第103講「欠けているものが一つ」 ルカ18章15−30節 2002年3月17日
1.金持ちの善良な青年に欠けていたもの
一人の金持ちの青年が、主イエスの許を訪ね、永遠の命を得るにはどうしたらよいかと尋ねました。彼は真面目で善良な青年でした。おそらくは他の青年のように遊び歩いたり、放蕩ざんまいをするということもなく、人生について真面目に考え、生きようとしていた人でした。幼いときから、父祖の教えに忠実で、神の御言葉を熱心に学び、かつそれを実行することに心掛けた人だったと推測できます。人目には立派の一言と言っていよい彼に、しかしなお悩みがありました。これで本当に自分は天国に行けるのだろうかという悩みです。その問いは、彼の心の中で増え広がり、どんな善い行いをしても打ち消すことができないほどに大きくなっていました。そこで彼は意を決して、高名なラビとおぼしき主イエスの許にやって来たのです。彼にとっては「善い人間」であることこそが、天国への入国条件と思われましたから、それに精進もしてきたのでした。しかしそこでなお、確信がなかったのです。しかしまさにそこに、彼の問題の核心がありました。自分では気づかない自分の問題点を、しかし主はしっかりと見抜いておられたのです。彼に問いかけたのは、十戒の二枚目の板にあたる、隣人への愛に関する戒めでした。この戒めを注意深く、十戒の二枚目の戒めと比較してください。主が意図的に抜かした大切な戒めがあることに気がつきます。そしてそれこそが、この善良な青年の問題点なのでした。ここには第十戒、つまり「隣人の家を貪ってはならない」が落ちています。主がこの青年に向かって、「あなたに欠けているものが一つある」と言われた、その「一つ」とは、彼の心に巣くう「貪り」の思いでした。たしかに善良な毎日を送り、律法にかなう生き方を努力してきた彼ですが、「貧しい者に施し」をし、「天に富を積む」ことにおいて、彼にはひっかかるところがありました。富んだ豊かさを手離してまで、神に従うことも、隣人を愛することも、彼にはごめんだったのです。その彼に主が求められたことこそ、その「貪り」の心を捨てて、主に従うということなのでした。
2.「天に富を積む」とは
この貪りの心を捨てて、「天に富を積む」ということは、富んでいる人にはとても困難なことで、それは「らくだが針の穴を通る」よりも難しいと言われます。貪欲の心が、どれほど私たちの心にこびりつき、むしばんでいるかを知り尽くされた主ならではの言葉です。主は別の個所で、遺産相続でもめていた人の申し出から、この貪欲の問題を考え、「神の前に豊かになる」ことを教えられました(ルカ12章13−21節)。貪欲とは、もっと欲しいと思う心です。もう既にあるのに、それでは満ち足りず、満足せず、もっと欲しがる心です。どうして貪欲に注意する必要があるか、それは「人の命は財産によってどうすることもできない」からです。この「愚かな金持ち」は「愚か者」と言われます。この人の、一体どこが「愚か」と言われているのでしょうか。それは「神の前に富まない」ことでした。「自分のために富を積んでも」と、富や財産を自分のためだけに蓄え用いて、隣人へと心向けることがなかった、自分については贅沢三昧をしながら、貧しい隣人はびた一文恵んでやることがなかった、そんなあさましい心が問題にされているのです。この人の暮し向きは、堅実であったけれども、所詮自分のためだけの人生でした。その意味で隣人を富ませ、神の前に富むということがなかったのでした。
私たちは「神の前に富む」と言うとき、たぶん「天に宝を積む」、つまりこの地上で良い業を行って、天国に貯金するような意味でそれを考えているかもしれません。この人は、神から豊かに与えられた財産を持って、それを自分のためだけに用いて、隣人のため、神のために用いなかった、そうして天に宝を積むことがなく、神の前に富む者とならなかった、それが愚かであると言われています。しかし主はここで、さらに別のことを話そうとしておられたのでした。「神の前に豊かになる」とは一体どういうことなのでしょうか。この人は、いつにない収穫がありそれを蓄えたとき、それでひと休みして、食べたり飲んだりしました。そのこと自体が問題だったのではなく、その喜びと平安の根拠が自分の蓄えにあったこと、それがこの人の問題でした。自分の安心の根拠を、倉に一杯収まった収穫物に置いたこと、それがこの人の愚かさでした。喜び楽しむことは多いに結構なことです。豊かな祝福をむしろ多いに感謝したら良いのです。それが問題なのではなく、この人はこの豊かな収穫が、一体どこから来たか、誰からの祝福かを顧みることがなかった、だから労苦した自分をねぎらい、自分を喜びました。そして倉に何年分もの蓄えが出来たから、安心して飲み食いしたのです。こうしてこの人は、自分の命の根拠を神にではなく、自分の財産に置いたのです。これだけ蓄えがあるから安心だ、自分の人生は安泰だと考えました。それがこの人の愚かさだったのです。
3.富のあるところに心もある
この話のきっかけは「貪欲」でした。「貪欲」とはもっと欲しがる心、満ち足りることを知らない心です。この世の物を追求し、もっと豊かさを欲しがり、物に依存する心です。家や土地、財産や老後の貯金、そういった物があるから大丈夫だと安心し、それに依存する心です。この物に対する貪欲は、満ち足りるということを知りませんから、手に入れても手に入れても満足で来ません。そうやって次第に、物に心が占領され、物の奴隷になっていきます。あれがなければ幸せではない、これがなければ満ちたりない、それは物だけではなく、この世にある様々なことにあてはまります。地位、名誉、信用、評判、仕事、やりがい、生きがい、愛情、友情、家庭、家族などです。それを得ることが悪いとか、欲しがってはならないと言われているのではありません。禁欲的に生きて、必要以上を求めてはならないとか、豊かさを追求してはならないということでもありません。それを喜び楽しむことは駄目だというのでもありません。しかし私たちは、そういった豊かさを追求し、この世の物に囲まれて生きていくうちに、次第に自分が「貪欲」になっていることに気づくべきです。物自体に生活の基盤が置かれ、安心の根拠が物やこの世に置かれる、次第にそれ自体をますます得ることばかりを追求し、奔走し、物の奴隷となっていく、それがなければ心満ちたりず、安心することが出来なくなる、そういう心に気をつけなさいと言われているのです。貪欲は身を滅ぼします。もっと欲しがり、もっと追い求めて、物に一杯囲まれて豊かになりながら、けっして心が満ちたりるということがない、物に豊かで心が貧しいということになります。そしてますます満ち足りることを求め続けて、ますます貧しくなるのです。それがないと安心できなくなる、私たちは一体自分の安心をどこに置いているでしょうか。もし健康に置いているなら、病を得たとたんに平安を失います。財産に置いているなら、それを失えば不安です。地位や評判に置いているなら、人からの不評に怯えます。家や土地、老後の蓄えに置いているなら、それを失えば老後の夢は消え去ります。いいですか、蓄えをしたり財産を持ってはいけないと言ってるのではありません。しかし私たちは次第にそういったものに自分の安心の根拠を置いてはいないだろうか、そうであればそれは実にもろい土台にすぎないと言っているのです。私たちの人生を支えることはできないだけではなく、もう一つの現実に全く無力であるからです。それは「自分の死」です。
「自分のために富を積みながら、その富が自分のためにならないではないか」。こうして私たちは、地上の事柄や地上の富に心奪われて、本当の求めるべきものを見失い、地上のものに奔走して生きている、それが「貪欲」なのです。その心があるかぎり、私たちの心は真実に自分の命へと、思いを向けることがありません。この金持ちの青年の問題は、そこにありました。それは自分の心がどこを向いているかということです。「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もある」(ルカ12章34節)