と言われている中に出てくる「仕える者の姿」の「姿」と訳されていることばでもあります。新約聖書の中では、この二つの個所と、マルコの福音書16章12節に「姿」と訳されて出てくるだけです。
 このことばはホメロス以来のギリシアの文学の中で、いろいろな意味合いで用いられていましたが、「感覚によって捉えることができるもの」を表すようになったようです。けれども、それは単なる見える形を示しているだけではなく、「あるもの」の形をもっていることは、その「あるもの」の性質や特徴にもあずかっていることをも意味しています。
 ピリピ人への手紙2章6節で、
  キリストは神の御姿である方
と言われていることを理解するためには、このこととともに、これに続いて、
  神のあり方を捨てられないとは考えず
と記されていることも考え合わせる必要があります。この「神のあり方」と訳されていることばは、文字通りには「神と等しくあること」です。そして、
  キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
と言われているときの「神の御姿である」ことと「神と等しくあること」は、実質的に、同じことを指しています。両者は同じことを別の面から述べています。それで、イエス・キリストが「神の御姿である」ことは、イエス・キリストが神の本質と属性(特質)に完全にあずかっておられることをも含んでいると考えられます。とりわけ、先在のキリストは目で見ることはできない方ですので、この意味合いが大切なことになります。
 そのようなわけで、6節で、先在の
  キリストは神の御姿である
と言われているのは、先在のキリストが神の本質と属性に完全にあずかっておられ、それを完全に現しておられることを意味していると考えられます。ヘブル人への手紙1章3節には、
  御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。
と記されています。
 また、神さまの本質と属性の現れとは神さまの栄光のことです。それで、このことから、
  キリストは神の御姿である
と言われていることは先在のキリストが父なる神さまとと分かちもっておられる栄光とかかわっていると考えられます。ヨハネの福音書17章5節には、

今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。

という、イエス・キリストの祈りが記されています。ここで、
  世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光
と言われている栄光が、先在のキリストの栄光です。
  神の御姿である
と言われている先在のキリストはこの栄光に満ちておられ、その輝きに包まれておられます。

 6節で、
  キリストは神の御姿である方なのに
と言われていることにはもう一つの問題があります。それは、最後に「なのに」と訳されていることです。これにつきましては、昨年の降誕節のお話でも触れていますが、大切なことですので、改めてお話ししたいと思います。
 原文のギリシャ語には、この「なのに」ということばそのものはありません。
  キリストは神の御姿である
と言われているときの「である」と訳されていることば(ヒュルコーン)が現在分詞です。これをどのように訳すかについては、二つの可能性があります。一つは、新改訳のように「であるのに」と訳すことです。もう一つは「であるから」と訳すことです。
  キリストは神の御姿であるのに
という訳は「譲歩」を示しています。そして、これには、「神の御姿」であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられる方が、
  ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた
ということは、本来は、ありえないことであるのに、また、まして、
  人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた
というようなことは、ありえないことであるのに、キリストはあえてそうされたというような意味合いがあります。さらに、このことの背後には、このようなことは神さまにふさわしくないこと、このようなことをするのは神さまらしくないことであるという理解があります。
 これに対して、
  キリストは神の御姿であられるから
という訳は「理由」を示しています。これは、
  キリストは神の御姿であられるから
こそ、
  ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた
ばかりでなく、
  人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた
という意味合いがあります。さらに、このことの背後には、このようなことこそが神さまにふさわしいことである、このようなことをなさることこそが、神さまらしいことであるという理解があります。
 このことは、私たちが神さまのことをどのように理解しているかということにかかわっています。
 先ほど、
  キリストは神の御姿である
ということは、人としての性質を取って来てくださる前のイエス・キリストが父なる神さまの本質と属性(特質)に完全にあずかっておられ、その本質と属性の輝きである栄光に満ちておられるということをお話ししました。その神さまの栄光がどのようなものであるかについては、慎重に考えなくてはなりません。というのは、私たちがなじんでいるのは、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人が考える、罪の自己中心性によって歪められてしまっている栄光の理解だからです。
 そのことが明確に表されているのは、これまでいろいろな機会に取り上げてきましたが、マルコの福音書10節35節ー45節に記されていることです。そこには、

さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

と記されています。
 ヤコブとヨハネは「ゼベダイのふたりの子」と言われていますように、兄弟です。二人は、イエス・キリストに、
  あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。
というお願いをしました。この時、二人が考えていたのは、この世の権力の序列です。そして、二人はその最上位にメシヤであるイエス・キリストがおられると考えています。さらに、その権力の序列の次には、自分たち12弟子が来ると考えていたでしょう。そればかりでなく、おそらく、12弟子の中でも、ペテロとヤコブとヨハネは特別な扱いを受けてきたことも意識していたことでしょう。そのようなことから、
  あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。
というお願いをしたと考えられます。二人はメシヤを頂点とするこの世の権力の序列において、メシヤに次ぐ地位に就きたいと願ったのです。41節に、
  十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。
と記されていることは、ヤコブとヨハネ以外の弟子たちも、二人と同じように考えていたことを示しています。このことは、弟子たちの間に、権力の序列をめぐる争いがあったことを意味しています。
 実はこの権力の序列をめぐる争いは、この時に始まったことではありません。9章33節ー37節には、

カペナウムに着いた。イエスは、家に入った後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」

と記されています。
 34節では、弟子たちが、
  道々、だれが一番偉いかと論じ合っていた
と言われています。弟子たちがこのようなことを論じ合うようになったことが記されているのは、これが初めてです。なぜ、この時に、「だれが一番偉いか」と論じ合うようになったのでしょうか。それは、この前の31節に記されていますように、イエス・キリストが、
  人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる
とお話しされていたからですし、弟子たちが、
  このみことばが理解できなかった
からです。弟子たちはイエス・キリストがご自身の苦難と死とよみがえりのことをお話しされた後に、「だれが一番偉いか」と論じ合っています。このことは、これと同じことを記している、ルカの福音書9章43節ー48節にも示されています。
 さらに、先ほど引用しました10章35節ー45節に記されているヤコブとヨハネの願いをめぐる記事においても、それに先立つ32節ー34節には、やはり、イエス・キリストがご自身の苦難と死とよみがえりのことをお話しされたことが記されています。このことは、これと同じことを記している、マタイの福音書20章17節ー28節にも見られます。
 このように、福音書の記者たちは、弟子たちが自分たちの間の序列について論じ合い、競い合っていることを、弟子たちがイエス・キリストの苦難の死と死者の中からのよみがえりのことを聞いたことと、その意味を理解できなかったことと結びつけています。
 これに対して、イエス・キリストは10章42節に記されていますように、

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。

と教えられました。
 イエス・キリストは、弟子たちが権力の序列をめぐって争うことは、メシヤであるイエス・キリストの栄光をこの世の支配者たちの栄光と本質的に同じものであると考えていることから出ていることをお示しになりました。その上で、イエス・キリストの御国においては、「みなに仕える者」、「みなのしもべ」になることこそが、メシヤであるイエス・キリストの栄光にあずかることであることをお示しになりました。それは、

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

という教えに示されていますように、「人の子」すなわちメシヤが来られた目的が、人々の上に立って、人々から仕えられるためではなく、「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」であることによっています。

 ヨハネの福音書12章23節ー24節には、

すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

と記されています。
 ここで、イエス・キリストは、
  人の子が栄光を受けるその時が来ました。
と言われました。これは、イエス・キリストが「一粒の麦」として私たちご自身の民の罪を贖ってくださり、私たちを永遠のいのちに生かしてくださるために、ご自分のいのちをお捨てになることにおいてこそ、イエス・キリストの栄光が現されるということを意味しています。
 さらにこの後の27節ー28節には、

今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。「父よ。この時からわたしをお救いください」と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください。そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」

と記されています。
 ここに出てくる「この時」とは、
  父よ。この時からわたしをお救いください
というみことばが示していますように、イエス・キリストがご自身の民の罪を贖うために十字架にかかって死んでくださるようになる時のことです。そして、イエス・キリストは、
  このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
とあかししておられます。ここでは、イエス・キリストがご自身の民の罪を贖うために十字架にかかって死んでくださることをとおして、「御名の栄光」すなわち父なる神さまの栄光が現わされるということが示されています。
 父なる神さまが、
  わたしは栄光をすでに現わした
と言われたのは、永遠の神の御子であられるイエス・キリストが人の性質を取って来てくださったこと(受肉)から始まって、この時に至るまでの地上の生涯、特にメシヤとしてのお働きをとおして「御名の栄光」を現わしてくださったということです。
 そして、父なる神さまが、
  わたしは ・・・・ もう一度栄光を現わそう。
と言われたのは、イエス・キリストの十字架の苦しみと死をとおして「御名の栄光」、父なる神さまの栄光が現わされるということです。
 また、父なる神さまは、
  わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。
と言われました。これは、ここで言われている、二つの栄光は本質的に同じ栄光であることを示しています。この時までに、イエス・キリスト地上の生涯、特にメシヤとしてのお働きをとおして現わされた父なる神さまの栄光と、イエス・キリストの十字架の苦しみと死をとおして現わされる父なる神さまの栄光は本質的に同じ栄光であるということです。
 さらに、ヨハネの福音書17章1節ー2節には、

イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。

と記されています。
 1節で、
  父よ。時が来ました。
と言われているときの、「」は、イエス・キリストが十字架にかかって死なれる時であり、栄光を受けてよみがえられ、天に上られて父なる神さまの右の座に着座される時のことです。イエス・キリストはこれらのことをとおして、
  あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。
というように、ご自身の栄光をあらわしてくださいと願っておられます。しかし、それはご自身のためのことではなく、父なる神さまの栄光が現されるようになるためです。
 そして、2節では、

それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。

と言われていています。イエス・キリストの栄光が現されるようになることは、イエス・キリストが私たちご自身の民を「永遠のいのち」に生きる者としてくださるためであることが示されています。そして、そのことによって、父なる神さまの栄光が現されるということです。
 これらのことから、イエス・キリストが私たちご自身の民の罪を贖ってくださり、永遠のいのちに生きる者としてくださるために、人としての性質を取って来てくださり、十字架にかかって死んでくださったことにおいて、イエス・キリストの栄光が現されていることが分かります。また、そのようにして現されているイエス・キリストの栄光こそが、父なる神さまの栄光がどのような栄光であるかを示していることも分かります。
 このことを忘れて、神さまの栄光をこの世の権力の序列の頂点にあるかのように考えることは、罪の自己中心性によって歪められた、この世における栄光の理解を、神さまの栄光に当てはめることです。それは、神さまの栄光を汚すことです。
 このようなわけで、ピリピ人への手紙2章6節の、新改訳が、
  キリストは神の御姿である方なのに
と訳していることばは、
  キリストは神の御姿であられるから
と訳した方がよいと考えられます。
  キリストは神の御姿であられるから
こそ、
  ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた
ばかりでなく、
  人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた
ということです。そして、このことにおいてこそ、父なる神さまの栄光は最も豊かに現されています。
 パウロはこのことに基づいて、

あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

と教えています。


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