私を知り、私とともにおられる神(1)

説教日:2019年5月19日
聖書箇所:詩篇139篇1〜18節


 本主日は春の特別集会として、伝道礼拝をささげています。今日は詩篇139篇1節ー18節に記されているみことばについてお話しします。ただし、今日はその最初の部分である1節ー4節についてのお話になります。

 よあなたは私を探り知っておられます。
 あなたは私の座るのも立つのも知っておられ
 遠くから私の思いを読み取られます。
 あなたは私が歩くのも伏すのも見守り
 私の道のすべてを知り抜いておられます。
 ことばが私の舌にのぼる前になんと
 あなたはそのすべてを知っておられます。
 あなたは前からうしろから私を取り囲み
 御手を私の上に置かれました。
 そのような知識は私にとって
 あまりにも不思議
 あまりにも高くて及びもつきません。
 私はどこへ行けるでしょう。
 あなたの御霊から離れて。
 どこへ逃れられるでしょう。
 あなたの御前を離れて。
 たとえ私が天に上っても
 そこにあなたはおられ
 私がよみに床を設けても
 そこにあなたはおられます。
 私が暁の翼を駆って
 海の果てに住んでも
 そこでもあなたの御手が私を導き
 あなたの右の手が私を捕らえます。
 たとえ私が「おお闇よ私をおおえ。
 私の周りの光よ夜となれ」と言っても
 あなたにとっては闇も暗くなく
 夜は昼のように明るいのです。
 暗闇も光も同じことです。
 あなたこそ私の内臓を造り
 母の胎の内で私を組み立てられた方です。
 私は感謝します。
 あなたは私に奇しいことをなさって
 恐ろしいほどです。
 私のたましいはそれをよく知っています。
 私が隠れた所で造られ
 地の深い所で織り上げられたとき
 私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
 あなたの目は胎児の私を見られ
 あなたの書物にすべてが記されました。
 私のために作られた日々が
 しかもその一日もないうちに。
 神よあなたの御思いを知るのは
 なんと難しいことでしょう。
 そのすべてはなんと多いことでしょう。
 数えようとしても
 それは砂よりも数多いのです。
 私が目覚めるとき
 私はなおもあなたとともにいます。

 この詩篇は表題に、

 指揮者のために。ダビデの賛歌。

と記されているように、数え方によって変わりますが、紀元前1011/10年ー971/70年にイスラエルを治めたダビデによって作られた詩篇です。
 1節には、

 よあなたは私を探り知っておられます。

と記されています。
 ここで、ダビデは「」と呼びかけています。この「」と訳されていることばは、神さまの固有名詞としてのお名前(御名)で、事情があって、長いことその読み方がわからなくなっていました。今日では、異論もありますが、一般的には「ヤハウェ」と読むと考えられています。固有名詞としての御名というのは、私のことであれば「清水武夫」です。「神」も御名の一つですが、これは私のことであれば「人」「人間」に当たります。
 この「」(ヤハウェ)という御名は、神さまが啓示してくださった御名です。いわば、神さまが自己紹介として示してくださったお名前です。
 神さまがご自身の御名を啓示してくださったことは、出エジプト記3章に記されています。その時、神さまは当時、強大な帝国であったエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を、奴隷の状態から贖い出してくださる(救い出してくださる)ために、モーセをエジプトに遣わしてくださいました。その際に、モーセの求めに応じてご自身の御名を示してくださったのです。
 その時、神さまが示してくださった御名は、

 わたしは「わたしはある」という者である。

であるという御名でした。これは、神さまが、ご自身は何ものにも依存することなく、ご自身で永遠に存在される方であり、この世界のすべてのものを存在させておられる方であることを意味しています。出エジプト記3章では、この、

 わたしは「わたしはある」という者である。

という御名は「わたしはある」に省略されています。しかし、「わたしはある」は1人称ですので、神さましか使うことができません。それで、最終的には、神さまはこの「わたしはある」を3人称にした「ヤハウェ」という御名を示してくださいました。今日の公用の聖書ではこれを(ヘブル語聖書のギリシア語訳である七十人訳にしたがって)「」(新改訳では太字)と訳しています。
 そのようなわけで、「」(ヤハウェ)という御名は、神さまが、ご自身は何ものにも依存することなく、ご自身で永遠に存在される方であり、この世界のすべてのものを存在させておられる方であることを意味しています。
 神さまが、ご自身は何ものにも依存することなく、ご自身で永遠に存在される方であり、この世界のすべてのものを存在させておられる方であることは、神さまが天地創造の御業を遂行された方であることに表されています。
 創世記1章1節には、

 はじめに神が天と地を創造された。

と記されています。これは、創世記1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業の記事全体の見出しに当たることばです。「天と地」ということばは「この世界に存在するすべてのもの」を表わす、ヘブル語の慣用表現(イディオム)です。それで、

 はじめに神が天と地を創造された。

というみことばは、この世界とその中に存在しているすべてのものは、神さまが造り出されたものであるということを表わしています。時間も空間もこの世界の時間でありこの世界の空間ですので、神さまの創造の御業とともに始まっています。
 今日の天文学では、現在、観測できる宇宙の範囲は137億光年ですが、それは137億年まえにそこから発せられた光が137億年かかって地球に到達したもので、137億年前の姿です。その光が地球に到達するまでの137億年の間にも宇宙は膨張していて、現在は、現在、観測できているものは、470億光年[そのほか、450億光年、佐藤勝彦『宇宙は無数にあるのか』では420億光年]の彼方に広がっていると考えられています。このように広大な宇宙とその中にあるすべてのものは、神さまの創造の御業にその起源をもっています。もちろん、これは観測できる宇宙ですので、物質的なものです。そのほか、人間が造り出した観測機器では観測できない、御使いたちや造り主である神さまに罪を犯して、堕落してしまった御使いであるサタンや悪霊たちも、神さまによって造られたものです。
 神さまは、時間や空間も含めて、この世界とその中のすべてのものを「無から」造り出されました。その神さまは永遠に存在しておられ、初めもなく終わりもありません。また、あらゆる点において無限の方で、この世界とその中のすべてのものを造り出されたからといって、ご自身から何かが失われたわけではありませんし、ご自身の何かが増えたわけでもありません。また、神さまはお造りになった一つ一つのものの性質を生かしつつ、すべてのものを支え続けてくださっていますが、それで、ご自身から何かが失われていくわけでもありません。その意味で、神さまは永遠に、無限の豊かさに満ちておられる方であり、不変の方です。
 また、聖書のみことばが記された古代オリエントの文化においても、古事記などが記されたこの国の文化においても、また、今日の私たちの社会においても、世界がずっとあり、神はこの世界の中にいて、この世界の素材を用いて、それぞれの国の国造りをしたと考えられています。神が天にいるといっても、その天もこの世界の一部です。それで、この世界の方が神より大きいのです。しかし、聖書はこの世界とその中のすべてのものをお造りになった神さまは、そのような意味で、ご自身がお造りになったこの世界の中に住んでおられる方ではないということを示しています。
 詩篇139篇はダビデが記したものです。そのダビデの子がソロモンです。ソロモンは「」のみこころにしたがって、神殿を建設しました。その神殿を奉献するときに、ソロモンが「」に祈った祈りが列王記第一・8章23節ー53節に記されています。その中の27節には、ソロモンが、

それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。

と祈ったことが記されています。
 まさにこのとおりです。この世界には始まりがあり、それは神さまの創造の御業によっています。しかし、神さまは永遠に、ご自身で存在しておられ、あらゆる点において、無限の豊かさに満ちておられます。ですから、「天も、天の天も」神さまを入れることはできません。

 はじめに神が天と地を創造された。

というみことばに出てくる「」(エローヒーム)は、このような、無限、永遠、不変のお方です。
 創世記1章1節ー2章3節には神さまの天地創造の御業が記されていますが、続く2章4節以下には、神さまが人にどのようにかかわってくださったかという観点から、いわば、神さまと人との関係という主題から見た、創造の御業のことが記されています。そこでは、神さまのことが「神である」(ヤハウェ・エローヒーム)という御名で表わされています。この「神である」という御名は、「」(ヤハウェ)は、1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業を遂行された「」であるということを示しています。
 このことも、「」(ヤハウェ)が、ご自身は何ものにも依存することなく、ご自身で永遠に存在される方であり、この世界のすべてのものを存在させておられる方であることを意味しているということと符合しています。
 それとともに、2章4節以下では、この「神である」がこの「地」にご臨在されて、土地のちり(細かい粒子)で人を形造り、人と向き合うようにしてその鼻にいのちの息を吹き込まれたことが記されています。これは「神である」を陶芸家に譬えて記しているもので、「神である」が丹精を込めて人を形造られたことと、人と親しくかかわってくださっていることを示しています。
 「神である」は「天も、天の天も」入れることができない方、その意味で、この世界に住んでおられる方ではないのに、どうして、人と親しくかかわることができるのでしょうか。それは、「」が、人間に譬えて言いますが、その無限、永遠、不変の栄光を隠し、無限に身を低くしてご自身の民の間にご臨在してくださるからです。「」がソロモンに神殿を建てるように命じられたのも、「」が、その無限、永遠、不変の栄光を隠し、無限に身を低くしてご自身の民の間にご臨在してくださる方であることを示してくださるためでした。
 出エジプト記3章では、さらに、このような方である「」(ヤハウェ)は、強大な帝国であったエジプトの奴隷となっていたイスラエルを愛し、ご自身の民とするために、モーセを遣わしてくださり、イスラエルを奴隷の状態から贖い出してくださる方であることを私たちに伝えています。実際に、「」はイスラエルをエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださり、ご自身の民としてくださいました。このことは、「」はこの世において弱く貧しい者たちに目を留め、顧みてくださる方であることを私たちに伝えています。
 また、この「」の御業(出エジプトの贖いの御業)は、「」の本当の救いの御業がどのようなものであるかを証しするものです。人は自分の造り主である神さまに罪を犯して、堕落してしまったために、罪と罪の結果である死の力に縛られてしまっています。その意味で、人は罪の奴隷の状態にあり、最後には、死と滅びに至ってしまうのに、自分の力では自分を救うことはできません。「」は、そのようにご自身に罪を犯した者を、なおも愛して、罪とその結果である死と滅びから贖い出してくださることを、単なることばだけでなく、出エジプトという歴史的な御業によってあらかじめ示してくださったのです。
 そして、出エジプトの贖いの御業が指し示していた真の意味での罪とその結果である死と滅びからの救いは、神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと、死者の中からのよみがえりによってもたらされます。
 このようなことを念頭に置いて、詩篇139篇1節ー4節に記されていることを見ていきます。


 詩篇139篇1節においては、ダビデが、

 よあなたは私を探り知っておられます。

と言って、「」に呼びかけています。ここには「」と「」の間に、「あなた」と「」の関係があります。
 これは、ダビデという特別な人物だけでなく、そのまま、「」の民である私たちにも許されていることです。それで、ここでは、私たちそれぞれのこととして、「」を用いてお話を進めていきます。
 この「」(ヤハウェ)は、この世界のすべてのものをお造りになって、真実に支え、導いてくださっている無限、永遠、不変の栄光に満ちた神さまです。テモテへの手紙第一・6章15節後半ー16節前半には、この神さまのことが、

祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。

と記されています。神さまは無限、永遠、不変の栄光に満ちておられて、人も御使いたちも近づくことができない方です。
 そうであるのに、「」は、この方に向かって、「」と呼びかけます。これまでお話ししてきたことから分かるように、それは、「」が「」に近づいていったということではなく、「」が無限に身を低くされ、その無限、永遠、不変の栄光を隠して、ご自身の民の間にご臨在してくださっているからからです。その意味で、「」の方から「」に近づいてくださっているのです。そして、「」は無限に身を低くされて、私たちご自身の民の間にご臨在してくださっている「」に近づいているのです。
 「」は、

 よあなたは私を探り知っておられます。

と言って、「」に呼びかけ、「」を「あなた」と呼んで、語りかけます。この「あなたは私を探り知っておられます」と訳されている部分は、より直訳調に訳すと、

 あなたは私を探られました。そして、あなたは知っておられます。

となります。
 この世界とその中のすべてのものをお造りになり、その一つ一つのものの性質を生かし、すべてのものを支え、導いておられる神である「」は、すべてのものを完全に知っておられます。この詩篇でも、4節に、

 ことばが私の舌にのぼる前になんと
 あなたはそのすべてを知っておられます。

と記されていますし、15節ー16節にも、

 私が隠れた所で造られ
 地の深い所で織り上げられたとき
 私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
 あなたの目は胎児の私を見られ
 あなたの書物にすべてが記されました。
 私のために作られた日々が
 しかもその一日もないうちに。

と記されています。まだ「」が生まれる前から、「」は「」のことをすべてご存知でした。

 あなたの書物にすべてが記されました。

と言われているときの「あなたの書物」は、聖書に出てくる「いのちの書」のことです。それで、その「書物にすべてが」記されたということは、「」が「」の生涯のすべての日々を知ってくださっているというだけでなく、「」のためにすべてをご計画してくださり、すべての日々を祝福してくださっているということを示しています。
 このように、「」は初めから「」のすべてをご存知です。その「」に向かって、

 あなたは私を探られました。

と言うのはおかしいと思われるかも知れません。
 このことを理解する鍵は、これに続いて記されている、

 あなたは知っておられます。

ということです。聖書においては、このように人格的な存在同士がお互いのことを「知る」ということは、親しい交わりの中で知るということで、私たちのことばで言う「愛する」ということに相当します。さらに、ここ1節では、

 あなたは知っておられます。

と言われていていて、「私を」という目的語がありません。この点について、エドワード・ヤングは、この言い方のほうが、「私を」がある言い方よりも、より強い言い方、より訴える力がある言い方であると述べています(The Way Everlasting, p.14)。
 このことを踏まえて、

 あなたは私を探られました。

と言われていることを見てみたいのですが、この場合の「探る」ということばは、スパイが敵の領土や町を探ること(士師記18章2節、サムエル記第二・10章3節)、人が地下深くに行って貴重な鉱石を探し出すこと(ヨブ記28章3節)、また、大切な知恵を探究すること(伝道者の書2章9節)などに用いられています。これは、その探し求めているものを何とか見つけ出そうとしたり、そのすべてを知ろうとしたりすることで、それに対する強い関心を示しています。ですから、

 よあなたは私を探られました。

と言われていることは、「」が「」を愛してくださっているために、「」に深く心を注いでくださって、「」のすべてを知ることを喜んでくださっているということを示しています。
 無限、永遠、不変の栄光の主であられ、この世界のすべてのものを造り出され、すべてのものを真実に支え導いておられる「神である」が、この「」にこれほど深く心を注いでくださり、「」のすべてを知ることをお喜びくださるほどに愛してくださっているということは、「」の想像をはるかに越えたことです。しかも、この「」は、ダビデもそうですが、「」に罪を犯して、御前に堕落してしまっていた者です。御子イエス・キリストの十字架の死によって罪を完全に贖っていただいているとはいえ、なおも、自分のうちに罪の性質を宿しており、思いとことばと行いにおいて罪を犯してしまう者です。
 ですから、「神である」が、この「」にこれほど深く心を注いでくださり、「」のすべてを知ることをお喜びくださるほどに愛してくださっているということは、とても、「」が自分から言い出すことはできないことです。しかし、「神である」が、ダビデをとおして、

 よあなたは私を探り知っておられます。

と言うように「」を導いてくださっています。これは、「」がこの「」にこれほど深く心を注いでくださり、「」のすべてを知ることをお喜びくださるほどに愛してくださっているということを「示してくださっている」ということ以上のことです。「」が「」に、このことを確信をもって告白するようにと求めておられるのです。
 このように、無限、永遠、不変の栄光の「」がこの「」にこれほど深く心を注いでくださり、「」のすべてを知ることをお喜びくださるほどに愛してくださっているという、思いを越えたことを基調としてこの詩篇は始まり、このことの上にすべてのことが語られていきます。
 続く2節ー4節には、

 あなたは私の座るのも立つのも知っておられ
 遠くから私の思いを読み取られます。
 あなたは私が歩くのも伏すのも見守り
 私の道のすべてを知り抜いておられます。
 ことばが私の舌にのぼる前になんと
 あなたはそのすべてを知っておられます。

と記されています。
 2節では、

 あなたは私の座るのも立つのも知っておられ

と言われています。この冒頭には「あなた」を強調することばがあり「あなたこそが」「私」のことを知ってくださっています、という感じになっています。13節に、

 あなたこそ私の内臓を造り
 母の胎の内で私を組み立てられた方です。

と記されていることにおいても、これと同じ形で「あなた」が強調されています。
 ここ(3節)で「座るのも立つのも」と言われていることは、メリスムスという表現方法で、「すべての行動」を表わしています。
 これだけですと、外に現れた行動だけになってしまいますが、ここでは、さらに、

 遠くから私の思いを読み取られます。

と言われています。ここで「思い」と訳されていることばは「意図」「動機」「目的」などを表します。「」は「」のすべての行動だけでなく、その動機や目的をも「読み取られます」。
 「遠くから」と訳されたことばについては、いくつかの見方があります。
 距離的に「遠くから」ということを表わすという見方と、時間的に(この場合は)「ずっと前から」ということを表すという見方があります。さらに、距離的に「遠くから」ということを表すという見方でも、「」が遠くにおられて「」のすべての行動の動機や目的をも「読み取られ」るという見方と、「」がどんなに遠くに離れて行っても」のすべての行動の動機や目的をも「読み取られ」るということを表わしているという見方があります。
 おそらく、この場合は、時間的に「ずっと前から」ということを表しているということでしょう。これは、4節に、

 ことばが私の舌にのぼる前になんと
 あなたはそのすべてを知っておられます。

と言われていることにつながっています。そうであるとすると、「」は「私」がなすことが行動に現れてきてから、その動機や目的を見分けられるのではなく、「私」が何かをなす前に、その動機や目的を読みとっておられるということになります。
 3節では、

 あなたは私が歩くのも伏すのも見守り
 私の道のすべてを知り抜いておられます。

と言われています。
 「歩くのも伏すのも」ということもメリスムスという表現方法で、出かけることも帰ってきて就寝することもということで、1日のすべての行動を表します。2節の「座るのも立つのも」が屋内の行動であるとすれば、この「歩くのも伏すのも」は屋外の行動であるということになります。いずれにしても、「座るのも立つのも」と「歩くのも伏すのも」の組み合せで、「」がなすことのすべてということが強調されています。
 「見守り」と訳されていることばは、基本的に「ふるいにかけて見分ける」ということを表し、「評価する」という意味にもなります。これは、ただ見ておられるというより、とても注意深い眼差しを向けてくださっているということであると考えられます。人の間でも、その人が大切な人であれば、その人のことをよく知ろうとして、その一挙手一投足に深い関心を注ぐようになります。
 これに続いて、

 私の道のすべてを知り抜いておられます。

と言われているときの「」は、文字通りの「」のほか、比喩的な「」としての「振る舞い」「生き方」「仕方」「習慣」などを表します。「知り抜いておられます」と訳されたことばは、「よくなじんでいて知っている」という意味合いを伝えています。「」が「」の「道のすべて」に、常に、また、親しく目を留めてくださって、知ってくださっているということです。
 これらのことは、「」が「」に深く心を注いでくださり、「」のすべてを知ることをお喜びくださるほどに愛してくださっているということが、一般的なことではないことを示しています。「」は、具体的な、「」の日常の歩みのすべてのことに、いつも、その愛の眼差しを向けてくださって「」のことを知ってくださっています。そして、そのことをご自身の喜びとしてくださっているのです。


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