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毎日新聞2004年8月1日より

感情の原形に触れた

哲学者・池田晶子

話題の2作とも私は見ていなかったので、この折に送ってもらって読んでみた。

他愛ない、じつに他愛ない恋愛ものである。一方は、美男美女が登場する波乱万丈の物語だし、一方は、大時代かと思われるほどの難病ものである。

へえ、こんな他愛ないものが受けるということは、まさしくそれが他愛ないからなのだろう。

なんか深く納得できるような気がした。たとえば、どうして哲学の本が、いつの時代も人々から敬遠されると思います?

「わかりやすい」ということが、人々には一番なのである。このわかりやすさというのは、第一にはストーリーが存在するということのわかりやすさであろう。第二には、そこに感情移入しやすいということなのであろう。哲学にはストーリーは存在しないし、感情移入だってできやしない。なぜなら、そこで扱われているのが感情ではないからである。

改めて思ったのは、みんなこの手の恋愛ものがほんとうに好きなんだなあということである。考えてもみたい。もしも自分があれらのドラマや小説の主人公であったとする。事故で記憶を失ったり、恋人を取られたり死なれたり、それはまあ大変なことだとは思わないか。もしもそれが自分のことであるとすれば。

しかし、幸い、あれらは自分のことではない。ドラマや小説の中のこと、全くの他人事なのである。だからこそ、人々は、安心してあれらの出来事を喜んだり悲しんだりできるのである。もしも自分のことだとしたら、苦しくて苦しくてたまらないはずではないのか。感情移入ということは、まさしく移入ということなのであって、あれらの感情がそっくり自分のものであるという事態に、おそらく人は耐えられないであろう。

考えて面白いのは、ドラマや小説の主人公たちにとっては、あれらの出来事は苦しみだけれども、読者や観客すなわち他人にとっては、それは「純愛」と見えるということである。本人の苦しみは、他人には愛なのである。おそらくこれは、人間が文学という形式を所有したことの秘密でもあって、自分はそれを経験してはいないが、感情としてそれを追体験できる、なぜかそこに喜びが発生するのである。追体験できるということは、どこかで人は同じものをやはり知っているということだ。

あれらの二作は、物語に対する人間の感情の原形に、どこかで触れたのだと思う。その最も大きな要因は、やはりわかりやすいということだろう。必ずしも上等である必要はないのだと思う。同じ純愛ものということなら、ある意味では、「源氏物語」だってそうである。しかし、あれに感情移入するのは、相応の経験と教養とが要求される。だから、現代の我々には、「冬のソナタ」であり「世界の中心で、愛をさけぶ」なのであろう。