北鎌には雨が似合う

 

「後ろを振り向かない男」 Tくんに声を掛けられたのは、夏合宿に向かう現役を見送りに行った帰りのことだった。
「今度一緒に北鎌に行きませんか?」
と聞かれた時、僕は二つ返事でOKはしなかったものの、気持ちは「行こう」と決まっていた。

新宿駅の中央地下通路、雑踏の中で僕の頭の中には新田次郎の「孤高の人」 に出てくる加藤文太郎の姿が頭をよぎった。徹底して単独行者だった彼は、冬の北鎌で初めてパートナーを組み、そして帰らぬ人となったのだ。七月の終わりの、暑い夏の夜だった。

当初八月の初めに行く予定だったが、季節はずれの台風の接近で日程をずらさざるを得なくなった。二人ともこのルートは初めてだったので、悪天候の中で登るのはさすがにリスクが大きすぎる。

北鎌尾根は北アルプスの槍ヶ岳から伸びる尾根のうちの一つで、一般登山者向けの登山道は無く、途中でエスケープすることも難しい。天候が悪くて視界が悪ければルートを見失う恐れもあるので、こちらとしては極力気象状態の安定している時を狙って出発したい。

結局出発は8月18日(1992年です)の夜ということになった。台風が九州を北上中だったが、北アルプス周辺に関してはそれほど影響は無さそうだと判断し予定通り出発することにした。夜行列車の急行アルプスに乗り込み、狭いシートにぶつぶつ言いながら信濃大町へと向かった。

ふと眼を覚まして窓を見ると、外にはオレンジ色の朝焼けが広がっていた。朝焼けは昔から悪天候の知らせと言われている。山での場合は必ずしもそうとは言えないのだが、やはり先行きに一抹の不安を覚える。しかし、今の時点ではすっきりした青空が広がっている。

朝の五時、列車は信濃大町に到着した。この駅に降り立つのは三年振りだ。今日はまずここから七倉という所まで向かい、そこから高瀬ダムを通って温泉の湧いている湯俣まで向かうのだが、七倉まで向かう朝の臨時バスは昨日で終わってしまっていた。

駅の前で待ち構えているタクシーの運ちゃん達に
「七倉まで行きたいんだけど」 と言うと
「いいよ、二人で行くかい?」 と聞くので、僕は一緒に七倉まで向かう人を探してみた。すると横にいたカップルも七倉まで向かうと言うので彼らとタクシーを相乗りすることにした。ふと、カップルの女性のほうが
「高瀬ダムまでタクシーでは行かれないんですか?」 と聞くと、意外なことに運ちゃんは
「六時半になったらゲートが開くから、六時までそこの待合室で待っていてくれないか?」 と答えたのだった。

運ちゃんの話では、 この五月からタクシーに限って高瀬ダムまで入れるようになったのだそうだ。七倉から先は東京電力の私有地なのでいろいろと制限が多く、入れるのは夏の間は朝の六時半から夜の七時まで。しかも一度に五台までしか入れない。

「いやあ、お盆のときはひどかったよ。なにしろ毎朝客がタクシーの取り合いでね。そんで、朝一で着いた客は七倉から先にタクシーが入れないからダムまで歩くしかないんだよな。ところがよ、後からタクシーに乗った客が歩いてる横を走ってくもんだから怒っちまうんだよ。タクシーを捕まえて『なんで後から来た奴だけここまで入れるんだ』ってね。ま、ちゃんと説明しない運転手のほうも悪いんだけどな」と、運ちゃんはいかにも楽しそうに話した。僕らは怒るほうにならなくてよかった。

僕らの乗ったタクシーは七倉に着いたのだが、ゲートが開く時間までまだあったので、登山者カードを記入しながら運ちゃんの案内を聞いていた。かなり話好きな人のようで、こちらが聞かなくてもダムについていろいろと教えてくれた。

六時半ぴったりにゲートが開き、タクシーは急な道を高瀬ダムに向かって行った。このあたりは、秋になると紅葉が見事なのだそうだ。高瀬ダムは巨大なロックフィルダムで、大きな岩が積み重ねられてそびえたつ高い壁を見上げると、人間の力の凄さというものがまざまざと伝わってくる。普段コンクリートで造られたダムを見慣れている眼には、この巨大な岩のダムは黒部ダムよりも威圧的に映る。

ダムはとても静かだった。観光客もいないしお土産屋も無いし、大きなボリュームで演歌をがなりたてるスピーカーも無い。この場所との初対面の印象としてはそう悪いものではない。

こういう場所が僕は好きだ。

ダムから湖岸に付けられた林道をひたすら歩く。アップダウンはほとんど無く、ただ淡々と歩く。湖面の色は不自然な緑色で、確かにきれいな色ではあるが生き物の気配が全く無い。エメラルドグリーンを濃くしたような不思議な色だった。

この道も考え事をするにはとてもいい道だ。よく整備された道を無意識のうちに足を運んでいると、いつの間にか意識がハイになって様々な考えが頭を巡っていく。普段の生活ではなかなかこういう所を歩く機会がないので、精神的なリフレッシュのためには実にもってこいだ。

コースタイムよりもずっと早く、九時には湯俣に到着した。人影はまばらで、家族連れのキャンパーが一組だけ遊んでいた。実に静かなものだ。時間が遅ければここで一泊して、のんびり露天風呂に浸かるのもいいのだが、こんな陽が高いうちからテントを張る訳にもいかない。悔しいがまっすぐ千天出合いに向かうことにする。

水俣川にかかる吊橋を渡り、千天出合いに向かう道に入ると、途端に道の状態が悪くなる。ルートは全体的に左岸を高巻きする格好で付けられているのだが、もはやこのコースは一般向けではなく、あまり登山者が来ないせいかだいぶ荒れている。所々登山道が切れていて、足を滑らせればそのまま川に転落という所がある。鎖場や固定ザイルが付けられている所も、ほとんど整備の手が入っていないようでとても悪い。

二人ともこのコースの面白さは散々聞かされていたのでそれ程びっくりはせず、久しぶりの手応えのある道についつい顔の筋肉が緩んでしまう。

途中、道にはいろいろな物が落ちていた。帽子が落っこちているのは分かるが、切り株の上にハーモニカが置いてあったり、テント場の近くにプラスチックブーツが転がっていたりするのはよくわからない。あまりの無気味さに二人で声をあげてしまった。

十一時に千天出合いに到着。出合い手前の吊橋もほとんど壊れかけていて、片側のワイヤーが切れかかっているために下の板が大きく傾いている。恐る恐る渡っている姿はまるで猿のようでどうも滑稽だ。この橋もそのうちきっと落ちてしまうのだろう。

出合いの近くに徒渉点があり、固定ザイルが張ってあったのでそこでで川を渡ったのだが、対岸にあると思ったルートが無い。

途中まではルートらしき踏み跡があり、偵察の結果これだったら何とかなるだろうと思い徒渉したのだが、途中からはぼろぼろの草付きのトラバースや脆い岩場のクライミングになり、さすがの僕らも諦めて冷たい川を徒渉し直すはめになった。

この水は雪解け水なので、本当に足がちぎれるぐらいに冷たい。たった五mほどの川を渡っただけで、向こう岸に着くなり
「ヒーッ! ヒーッ! ツメテー!」 と言いながら岩の上に倒れこむことになる。

結局上流の昔吊橋があった辺りで改めて左岸に徒渉した。もしやワイヤーだけでも残っていれば何とかなるかもと淡い期待を抱いていたが、川岸に僅かにワイヤーの残骸が残るのみであった。

ここから先の道も相変わらずで、ルートファインディングに苦労はするものの、道の状態自体はそれまでよりずっとましになった。この道の勝手が分かってくるに従い、ルートを探すこと自体が段々楽しくなって来る。夏休みではあるが平日なので僕らのほかに登山者は一切いない。元々下山に使うルートではないので、湯俣の近くで出合ったカップル以外には、遂に槍の穂先に着くまで誰一人会うことが無かった。

歩くにつれ天上沢の川幅が広くなり、視界が開けるようになってきた。もうすぐ北鎌沢の出合いだ。四時過ぎに北鎌沢の出合い近くに到着。次第に天気が悪くなりガスが下りてきたので川岸の幕営跡にテントを張った。湯俣からここまでは予定よりも随分時間を取られてしまった。

夜は雨。朝、運ちゃんが言っていた
「猿が下に降りて来てるから、たぶん明日からは雨だよ」 という言葉が、いつまでも頭の中から消えなかった。

テントに叩きつける雨の音で眼が覚めた。ああ、今日は停滞かなあと思っていたら五時半に雨が止んだ。僕らはすっかり停滞する気になっていたのだが、慌ててシュラフから這い出て準備にとりかかった。

八時に出発。雲の流れは速く、いつの間にか陽が差し始めている。ここからいよいよ北鎌のコルに向かって急な沢を詰めていく。
「ちょっと、先輩! あれ!」 というTくんの声で右手を見ると、そこには中身の入っているらしいザックが転がっていた。まだ出合いからちょっと登ったあたりだ。背筋に
「ゾーッ!」 と寒気が走る。遭難者の物かもしれないが、誰かのデポということもありうる。弱気な僕らは手も触れられないままに素通りしてしまった。

背後からは朝の日差しがジリジリと僕らを焦がす。地面からの照り返しで暑くて堪らない。風はほとんど無く、二人の足音と息遣いだけが辺りに響いている。登山道が人で埋まる夏山シーズンにあって、こんなに静かな山歩きができるとは思ってもいなかった。

急登を登りつめて約二時間で北鎌沢のコルに到着。やっとの思いで稜線に這い上がると、稜線に吹き上げる風が肌に心地良い。ここからは稜線の道で、思ったよりもしっかりとトレースが付いているのでそれ程苦労せずに済む。急な登りを、ハイマツをぐいぐい掴みながらピークを目指す。

いくつかのピークを乗っ越して、やっとのことで天狗の腰掛けに着いた。目の前には黒々とした独標がそびえ立っている。なかなか威圧感のある面構えだ。もっとも夏だからこんな呑気なことを言ってられるのだが。

独標の登りに差し掛かる。本来なら行けそうな所をガンガン行きたいところなのだが、今回はあいにくザイルを持ってきていないので、進退極まったときのことを考えるとちょっと躊躇してしまう。結局無難に巻道を行くことにした。

しかし一ヶ所とても悪い所があった。ざらざらな岩のトラバースで、傾斜がきついうえに足元のステップが完全に無くなっており、しかも手でつかむ所が無い。無理矢理進むにはあまりにも悪いので、結局手前の岩壁を強引に乗っ越してクリアした。このあたりの試行錯誤が本チャンに似ていて楽しい。

独標に着く頃には辺り一面真っ白になっていた。晴れていたのは午前中だけで、雲は見る間にその天井を下げて、僕らの視界から景色を奪っていった。こうなると長居はしていられない。

独標から北鎌平までが感覚的には一番辛かった。雨と風の中を二人でルートを探しながら進んで行く。北鎌平直下の登りが疲れた体には一層きつく思える。北鎌平に着けばあとは穂先に登るだけだ。

狭いチムニーをずり上がってしばらく行くと、見慣れた祠が見えてきた。ここが三千百九十mの槍ヶ岳の山頂だ。雨は断続的に降り続け、山頂に人影は無かった。せっかくここまで来たのにギャラリーがいないのが残念でならなかった。周りを見渡すと三百六十度視界ゼロ。吹き付ける雨に急かされるように肩の小屋へ向かって降りて行った。

テントを張り終えた頃から雨と風は次第に強くなっていった。まるで台風のような風で、僕はフライシートが飛ぶのではないかと気が気ではなかった。結局雨は一晩中降り続け、夜が明けても降り止みそうになかった。

久しぶりにテントで生活すると、自然の放つ音が必要以上に気になることがある。定期的にテント泊をしていればこんなことは無いのだが、数ケ月振りにテントの中でシュラフにくるまっていると、普段の生活ではあまり耳にしない音が次から次へと飛び込んで来る。これらの音に一つ一つ耳を傾けているとちっとも眠れない。

こんな所で停滞していても仕方ないので諦めて八時に出発。ガスがひどくて周りの景色は全く見られない。天気が良ければこのコースも快適な稜線の散歩道になるのだが、今日はただひたすら前に進むのみ。

槍から奥穂までのコースは北アルプスでも比較的難しいコースと言われているが、こんな天気にもかかわらず元気で歩いてる子供連れや、うっかり迷いこんでしまったようなハイカーが沢山いる。コンパスも持っていないおじさんが僕らの後について来た。

稜線上を快適なペースで進み北穂へ向かう。キレットの通過も、登山道が整備されていなかった時代ならいざ知らず、今では何の苦労もなく進むことができる。ここよりは、初日の千天出合いまでのコースの方がよっぽど難しかった。

今日は雨こそ降らないものの、一日中ガスの中を歩く羽目になってしまった。こんな日はペナントレースの消化試合のようなもので、いったい何しに来たのかよくわからない。

気だるい体に鞭打って、北穂高小屋に着いたのは十二時過ぎだった。この登りはだれきった体にはちょっときつかった。小屋の前に座り込み、二人でこれからどうするか相談したが、天気が悪いので結局ここで幕営することにした。Tくんは奥穂高岳に登ったことがないというで、今日中に白出のコルに行きたいと主張したが、僕は何だかこのまま天気が良くならないような気がして、結局押し切ってしまったのだ。

テント場は小屋から山頂を越えてしばらく歩いた所にある。辺り一面ガスで真っ白。指定されたテント場は岩の斜面を平らにしただけの所だった。二人ともしばらく呆然として、雲の中で口を開けたままたたずんでいた。

また雨が降ってきた。しかし天気予報では、明日から天候は安定し、この辺りも好天に恵まれるだろうと伝えていた。ささやかな希望をポテトチップスに託し、湿ったシュラフの中にもぐりこんだ。

しかし、だがしかし、やっぱり今朝も雨だった。

昨日の天気予報で二人共だいぶ気を良くしたのだが、眼が覚めた途端希望の綱は簡単に引きちぎられてしまった。当初の予定では奥穂から西穂まで行くはずだったが、さっさと上高地に降りて帰ろうということで方針は一致した。

後はただひたすら山を駆け降りるのみ。今日は今までの行程の中で一番雨が強かった。涸沢で山渓のテントを横目に見ながら、ビールを目指してひたすら足を前に送り出していく。この道も天気が良ければ最高に気分の良い散歩道なのだが、今日の天気では歩いていてもちっとも楽しくない。
「もしかしたら僕と先輩が二人でどっかに行くと雨が降るのかも知れませんね」
「そうかなあ、たしかに、前二人で岳沢に行ったときは雨だったけど。二回目じゃ必ずそうとは言えないだろう。三回続けばそうだろうけど」
「前一緒にツーリング行ったの覚えてます? あの時も雨降りましたよね?」
たしかにそのとおりだった。

新人のいない春合宿に二人で寂しく行ったとき、雨に降られて全く登れなかったのが一度目。Tくんがセローを買って一緒に箱根のほうにツーリングに行った時も、帰りに土砂降りの雨に降られたのだ。これぞまさしく三度目の正直。何か因縁があるのかもしれない。
「今度もう一度二人でどっかに行けば分かりますよ」
もしそれで雨が降ったら別のパートナーを探さないといけないな。そんなことを考えながら、上高地の観光客の間を足早にバスターミナルに向かった。

コラム一覧に戻る