永遠に神を喜びとする信仰

説教日:2008年5月18日
聖書箇所:ローマ人への手紙5章1節〜11節


 今日は、礼拝後に安藤先生のおあかしをうかがうために、いつもより説教を短くすることになっております。それで、ローマ人への手紙5章1節〜11節をお読みいただきましたが、その全体ではなく、6節〜11節に記されていることに注目したいと思います。
 6節には、

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

と記されています。ここには、「弱い」という言葉と「不敬虔な」という言葉が出てきます。「私たちがまだ弱かったとき」と言われているときの「弱い」ということはからだの弱さのことではなく、神さまとの関係における無力さです。自分の力で、自らのうちにある罪の力とその結果である死と滅びから、自分を救うことができない状態にあることを指しています。また「不敬虔な者」と言われているときの「不敬虔な」という言葉は、神さまへの畏れを欠いており、神さまを神とすることなく、侮っている状態にあることを表しています。一般的な悪を指すのではなく、神さまに対する姿勢を問題としています。
 そして、この6節では、イエス・キリストは、自分の力で自分を救うことができないばかりか、そのことに気づくことなく、神さまを侮っていた状態にあった私たちのために死んでくださったと言われています。
 続く7節には、

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

と記されています。ここで「正しい人」と言われているのは、人の目から見て正しい人のことです。決められたことを守り、悪いことをしない人のことです。このような人は自らを厳しく律しているために、えてして冷たい感じがするものです。そのような人のためにいのちを捨てる人はまずいないと言われています。これに対して「情け深い人」と言われているのは、直訳では「善い人」、「善人」で、「正しい人」であるだけでなく、情的に温かい人です。包容力があり、物惜しみせずに人を助けるような人です。このような人のためには、その恩を受けた人がということでしょうが、いのちを捨てることもあるかもしれないと言われています。いずれにしましても、ここでは、そのような人を見つけることは難しいということが言われています。
 これが人間の現実であり、限界であることを確認したうえで、8節には、

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

と記されています。先ほどお話ししました7節とのつながりで言いますと、

私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった

ということにおいて、神さまの愛と人の愛が異なったものであることが示されています。「私たちがまだ罪人であったとき」というのは、6節の言葉で言えば、私たちが「不敬虔な者」、神さまを神としてあがめることなく、神さまを侮っていたときということです。そのとき、私たちは私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けて、滅びるべきものでした。ここでも、イエス・キリストはそのような「私たちのために死んでくださった」と言われています。


 イエス・キリストが「私たちのために死んでくださった」ということは、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことを指しています。イエス・キリストが十字架につけられて死んだことは、聖書以外の文献によっても知られる歴史的な事実です。十字架は人類が考え出した刑罰の方法としては最も残酷なものの一つに数えられています。これはフェニキアやカルタゴにおいて行われていた処刑の方法で、後にローマ帝国に取り入れられたと言われています。その残酷さのために、ローマ市民が十字架につけられて処刑されることはほとんどなかったと言われています。
 すでに発見されている十字架につけられた人の骨から判断しますと、十字架につけられた人は、手のひらではなく、両手首の骨と、重ね合わせられた足首のくるぶしの辺りの骨に太い釘を打ち付けられて、つるされていたようです。全身の重さが釘を打ち込まれたところにかかって激痛が走りました。そればかりでなく、からだ全体がつり下げられているために、息ができなくなるので、息をしようとするたびにからだを持ち上げますので、ますます痛みが増すということになっていました。その痛みのために十分な息ができないために、肺や心臓の辺りからも激しい痛みが湧いてくるのだそうです。その他いくつかのことが分かっていますが、それは省略いたします。十字架につけられた人は、通常、そのようにして数日間苦しんで死んでいったと言われています。
 イエス・キリストの十字架においては、このような肉体的な苦痛があったのはもちろんですが、それ以上のことが起こっておりました。マルコの福音書15章25節には、

 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。

と記されています。そして、33節、34節には、

さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

と記されています。
 イエス・キリストは午前9時に十字架につけられました。それから3時間ほど、その大変な苦痛の中で、人々のあざけりとののしりを受けました。そして、12時から午後3時までの3時間ほどの間、全地が暗やみに覆われました。この暗やみは、聖書の中では、その時、神さまのさばきが執行されていることを表しています。十字架刑は残酷なものでしたが、人が加えた刑罰です。その3時間にわたる暗やみの中では、それに加えて、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰が執行されました。父なる神さまは、私たちの罪に対する刑罰を、ご自身の御子に執行されました。それは、世の終りになされる最後のさばきに相当する、私たちの想像を絶するさばきの執行でした。そのあまりの過酷さに、通常は、苦しみながらも数日間十字架についているはずですが、イエス・キリストはその日の午後3時に息を引き取られました。イエス・キリストのからだが絶えきれなかったのだと考えられます。
 このようにして、イエス・キリストは今から2千年前に、私たちの罪を負って十字架にかかってくださって、私たちの罪に対する神さまの最終的なさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。これによって、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。そして、私たちを新しいいのちに生かしてくださるために、死者の中からよみがえってくださいました。ローマ人への手紙4章25節に、

主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

と記されているとおりです。また、コリント人への手紙第2・5章21節には、

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

と記されています。
 ローマ人への手紙5章8節では、もう一つ大切なことが示されています。それは、

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

と言われているときの「明らかにしておられます」という言葉は現在形で表されているということです。これは、常に変わることがない事実や真理を表しています。今から2千年前に、御子イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの罪に対するさばきを私たちに代わって受けてくださったことに、神さまの愛はこの上なく豊かに表されました。ここ8節では、その神さまの私たちに対する愛はあの時限りのものではなく、今も変わっていないし、とこしえに変わることがないということが示されているのです。
 試練に直面することなど、何らかのことで神さまの愛が分からなくなったときには、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかっていのちを捨ててくださったことを見てください。父なる神さまはそのことにおいて示されたその愛をもって、今も、またとこしえに変わることなく私たちを愛してくださっています。
 続く9節、10節には、

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

と記されています。
 ここでは、神さまが御子イエス・キリストをとおしてすでになしてくださったことに基づいて、将来における救いの完成を示しています。そのために「なおさらのことです」という言葉を繰り返しています。すでになしてくださったことに照らして見れば、将来の救いの完成は確実なことであるというのです。
 将来における救いの完成とは、イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖っていただいている者が死んだ後に天国に行くということを含みますが、それ以上のことを意味しています。世の終わりのさばきの時に、さばかれることがないばかりか、むしろ永遠のいのちによみがえるということです。それも、とこしえに変わることがない神さまの愛によっています。
 ここでは、話はこれで終っていません。続く11節には、

そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

と記されています。
 ここで、

 私たちは神を大いに喜んでいるのです。

と言われているときの「神を」と訳されている部分(エン・トー・セオー)は3節で、

 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。

と言われているときの「患難さえも」と訳されている部分(エン・タイス・スリプセシン)と同じ言い方です。この「エン」は基本的には「・・・にあって」ということを表しますが、ここでは(アラム語的に)「・・・のゆえに」という意味であると考えられます。このことが新改訳の、

 私たちは神を大いに喜んでいるのです。

という訳に反映しています。
 私たちは、御子イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの罪に対するさばきを受けてくださったことに感謝します。それによって、私たちが死と滅びの中から贖い出されたことをただ感謝し、喜び讚えるほかはありません。けれども、ここでは、そのようにして私たちに与えられたものだけを感謝し、喜ぶことで終っていません。そのようにして、私たちをとこしえの愛によって愛してくださり、御子イエス・キリストによって私たちのためにすべてを成し遂げてくださった、神さまご自身を喜ぶようになったと言われています。
 私の父は、今から50数年前、私が小学校5年生の冬に亡くなりました。それから家の生活は一変しました。それまでずっと家にいた母は、私たちを養うために外に出て働くようになりました。それまでは、学校から帰って来ると、「ただいま」ではなく「何かある?」というおやつの催促の言葉を言いながら家に入っていました。母が家にいなくなると、黙って家に入って、母が戸棚に入れておいてくれたおやつを食べました。ある日その戸棚を開けて、そこに置いてあるおやつを見た途端に、何とも言えない寂しさが込み上げてきて、ずっとそこに立ちすくんでおりました。今も、その時の感覚をリアルに思い出します。母の手からおやつをもらっていたときには、おやつの方ばかりに目が行っていて、母の存在を忘れておりました。しかし、あの時に、おやつには、おやつ以上に大切なものがあったことに気がつきました。母の手からそれを受け取っていたということです。そこに母がいたということがいちばん大切なことであったのです。愛の関係においては、愛を表す手段よりは、愛しているその人自身がいちばん大切です。
 私たちは、ともすると、神さまを忘れて、神さまが備えてくださった救いに目が行ってしまいがちです。それでは、御利益宗教と変わらないことになってしまいます。しかし、いちばん大切なのは、私たちをとこしえの愛をもって愛してくださり、今も、またとこしえに私たちを愛してくださる神さまご自身です。神さまのとこしえの愛に包んでいただいて、とこしえに神さまご自身を喜ぶことです。これこそが、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストを信じる信仰の行き着くところです。


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