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巻頭随筆「古い言葉を想う」

池田晶子 Akiko Ikeda

古典を読むのが好きである。

妙な云い方だけれども、なんだか自分を読んでいるような感じになる。そのような安心感を、古典には覚える。

これに対して、新著、新刊本には、なかなか手が伸びない。むろん、自分のものも含めての話だが、なんかこう騒々しくて、あぶなかしい。

存命の人か、鬼籍の人か、ということでは必ずしもない。存命の人でも、絶対の安心感を覚えられるような人の新著は、やはりそのつど読みたくなるし、鬼籍の人でも、読む気にならないものは、やはりならない。というよりも正確には、多くの人が読む気にならないようなものは、じつはもはや現存してはいないはずなのである。ここに、古典への安心が、ひいては歴史への信頼が、発生する理由がある。

これをもう一度、裏から云えば、安心して読める存命の人のもの、というのは、じつはもはや古典に似ているということである。一例をあげれば、養老孟司氏のものなど、『論語』にそつくりである。

それらに共通して云えるのは、迷いがなく、力に満ち、にもかかわらず、ここが肝腎なところなのだが、決して主張していないということである。

それらは、決して、自分を主張してはいない。多くの存命の人のものが、騒々しくて読む気にならないのは、つまりそれらが自分を主張しているからである。「私はこう思う」とか「私はこうである」とか云っているからである。むろん好みだろうけれども、私はそういうのは、あまり読む気にならない。他人のエゴに触れるのは疲れるからである。

好みとはいえ、本物か偽物かということも、結局はそこに関わっていると思う。古典が古典たり得るのは、それらが自分を主張することなく真実を述べているからであって、だからこそ後世の他人が読んでも、「自分を読んでいる」という感じになり得るのである。真実よりも先に自分を主張するものは僞物だから、遅かれ早かれ、歴史から姿を消す。やはり、どの時代の人も、他人のエゴよりも自分の真実に触れたいと思うものだからである。それで、歴史には、静かに力強い本物だけが自ずから残ることになる。このわかりやすい算術を、私はじつに重宝している。

で、もっと極端に云うと、「古典」といつても、じつは私は、古ければ古いほどもっと好きなのである。せんだって岩波書店から刊行された『ソクラテス以前哲学者断片集』のようなもの、どこの誰だか知れない人々の言葉の切れ切れ、ああいうのを眺めていると、なんかこう、自分の魂が悦びわなないてくるのを覚える。たとえばこれは、紀元前五世紀の「ティモン」という人だが、

〈ああこの私も、双方の側を注視して、思慮深い知性に与るべきだったのに。だが私は、人を欺く道にまんまと騙され、既に老境に入っていながら、あらゆる吟味に意を傾注できなかった。なぜなら、私が自らの知性をいずこに導いても、すべては解体して、一にして同じものへと帰着したからである。永遠にある〉

こう呟いているのは、まぎれもなくこの自分であるように感じられる。

こういうものを、もっと古くすると、いわゆる「読み人知らず」ということになるのだろうし、さらに古く溯ると、洞窟でうずくまっていたひとりの原始人が、ふと立ち上がり、壁に石で何事かを書きつけようと意志したその瞬間にまで至り着く。

私は、その瞬間を、常に夢想する。そして私は、離陸する。言葉と宇宙と、われわれの人生の真実について、感じ、考える領域へと、自身を解き放つのである。

たとえば、「人生の真実」といま私は云ったが、こちらの側から、そちらの側を眺めてみると、ある一行、ある一句、すなわち「言葉」というものが、数千年を残り得るものたりうるのは、どれほどの宇宙がそこにあるか、どれほど宇宙が考えられた発語であるか、そのことに尽きているということが、はっきりとわかるのである。

凡百の私小説が泡と消えても、人類の神話が頑として残るのも、この理由による。われわれは、騒々しいエゴである以前に、不可解な宇宙に生まれ落ちた人類だからである。そして、言葉は、宇宙を語るべく定められた存在である。だからこそ、『創世記』は、正当にもこう語り始めるのである。

〈太初(はじめ)に言葉ありき――〉