第101講「人々は食べたり飲んだり」ルカ17章22−37節 2002年2月24日
1.惑わされない醒めた生き方
世紀末と言われた何年か「終末ブ−ム」で、「予言」をうたう本が売れました。その中には聖書からの終末予言を語るものもありました。主イエスの時代のユダヤは、世の終わりを説く偽預言者、偽メシアが何人も出没し、騒然とした、一種、異常な雰囲気がただよう時代で、ガリラヤのユダやテウダ(使徒5章36、37節、21章38節)バル・コクバといったローマからの独立を主張して騒乱を引き起こす輩が出没した時代でした。そのような偽メシア、自称メシアが多数乱立し、人々を惑わすことを予告された主は、それでは私たちは、どのような備えをしたらよいのかを語られたのでした。残念なことに、この主の警告を聞かずに、いたずらに恐怖心を煽るようにして終末を語る人々は、教会の歴史の中に繰り返し現われて、人々を惑わし、今も惑わす人が絶えません。だからこそわたしたちは、主が何を望み、何を求めておられるかを忠実に聞く必要があります。
ここで主は、そのような偽預言者に惑わされ、踊らされて、心落ち着かずに生活をすることの愚かさを警告し、「ついていってはならない」と、不確かな情報に惑わされないように勧めます(23節)。しかし他方、主は来ない、終末はまだずっと先のことだとたかをくくって、日常に埋没してしまい、毎日を無頓着に生きることをも戒めます。ノアの時代、洪水の危険が予告されながら、「人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」、つまり日常の毎日に追われ、終末はないかのように緊張感のない生活を送っていたとき、滅びは突然襲ってきました。ロトの婿たちもソドムの滅亡を予告されながら、それに心を留めることなく一緒に滅びていきます。ロトの妻は、せっかく救いだされながら、町に残した家財を惜しんで振り返り、自分の身に滅びを招きました。ここでは世の終わりはない、神の裁きはないと、地上の生活に埋没して、無頓着に日々を過ごし、無為な人生を送ることが戒められると共に、地上の生活に未練を抱き、それに執着して生きることの愚かさが語られます。「死体のある所には、はげ鷹も集まる」とは、死臭漂う腐敗のあるところにはげ鷹がむらがるように、罪の腐敗のある所には、神の裁きもかならずあるということです。罪の世に対する神の裁き、腐敗したこの世の終わりはかならずあります。それがないかのように、この世にからめとられて、地上をはいつくばり執着しながら生きるのは愚かであり、自分に滅びを招きます。裁きと滅びがあることを自覚して、醒めた生き方をするべきです。
2.地上に執着しない、自分の終わり(死)に備える毎日
それでは、いたずらに心を騒がせ、偽預言に惑わされ、踊らされるのではなく、また逆に、世の終わりはないかのように地上に執着して生きるのでもない、刹那的に日常に埋没して無為に生きるのではない生き方とは、どのような生き方なのでしょうか。パウロは、世の終わりがすぐにも来ると心を迷わせて、落ち着かない生活を送っていたテサロニケの教会に、「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」と勧めました(1テサロニケ4章11節、2テサロニケ3章12節)。そして地上に執着して、毎日を無為に送るのではなく、「たゆまず善いことをしなさい」と勧めるのでした(同13節)。わたしたちを迎え入れてくださるために、主はかならずおいでになります。その日、その時は誰も知りませんから、いつ主がおいでになってもよい備えをもって、日々を送るべきです。ここでは、一緒に寝ている二人の間、一緒に仕事をしている二人の間に線引きがなされると警告されています(34、35節)。家財道具を惜しむ者は、それと共に滅びてしまいます(31節)。地上の富よりも天の富を追い求めて生きるべきです。「朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継」いでいるのですから、「終わりの時に現わされる準備されている救い」をこそ、追い求めるべきなのです(1ペトロ1章4、5節)。
そしてわたしたちは、「世の終わり、終末」に備えるだけではなくて、なによりも「自分の終わり、死」に備えるべきではないでしょうか。いつ死が訪れ、主の前に召されるか、わたしたちは知りません。しかしいつその召しをいただいたとしても、ただちに喜んで主の許に参じる用意をして、日々を送りたいものです。貪欲でその日その日のことしか、地上の命しか考えていなかった農夫は、堅実で賢い生活設計をしながら生きていましたが、主から叱責されます。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と(ルカ12章20節)。世の終わりが近いと騒がれ、騒然とした時代に、マルテイン・ルターは語りました。「たとえ明日、世の終わりが来るとしても、わたしは今日、りんごの木を植える」と。りんごの木は何年もしなければ実を結びませんから、もし本当に明日、終末が来るならそれは無意味な働きだと言えます。しかしたとえもしそうであったとしても、ルターは、今日、自分に与えられた神の働きと努めを、今日、きちんと果たすのだと言ったのです。今日の働きが実を結ぶのは、ずっと先のことかもしれませんが、それをしてくださるのは主であり、自分は今日自分に委ねられた責任をきちんと果たして、主のご委託に応えていくのだと語ったのでした。これが、主のおいでを待ちながら、醒めた心で今日を生きる、わたしたち信仰者の生き方ではないでしょうか。いつ、主がおいでになっても備えができている、いつ主の前に召し出されても、用意が整えられている毎日を生きるのです。それが世の終わり、いや自分の終わりに備えて生きる、わたしたちの生き方なのです。