羊の国

1999/05/05

1 プロローグ

僕は1991年の7月20日から、全部で八ヵ月間をかけてドイツからイタリア、そしてトルコを回ったわけだが、ここでは主にトルコでのことについて書き記そうと思う。

全体を通して考えてみると、トルコで過ごした二ヵ月半という期間が、一番旅行としては面白かったように思う。ここでは僕は完全に一人の旅行者になりきることが出来たし、ネタとして書き記すことが出来るようなこともいろいろとあった。

この文章を読んでトルコという国に興味が出てきた、という人がいてくれたらうれしいですね。

2 波乱の年の幕開け

もう今年も残すところあと僅かになっていた。今年は波瀾万丈の一年だった。しかしそのことは元旦の時点で既にわかっていたことだった。

元旦は吹雪で始まった。

僕達は北アルプスの槍が岳山荘の、冬季小屋の中で大晦日を迎えていた。ラジオからは紅白歌合戦が流れていた。考えてみれば、僕は大学に入ってからというもの、下界で紅白を見た記憶がない。

1990年が終わり、夜が開けると1991年になっていた。冬山で新年を迎えるといつも、時間というのが暫定的あるいは便宜的なものだということをしみじみ感じる。冬山に居る僕達にとっては、この夜明けも昨日の夜明けも何の違いもない。たまたま今朝が暦の上の新年に過ぎないと、ただそうとしか感じられない。

ま、それはそうだ。なにしろ新年だというのに周りには元旦の気配など微塵もない。おせち料理もないし特別に買い込んでおいた吟醸酒もない。こたつもなければその上のみかんも無いし、中で足にじゃれ付く猫もいない。

冬季小屋の中は朝だというのに薄暗く、厳冬季としては異様なほど室内が湿っぽい。今は冬山で一番込む時期なので、小屋の中にはかなりの数の登山者がいる。みんな元旦にしてはいやに不景気な顔をしている。

外は吹雪だった。初日の出はもちろん望めそうにない。一年の幕開けにしてはあまり喜ばしくない天気だった。吹雪といってもそれほどひどいものではなかったが、冬山としては異常な気温の高さがちょっと気になった。

僕を除いたメンバー三人は、冬季小屋から吹雪の中を山頂へ向けて登って行った。僕は昨日の時点で膝を少々痛めていたので小屋に残り、これからの一年について思いを巡らしていた。きっと大変な年になるだろうとは思ってはいたが、まさしくその通りになったので今思い返すとおかしくなってしまう。

今日の行程は下山するだけだ。今回は比較的雪が浅かったので、天候さえ良ければ直接槍平に下りることも出来るが、今日は気温が上がって大分雪面がゆるんでいる。この状態では雪崩の心配があるので沢筋に入ることはできず、セオリーどおりり中崎尾根を下ることにした。

視界が悪い。ホワイトアウトとまではいかないが、ルートを見定めるのに苦労する。気温が高いため雪がべたべたして重い。歩いているといつの間にかゴーグルに雪が張り付き、それが風に吹かれて凍り付いてしまう。元々悪い視界が更に曖昧になっていく。

このまま下るべきかどうか少々悩んだ。無理をせず引返そうかとも思ったが、メンバーのたっての希望もありそのまま下りることにした。結果的にこの判断は正解で、この後北アルプス一帯は一週間ほど悪天候に見舞われ、槍が岳でも何人かが閉じ込められてしまった。あの時そのまま小屋に引返していたら、我々ももしかしたらヘリコプターのお世話になっていたかもしれない。

先行パーティーのトレースを追いながら、雪の表面にショックを与えないように注意して尾根を下って行った。雪は更にその粘着力を増し、いつの間にかみな全身真っ白になっていた。

不意に下から人が現われた。これから頂上に向かう登山者だった。これで一安心。この先はしっかりしたトレースがあるから、もうルートを見失う心配はない。

雪の滑り台を下りて行くと、いつの間にか雪が雨に変わってしまった。僕は思わず「ウォー!元旦から雨なんて、一体なんてついてないんだ!」と叫んだ。

厳冬季のはずの冬山で雨に降られるのはそう多いことではない。今回の場合、日本海に低気圧が入って来たために、南から湿った暖かい空気が入ってこの不愉快な陽気をもたらしたようだ。気象のセオリー通り、低気圧が抜けた後は強い冬型になり、山は大荒れになったためかあちこちで遭難騒ぎのニュースが流れ、僕はそれをコタツでみかんを食べながら眺めていた。

冬山の雨ほど切なくやるせないものは無い。重い荷物を担いで、雨に打たれながら雪の上を歩いていると、自分がどうしようもなく惨めに思えてきてしまう。肉体的な消耗はもちろんのこと、雨がまるで心の中にまでジクジクと染み込んで来るようで、希望とかやる気とかいったものが、まるで塩を浴びたなめくじの様に流れていってしまう。その上今日が元旦なのだから全く救いようがない。

つべこべ文句を言いながらも足だけは動いた。歩いて歩いて、すっかり意識を失いかけた頃、ようやく文明の象徴である自動販売機が見えてきた。ここは新穂高温泉。 もう雪を溶かして水を作る必要もない。百円入れるだけでジュースが飲める。これもまた文明の本質の一つだ。

下界に戻って来ると思考はたちまち現実に引き戻される。まず当面の課題はどこで風呂に入るかということと、今夜は何を食うかということだった。ここ新穂高温泉のバスターミナルの一角には公衆浴場があるのだが、今日は元旦のためか残念ながら入ることが出来ない。

となると臭い体のままでとにかくひとまず富山に出なくては行けない。僕の体からは汗と体臭が雨でミックスされ、全体として五日分のかぐわしい芳香を漂わせている。自分自身の臭いに辟易するというのは、最近の生活ではなかなか経験できなくなってきているので、冬山というのは自分の体臭について改めて認識を深めるのにとても役に立つように思われる。

自分自身が嫌になってしまうぐらいだから、そういう臭い男達と一緒に一時間もの間密室の中に身を置いて、そのうえ更に運転までしなくてはいけないタクシーの運転手は実に大変だと思う。

しかしこういう所のタクシーの運ちゃんは気さくな人が多いのでとても助かる。臭いから降りろとも言わないし、こちらが運ちゃんの話に付き合ってあげるととても喜んでくれて、近道はしてくれるは,電車に間に合うようにおもいっきり飛ばしてくれるはで、降りる時には料金を払いながら心からお礼を言ってしまったぐらいだ。

電車を乗り継いで元旦の夕暮れも暮れかかった富山に着いた我々は、さっそく駅前の銭湯へと向かおうとしたのだがお風呂屋さんとて人の子、元旦の今日は休みなのだそうだ。これは困った。まだ我々は去年一年間の垢を落としていない。このままでは一向に新しい年を迎えられないではないかと嘆いていたら、観光案内所のお姉さんは駅前にサウナがあって、そこは今日も開いていると教えてくれた。

元旦のサウナというのはなんとも言えない哀愁がある。たぶん家に帰ったところで誰もいないか、もしくは誰も相手にしてくれないのだろう、競馬場や競艇場でよく見掛けるような男達が大勢たたずんでいる。

我々はそういう男達に混じって垢を落とし、一年分の汗と涙と言葉に出来ないモヤモヤをサウナで流し、柔らかいカーペットの上でしみじみとビールの有難みを噛みしめていた。一つの仕事を終えた僕の前にはそう長い安息の日々は残されていなかった。次の仕事は大学の後期試験だった。そしてその後には。

3 悲しみのクリスマス

今日は1991年12月29日。日曜日。時間は現地時間で18時30分。ここはギリシアの首都アテネの中心駅、ラリッサ駅の横にある長距離バス乗り場だ。

僕は一刻も早くこの町を逃げ出したかった。

僕は四日前の12月25日、つまりクリスマスの丁度その日にここアテネにやって来た。来てみてびっくりした。ここはギリシア正教の国。クリスマスの二週間前からすっかり浮かれっぱなしだったイタリアと違い、この国ではクリスマスの日は街中がもぬけの空になってしまう。

なにしろ人影がない。ゴーストタウンそのものだ。たまに歩いているのは日本人を含めた観光客だけ。こんなことならナポリでクリスマスを迎えれば良かったと、おもいっきり後悔した。

とりあえず駅からトロリーバスに乗って、町の中心であるシンタグマ広場に来てみたのだが、全ての商店、銀行、観光案内所などが固くシャッターを下ろしていて、僕は一体何をどうしたら良いかわからなくなってしまった。

何はさておきまずは泊まるところを探さないといけない。たまたま知り合った日本人の二人組と一緒に、しばらくプラカの辺りを歩き回ったのだがなかなか良いところを見つけられない。僕は途中で彼らと別れ、重い荷物に腹を立てながらとぼとぼ歩いていたら、地下へ続く階段からその男は現われた。

小太りで背が低く、髪の毛の少し薄いその男は「お兄ちゃんお兄ちゃん、ホテルを探しているんだったら、俺のいとこがやってる所があるから安く紹介してやるぞ」
と、階段を上がりながら声をかけて来た。

こういう場合の反応は人により様々だが、僕はとりあえず無視して相手にしないことにした。地下のバーらしき所から上がって来たその状況と、彼の顔つきがなんとなく胡散臭かったからだ。

これで彼がそのまま地下に引返したら話はそこでおしまいなのだが、こうやってわざわざ書いていることからもわかるとおり、彼はそのまま僕にくっついて来た。

彼は自分のことをマラドーナと名乗っていた。年の頃三十台後半といった感じのおっちゃんで、ぺらぺらと実によくしゃべる。英語は割りと上手で一応言ってることは理解できる。

彼は僕にくっついて歩きながら「俺は別に怪しい奴じゃない。今日はクリスマスなんでどこもみんな閉まっていて、やることがないから仕方無く一人で飲んでたんだ。いとこのやってるホテルがこの近くにあって、俺がいとこに言ってディスカウントしてやるからそこに泊まったほうが良い。この辺にはそんなに安いホテルは無いんだ」と一生懸命に語りかけてきた。

僕はあいにくアテネで泊まるあてがなかった。満足な情報もなくて、正直に言って今日どこに泊まるか思いあぐねていたので、結局は彼の紹介するホテルについて行くことにしたのだった。

彼に連れられて行ったのは、アテネの下町ともいえるプラカ地区の中心地で、このプラカと呼ばれる一帯は近くにパルテノン神殿を初めとする観光名所が多いので、夏になると世界中からの観光客でごった返すのだそうだ。そのプラカのメインストリートに面したロイヤルホテルが、彼のいとこがやっているというホテルだった。

ここはいわゆる安ホテルという感じだったが、今日ホテルを探して歩き回ったかぎりでは、こういったホテルでも最低三千Dr(ドラクマ)位はするらしい。日本円で大体二千三百円位だ。たかが二千円ちょっとと言うことなかれ。金の無い身にとってはこれでも痛い出費なのだ。

彼と一緒に中に入ると、僕にはわからない言葉でマラドーナと受付のおじさんが何やら交渉を始めた。
「どうせ今日は泊まる奴なんかいやしないから、こいつを二千Drで泊めてやったって良いだろうよ。」
「うんにゃ。やっぱり三千Drはもらわないと商売になんねえからよ。」
「そんなこと言ってもこいつに二千Drで泊めてやるって言っちまったんだからよ。一泊ぐらい良いじゃないかよ。」
「しょうがねえなあ、じゃあもうこれっきりにしてくれよ。」
とまあこんなことを話し合ったに違いない。とにかく僕はここに、一泊二千Dr(ドラクマ)で泊まれることになった。相場から言えば、ここを二千Drで泊まればまあ安いだろう。一応はシャワーとトイレがついた部屋で、昨日パトラスで泊まったホテルに比べればはるかにましで料金は同じだ。

とにかく落ち着く場所が決まったので僕はほっとした。知らない国の知らない場所に来て、まず一番苦労するのが居場所を決めることなのだ。

今日はさっきも言ったとおりクリスマスで、どこもかしこも全てがクローズしている。アテネでの最大の目的は日本への航空券を買うことだったが、今日は全く仕事になりそうもないので、僕は彼に付き合って町を回ることにした。

とりあえずさっき彼が出て来た地下のクラブへ。まだ昼間なので客は誰もいない。二人で席に着くとホステスらしき女の子が二人やって来た。一人は長身で金髪のロシア系で、一人は小柄なフィリピン人の女の子だった。

マラドーナとビールを飲みながら話をし、フィリピン人ホステスの
「ねえ、私にもドリンクおごってくれない?」攻撃を必死でしのいでいた。とはいえ、ずっとNO!NO!NO!と連発し続けるわけにもいかず、いつの間にか僕の財布の中は空っぽになっていた。

クラブを出てからしばらくはマラドーナにプラカを案内してもらった。彼は面白い男だった。昔はサッカーの選手だったそうで随分といろいろな国を回ったと言っていた。少し感情的に不安定なところがあって、ちょっと危ないなあと思うこともあるが話はとても合った。

彼が「ギリシアのスプラキはもう食べたか?あれはうまいぞ」と聞いてきた。僕がまだ食べてないと言うと、「今日は余りやってる店は無いけど、オモニア広場の近くの店がやってるはずだから行こう。なあに金が無いならおごってやるよ」と言ってきた。

僕は少々考えた。なにしろ現金はもう一銭も無いし、はたしてついて行って良いものかどうかちょっと迷ったが結局彼について行くことにした。

人気の無い町を二人で歩き、オモニア広場の近くにある一軒のタベルナ(食堂)に入った。中は地元の人達で結構混雑していた。ぼくらはギリシア風肉の串焼きのスプラキやグリークサラダを食べながら、ちょっと独特の匂いがあるギリシアワインを飲んだ。話は随分と盛り上がった。彼の話は面白かったし、僕も話のネタには事欠かなかったからその店に結構長居して,あーでも無いこーでも無いとしゃべり合っていた。 結構ハイペースでワインを飲み続けたので僕はそろそろ酔い始めていた。酔っ払ってとても気が大きくなり、今日はクリスマスだしいっちょパーッとやろうということになり、彼に誘われるままに近くのナイトクラブに入ることになった。僕はやっぱり金を一銭も持っていなかったが、彼が金のことは心配するなと言うので暗い階段を下へ降りて行った。

まだ時間が早かったせいかここも客はほとんど居なかった。店内は割りと高級な雰囲気でちょっと心配になる。僕はもうすっかり良い気分になっていた。今日はクリスマスだし楽しまなけりゃ損だと決め込み、ビールやシャンパンを飲みながらホステスとおしゃべりをしたりダンスをしたりして楽しんだ。ああこれぞクリスマス。

どのぐらい経ったのだろう。店内はそろそろ客で込みだしてきた。と、不意にマラドーナがウェイターを呼び付け会計をするよう頼んだ。しばらくするとマネージャーが伝票を二枚持って来た。一枚はマラドーナの物で、なぜかもう一枚は僕の物らしい。「会計はセパレートということになっておりますので。こちらがあなた様のお頼みになったシャンパンその他のお会計になります」と伝票を目の前に差し出して来た。

14万Drとそこには書かれてあった。えっ?14万Dr?あれっ0が一個多いのかな?と思って聞き返したら「いえあなた様のお会計はこちらにある通りハンデゥレット フォーティー タウザントドラクマでございます」と静かに、そして力強く答えたのだった。ああ、絶体絶命のピンチ。

14万Drというと日本円で約十万円だ。ピーンチ。僕は顔を引きつらせながら、それでも笑顔を絶やさず「14万Dr?」ともう一度聞き返すと、マネージャーも負けじと笑顔で「YES」と答えた。気のせいか勝ち誇ったような笑顔をしていたような気がする。

僕が横に座っているマラドーナに向かって
「この場はあんたのおごりのはずじゃなかったの?僕はこんなに払えないんだけど。第一現金は一銭も無いんだよ」と聞くと、彼は
「俺は自分の飲んだ分は払うから、あんたも自分の飲んだ分は自分で払ってくれないか。なあに心配することはないさ。明日からは俺の所に泊めてやるよ」と不機嫌そうな笑顔で答えた。

どうやらはめられたらしい。こういう場合一体どうするべきか。僕はあいにく腕力には自信がないし、ピストルもナイフも持っていなかったので中で暴れるわけにもいかない。この場から逃げ出そうにも横はホステスでしっかりガードされているし、店内のウェイター達の視線はこちらのテーブルに集中している。ああ、どうすればいいんだ。
「どうなさいましたか?」マネージャーが僕の方に顔を突き出してくる。
「いや、僕は貧乏な学生の旅行者でこんな大金は払えない。第一今日は現金を持ち合わせていないんだ」
「クレジットカードはお持ちですか?」マネージャーの問いかけにハッとした。僕はこの時クレジットカードを持っていたのだが、もしもこの場でクレジットカードを使ったら一体いくら請求されるかわかったものではなかったので無いと嘘をついた。
「それではドルのキャッシュでもトラベラーズチェックでも結構でございます」
僕は悩んだ。あいにくこの時僕のウェストバッグには日本円のトラベラーズチェックがきちんと入っていた。金を払わずに逃げ出す方法はないかと考えたが、どう考えても金を払ったほうが利口なような気がして来た。もはや選択の余地は残されていなかった。「マネージャー、払うにしてもこんな大金では僕には払いようがない」
「そうですか。あなたはトラベラーズチェックはお持ちですか?」
「ええ、日本円のチェックを持っています」
「わかりました少々お待ちください」と言って彼は店の奥に引っ込み、しばらくするとこちらに戻って来てこう言った。
「あなたは学生ということですし、今日はクリスマスということもあるので特別にディスカウントしました。今回は8万円で結構です。しかしこちらもビジネスですからこれ以上はディスカウントできかねます。これがラストプライスです」と最後通告をして来た。

もはや逃場はなかった。ィィィ、なんてついてないんだ。僕はひとしきりマラドーナに悪態をついた後、涙を流しならウェストバッグからトラベラーズチェックを出し、二万円券四枚にサインをした。帰りにネパールによるはずだった計画はこれで泡と消え、名実共にリッチなクリスマスとなった。

来て早々こんな目にあっては、いくら温厚で心の広い僕といえども、この町やここの人達を好きになるなんて出来ない。人から言わせれば身ぐるみ剥がれなかっただけまし、かもしれないが本人にとっては実に大きな問題であることに変わりはない。これでこの後の資金繰りが大分苦しくなってしまった。

僕は次の日すぐにホテルを引き払い、シンタグマ広場の近くのドミトリー形式のホテルに移った。思ったとおりマラドーナは二度と姿を現さなかった。これは後で聞いた話だが、このアテネで僕と同じような目にあった人は結構いるらしい。みんな手口は似たりよったりで、相手はマラドーナだけでなく複数がいるようだ。

この日も相変わらず街はゴーストタウン状態で、しかも嵐のような天気だったので、僕はホテルの汚いドミトリー(相部屋)で野戦病院のような壊れたベッドに横たわったまま泣いていた。ホテルには暖房が無く、コンクリートがむき出しの部屋はひどく寒かった。

その次の日になってようやく町に人が戻って来た。昨日のあの様子を知っている者にとっては、今日のこの人の群れはまるで幻のように思える。この日は帰りの航空券を買うために街中を歩き回ったが、噂に聞いていたとおり安くて良い航空券は手に入らなかった。昔はアテネといえば安売り航空券のメッカと言われていたが、最近はそれほどメリットが無くなってしまって、安く買える航空券の種類が少ない。

どこを回っても安く手に入る航空券はビーマン・バングラディシュ航空かエジプト航空だけだった。値段は日本円で大体七万から八万円といったところで、ピークシーズンに日本で買うよりは安いが、今の時期は日本で買うのとそう大差はない。

結局航空券を買うのも諦め、僕は明日の夜のバスでそのままイスタンブールに向かうことにした。この街はたいした街じゃないくせにやけに物価が高く、食べ物は高い割りにおいしくない。観光名所も多少は見て回ったがたいしたことはなく、特にパルテノン神殿は今修復中で見るも無残な姿をさらしており、ああこれがあのパルテノン神殿かと目をそむけたのだった。

バスはもう来ていた。窓口で手続きをして、重い荷物と悲しみを背にイスタンブール行きのバスに乗り込んだ。乗客はトルコ人が多いようでそれほど混雑していない。ああ、これでやっとこの町とおさらば出来ると思うと本当にせいせいする。

19時過ぎにバスは走り始めた。僕は二度とこの町に戻って来ることの無いことを祈りつつ、冷え過ぎたビールをのどに流し込んだ。

バスが進むにつれ雨粒は次第にその大きさを増し、いつの間に真っ白な雪に変わっていた。激しく降る雪の中でバスはみるみるスピードを落としていく。走り始めて一時間も経つころには辺り一面真っ白となり、バスは吹雪の中をスリップしながらのろのろと進んで行った。いくら冬とはいえ、暖かいはずのギリシアでなんでこんなに雪が降るのだろう。はたしてバスは無事にイスタンブールに着くのだろうか。

4 喧騒の街イスタンブールへ

大雪で一時はどうなるかと思ったが、しばらく走ると雪もやみ、バスは再び快調に走り始めた。一晩中走り続け、朝になってもバスはまだ走り続けた。国境はまだ遠い。窓からは朝の光がサンサンと射込み、乗客の顔は一様に赤く火照っている。

道はどこまでも真直で、窓からの景色は荒涼として単調なので、話相手もないままシートに座り続けているのはとても苦痛だった。目を閉じるとついついクリスマスの晩の光景が目に浮かび、そのことを考える度に胃の辺りがチクチクと痛むので、ザックからトルコのガイドブックを取り出して、イスタンブールについて書かれたページを何度も何度も読み返した。

車内は静かで話声はほとんど聞こえない。エンジンからの音と運転手が流しているトルコの歌謡曲だけが静かに車内を満たしている。僕の横に座っている小さなおばあちゃんは、時折目を覚まして豆のようなものを取り出し、リスのようにポリポリと口に入れるとまた目を閉じてまどろんでいた。

ギリシア時間で11時半頃、バスはやっとのことでギリシアとトルコの国境に到着した。やっとトルコに入れるのだ。国境ではまずギリシア側のチェックがある。バスがボーダーの事務所の前で止まるとギリシアの係官がバスに乗り込んで来た。一人一人のパスポートを回収しながら記載内容と出国カードをチェックして回るのだが、僕は船でイタリアから渡って来る時にギリシアの入国スタンプをもらっていなかった。

クリスマスイブの晩に僕はフェリーでギリシアのパトラスに着いたのだが、係官が乗り込んで来る様子もなく、乗客はどんどん船を降り始めたので、僕もその後について船を降りたのだが、港の構内にはどこにも出入国管理事務所はなかった。人に聞いても一向にらちが明かなく、面倒臭くなったのでそのままギリシアに入ってしまったのだ。

バスに乗り込んで来た係官は僕のパスポートに入国スタンプが無いのを不審に思い、どこから来たのかとか、いつギリシアに来たのかだとかいろいろと質問した。やばい、これは面倒なことになるかもしれないと思ったのだが、ここでも赤いパスポートの威力は絶大だった。係官はしばらく一通りの質問をしたあと、他の人のと一緒にパスポートを片手に抱え事務所へ戻って行った。しばらくして乗客全員のパスポートが戻って来ると、バスはトルコ側のボーダーに向けて走り始めた。

二つの国のボーダーの間は非武装の中立地帯になっている。川を挟んで手前がギリシアで、向こう側が広大なトルコの領土だ。ギリシアとトルコは両方ともNATOの加盟国であるにも関わらず、今でも広い緩衝地帯を挟んでにらみ合っている。

この二つの国は歴史が始まって以来ずっと仲が悪い。お互いに攻めたり攻められたりを繰り返し、現在でもキプロスの問題を火種として抱え、事あるごとに衝突を繰り返している。ECの加盟国であるギリシアと準加盟国であるトルコの間に広がるこの空白の地帯には、完全武装の兵士が実戦体制で警戒に当たっている。ここにはフランスドイツとのボーダーにあったお気楽さはどこにもなく、国境の持つ緊張感ときな臭さを辺り一面に漂わせている。

トルコ側のボーダーにバスが到着すると、乗客は全て下ろされて入国チェックを受けに事務所へ向かう。パスポートコントロールは簡単で、何も質問されずにいとも呆気なくパスポートに入国スタンプを押してもらった。ここは標高が高いために寒く、地面はカチカチに凍り付いている。

バスに積まれている乗客の荷物をチェックした後、バスはいよいよイスタンブールに向けて走り出した。道はまたひたすらまっすぐで、景色はただ荒れた大地が続くのみ。僕は窓の景色を眺めるとは無しに見つめ、頭の中に浮かんでは消える風景に思いを巡らせていた。

三時過ぎにバスは海沿いの街に到着した。テキルダアという比較的大きな街で、バスの乗客はみんな昼食を取るためにドライブインに入って行った。トルコで初めて入るロカンタ(食堂)だ。

本場のトルコ料理を食べるのはこれが初めてだったが、それまでにも僕がドイツにいるときには、随分とトルコ料理のお世話になった。知っての通りドイツには出稼ぎのために来ているトルコ人がとても多い。ドイツの大きな街でならどこでも彼らを見ることが出来るし、駅の裏手などにトルコ人街がある所も多い。こういった所には地元のトルコ人向けの食堂が多く、安くてスパイシーでおいしい。しかもトルコ人向けに量もたっぷりあるので、ドイツのソーセージとパンに飽きると四ドイツマルクのドネルケバブを買って昼食にすることがよくあった。

トルコの食堂のシステムは慣れない外国人旅行者にとってはとても有難い。ここでちょっとトルコでの食事の仕方を紹介しましょう。

まず入口を入ります。すると普通は入口のすぐわきにガラスのショーケースがあり、その中に羊のトマトソース煮込みだとかキョフテ(羊のミニハンバーグ)といったメインディッシュと、サラダやピラウ(ライス)、それにデザートが整然と並べられてこちらを出迎えてくれます。トルコでの食事には欠かせないチョルバ(スープ)も何種類かが鍋の中で出番を待っています。

トルコ語が全く話せなくても心配はいりません。極端な話、日本語だけでも料理を注文することが出来ます。食べたい料理、例えばキョフテのトマトソース煮込みを指差してから人差し指を一本立てて(間違っても中指を立ててはいけません)「これを一つちょうだい」と日本語で言えば、よほどの事がないかぎりロカンタの親父さんは料理を皿に盛ってくれます。

他にも欲しいものがあればそれらを同じ様にして注文し、最後に飲物を頼んで全てOK。フカフカでおいしいフランスパンはテーブルの上に置かれていて、これはいくら食べてもただです。無くなったらパンの入れ物を指差しながら「パンちょうだい」と言えばすぐにおかわりを持って来てくれます。

食事が終わると店の人が「チャイ イスティヨルスヌス?」と聞いてきます。「食後のお茶を飲みますか?」という意味です。わからなくてもとりあえずうなずけば近くのチャイハネ(チャイ屋さん)から小さなガラスのグラスに入ったチャイを持って来てくれます。基本的にこのチャイはお店のサービスで代金は取られませんが、外国人の場合は取られることがよくあります。

チャイが飲み終わったら次が一番の問題です。会計が待っています。ここまで全て日本語で通してきた人は間違いなくぼられます。と言っても心配することはありません。ぼられると言ってもインドのように十倍二十倍もぼられることはなく、せいぜい普通の五割増しの料金を取られるぐらいです。

ここでも日本語で通そうとなるとちょっと面倒ですが、左手の手のひらに右手で字を書く真似をしながら「いくら?」と聞けばわかってくれるでしょう。しばらく何事か計算した後、普通より五割増しくらいの金額が書かれた伝票を持って来てくれるでしょうから、「高いなあ」と言いながらお金を払えばそれで終わりです。

このようにトルコでは多少ぼられるのを我慢すれば誰でも簡単に食事が出来ます。ヨーロッパのようにメニュー前にして散々悩んだあげく、思惑とは全く別の皿が運ばれて来て悲しい思いをすることはここではありません。

ぼられるのはいや、という人はそれ相応の努力が必要です。まず数が数えられる必要があります。一から二十までと百、千、万の言い方がわかればとりあえず大丈夫です。それと注文するときに使う、「これちょうだい」の意味の「ブ イスティヨルム」「一つ」の意味の「ビル タネ」、「いくら?」の意味の「ネ カダル?」。これに「こんにちは」の「メルハバ」が加われば十分です。これだけ使えれば、もうぼられることはありません。同じ店に何度も通って顔なじみになれば、きっとおまけしてくれることでしょう。

今だから大きな顔をしてこんな事を言えるが、この時は僕もなにも知らない一人の旅行者だったので、中に入ったものの一体どうやれば良いのかよくわからなかった。仕方がないから今までと同じように前の人を真似ていくつかの料理を取り、テーブルでパンと一緒にむさぼり食べた。なにしろ朝からほとんど何も食べていなかったので、初めて食べる本場のキョフテの味はやさしく口の中一杯に広がった。「ああ、やっとトルコに入ったんだ。これで毎日うまいものが食べられる」と心の底からほっとしたのだった。

午後五時半。こちらの予想に反して、予定の時間にバスはイスタンブールのトプカプガラジ(トプカプ・バスターミナル)に到着した。陽はもう既に暮れてしまっていて、暗い中にたくさんの人とバスがひしめき合っている。下は雨でぬかるんでいて歩きにくい。

大型バスがたくさん停まっている一角を抜けると、暗い中をたくさんのトルコ人がうじゃうじゃと、それこそ顕微鏡で自分の血液を見てるかのように歩き回っている。その人の群れの中を、大型の観光バスやドルムシュと呼ばれるマイクロバスのような乗り合いタクシーが、草原をかき分けるように動いている。あまりのエネルギーに僕はめまいを感じた。ああ、やっとアジアに帰って来たんだ。

あまりうろうろしていても仕方がない。もう陽も暮れてしまっているので、早いところ今夜泊まる所を探さないといけない。早くしないといけないと思いつつも、このバスターミナルが一体どうなっていて、市内へ行くバスがどこから出ているのかさっぱりわからない。なにしろ規模が大きいうえに暗くて人が多くて混沌としているので、市内バスが止まっている所を見つけるまでに一時間以上かかってしまった。

そこまでたどり着くのも大変で、いろいろな人に聞いてはみるが英語が話せる人がなかなかいない。やっとの事で場所を教えてもらってもそこまでたどり着けない。何とかしてそこにたどり着き、目的地であるスルタンアフメット地区へ向かうバスの番号を尋ねたのだが、トルコ語がわからないからその番号がわからない。仕方無く紙に番号を書いてもらったところこれが読めない。同じアラビア数字のくせにこちらとは書き方が違うので、それが八十四だと判明するまでまた他の人に聞かなけらばならなかった。

僕はここイスタンブールにたどり着くまでの五ヵ月間、ヨーロッパをあちこち回って来たのだが、そこで得た経験はここでは何の役にもたたなかった。アジアとヨーロッパでは、同じ地続きとはいえあまりにも勝手が違う。

イスタンブールでのとりあえずの目的地であるスルタンアフメット地区は、近くにアヤ・ソフィアやブルーモスクといった超有名な観光地があり、旧市街の中心的エリアだ。イスタンブールの観光はまずここから、といわれている地区だし、スルタンアフメットのいくつかのホテルについて情報をもらっていたので、僕はここへ向かうことにしたのだ。

初めての国の初めての街に夜着いてしまうと非常に心細くなる。一応はガイドブックも地図もあるのだが、なにしろこの国の仕組みもこの街の様子もわからないから、はたして目的のスルタンアフメット地区がどの辺なのかさっぱり見当がつかない。

市内へ向かうバスはかなり混雑していた。僕は降りる場所を見定めようと、必死になって地図を見ていたが、この暗い中では窓の外の様子がよくわからない。思っていたよりも大きな街だ。道路は比較的広く、そこに乗用車やタクシーやバスやドルムシュやトラックがひしめき合って走っている。胸がわくわくするのと同時に、何かこう締め付けられるような不安感に襲われる。

結局バスはスルタンアフメットを通り過ぎ、僕は終点のシルケジ駅まで行ってしまった。車内でドイツ語が話せる人を見つけて、その人に「僕はスルタンアフメットまで行きたいんだけれど」と言っておいたのだが、どうもうまくこちらの意志が伝わらなかったらしい。そこから地図を頼りにスルタンアフメットへ歩いて行った。この辺りは人通りが少なくてちょっと不安になる。

ホテル メリッヒ。本当は前に友達から紹介されたメリッヒUというホテルに泊まりたかったのだが、あいにくシングルがふさがっていたのでここを紹介されたのだ。 客は僕の他にはルーマニア人の女の子が三人。何か訳ありな感じであまり多くは聞けなかった。あとトルコ人らしき男が四人ほどいたが、誰がホテルの人間なのかはよくわからなかった。部屋には暖房がないのでものすごく寒いのだが、とりあえず寝る所が見つかっただけでも良しとしよう。明日はいよいよ大晦日。激動の年もとうとう終わりだ。

5 エリット リハビリテーションセンター

次の日の朝、つまり大晦日の朝、僕はホテル メリッヒを後にして、イスタンブールでの日本人の溜まり場として名高いホテル エリットへ向かった。普通の人にはあまり知られていないことだが、世界には日本人の溜まり場と呼ばれているホテルがあちこちにある。ほとんどの国に一つはあると言っても良い。さすがにアフガニスタンとか北朝鮮とか、個人旅行者があまり行かない国にはないようだが、インドはもとよりルーマニア、エジプト、ネパール、香港、イランなど一々数え上げていたらきりがないくらいだ。

エリットもそのうちの一つ。こういうところは他のホテルに比べて圧倒的に日本人の宿泊客の比率が高い。もっともこれは何も日本人に限ったことではなく、イスタンブールにはドイツ人の溜まり場やオーストラリア人の溜まり場になっているホテルもある。こういう所では自分の言葉で話をしたり情報を交換できるので、個人旅行者にとってはとても便利なのだ。

僕がこのホテルを選んだのに特別な理由は無いが、正月ぐらいは日本語で暮らしたいという気持ちがあったのは確かだ。それまでの生活で日本語を話さない毎日には大分慣れて来たのだが、さすがに英語で何不自由無く暮らせるわけではないのでどうしてもストレスがたまってきてしまう。

このホテルは比較的小さなホテルで全部で十部屋ほどしかない。僕は一階にあるドミトリーに入ることになった。六畳ぐらいの広さの部屋に二段ベッドが三つ置かれた六人部屋で、こう言ったら失礼だが恐ろしく狭くて汚い。しかし僕は少々弱気になっていたので黙ってここの一員になることにした。一泊約五百円とイスタンブールのホテルとしてはかなり安い。こんな所に全部で一ヶ月も住むことになろうとは、この時は夢にも思わなかった。

大晦日のイスタンブールはとても騒々しい。ただ、まだここに来たばかりなので、師走だからこんなに騒々しいのか、それともこれが普通の状態なのかはよくわからなかった。

この街は全体としてなんとなく薄汚れた感じがある。車がとても多いので道路はかなり排気ガス臭く、空気が乾燥してるためかとてもほこりっぽい。環境としては東京に匹敵する空気の悪さだ。

僕は友達からの手紙を受け取るために、イスタンブールの新市街にある日本領事館へ向かった。イスタンブールは黒海とエーゲ海を結ぶボスポラス海峡に面した街で、海峡を挟んでヨーロッパ側とアジア側に分けられる。僕が今いるこちら側がヨーロッパで、ボスポラス大橋を渡って対岸へ行けばそこはアジアの始発点だ。二つのイスタンブールを結ぶボスポラス大橋は、文字通りヨーロッパとアジアの架け橋になっている。もっとも個人的な感想としては、ヨーロッパ側のイスタンブールもヨーロッパの一部と言うよりは完全にアジアの一部という気がしたのだが。

ヨーロッパ側のイスタンブールは更に金角湾を挟んで新市街と旧市街に分けられる。イスタンブールの街としての機能のほとんどはヨーロッパ側に集中しているのだが、その中でも特に新市街の方に主だった都市機能が集まっている。大使館や銀行の本店、企業の本社やヒルトンなどの豪華ホテルなどは、そのほとんどが新市街の一等地に居を構えている。

一方旧市街側には有名な観光地が集中している。主なものだけでもトプカプ宮殿、ブルーモスク、アヤ・ソフィア、グランドバザールなどがある。これらはイスタンブールに来た人なら絶対に訪れる観光地で、この他にも地下宮殿やカーリエ博物館を初めとする様々な名所が観光客を待ち構えている。

旧市街のスルタンアフメット地区はこれらの名所が集中するイスタンブールの観光的中心地で、僕はその真只中に泊まっているわけだ。この地区は観光客が多いので少々物価が高く、住んでいる人間もほとんどが観光客慣れしているためか、すれているトルコ人が多い。時として疲れる思いもするのだが、なんと言ってもイスタンブールの面白さを味合うには一番の場所だ。

ここから新市街に歩いて行こうとすると、新市街と旧市街を結ぶ橋の一つであるガラタ橋を渡ることになる。この橋が実にイスタンブール的な面白い場所で、僕は用が無い時でも暇になるとついここに来てしまう。

この橋は上下二層構造になっていて、上の階は四車線道路を挟んで両側に歩道がある普通の橋なのだが、下の階にはたくさんの小さな食堂が水面すれすれに軒を連ねている。この橋自体が一つの観光名所になっていて、下の食堂街を冷やかしに来た観光客と、彼らを店に引っ張りこんで少しでもぼったくろうとするトルコ人との間で、日夜ホットな戦いが繰り広げられている。

橋の欄干では平日の昼間だというのに、男達が釣糸を垂らしてわかさぎのような小魚を釣っている。その数は十人や二十人ではきかず、約五百mの橋にそれこそ鈴なりになっている。そして彼らに釣り道具一式をレンタルする釣り道具屋を初めとして、その場で賞金のもらえるスピードクジ屋、水で火のつくマッチ屋、レモンにブスッと差し込んで握るだけでフレッシュジュースが作れる道具屋などの怪しげな男達がうごめいている。通行人も暇な人が多く、こういった路上商売人が口上を述べ始めるとたちまち人垣が出来るので、僕もついついそこに首を突っ込んでしまう。

彼らが売っている物のほとんどは、ちゃちで実際には役に立ちそうも無いような物ばかりなのだが、彼らの流れるような口上や、商売道具を扱う手付は完全にプロの商売人のそれで、見ている男達の子供っぽい部分を妙に刺激してくる。観光客以外の女性がこういった人垣に首を突っ込むことはまず無く、男ばかりの集団の眼は妙に輝いて見えた。

朝から降っていた雨はいつの間にか雪に変わっていた。雪の粒は気持ち悪いほどに大きく、水気をたっぷりと吸って重いため空から一直線に猛スピードで落ちて来る。激しい雪の中で僕の体はたちまち真っ白になってしまった。

思えば今年は吹雪とそれに続く雨で始まったのだが、どうやら一年の締めくくりは雨と重たい雪で終わりそうだ。どうも初めと終わりがあまりにもビシッと決まり過ぎていてなんだか気持ちが悪い。もっともその時はそんな事は全く頭には無く、雪のせいできつい坂道が滑って登れず、道がわからなくなってヒーヒー言っていたのだ。

新市街は全体的に小高い丘のようになっている。ガラタ橋を渡って新市街の中心地へ向かおうとすると、かなり急な坂道を十分ほど登り詰めないと新市街の中心である坂の上にはたどり着けない。
 この丘の上と下を結ぶ交通期間にはチュネルと呼ばれるケーブルカーがある。ガイドブックにはこのチュネルの事をヨーロッパで最古の地下鉄と書かれてあるが、実際にはイタリアにあるフニコラーレと同じく地下を走るケーブルカーだ。

ガラタ橋の脇にある駅でジェトンと呼ばれるコインを買い、それを改札口に入れてケーブルカーに乗り込む。坂道を上がるのはかなりの重労働だが、こいつに乗ればあっという間に坂の上にたどり着くことが出来る。着いた所はイスティクラール大通り。歩行者天国になっている新市街のメインストリートで、石畳の道に昔懐かしい路面電車がのんびりと走っている。

この通りはイスタンブールでもっとも華やかな場所の一つで、この通りだけ見ればまるでヨーロッパのどこかの街にいるような錯覚を憶える。いわばイスタンブールの銀座で、イスタンブールでも一、二を争う高級ブティックがひしめき、トルコの物価から考えると目玉が飛び出るような値段の商品を、客を品定めする冷やかな目つきと共に売っている。

この通りの華やかさに引換え、そこから一歩裏通りに入ると途端にうらさびれた怪しい雰囲気になる。キャッチバーや売春婦を置いたホテル、そして百軒近い売春宿を抱えた公認の娼婦街が、イスタンブールの陰の側面を形作っている。イスティクラール大通りを歩いていると、時々ふらふらとこういう所で働いている奴らが声をかけて来ることがある。

彼らはまず「すいませんが今何時ですか?」と聞いて来る。
「えーっとねえ、今十一時二十分です」とか答えてやるが彼らは時間なんて聞いてはいない。すぐに
「あなたはどこから来たのですか?」
「日本からだけど」
「いやあそうですか、日本、良いですねえ。実は私の妹が今日本に留学しているのです。どうでしょう、この近くで私の友達が新しい店をオープンしたのです。これから開店祝いに行くところなのですが、良かったらあなたも一緒にどうですか?」とか何とか言って裏通りのキャッチバーに連れて行く。

この手のポン引きに引っ掛かる人は結構多い。ビール一本飲んで五百ドル請求された人とか、店内に無理矢理連れ込まれて金を払うように脅され、空手の真似をしながら店内で暴れて逃げて来た人などの話が噂で入ってきた。

僕はさすがにアテネの件で懲りていたので彼らには一度もついて行かなかった。この他にも売春の斡旋屋などもいて、道を歩いているとスススッと横に忍び寄って来て、「兄ちゃん、女いらんか?ターキッシュガール ベリーグッド。ラッシャンガールもロマニアガールもいるよ」と小声で話し掛けて来る。僕がいくらいらないと言ってもこういうことに関してトルコ人はじつにしぶとい。一度など僕はずっと無視し続けたのだが、坂の下からタキシム広場までの約二qの間、ずっと「ドゥー ユー ウォント ガール?」と言いながらついて来た男がいた。

イスティクラール大通りの賑わいの中をずっと進むと、目の前に大きな広場が見えて来る。ここがイスタンブールの新市街の中心とも言うべきタキシム広場だ。周りには大きなビルが立ち並び、マクドナルドやピザハットが軒を連ねている。この辺りの雰囲気もちょっとトルコという感じがしない。

問題の日本領事館はここから少し坂を下ったところにあるのだが、今日はすでに正月休みに入っていて、残念ながら手紙を受け取ることは出来なかった。さっきあんなに雪が降っていたのに、今はもう青空が見えている。ほこりっぽさが少し洗い流されたようだ。

ホテルに戻って来ると、三々五々日本人が地下のロビーに集まって来た。このホテルの地下は二十畳ほどのスペースがあり、半分は主に絨毯を売るための商談の場所として使われている。

このホテルはホテル経営の他に、アンティークを中心にした比較的高価な絨毯を売っているのだ。そして、階段を降りた正面はフリースペースになっていて、このホテルの経営者の一人である日本人の千鶴子さんが寄付してくれた日本語を中心とした本が並んでいる。日本人旅行者の憩いの場だ。

このホテルにこの時期泊まっている日本人は、どちらかというとちょっとエキセントリックな人が多いようだ。このホテルは小さいので、ツアーでトルコに旅行に来た人はまず泊まらない。どういう人が泊まるのかと言えば、ほとんどが個人旅行者、あるいはせいぜい二人組で、集団で来ている人はいない。

日本から直接トルコに来た人もいるが、他の国を経由してここに来たという人が多い。世界中をあちこち回っている長期旅行者、いわゆる旅屋さんも何人か泊まっている。

今朝このホテルに着いて僕が入るドミトリーを覗いたら、昨日のバスで一緒に乗っていた人がベッドで寝ていた。彼は同志社大学の学生で、今は休学中の身だという。彼はアジアゴールデンルートを通ってここまでたどり着いたらしい。アジアゴールデンルートとは僕が勝手に名付けたもので、日本から鑑真号に乗って船で中国に渡り、そこから陸路を延々と西に向けて移動して行く。中華人民共和国に西のはずれ、シルクロードの街カシュガルから四千m以上のカラコロム峠を越えて、フンザ経由でパキスタンに入る。パキスタンからアジアハイウェイを西へ進み、イランを経てトルコに入るというルートだ。

このコースは思ったよりもメジャーなコースのようで、昔から数多くの旅人達がシルクロードを通ってヨーロッパを目指したらしい。格安航空券が出回る以前、安くヨーロッパへ行くためにアジアの国々を巡って西へ向かうこのコースは、シベリア経由と並んで重要な交通路だったようだが、航空券が安く手に入るようになった今ではそれ自体が手段というよりは純粋に目的になってきているようだ。

昔も今もアジアフリークスというのは絶えることがなく、そんなフリークス達にとって中国、パキスタン、イランとアジアの国々を駆け抜けるこのコースは、飛行機で一直線に飛んでしまっては決して得られない刺激を提供してくれることになる。何年か前までは中国からチベットを通り、ネパール、インドを経由してパキスタンに抜けるというコースもあったが、現在はチベットに個人で入れない状態なのでこのコースでインドに抜けるのは難しくなっている。

ゴールデンコースを通ってやって来た彼は、ここにたどり着くまでにいろいろと面白い目にあっていた。日本を出てからすでに五ヵ月近いという。彼に見せてもらったカシュガルやフンザの写真はとても美しかった。荒涼とした大地の向こうに深い蒼色をした湖が静かに横たわり、空の色は冬山で見たのとそっくりの、まるで宇宙の底を覗かせているような蒼黒い色をしていた。

シルクロードというのはどうも日本人の心を揺り動かす何かを持っているらしい。

僕が昔テレビで見たカシュガルの風景は、今でも鮮明に心の奥に焼き付いている。テレビに映し出された顔はトルコ系の顔だちが多かった。女性が子供からおばさんまで誰もがみんな美しいので、しばらくは「ボーッ」とテレビの前に釘付けになってしまった。
「シルクロードは本当、良い所でしたよ。人は親切でしたし物価は安いし。それに結構日本人の旅行者が多いみたいで、日本語が話せる人もあちこちにいましたよ。あそこにはまた行きたいですね」
「フンザはどうだった?」
「あそこは天国です。まるで夢の国ですね」
「どんなところが?」
「周りをずっとヒマラヤの山々に囲まれているんですよ。白い山にぐるっと。それでその中に小さな町があって、そこだけ緑が多くて果物がたくさんなっていて。桃源郷っていうのはきっとああいう所を言うんですね」
「うーん、いいね。いつかは行きたいね」
 うん。いつかは行ってみたい。実際にそこを見て来た人の話というのは、やっぱり間接的なメディアよりもずっと説得力がある。

同志社大の彼も比較的長期旅行者だが、エリットに泊まっている中にはもっと上手がいた。彼らは英語で言うグローブトロッター。日本語ではいわゆる旅屋さんだ。もっとも一般的には放浪者と言われているようだが。

エリットで会った中で一番長い間旅行している人は、大久保さんという二十六歳ぐらいの男性だ。彼は日本を出てからすでに二年半が過ぎているという。初めはイギリスに渡り、ロンドンの運送屋で日本人相手の引越し屋をやって金を稼いでいたそうだ。「ロンドン?大っ嫌いだよ。あの街。もし世界中のどっかの街に水爆落としても良いって言われたら、俺は間違い無くロンドンに落とすね」と言っていた。ロンドンでは随分苦労したらしい。

驚いたことに、彼は二年半も旅行を続けているというのに、いまだに飛行機には乗ったことがないのだという。ちなみにヨーロッパまではシベリア鉄道で入ったそうで、それからも頑なに飛行機は使わないでいるらしい。ヨーロッパ中をぐるぐると回っているそうだが、最近は主に東欧諸国に入れこんでいるらしい。
「大久保さん、これからの予定は?」と尋ねると
「そうねえ、とりあえずしばらくはここで日本語のリハビリテーションをして、年が開けたらハンガリーへ戻るよ。ブタペストの温泉でしばらくのんびりとね、お湯につかってイスタンブールでの疲れを癒すことにするよ」
「日本にはまだ帰んないんですか?」
「うーん。まだわからないけど、たぶん一年ぐらいしたら帰ると思うよ。ただ問題はどうやって日本に帰るかって事でね。また鑑真号に乗るのも芸が無いし」
「やっぱり飛行機には乗らないつもりですか?」
「だってさ、あんなもんが空飛ぶのって理屈ではわかってたって、なんか生理的に受け付けないもんがあるよ。なんか気味が悪くって乗る気しないね」と言っていた。

ブタペストに疲れを癒しに行くと言っていたわりには、イスタンブールでの彼の毎日は僕ですら驚くほどスローペースだった。年が開けてからも彼はほとんど一日中エリットでごろごろしていた。昼頃にのそのそと起きだしてきて、飯を食った後はのんびりと地下で日本の本や雑誌を読んでいた。なるほど

長期旅行者にはこういう場所が必要なのだな。なんだか現代の旅人のオアシスのようだ。

彼の他にもオーストラリアでしばらく働いた後、インドや中近東の国々を巡って、これからイスラエルで働こうというカップルや、旧ソ連でワイロをフルに駆使しながら渡り歩いた牧場の息子など、実にバラエティーに富んだ旅行者がここを通り過ぎて行った。

今日は大晦日なので一年分の垢を流そうと思い、同志社大の彼と一緒に近くのハマムへ出掛けた。ハマムというのはいわゆるトルコ風呂の事で、ソープランドの古い呼び名だったトルコはこのハマムが名前の由来になっていたようだ。しかし正統派のトルコ風呂というのは日本のとは違って女性のサービスは一切無いし、形態もその社会的意味付けも全く違う。

ハマムというのは単なる風呂ではなくて、トルコ人にとって一種のみそぎの場になっているようだ。結婚式の前や軍隊に入る前など、体を清めるために垢を擦り落とすのがその目的だった。自分で垢を擦る人もいるが、一般的にはハマムお抱えの垢すりのおじさん、あるいはおばさんに体をゴシゴシと擦ってもらい、時にはマッサージもしてもらって心身をリフレッシュしようというものだ。どちらかというと日本のサウナに近い。

僕らが行ったのはスルタンアフメットから少しはずれた大通り沿いのハマムで、ここはどちらかというとトルコ人向けの正統派ハマムだ。ここの手前には「トラディショナル ターキッシュバス」という看板を掲げたツーリスト向けハマムもあるのだが、ここはやたらにぼるともっぱらの評判なので、僕らは安い庶民派ハマムを目指した。

入口を入るとそこは大きなホールになっていて、おじさんがストーブを囲んで世間話をしている。僕らは入口のカウンターで料金を払い、壁際の更衣室で服を脱いでタオルを腰に巻き付け中へ入った。

トルコ人は男同士といえども、人前では絶対に全裸にはならない。ヨーロッパ人はこの点に関しておおらかで、ユースホステルのシャワールームなどは仕切が全く無くて、みんなすっ裸でシャワーを浴びているのが普通だが、トルコでそんな事をしたらおもいっきりひんしゅくを買ってしまう。銭湯ではお互いにすっ裸で、見知らぬ人間が一緒の湯船につかってしまう日本人は注意しないといけない。

浴室の入口には大きくて重い扉が二重に付いている。そこをくぐると中は一面真っ白な蒸気に覆われている。江戸の銭湯と同じ蒸風呂だ。まるでモスクの内部のように広いホールで、天井はモスクと同じようなドームになっている。ホールの中央には大きな大理石のテーブルがしつらえられていて、下から蒸気でホカホカと温められている。壁際にある洗い場で体を洗い終わった人は、このテーブルの上に寝そべってゆっくりとくつろぐのだ。

僕はセルフサービス、つまり手洗いで自分の垢を擦りおえ、大理石のテーブルに横たわっていた。壁の方に目をやると数人のトルコのおじさん達が洗い場で念入りに体を洗っている。誰も見ていなくても腰に巻き付けたタオルははずそうとしない。寝ていると室内に立ち込めた蒸気と下からの熱気でどんどん汗が吹き出して来る。

熱気でぼーっとした頭の中に、この一年で出会った様々な光景が目の前をよぎっていった。金を稼ぐために始めたバイク便のアルバイトで、雨の高速道路を必死になって走っていた時に体を打ちのめした冬の雨。エアコン取付のバイトでコンクリートの天井にボッシュのハンマードリルで穴を開けている時に、全身に降り掛かってきたコンクリートの白い粉。出発前夜の家族の顔。ドイツのドルトムントという街で日本人の留学生の家に泊めてもらっていた時の彼らの結婚式の様子。トリアーというルクセンブルグに近い街で病気にかかって入院していた時、同じ病室に寝ていたおじいさんの顔。色々な街の美術館で見た絵の数々。ミラノで再会したの女の子と一緒に行ったレストランのメニュー。あまりうまく行かない一年ではあったが、たくさんの人から色々なことを教えられた一年だった。長かった舞台はやっとその幕を下ろそうとしていた。

ホテルに戻って来た僕らはエリットに泊まっている日本人のおじさんから頂いたラクを飲み始めた。ラクは中近東に多いお酒で、ギリシアではこれと同じものがウーゾと呼ばれている。元々は透明な蒸留酒なのだが、コップに注いで水を加えるとあっという間に白濁する。中には香草が含まれているようで独特の香りがあり口当たりが良い。日本人には余り受けが良くないが、僕はとても好きな酒だ。ただ口当たりが良いので気を付けて飲まないと、飲み過ぎてあっという間に酔っ払ってしまう。

汚いドミトリーでラクを飲みながら二人でなんやかんやと話をしていたのだが、ふと騒々しいのでドアを開けてみると廊下で大久保さんが大声でわめきながら踊っていた。彼もかなり出来上がっているようだ。一応はこのホテルの従業員であるアンクルデヴィ達も、テレビから流れるトルコの歌謡曲に合わせて踊っている。

ふと時計を見ると時間はもうすでに夜中の三時になっていた。

「明けましておめでとー!」と叫び、デヴィと一緒にしばらく踊った。いつの間にか1992年になってしまっていた。なんだかよく訳がわからないうちに年が明けてしまうというのは、日本人としてはなんとも言えない居心地の悪さがある。
「ま、とにかくお互いに良い年にしましょう」と誰かが僕の肩を叩いた。テレビではにぎやかなトルコ版紅白歌合戦が続いていた。

6 温泉! 温泉!

イスタンブールの観光名所を回ったり、日本に帰るためのチケットを手配するために駆けずり回っているうちに、いつのまにか二週間が過ぎてしまっていた。元旦に一緒に過ごした日本人達は一人残らず他の国々、あるいは日本に旅立ってしまい、僕がエリットで唯一の長期滞在者になってしまった。

イスタンブールという街は非常にたくさんの見るべき所があるうえに、街中にアジア的な面白さが氾濫しているので、いざ他の所へ旅立とうと思ってもなかなか腰を上げることが出来ない。そのうえ毎日同じような所をぶらつき、同じロカンタで食事をするものだから、次々とたくさん人と顔なじみになってしまい、また一層腰を上げるのが困難になっていく。

それでも一月の十三日、ついに僕は重い腰を上げ,イスタンブールの南に位置するブルサという街に向けて出発することにした。ブルサはイスタンブールから比較的近い観光地で、温泉とスキー場で有名な所だ。

イスタンブールには長距離バスターミナルが二つある。一つは二週間前にギリシアからやって来た時に降り立ったトプカプガラジで、もう一つはボスポラス海峡の向こうのハーレムという所にあるハーレムガラジだ。スルタンアフメットからトプカプガラジまでは、普通ならバスで二十分もあれば着くのだが、朝は渋滞がひどくて倍の四十分もかかってしまった。

オトガル(バスターミナル)に着いてブルサ行きのバスを探そうとすると、バス会社の客引きが次から次へとやって来て
「あんた、どこへ行くんだ」と声をかけて来る。僕が
「ブルサに行きたいんだけど」と答えると
「そうか、それならついて来い」と言って彼はどんどん歩き、今まさに出発しようとしているバスのそばに連れて行き
「このバスはブルサ行きだからこれに乗れ」と言って僕をバスに押し込んだ。

慣れない旅人にとって、このトルコ流のバスの乗り方は初めはちょっと戸惑ってしまう。まずオトガルに着いた途端、砂糖に群がる蟻のように集まって来るバス会社の客引きの群れ。ある程度場数を踏んで経験を積まないことには、どうしても相手の勢いに圧倒されてしまう。対人恐怖症の人だったら間違い無く恐怖感を憶えるに違いない。

しかし何度か長距離バスを使っているうちに、このトルコのバスの便利さ、有難さが身にしみてわかるようになって来る。客引きにしても、慣れるとこれほど便利なシステムは無い。オトガルに着いて、客引きにこれから行きたい所を言えば、彼が一番早い時間のバスまで連れて行ってくれる。もしもその客引きのバス会社が目的地まで走っていなければ、そこまで行けるバス会社の所に連れて行ってくれる。時刻表を気にする必要も、苦労して切符を手に入れる苦労もここには無い。

長距離バスはトルコ全土をくまなく結んでいる。鉄道はあまり発達していなくて、大都市の近郊を除いては全く使い物にならないのだが、バスでならトルコの東のはずれから西のはずれまで直接行くことも出来る。

トルコの道路は全体的にそれほど良くないのだが、それもヨーロッパと比べたらという話で、幹線道路はほとんどがきちんと舗装されているし、イスタンブールやアンカラなどの大都市の周辺には高速道路も整備されている。

道路がお粗末な分、バスの車内でのサービスは良い。現在バス会社はどこも過当競争気味なので、競争に勝ち残るためにお互いにサービスで競い合っている。その結果使われているバスが実に良い。トルコという国のイメージからは信じられないような豪華なバスが、昼も夜もひっきりなしにトルコ中を駆け巡っている。

僕がトルコを回っている間、一番多く目にしたのはメルセデスベンツの〇三〇三というバスだった。日本でいう観光バスに当たる車両なのだが、日本でそこいらを走っている観光バスよりも、ずっと乗り心地が良いし静かだ。この他に三菱のマラトンと言う大型バスを使っている会社や、さらに豪華な二階建バスを路線バスとして走らせている会社もあった。

バスに乗り込むと車内でも色々なサービスがある。バスには必ず車掌が乗っている。トルコはイスラム社会なので残念ながら女性の車掌というのはいないのだが、彼が乗客に対して色々と世話を焼いてくれる。

バスが発車するとまずコロンヤという香水のようなものを乗客の手にまいて回る。客はその手をまず鼻の所に持って来て香りを嗅ぎ、次に手を洗うようにしてコロンヤで手を清める。バスの車内にはコロンヤの甘い香りがさっと広がる。何度かバスに乗っていると、いつしかこのコロンヤが無いとバスに乗った気がしないようになってくる。

車内にはミネラルウォーターが備え付けられていて、頼めば車掌がいくらでも持って来てくれる。車内はもちろん冷暖房完備で、長距離のバスにはビデオ付きのテレビが付いていることもある。これで料金が丸一日乗っても千五百円から二千円ぐらいなのが嬉しい。

僕が乗ったバスはとりあえずブルサに向けて走り始めたのだが、乗客は定員の半分くらいといった感じだった。このままブルサまで走ったのではバス会社は赤字になってしまう。

と、いうわけで車掌は走りながら客引きをするのだ。バスがバス停の近くや大きな交差点など、大きな荷物を抱えた集団が固まっているそばを通り掛かる度に、車掌は後ろのドアを開けて身を乗り出し
「ブルサ!ブルサ!ブルサ!」
と大声で叫ぶ。僕は「こんな事やって客が集まるのかなあ?」と思いながら見ていたのだが、予想に反して途中から乗り込んでくる人が結構いる。オトガルから離れた郊外に住んでいる人などは、わざわざオトガルまで行くまでもなく、こうして家の前でバスをヒッチハイクすれば良い。トルコのバスは全線自由乗降なのだ。乗るのと同じく降りるのも比較的自由で、この先の交差点で降ろしてくれと頼めばそこで止めてくれるし、場合によっては少し遠回りして家の前まで横付けしてくれることさえある。

しばらくすると、いつのまにか車内はほぼ満員になっていた。イスタンブールを出て一時間半も過ぎたころ、バスはマルマラ海を渡るフェリーの乗り場に到着した。ここからバスはフェリーでマルマラ海を横切り、対岸からさらに奥に入ったブルサを目指す。マルマラ海はまるで湖のように静かだった。バスの乗客はそんな静かな眺めなどまるで眼中に無いような様子で車内でじっとしていた。

フェリーが対岸に到着するとバスは再び走り始めた。ほこりっぽい街をいくつも通り過ぎ、月の表面のような丘陵地帯をしばらく走ると、目の前に突然大きな街が現われてきた。ここが「緑のブルサ」だった。

乗客がみんな降りるのでここがブルサに違いないとは思ったのだが、オトガル周辺のイメージがあまりにも「緑のブルサ」とかけ離れていたので念のために運転手に聞いてみた。しかし、たしかにここがブルサだった。緑の街というわりには、随分とごみごみとしてほこりっぽいので、なんだか裏切られたような気になってしまう。

歩き回るのは後回しにして、とりあえずホテルを探すことにした。ここでの一番の目的はなんと言っても温泉なので、温泉の湧いているチェキルゲという地区へ向かうことにする。

チェキルゲは街の中心から二qほど離れているのでバスで向かおうとしたのだが、初めての街ではどのバスがチェキルゲへ向かうのかよくわからない。ガイドブックにはチェキルゲに向かうバスの乗り場が書いているのだが、残念ながらこういう場合ガイドブックはあまりあてにはならない。
しばらくはバスを探して右往左往していたのだが、結局自分の力ではどうしようもないので、近くの人に行き方を尋ねることにした。バス乗り場にいた地元のお兄ちゃんにチェキルゲ行きのバスを聞くと
「じゃあ俺について来い」
と言って彼はずんずん歩きだした。

バス乗り場では彼の友達が待っているようなのだが、彼はそんな事はお構い無しといった感じで歩き続け、五分ぐらい歩いただろうか、道端でドルムシュをつかまえ「これに乗ればチェキルゲへ行けるから」と言い残しもと来た道をすたすたと戻って行った。

僕はちょっと面喰らってしまった。こんな場合日本人だったらそこまでの行き方を教えて終わりなのだが、トルコでは道を聞くとそこまで連れて行ってくれる。それがあたりまえのように。こういったトルコ流の親切を知らないものにとっては少なからず戸惑ってしまうことが多い。

しかしこの後も色々な場所でこういう親切のお世話になった。こういうことをごく当たり前のように出来て、しかもそれをちっとも鼻にかけないのはすごい。

僕は彼にお礼を言う暇もなかった。「トルコ語でありがとうはなんて言うんだっけなあ?」と考えているうちにドルムシュが走り始めてしまったからだ。

ブルサのドルムシュはイスタンブールのものとはちょっと違う。イスタンブールのは十人乗りぐらいのマイクロバスなのだが、ブルサでは普通のタクシーと同じ車がドルムシュとして使われている。タクシーと違うのは天井に行き先の看板が付けられていることぐらいだ。

料金はドルムシュによって違うのだが、チェキルゲとブルサを結ぶドルムシュはどこからどこまで乗っても二千五百リラ。日本円で五十円ぐらいだ。道端で走っているのを捕まえればどこからでも乗れるし、路線上であればどこでも好きなところで降りることが出来る。慣れるとこれほど便利な交通機関は無い。日本にもドルムシュがあればとつくづく思う。

チェキルゲへ向かうにつれて風景には次第に緑が多くなってきた。この街は山の懐に広がっていて、車から右側を見渡すと林の中にぽつりぽつりと建物が浮かんでいるのが見える。ごみごみとしていたのは街の中心部だけだったようで、周囲の環境は「緑のブルサ」の名に恥ないものだった。

いくつかのホテルを回った後、ブルサではホテル エズ・ハヤットというところに腰を落ち着けることにした。チェキルゲは観光地なので全般にホテルの料金が高めなのだが、ここはその中でも比較的安く、しかも個人用のハマム付きの風呂が一階に付いていた。久しぶりに風呂に入れると思うと嬉しくて仕方がない。

思えばもう何ヵ月も風呂には入っていない。もちろんシャワーは浴びるのだが、バスタブが付いているホテルは僕にはちょっと高嶺の花なので、ゆっくり風呂に漬かって疲れを癒すという日本人の楽しみから随分と遠ざかっていた。

そんなわけで部屋に荷物を置くとさっそく風呂に入ることにした。幸いまだ時間が早いので、ロビーで頼むとすぐに風呂に入ることが出来た。風呂は各部屋に付いているわけではなく、一階の奥に個室が二つ並んでいるだけだ。個室と言っても結構な広さがあり、大きな浴槽には湧きだしたばかりのお湯がこんこんと溢れ出している。

温泉に入るとつくづく日本人に生まれて良かったと思う。温泉好きは何も日本人に限ったことではないが、やっぱり日本人ぐらい温泉が好きな人種は珍しいだろう。実際、トルコ人もこの温泉に来てはいるが、こういった温泉はトルコ中どこにでもあるわけではなく、多くの人は温泉とは全く縁の無いままに生活を送っている。
「ふーっ!生き返ったあ!」とかひとしきり独り言を言いながら、僕は久しぶりに人生の喜びを全身で感じていた。温泉の温度は丁度良く、お湯の感触は透明で肌に心地良かった。泉質は良くわからなかったが、たぶんアルカリ泉か何かだろう。

風呂から上がったら何はともあれまずビール!ビール!

有難いことにここはトルコ共和国。イスラム圏というのにビールが自由に買える。僕は火照った体で坂をかけ降り、近くの売店で一本のビールを握り締めた。
「これください!」

風呂上がりの体に染み渡るビールは、僕の意識を奥深いトランス状態に落としこんでいった。ロビーでぐったりとしたままニヤニヤしている日本人を見たトルコ人は、きっと僕の事を麻薬中毒者か何かと思ったに違いない。

7  ベルガマへ

二日間ほどブルサで遊んだ後、僕はベルガモンの遺跡のあるベルガマへ向かうことにした。ブルサでの生活は実に快適で、バザールの見物をしたりロープウェイでスキー場へ行ったりしていると、いつの間にか思いがけない時間が過ぎていた。

ブルサからベルガマまでは行くのがちょっと不便で、この時期直行便は夜中の二時発の夜行バスしかない。オトガルの客引きと色々協議した結果、僕は十二時半のバスでひとまずエーゲ海沿いのアイヴァルクという町に行き、そこからミニバスでベルガマへ向かうことにした。

小さな町をいくつも通り過ぎながらバスは進む。荒れた土地の中に、所々オリーブの畑や果物の林が広がっているのが見える。道路を走る車は少なく、たまに出合うのは草をうず高く積んだ馬車や、農作業帰りの女達を乗せたトラックばかりだ。

午後五時。やっとアイヴァルクに着いたのはいいが、ベルガマまで行くバスはもう終わってしまったと言う。明日の朝になればバスがあると言うが、こんな所で一泊するのもどうかと思い悩んでいると、他のバス会社の男が
「とりあえずイズミール行きのバスがあるのでそれに乗れ」と言うので、先の見えない不安を抱えたまま、そのバスに乗り込んだ。

もしかしたらベルガマまで連れて行ってくれるのかな?と期待したのだが、思ったとおりベルガマまで7qの交差点で放り出されてしまった。辺りは完全に真っ暗。街灯が全く無いうえに、星も月も出ていないので右も左もわからない。一人っきりだったら完全に途方に暮れてしまうところだったが、幸いベルガマへ向かう客が他にもいたので、彼らとタクシーをシェアして無事ベルガマに着くことが出来た。

たまたま一緒のタクシーに乗っていた男が
「あんたは今夜どこに泊まるんだ?」と聞くので
「まだ決めていない」と答えると
「それなら俺が良いペンションを紹介するよ」と言うので、彼が紹介してくれた客引きにそのままついて行くことにした。

こういう不安で投げやりな精神状態の時、客引きの存在はとてもありがたい。彼に連れて行かれたのはガイドブックにも載っているベルリン・ペンションだった。シャワー・トイレ付きで二万リラ、約五百円だが暖房は付いていない。精神的にくたくただったのでそのままここに泊まることにした。

夕食を食べに外に出たものの、まだ七時だというのに店はどこも閉まっていて、きれいなメインストリートがなんとなく空しい。やっと見つけたロカンタでまずいシシケバブとまずいサラダを食べた。深い悲しみが全身を包みこんだ。着いた早々他の町へ移りたくなってしまった。ペンションで一緒に遊んだ男の子の笑顔が唯一の救いだった。

8  @無人の台地

夜はものすごく寒かった。冬山で鍛えて寒さには強いはずの僕も、あまりの寒さに良く眠れなかった。この寒さで暖房がないというのはやはり辛い。

朝食をさっさと済まし、一番の目的であるベルガモン上市のアクロポリスへ向かうことにした。アクロポリスはかつてのベルガモンの中心地で、小高い丘に巨大な建築物の残骸が静かに横たわっている。

街路樹の並ぶきれいな通りを丘に向かって歩いて行くと、途中から道は急に狭まり辺りの家並みもほこりっぽくなっていく。僕にとってはメインストリート沿いの取って付けたような町並みよりは、こっちの景色の方がよっぽど好感が持てる。この辺りの人はとても素朴で、僕が道を歩いていると顔をくしゃくしゃにして「メルハバ」と挨拶をしてくれる。

ガイドブックに書いてあるとおり、岩に付けられた青いペンキを目印に山道を登って行く。周りに人影は無く、牛が一頭ボーッと草を食べている。空は真っ青。耳を澄ますと小鳥の声に混じって生活の音が聞こえて来る。

ふと足下を見渡すと、そこら中に彫刻をほどこされた大理石がごろごろ転がっている。握り拳ぐらいの小さな物から、日本酒の一斗樽ぐらいの大きな物まで、全く無雑作に散乱している。この無雑作なところがすごく良い。僕としては色々手を加えて昔あった形を復元しようとするよりも、こういう風にあるがままの姿でそこに野放しになっているほうが想像力を駆り立てられる。

それにしても誰もいない。

ここは有名な観光地だから、いくらオフシーズンとはいえ少しぐらいはツーリストがいても良さそうなものだが、周りには全く人の気配がない。人気の無い遺跡がこんなに良いものとは思ってもみなかった。
真っ青な空の下、二千年前に作られた階段を登り丘の頂上を目指す。丘の中腹に広がるのはジムナジウムの跡で、大理石で囲まれた敷地の中に小さな運動場や様々な施設が納められていたそうだ。壁の石組みは実にしっかりしている。発掘されたものをこのようにきちんと組み直したのか、それともこの状態で発掘されたのかは残念ながら分からなかった。

迷路を巡って丘の頂上へたどり着くと、現在修復中のトラヤヌス神殿の大理石の柱が目に入ってきた。そしてその下には大理石で出来た大きな舞台が横たわっている。これはゼウス大祭壇の跡で、肝心の祭壇の部分は今ベルリンの博物館にある。

僕はベルリンでこの祭壇を見た。大きなホールの壁際に、巨大な祭壇がしつらえてあった。しかし、室内にあのような遺跡があるのは何とも言えず奇妙だった。僕はその時点ではこの巨大な遺跡について何の知識も興味も持ちあわせていなかったので、いったいこの祭壇がどんなものなのか全く知る由もなかったのだが、何とも言えない不自然さに居心地の悪さを感じたのだった。

そして今この場所で、その存在の中心を失った祭壇の土台を眺めていると、やはりあの祭壇は何としてもここにあるべきだとつくづく思い知らされる。この荒涼とした台地の元で、強い太陽に焦がされているのが一番ふさわしいだろう。それにはドイツがあの祭壇を返還してここまで運んで来なければならない。現実的には難しいだろうが、いつの日かこの地であの祭壇に再会できたらと思う。

9 ああカルシウム

月曜日の朝。僕は出発の準備をしていた。このところ風邪気味で体調はあまり良くなかったが、今日は少し持ち直したようだ。今日はベルガマを離れ、バスで一時間ほどのイズミールに向かう予定だ。

荷物をすべて詰め込んで、さあ出発しようかというときに事件は起きた。汚い話で申し訳ないが、僕は近年希にみる激しい下痢にかかってしまったのだ。トイレに入ったまま僕は暫くの間呆然と座り尽くしてしまった。

食事中の人に悪いので細かい描写は避けるが、僕は一瞬の間に悟ってしまった。「ああこれはコレラに違い無い」と。

日本でコレラにかかると大騒ぎになる。本人が隔離されるのはもちろんのこと、家中、近所中を消毒され、発病前に立ち寄ったと思われる所すべてに、ゴーストバスターズのような保健所の係員が出撃することになる。コレラにかかった本人はいいさらし者だ。

トルコでコレラにかかったらいったいどうなるのだろうと考えるとちょっとぞっとした。言葉も通じないし知り合いもいない所で、一人寂しく隔離病棟に入れられるのははっきり言って拷問に等しい。

ドイツで入院したときは、設備も食事も申し分無くて日本で入院するのに比べればずっとましだと思ったものだが、トルコの病院がどんなものなのかは全くの未知数なので、真相を知らないぶんだけ余計に怖い。 下痢は相変わらず続いていたが痛みは全く無い。それにコレラにしては大波の間隔がやけにのんびりしているような気がする。本来なら続けざまに大波がやってきて、トイレに入ったまま同時に水分も補給しないと脱水症状を起こしてしまうはずだ。ということは・・・。

だいぶ気も静まってきたのでしゃがんだまま冷静に考えてみた。トルコはコレラが流行するほど衛生状態が悪い国ではないし、第一こんなに寒い冬の最中にコレラにかかるとも考えにくい。症状もそれを暗示している。要するにこれはただの下痢ということだろうと、そう納得することにした。

しかし下痢をするにはなんらかの原因があるはず。僕は日本人の中では比較的胃腸が丈夫なほうで、ネパールやタイの食事で結構凄いものも食べてきたが、今までひどい下痢にかかったことはない。ゆうべ食べたのもピデというトルコ風のパンで、薄く伸ばした小麦粉の生地に挽肉や卵をくるんで焼いたものだから、これで下痢をするとはちょっと考えにくい。トルコ料理の中では、どちらかといえば胃腸に負担の少ない食事と言えるぐらいだ。

しばらく考えていきついた結果は「水」だった。ガイドブックにこの「トルコの水」について書かれていたからだ。ネパールやインドの水も飲むと下痢をし易いが、これは水が非衛生的だからだ。

トルコの水はそれ程非衛生的ではない。もちろんこれは場所にもよって、イスタンブールなどはかなり水事情が悪いのであまり水道の水は飲まない。しかし、ほかの普通の街では現地の人が水道の水を飲むのは何ら問題がない。

しかし、これが日本人だと少し事情が違う。清潔なはずのミネラルウォーターでさえ下痢をしてしまうのだ。これは一体どうしたことか。その原因は何かと言えば、それがこのカルシウムなのである。

知っての通り日本の水はミネラルの少ない軟水で、ヨーロッパなどの水はミネラルをたっぷり含んだ硬水だ。トルコの水はヨーロッパの水よりもさらに「硬い」水で、実に日本の水の数倍のカルシウム分が含まれている。

私の母などは、カルシウムは健康に良いといって毎日のように牛乳を飲んでいるが、確かにある程度のカルシウムは骨を作るために必要だし、感情のコントロールを図るためにも必要なミネラルであることは間違いない。しかし、普段カルシウムを取り慣れていない日本人の胃にとって、大量のカルシウムは、ちょうど子供の頃に冷たい牛乳をガブ飲みしておなかがゴロゴロなったような、そういう状態になってしまうのである。

そうと分かれば話しは早いが、そう結論に達するまでに僕の頭の中には実に様々な映像がフィードバックしていった。しかし、それも取越し苦労と判ればほっとする。

気を取り直し、しばらくおなかと相談した。普通ならもう一泊するべきところだが、正直言ってもうこれ以上この街にいても仕方がないと思い、僕は無謀にも一世一代の賭けに出た。バスに乗ろうというのだ。

バスは南へ。イズミールへ向けてひた走る。トルコ人の中に埋もれた小柄な日本人は、背中を丸め、ただじっとしたまま、窓の外を流れる建築中のアパートの群れに視線を注いでいた。実にトルコらしい乱暴な作りのアパートは、荒れ果てた台地に醜い白骨を晒している。ゴロゴロ。時折どこからか音が聞こえる。しかし、彼は聞こえないふりをしていた。あともう少しの辛抱だ。

三十分後彼は拘束衣をとかれ、オアシスへと駆け込んだ。しかし、しばらくすると彼はまた再びバスに乗り込み、南へ向けて去って行った。その先には無数の暇なトルコ人達が待ち構えていた。

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