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一粒の麦が死ななければ
説教日:2006年12月10日 |
ここでイエス・キリストは、 人の子が栄光を受けるその時が来ました。 と言っておられます。この「人の子」という言葉は、旧約聖書のダニエル書において、栄光に満ちたメシヤを示すのに用いられています。ですから、 人の子が栄光を受けるその時が来ました。 という言葉は、イエス・キリストがメシヤとしての栄光をお受けになる時が来たということを意味しています。皆さんはメシヤの栄光ということでどのようなことを想像されるでしょうか。 イエス・キリストは、ご自身が旧約聖書において約束されているメシヤであられることをお示しになるのに「メシヤ」という言葉をお使いになりませんでした。それは、その当時の人々の間では「メシヤ」という言葉は政治的、軍事的な意味での解放者というイメージを伝えていたからです。その当時ユダヤを含めた世界を支配していたのはローマ帝国でした。ユダヤを治めていたのは隣国のイドマヤの出であるヘロデ家の者たちでした。彼らはローマ帝国に取り入ってユダヤの王となったのです。また、ユダヤには、イエス・キリストの時代にはピラトでしたが、ローマの総督が派遣されておりました。ユダヤ人たちは、神から遣わされるメシヤが神から委ねられた力と権威をもってイスラエルの民を解放し、国々を従わせて、ローマ帝国にまさる理想的な世界をもたらしてくれると信じて、メシヤが現れることを待っておりました。そのような状況において、イエス・キリストは人々の間で政治的な権力者というイメージが付いてしまっている「メシヤ」という言葉を避けて、そのようなイメージがなくて、しかもメシヤを表す「人の子」という言葉をお用いになったのです。 このことは、イエス・キリストが旧約聖書において約束されているメシヤであるということを示すと同時に、メシヤは、その当時の人々が考えているような、政治的な権力者ではないということを示しています。 しかし、このこと、イエス・キリストが「人の子」という言葉を用いておられることの意味は、当時の人々には理解されませんでした。イエス・キリストの弟子たちでさえ理解できませんでした。人々は、イエス・キリストが自分たちの考えていたような権力の座について治めるメシヤではなかったので、失望し、偽メシヤであるということで、ローマ人の手に渡して十字架につけて殺してしまいました。また、弟子たちは、イエス・キリストがそのように十字架につけられて殺されてしまったので、まったく失望し落胆してしまいました。その時代においても、人々は政治的な力に期待していたのです。 確かに、政治には力があります。よい政治によって国は栄え、悪い政治によって民は苦しみます。よきにつけ悪しきにつけ、政治にはそのような力があります。しかし、軍事的な力、経済的な力、数の力を背景にした政治的な権力には限界があって、外側の状況や事態を変えることができても、人々を根本から変えることはできません。人を内側から縛っている物欲や権力欲など、さまざまな悪しき欲望を取り除くことはできません。 また、現実の問題として、軍事的な力や経済的な力や数の力を背景にした政治的な権力は、ある特定の地域にしか及びません。ということは、政治的な権力は、その特定な地域、それが国であればその国を、民族であればその民族を中心として、その利益を図ります。しばしば、そのために、他の地域が犠牲になります。また、そのために、今も、あちこちで紛争や戦争が起こっています。そのような政治的な権力には、ある種の「自己中心性」が働いています。 もちろん、人間は神さまによって社会的な存在として造られていますから、政治は必要なものです。聖書の教えにおいても、政治を大切に考えるべきことが示されています。政治的な権力が「自己中心性」を秘めているのは、政治そのものの問題ではなく、政治家も市民も含めて、政治に関わる人間自身の中に自己中心性があることによっています。私たち人間の自己中心性が、政治に反映して出て来るのです。また、逆に、政治的な権力には独特な力があって、自己中心性を助長しやすい一面があります。 当時のユダヤ人たちが、メシヤを政治的な権力の頂点に立つ存在と考え、メシヤの権力によってすべての国々を従わせて、理想的な世界が造り出されることを期待していたことにも、ユダヤ民族中心という自己中心性が潜んでいました。 人の子が栄光を受けるその時が来ました。 という言葉は、イエス・キリストがメシヤとしての栄光をお受けになる時が来たということを意味しています。この言葉を聞いた弟子たちには、イエス・キリストがこの世の権力の頂点に立つようになる時が来た、と聞こえたはずです。その頃の弟子たちにとって、メシヤの栄光とは、この世の権力の頂点に立つことにありました。 ところがイエス・キリストは、 人の子が栄光を受けるその時が来ました。 という言葉に続いて まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 と言われました。この まことに、まことに、あなたがたに告げます。 という言葉は、これから語られることが本当に大切なことであることを示すものです。その大切な教えとは、 一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 というものでした。これは、イエス・キリストが十字架に付けられて死ぬことの意味を明らかにするものです。 ここで、イエス・キリストは、ご自身がお受けになるメシヤとしての栄光は、ご自身が十字架にかかって死ぬことにあるということを教えておられます。メシヤの栄光は、弟子たちが期待していたような、この世の政治的な権力の頂点に立って人々を支配することではなく、むしろ人々を生かすために、ご自身のいのちをお捨てになることの中にあるということを示しておられるのです。 イエス・キリストは、別の機会にも、これと同じことを教えておられます。マルコの福音書10章42節~45節には、次のように記されています。 あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。 実は、イエス・キリストがこのように教えられたのは、弟子たちが、誰がいちばん偉いかということをめぐって争っていたからです。弟子たちは、イエス・キリストがメシヤとして、この世の権力の頂点に立って支配するようになると考えており、自分たちのうちの誰かがその次に高い地位に着くようになると考えていたのです。 ですから、ここでは、弟子たちが受ける栄光のことが問題になっています。ここでイエス・キリストは、弟子たちがメシヤとしてのご自身の栄光にあずかるようになることを、認めておられます。その上で、メシヤの栄光がどのようなものであるかを明らかにしておられます。 そのために、まず、人の上に立って権力を振るい、人々を支配している人が偉い人であるとされるのは、この世の自己中心的な価値観によることであるということを指摘しておられます。つまり、弟子たちの争いの根底にこの世の価値観が働いていることを指摘されたのです。 これは、弟子たちだけのことではありません。私たちの間でも、このような価値観が猛威をふるっています。私たちの心の中では、「偉い人とは、人の上に立って権力を振るい、人々を支配している人のことである」という程には、露骨な形では意識されてはいないかも知れません。しかし、実質的にはこれと同じ価値観が私たちの中にあって、私たちを動かしています。ほんの数人の間でもお互いを比べ合ってしまいます。自分より低いと思える人がいると何となく安心したり、高いと思える人がいると落ち着かなかったりします。 人よりも高く、人よりも早く、人よりも強く、人よりも多く、人よりも美しく、人よりも豊かにというのは、一見すると向上心の現れであるように見えます。確かに、それは向上心の現れでしょう。しかし、これは、「人ではなく自分が」とか、「人よりも自分が」という自己中心性の現れでもあるのです。向上心そのものが悪いのではありません。向上心が自己中心的に表されてしまう、あるいは、自己中心的な欲求が満たされることであればある程、向上心がわいてくるというのが、私たちの悲しい現実なのです。 ちなみに、本来の向上心は隣人への愛を動機としたものです。その人をより豊かに愛するために、自分自身とその才能を磨くということです。しかも、本来の向上心はそこで終りません。それは、造り主である神さまを愛することを動機としています。ご自身が愛そのものであられ、私たちの隣人への愛を初めとする、すべての善いこと、美しいことの源であられる神さまの栄光を映し出すことを目的とする向上心です。神さまの栄光は愛と恵みに満ちた栄光です。ですから、神さまの栄光を映し出すことは、愛と恵みに満ちている栄光を映し出すことであり、それは隣人への愛となって現れてきます。このようにして、造り主である神さまを愛することを動機とすることと隣人を愛することを動機とすることは1つのことです。そして、それこそがイエス・キリストの地上の生涯を貫いていたことです。 自己中心的な価値観と発想によって、 あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。 というイエス・キリストの教えを聞きますと、この教えは人よりも偉くなって、人の上に立つようになるための秘訣を教えるものであるということになってしまいます。そして、「みなに仕える者」や「みなのしもべ」になりなさいと言われているのは、「みなに仕える者」や「みなのしもべ」になることによって神さまに認められて、その報いとして、やがて人の上に立つ偉い人にしていただける、この世でそうならなければ天国でそうなるということであると受け取られてしまいます。ここには、やはり、最後には、「人よりも自分が」という思いが働いています。 これに対して、イエス・キリストは、 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるため であると言われます。メシヤの働きの目的は、この世の権力の頂点に立って人々を支配することにあるのではなく、人々に仕えることにあるというのです。これによって、メシヤの栄光、弟子たちがあずかるメシヤの栄光は、この世にあっても天の御国にあっても一貫して変わることなく、人々に仕えることにあるのであって、この世の権力の序列の頂点に立って人々を支配することにあるのではない、ということを明らかにしておられます。 しかも、イエス・キリストの場合には、仕えることとは、最後には、「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与える」ことであるというのです。 このように見ますと、この 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。 という教えは、先ほどのヨハネの福音書12章23節、24節に記されている、 人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 という教えと同じことを述べていることが分かります。そして、このことから、イエス・キリストが、ご自身のメシヤとしての栄光について、機会をとらえて、同じことを繰り返し教えておられることが分かります。 「みなに仕える者」や「みなのしもべ」になることによって神に認められて、やがて、それが報いられて人の上に立つ人になるという考え方では、人の上に立つ人になることが目的です。「みなに仕える者」や「みなのしもべ」になることは、人の上に立つ人になるための手段でしかありません。しかし、このイエス・キリストの教えでは、「みなに仕える者」や「みなのしもべ」になることが目的であって、手段ではありません。「みなに仕える者」や「みなのしもべ」であることこそが、メシヤの栄光の本質であり、人としての偉大さと栄光を表しているというのです。 このように言いますと、「『みなに仕える者』や『みなのしもべ』であることがよいことであることは分かるが、そんなことを言っていたら人に先を越されてしまう。」とか、「『みなに仕える者』や『みなのしもべ』になることで終わりというのでは、何の報いもなくて、損をするだけだ。」というような答えが返ってくることでしょう。これでは、また、元に戻ってしまいます。やはり、最後には、「人よりも自分が」という自己中心的な価値観が顔を出して、ものを言うのです。これが私たち人間の実情です。 このことは、私たち人間の現実について大切なことを教えています。それは、私たちは、誰に、また、どのように教えられようとも、その自己中心的な価値観を捨ててしまうことができないということです。 聖書は、私たち人間にはこれほどまでの自己中心性が染みついてしまっていることを、実際の出来事の記録や教訓など、さまざまな形で示しています。そして、それは人間の本性を腐敗させている罪のためであると教えています。私たちの罪が、私たちのうちに自己中心性を生み出しているというのです。そして、私たちが自己中心的な価値観を捨てることができないのは、私たちが自分の力によっては、罪を清算することができないことによっていると教えています。 このような状態にある私たちは、自分が人よりも高くあり、多く持ち、力があるときに、偉くなった、豊かになった、自由になったと感じます。しかし、人の上に立って人を支配しているとき、実は、自分の罪が生み出す権力欲の奴隷になっています。人より多くの物を持とうとするとき、物欲の奴隷となっています。人より力があると思っているとき、歪んだプライドの虜になっています。 実際に、人よりもはるかに多くの物を持っていても、貧しいことはいくらでもあります。それだけでは安心できなくて、もっと欲しくなるとしたら、それは、貧しさの表れです。このことは今の日本の社会を見ればよく分かります。不安を埋めようとして、さらに多くの物を求めることは、悪循環を生むだけです。その結果、物はあふれているのに、底知れない不安と欠乏感に捕われてしまうということになってしまいます。人よりも高くあり、人よりも多くの物を持ち、人よりも力があることによって、偉くなり、自由であることができるというのは、私たちの罪が生み出す、自己中心的な価値観が作り上げた幻想です。 しかし、人間は、その幻想の支配から逃れることはできません。何を考えても、何を教えられても、最後には自己中心的な価値観が顔を出してきて、人よりも高く、人よりも多く、人よりも力があることによって、偉くなり、自由であることができるという結論を出してしまうのです。実際には、それによってますます縛られ、欲望の奴隷となり、底知れない欠乏感に捕われてしまうという悪循環を繰り返すだけです。 問題はこれだけで終りません。人間の罪は、このような自己中心性を生み出すだけではありません。聖なる神さまはご自身の義の尺度にしたがって、すべての罪をおさばきになります。その意味で、罪の結果は死であり、滅びです。そして、この死と滅びへの恐怖が人を縛りつけ、ますます自己中心的な価値観を強くさせています。 イエス・キリストが、 一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 と言われて、ご自身の十字架の上での死の意味を明らかにされたのは、そのような罪の生み出す自己中心的な価値観の幻想に捕えられ、権力欲や物欲の奴隷となっている私たちのためです。イエス・キリストは十字架にかかって、私たちの罪に対するさばきを私たちに代わって受けてくださったのです。十字架の上での死をもって私たちの罪を贖い、私たちを死と滅びから救い出してくださいました。そればかりでなく、私たちを罪の力と、それが生み出す幻想から救い出して、人間としての本来の栄光を回復してくださるためです。 私たちは、自分が人よりも高くあり、多く持ち、力があるときに、偉くなった、豊かになった、自由になったと感じます。しかし、それは私たち自身のうちにある罪が生み出す幻想です。そこには真の自由はありません。真の自由はご自身の意志で「一粒の麦」となられ、「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」に来てくださったイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いに基づく内側からの解放から生まれてきます。 イエス・キリストが、ご自身の十字架の死による罪の贖いを通して私たちに与えてくださる自由は徹底したものです。それは、根本において、私たちを罪の結果である死と滅びから救い出してくださるものです。私たちの罪に対するさばきはイエス・キリストの十字架においてすでに執行されているので、私たちは2度とさばかれることはないということです。そのようにして、私たちを死と滅びに対する恐怖からも解放してくださり、自由なものとしてくださいました。 さらに、これらのことに基づいて、私たちを自分のうちにある罪の自己中心性の鎖からも解き放ってくださって自由にしてくださいます。人より高いから、人より多く持っているから自由であると感じる罪の自己中心性が生み出す錯覚から自由にしてくださいます。あるいは、人よりも高くなければ、人よりも多くもっていなければ不安になってしまう、しかし、いくら高く上っても、いくら多くもっても、決して満足することができない自己中心性の鎖から解き放ってくださいます。 そればかりではありません。イエス・キリストは私たちを新しいいのち、イエス・キリストの復活のいのちをもって生かしてくださいます。そのいのちの特性こそ罪の自己中心性から解放された真の愛です。ご自身の意志で「一粒の麦」となられたイエス・キリストのように、自分の意志で「みなに仕える者」、「みなのしもべ」となることができる真の自由、神の御国において偉大な者の自由を与えてくださいます。 |
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