Back Up

!WEB.(エクスクラメーション・ウェブ)」より。 現在ログが消失してゐます。

より適切にマークアップを行つてをります。

私は非国民である

このワールドカップの期間中、私は完全に非国民であった。

住んでいるところが、たまたま国立競技場に近いため、サポーターなる群衆の熱狂と無関係にいられない。駅の混雑は尋常ではないわ、窓を閉めても押し寄せてくる歓声と応援歌で仕事もままならず、ひたすら家にこもって嵐が過ぎ去るのを待つばかりであった。

聞くところによれば、あれはあそこで試合が行われていたわけではなく、巨大画面による放映の観戦だったそうではないか。実際に試合が行われるところへは、フーリガンなる不逞の輩も現われるとかで、戦々恐々としていたのだが、どうやら都内では試合はないらしいと一安心も束の間、ただ熱狂したいがためにわざわざテレビを外へ見に出る人々が、あれほど存在していようとは。

私は、サッカーには興味がない。というより正確には、スポーツ競技一般の観方がわからない。ルールを知らないのである。覚える気もない。やっぱり興味がないのである。大勢の人々が何事かに熱中している、その光景を見ているだけで、考えがこの世ならざる方向へと飛んで行ってしまうのである。すなわち、人類は何を何ゆえにやっているのか。

「嵐が過ぎ去るのを待った」と言ったが、これは当たり障りのない言い方をしただけで、本当は、「日本早く負けろ」と思っていた。いや正確には、日本が勝とうが負けようがどっちでもいいのだが、とにかくこの騒ぎに早く収束してもらいたい、そのためにはあまり勝ち残ってもらっては困るのであった。しかし、あの騒ぎの中で、こんなことはとても大きな声では言えない。おそらく、熱狂した群衆によって、非国民はなぶり殺しにされたであろう。

じじつ私は、ニュースの冒頭から、「ニッポンまたも勝利」を伝えるアナウンサーの興奮した面持ちを眺めながら、60年前のニュース映画が「帝国陸軍南方にて連戦連勝」と報じた時もこのようであっただろうと想像した。日の丸の小旗をうちふりながら、出征兵士を見送る善男善女たち、カミカゼ吹くかと高まる期待の仕方もまったく同じである。

当時非国民となじられた人々が、多く、同じ日本人として同朋たちよ目覚めよと言うことで非国民であった仕方で、私が非国民であったのではなかった。私には、そもそも、人が自分を国民である、ある民族である、たとえば日本人であると思うことができるのはなぜなのかが理解できないのである。なぜ人は自分は日本人であると思っているのだろうか。

私の理解の仕方はこうである。私は池田某である。池田某は日本人である。しかし私であるところの「私」は、「私」なのだから、何者でもない。池田某ではない。したがって、日本人などではむろんない。「私」は日本人ではない。それは何なのだかまったくわからない。

私が日本人なのは、何者でもない「私」が、たまたま私、池田某であり、それが生活の便宜上、日本国政府に税金を払っているからである。その意味では、確かに私は日本国民である。しかし、それだけのことである。なんで私は日本国民、日本人だからと短絡し、日本ガンバレと熱狂する理由があるだろうか。

奇妙に聞こえるにせよ、しかしこれは、人が私とは誰であるのかを正確に考えてゆくならば、必ずそうなるところの事実である。私とは誰であるのかを考えず、私とは私である、地上の肉体誰それである、男である、女である、何国人である、何々民族であると、思い込んで疑わない歴史が、この人類史である。これはあまりに自明なことではなかろうか。私はアメリカ人であると思い込んでいる人と、私はイスラム教徒であると思い込んでいる人が、自らの思い込みゆえに、あのように争っているのだということは。思い込んでいるのは、あくまでもその人でしかないのである。

国なんてものを目で見たことのある人はいないように、民族なんてものを目で見たことのある人はいないのである。なるほど、似たような顔かたち、似たような DNA、それらは確かに目に見える。しかし、それらの顔かたち、それらの DNA であるところのその人そのものは、目に見えるものではない。誰でもない。「私」なんてものを目で見たことのある人はいないのである。

「たまたま」、私は日本人であるとさっきは言ったけれども、しかし、この「たまたま」というのも、さらによく考えてゆくと、あながちそれは「たまたま」でもない。偶然性と必然性とがイコールになる地点というのも実はあって、その地点からみると、ある人が日本人であることの深い意味というのが見えることもあるけれども、そのためには、思考は一度必ずかのゼロ地点を通過している必要があるのである。人類はそろそろ短絡的民族主義からは卒業する時期ではないだろうか。

IKEDA Akiko 池田晶子(文筆家)