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2005年11月30日(水) 編集

つごもり

  • かりあげクントリビュート増刊を讀む。
  • Firefox 1.5を入れる。Firefox 1.0(Gecko 1.7)系はメモリーリークにバグがあると云ふ話を讀んだので、これを機に入れ替へてみる。Hatenabarが使へないのは困つたが*1SVGに對應してゐるのは魅力的だ。

例へば、以下のやうな使ひ方が考へられる。

宣傳

詞の玉垣經由。正字正かな文法解説書の最高峰とのこと。

囘答

矢張りまだ納得出來ない。例によつて、段落毎にまた反論するべきなのですが、未だ自分自身の中で纏まらない。抑、どのやうに正字正假名を遣つたらよいかと云ふ話に、何故その正字正假名を遣ふべきなのかと云ふ話を私が持ち出した時點で、單に私のお門違ひな話ではないか、と云ふ氣にもなる。

一つだけ疑問を呈してみます。現今の日本語使用者に對し、

その問題意識のない大多數からすれば、「”正字正かな”なんてたんにインテリのお遊びだらう」と理解されてゐるのがほんたうのところではないでせうか。よく「ギャル文字」と對置して理解しようとしたり「むづかしくて讀みづらい」などゝいふ評価がくだされてゐるのがそれを証明してゐるでせう。

*

と看做してゐますが、その一方で

ことさら異をとなへるよりも、あたりまへにつかつてゐたはうが廣範囲に難なくうけいれられてゆき、表制限の撤廃やかなづかひの復活の下地としては有意ではないか

*

と述べてゐます。大多數に對し、本當に當り前に遣ふだけで、難なく受入れられると云へるのでせうか。

私の記憶違ひでなければ、以前のアンテナ名は「正字・正假名使ひの日常」だつたとおもふ。私はこれが「…日常」であることが重要だとおもつた。

*

正確には「或正字・正假名遣ひの日常」でした。このアンテナを始めた當初は、正字,正假名遣ひを用ゐてゐる日記や掲示板を中心に捕捉してゐたので、このタイトルにしてゐたのですが、段々私自身の興味の範圍が擴大して、あまり正字正假名と云ふ括りにこだはらなくなつて了ひました。

興味の赴くまゝ色々なサイトやコンテンツを捕捉し、何やら雜多な内容になつてきて、どうもこれ迄のタイトルがそぐはないないやうに思へてきたので改名した次第です。

*1:後日1.5に對應したHatenabarがリリースされた。

2005年11月27日(日) 編集

エトルリアの世界展

新しいイタリア文化会館にて「エトルリアの世界展」を見學する。

講座

池袋コミュニティカレッジにてお話を聞く。

2005年11月26日(土) 編集

觀戰

東京競馬場にてジャパンカップダートを觀戰する。直線の叩き合ひには痺れた。しかし馬券は見事にヒモが拔けた。

京うどんむぎんぼう

新しいスタンド内にできたお店できつねうどん(五百圓)を食す。慥かに汁は眞つ黒ではなかつた。なか卯以外にも關西風のうどんが食べられるのは有難い。

讀書

府中中央圖書館にて『組版原論―タイポグラフィと活字・写植・DTP』を讀む。私は府中市民ではないから、本が借りられないので、持ち合はせてゐた小錢を全て使つて寫しをとる。

堀尾?

友人の演奏を聽きに行く。

けふの買ひ物

誰も寝てはならぬ(4) (ワイドKC モーニング)

誰も寝てはならぬ(4) (ワイドKC モーニング)

連載中に大體讀んでゐた。それにしても、かういふ人物なりエピソードを、いつもどこから見つけてくるのだらう。けつたいな人物やをかしなエピソードと云ふのは、意識すれば存外身の周りにあふれてゐるとは思ふ。たゞそれを一つの作品にする手腕のうまさにいつも感心してゐる。

同じシリーズで、細野さんや坂本龍一も取り上げないかなあ。

euleareulear 2005/11/28 23:57 [麺]關西風うどんでは「かのや」もお薦めですよ。あ、關西といふより讃岐なのかな? 新宿の東/西の兩口と、御茶ノ水にあります。

funaki_naotofunaki_naoto 2005/11/29 23:33 ありがたうございます。今度探してみます。

2005年11月25日(金) 編集

職場にて

新手のウイルスメールが押し寄せる。

讀了

シレジウスを讀む。

ウィリアム・モリス展

松下電工汐留ミュージアムへ行く。ウィリアム・モリスに就いて何ら予備知識を持ち合はせてゐなかつたが、寫眞でみたインテリアデザインに興味を持つたので覗いてみる。

初つ端、ステンドグラスの展示で心を奪はれる。實物ではなく、バックライトフィルムに寫した物だが、それでもかなり美しい。とても幸せな心持ちになる。エドワード・バーン=ジョーンズが作製した物も多い。

椅子やランプ、カーテンや壁紙等のインテリアデザインも面白かつた。テキスタイルと云ふ名前はこゝで初めて知つた。植物をあしらつた紋樣は、アールヌーヴォーにも影響を與へてゐると云はれると成る程と思ふ。

そしてケルムスコット・プレスによる書籍が幾つか展示されてゐた。さういへば『活字に憑かれた男たち』のプライヴェート・プレスの所で、モリスの名前を目にしてゐた事を後で思ひ出した。

非常に充實した展示で頗る滿足した。また見たい。

2005年11月24日(木) 編集

no title

色んな主張が入り混じつてゐるので段落毎に反應してみる。

これが「正しい」のだ、といふ根據を主張するやうなヤリかたで、現状の(學校で教へこまれたとほりの)文字かなづかひに對して何ら問題をかんじてゐない膨大な數のひとたちを一人ひとり「説き伏せる」なんてのは非常に効率が惡いし、實際に賛同を得るのは至難であるはずだ。

*

You can lead a horse to water, but you can't make him drink.

ことばといふのは日々「たゞあたりまへに」坦々とつかひ續けるしかないのではないか。それ以外に何があるのか。これまでもさうして來たのだし...

*

私の言葉に對するスタンスを突詰めると、これに近い面があります。

さて「…運動」などゝいふ屬性とは無關系に、捕捉不可能なくらゐ多量に、たゞの日常のことばとして「正字正かな」が、世に溢れかへつてゐなければ「復權」など覺束ないといふコトだけは確實だ。

*

世に溢れかへつてゐるとは慥かに云ひ難いのですが、アンテナを運營してゐる私の目から見ると、それなりに廣がりは感じられます。ところで一つ氣になるのですが、eulearさんは、正字正假名が大勢に遣はれる事を「復權」のやうに捉へてゐるのでせうか。

そして以下に關しては異議を唱へます。

「正字正かな」をどうこうしたいといふコトではなく「何のかんがへもなしにたゞつかふ層」のひろがりが必要なわけで、「正」を前面に掲げるのは「正しさ」を理解してうけいれる層にしか働きかけるコトができない點で弱いとおもふ。正字正かな推進派(?)は、もつと文章を書くコトをたのしんだはうがよいのではないか。文字/かなづかひの「揺れ」など氣にしないで、自身の文學的衝動なり、日常の忘備なり、なにげなくつかひまくればよいのではないかとおもふ。魅力的な文章をものするひともきつとゐるはずだとおもふ。

我われが少數派であるのは判り切つたコトだ。すべての局面で統一した表記法で押し通すのは無理だ。だつたら適當にまぜてしまへばよいのだ。見逃される範囲といふのがあるものだ。それは、戰前に國語教育をうけた先人たちが國語改革後にもなにげなくつかつてゐた、あの状況をおもひだすとよい。表面の不統一よりも、述べるべき内容が優先されるべきなのだ。内容が流通すべきものであるなら、表面の亂れは甘受されるだらう。さうした表面が人目に觸れる機會がふえれば、必要な表記として認知されてゆくのではないか。

*

まづ「何のかんがへもなしにたゞつかふ層」が増える事を良しとしてゐますが、では何故その時遣はれる表記が、正字正假名でなければならないのでせうか。その必然性が、どこから導き出せるのでせう。

何より「述べるべき内容が優先されるべきなのだ」と云ふのならば、それを記す形式(表記)の如何は問はないと云ふ事なのでせうか。こゝでは、假名遣ひを用ゐる時に表記の搖れがあつてもよい位に述べてゐますが、それだつたら何も正假名にこだはらず、現代假名遣ひでもいいし、いつそのこと何の考へなしにカナモジなり羅馬字で記したとしても、何ら問題ではないと云ふ事になりますが。

そも(所謂)正字正假名派と云ふのが、單に正字や正假名を用ゐる事を推進してゐるのではなく、表音主義に基づいた日本語の表音化に抗する、と云ふ一面を見逃してはゐないでせうか。若し正字正假名を「何のかんがへもなしに」遣はれる事だけを良しとするのならば、今世間一般で蔓延つてゐる、漢字制限なり假名遣ひが何故間違ひであるのかを、どのやうに示せるのでせうか。

私は常用漢字表に反對してゐるし、現代假名遣ひも間違つてゐるとしてゐます。表音主義から日本語を捉へる事が間違つてゐるとするのならば、どのやうな原則なり原理があり、何に依て言葉を捉えるのが「正しい」のか。そしてその事を否定する爲には、國語に於ける「正しさ」と云ふものを知つてゐなければならないし、それを知らしむ爲にも「正しさ」は必要であると思ひます。

尤も私はその種の「正しさ」を示す作業を、他の人に投げつぱなしで濟ませてゐるのだが。

2005年11月23日(水) 新嘗祭 編集

水戸芸術館のタワー

『X-COLOR/グラフィティ in Japan』展

グラフィティを見に、水戸まで出向く。美術館の中だけでなく、ビルや建物の壁面、駐車場、工事現場の圍ひ等の「リーガル・ウォール(許諾を得た壁)」に描かれたグラフィティの數々を、地圖を片手にオリエンテーリングのやうに探して歩き廻る。豫め下調べをしてから行けばよかつた。

これ程大きく緻密に描かれたものはお目に掛かつた事が無かつた。かういふのは表で觀る方が樂しい。

私にとつては、この種のカルチャーは全く縁も所縁も無く、初めて觸れるものばかり。

寫眞を見る

水戸芸術館のタワー

直ぐ側にあるタワーに立ち寄る。ところで昔こんな形の玩具があつたやうな(名前は忘れた)。

高さは百メートル。展望室までエレベータで上がる。狹くて殺風景なのは仕方ないにせよ、展望室と呼ぶには、あまりに覗き窓が小さすぎる。船底から海底を覗いてゐるみたい。

フト狹いがゆゑに、私の立つてゐる足場の心許無さを意識して了ふ。今迄にない建造物の高さを感じる。これで見晴らしがよいと、結構怖いのではないか。

らあめん専門店麺亭

南町店にて麺亭らあめん(五百六十圓)を食す。海苔とチャーシューとメンマといつたシンプルでオーソドックスな醤油ラーメン。

2005年11月22日(火) 小雪 編集

タワー

プーシキン美術館展

上野の東京都美術館へ行く。平日の午後に入場したが、それなりの人出だつた。

御馴染みの畫家の繪を觀る。印象派前後の繪は割と目にすることが多い。キュビニズムまでくると、私の好みではなくなるのだけど。

初めて見た中で、以下が氣に入る。

  • エラニーの秋の朝(カミーユ・ピサロ

秋の風景畫。かういふ風な自然の描寫は、凄く親しみ易いものを感じる。

  • 指から棘を抜く女(ウジェーヌ・カリエール)

地味な繪なんだけれど、こゝに描かれた人物から目が離せない。

  • オンフール港(アルベール・マルケ)

當り前にある光景が不思議な感じに見える。

  • エマオの晩餐(モリース・ドニ)

イエスの復活を描いたもの。

今日は油彩よりも版畫の方に目がいつた。

2005年11月21日(月) 編集

けふの買ひ物

頃日讀んだ鬼界彰夫の譯。古平正義による大膽にへルベチカをあしらへた裝幀が目をひく。

精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)

精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)

知性改善論 (岩波文庫)

知性改善論 (岩波文庫)

日曜日

某定例會に出席。

2005年11月19日(土) 編集

平安の仮名、鎌倉の仮名―時代を映す書のかたち―

この間『日本語のデザイン』を讀んで、假名に興味を持つたので出光美術館へ出向く。

平安の仮名はたおやかで優雅、鎌倉の仮名はかっちりとして厳格。本展では、仮名が主に和歌を記した文字であるという視点から、それぞれの時代に和歌がどのような場で用いられたのかを考えながら、文字の美しさの違いを探ります。

平安の仮名、鎌倉の仮名

草書の假名が讀めず、和歌を知らず、歌も詠まない無い無い盡くしの人間が、かういふのを見たところで、何が面白いのだらうと云ふ氣になるものなのだが、取敢ず私は實物を見ないと學べないなので、分らん分らんと唸りながら見て廻る。

紀貫之の高野切はよかつた。

第七十七囘講演會

國語問題協議會の講演を聞く。

翻譯あれこれ(中村保男)

具合でも惡いのか、隨分話をするのがつらさうだつた。

小學校に於ける歴史的假名遣の教育(中澤伸弘)

高校の教諭なので、お話が頗る面白いし解りやすい。一コマ(四十五分)だけ、小學校の授業で生徒に歴史的假名遣ひの授業を行ふ事になつた經緯や、現在の國語の授業における指導要領の話、教科書で假名遣ひや文語文がどのやうに解説されてゐるのか等、なかなか有意義な内容だつた。

よく、(所謂)舊字舊かなの文章を指して、一緒くたに文語文と呼ばれる事が多いのは、どうも教科書の所爲みたい。

これからの假名遣戰略を考へる(高崎一郎)

例の假名遣標準化に就いて述べてゐた。平成疑問假名遣が出版された折、それに關する批判*1を目にしてゐたから、割と訝しげな心持ちで構へてゐた。實際、直接聞いてみて、自分自身でどこまで判斷出來るか確かめる積りでもゐたのだが、しかしまだ纏まらない。

ちなみに『國語問題協議會通卷DVD』は、矢張り畫像データだつた。

最近讀んだもの

  • 『エヴァンスを聴け!』
  • 『ジョン・レノンを聴け!』
  • 『私の脳はなぜ虫が好きか?』

後書きを讀んで、宣長のお墓の話を思ひ出す。

*1:闇黒日記(平成十七年六月後半頃)や言葉言葉言葉掲示板(平成十七年七月初頭邊)、正字正假名覺書等を參照。

2005年11月18日(金) 編集

健康診斷

年に一度の檢診を受ける。去年増えた体重が一昨年の値にまで戻つた。

検査の合間に、高岡重藏の『歐文活字』を讀む。

京ラーメン糸ぐるま

塩ラーメンを食す。他にも氣になるメニューが色々ある。

けふの買ひ物

The Helvetica Book ヘルベチカの本

The Helvetica Book ヘルベチカの本

2005年發行のもの。(上)が3刷で、(下)が2刷なのか。

2005年11月15日(火) 編集

十三夜月

  • 月に寄り添ふ火星。頸が痛くなる。
  • さんさん録を讀む。
  • FDをインストールする。文字が化けるなあ。

2005年11月14日(月) 編集

木枯しが吹いてから、滅切冷え込むやうになつた。地面に積つた落ち葉から枯葉の匂ひ。

no title

表記に纏はる話を何氣なく讀んでゐたら、この作者は表音主義者だつた。

2005年11月13日(日) 編集

觀戰

後樂園にてエリザベス女王杯を見る。オースミハルカの大逃げには驚かされた。あわや逃げ切りかと思ひきや、スイープトウショウに差されたが、かういふレースは見應へがある。財布の中身と心臟にはかなりのダメージがありさうだが。

寄り道

歸りしな、印刷博物館に立ち寄る。歩いて行くが、どの驛からも遠い位置にあるなあと常々思ふ。意外と後樂園から行つても、たいして變はらないかもしれない。

2005年11月12日(土) 編集

2005小石川フリーコンサートvol.4もう一つの音楽、もう一つの場所@小石川図書館

図書館を利用する音楽家の会主催による、小石川図書館のコンサートを聽きに行く。

行雲流水

最初は、行雲流水と云ふ六人のユニットによる演奏。夫々が、音具や玩具、樂器なりを用ゐて、雅樂のやうな、チューニングのやうな、名附けやうの無い摩訶不思議なサウンドを繰り出してゐる。でもそれは無秩序なものではなく、何らかの取り決め(圖形樂譜や、ゲームルールが記された譜面がある)が存在してゐるのは見てゐて分つた。

それにしても、何と風通しのよい、開けた音響なのだらう。とても繊細で、ユーモア溢れる私好みの音だ。こんな音樂が今でもちやんと存在してゐるのが嬉しかつた。

足立智美

前半は足立智美氏のソロ。ラップトップパソコンを用ゐて、何やら聲を變調させたヴォイスパフォーマンスを行ふ。そして自作樂器による即興、赤外線シャツ(シャツにセンサーらしきものが取り附けられてゐて、動くとそれに同期して音が鳴る)を着てのパフォーマンス。

後半は、ゲストの寒河江勇志のサックスを加へてデュオで演奏を行ふ。

興味深くはあるのだけど、今の私はこの種の定型の無い演奏なり、即興を受け附けなくなつて了つたので、生憎樂しめなかつた。十年前だつたらまた違つて聞こえたのかもしれないのだが、年を喰つて了つたのか。甚矣。吾衰也。

2005年11月11日(金) 編集

闇黒日記 平成十七年十一月十日より

今はコンピュータの時代で、PCでは「常用漢字表」の制限は意味を持たない。實際、それで「常用漢字表」の廢止が取沙汰されてゐるのだが、今の漢字政策を牛耳る表音主義者逹にとつて、實はこれが絶好のチャンスに見えてゐるのではないか。即ち、コンピュータで用ゐられるJISの文字セット――これが現在、實質的な漢字制限表となつてゐる。これがまた極めて有效に漢字制限の機能を果してゐる。問題視され易く叩く材料に持出され易いけれども實效性の無い「常用漢字表」なんてものは廢棄して、代りに、技術的な事をいろいろ言へるので反論を封殺し易いJISの文字セットを漢字制限の武器として行けば良いのではないか ――表音主義者はさう考へてゐるのではないか。

闇黒日記 平成十七年十一月十日

JIS X 0213に於いても、まだ漢字制限の武器と成り得るのでせうか。後、文字セットと云ふのならば、JISの文字コードだけでなく、Adobe-Japan1-5のやうなグリフセット規格に對して、表音主義者はどのやうな畫策を行へるのでせうか。

2005年11月10日(木) 編集

讀書

『印刷史/タイポグラフィの視軸』を讀み、續いて『日本語のデザイン』を讀み始める。

日本語のデザイン (新デザインガイド)

日本語のデザイン (新デザインガイド)

けふの買ひ物

專門書を扱つてゐるとはいへ、普通に書店の棚に置かれてゐたので吃驚した。

じつは求め/与えようとしているのは“ルール”ではなく,あるいは“ルール”をも含めた,「適切な解」なのである。重要なのは“ルール”本体ではなく,正解を得る行為なのだ。“ルール”が正解なのではない。正解を求める手段が“ルール”なのである。


すべて実践への基本は言語化である。つまり,日常あまり意識しないで実践していること,あるいは過去の経験,あるいは先人が蓄積したノウハウなど,あらゆることがらを言葉として把握し,文字として表現することである。

書評:組版のとき

扱つてゐるジャンルは何であれ、かういふ本は是非とも讀んでみたくなる。

2005年11月08日(火) 編集

友正

友正

目白台にて。しかし、こゝ迄くづされると判讀出來ない。

小春日和

爽やかな*1陽氣。

靴を履き潰す

日記を檢索すると、だいたいこの時期に壽命が盡きるやうだ。いつもと同じく、左足の靴底がぼろぼろになる。廉物の靴ばかり履いてゐるから仕方ないのだが、かといつて確りとした造りの靴は、どうも窮屈で好かない。

はてなりんぐ

今一つ用途が分らない。樣子見で終りさう。

*1:清々しいと云ふのは初夏の晴れた日に用ゐるらしい。

2005年11月06日(日) 編集

哀悼の意を表す

曇後雨

某定例會に出席。歸りに雨に降られる。

流行

假名遣2.0

2005年11月05日(土) 編集

百年前の音を探し、甦らせ、聴く

日本女子大學の公開シンポジウム『百年前の音を探し、甦らせ、聴く』を見學する。午後のプログラムから見に行つた。

携帶型鑞管再生裝置デモンストレーション

鑞管や、再生裝置の原理等が詳しく解説されてゐた。非接觸のレーザーによる方式で開發された最新の再生機の話を聞く。まだレーザーよりも、觸針式の方が音質は勝るとの事。

別室で実物を見た。

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これがプロトタイプ。旅行用のトランク竝の大きさだ。重さも20 kgはある。

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改良してアタッシュケース位のサイズになつた。重さも5 kgと輕量化。

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昔ながらの鑞管蓄音機もある。實際に鑞管から出される音を聞くのは初めて。間近で鳴らされた音は、とてもリアルだつた。

パリ民族音樂學研究所の録音コレクション紹介

實際はお話が主だつた。コレクションの一部が以下のリンクで聽ける。

1900年パリ吹込み日本語録音の全てを聽く

1900年に巴里にて録音された音源とそれに纏はるお話を聞く。色々興味深い事も幾つか。

例へば、〈いろは〉を發音させた時、現代と區切る箇所が異なる事とか、聖書を朗讀した音源から、この時朗讀に使はれた底本が、ローマ字版ではなく、漢字假名交り文の聖書*1を朗讀したものである事を、具體的に考證してゆくのがとても面白い。

日常會話から都々逸、聲色*2まで、音源を聞いてゐるだけでも亦樂しい。一部が1900年 パリ録音の見本で聞ける。


百年前と云ふのが、未だにうまく想像出來ない。半世紀前のレコオドを日常的に聞いたり、例へば、博物館でもつと大昔の物を目にしてゐる筈なのに。百年前に日本人が居て、實際に日本語が話されてゐるのを聞いて、何故だか驚く。

考へてみれば自分が生きた年數の分だけしか、年月の長さは知り得ないのではないのか。それ以上の長さを、どうやつて知る事が出來るのか。

*1:同じ年に刊行された大日本聖書館の『新約聖書路加傳』が朗讀底本らしい。

*2:九代目の市川團十郎

2005年11月04日(金) 編集

  • さんさん録を讀む。
  • Perlのスクリプトを眺める。

けふの買ひ物

印刷史/タイポグラフィの視軸―府川充男電子聚珍版

印刷史/タイポグラフィの視軸―府川充男電子聚珍版

『印刷史/タイポグラフィの視軸』

思つてゐたよりも大きなサイズの本だつた。しかも確りとした造りなので、お買ひ得かも。本文書體は、いつものヒラギノとイワタの組み合せ。字形を切替へた漢字の一覽が示されてゐて參考になつた。

2005年11月03日(木) 明治節 編集

中央公園にて

祈りのすがた―下野の仏画―

栃木県立博物館の企劃展を觀る。曼荼羅から來迎圖、涅槃圖、水墨畫等、平安から江戸迄の色々な佛畫が展示されてゐる。充實した内容でとても樂しめた。

常設展も一通り廻る。下野の歴史や風土、生物系等、その土地ならではの特色が、纏まつて展示されてゐて興味深い。これ位の規模だと廻つてゐても草臥れない。

二荒山神社

大通りを歩いてゐると、右手に大きな鳥居があつたので立ち寄る。七五三の參拜客だけでなく、境内の一角で劍道の試合が行はれてゐたので、矢鱈とごつた返してゐた。物珍しげに眺めてゐる。

2005年11月02日(水) 編集

最近讀んだもの

ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)

ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)

どちらも讀み應へがあり頗る面白かつた。或る意味、兩者とも解説書や概説書の域を超えてゐる。

鬼界さんは、この本をどうやつて終らせる積りだつたのだらうと、正直、期待半分不安半分で讀んだが、最後の最後でさうきたかと唸る。永井さんは〈私〉を通してウィトゲンシュタインを語つてゐる。

ラッセルのパラドクス―世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 (975))

ラッセルのパラドクス―世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 (975))

入門書だけ讀んで物を言ふのは烏滸がましいのだが、矢張りラッセルよりもウィトゲンシュタインの方が、私には肌が合ふ。でも、ラッセルが生涯を通じて續けた思索の姿なり、その考へ自體は、凄いと思つた。

2005年11月01日(火) 編集

讀了

『書籍と印刷の話』と『欧文書体 その背景と使い方』を讀む。

この間讀んだDTPWORLD*1によると、『欧文書体』の著者である小林章氏が、本文書體はプロポーショナルフォントではなく、全角ベタを基本とし、行毎に字間を一つ一つ調整した、と云ふやうな事を話してゐた。凄い。

奧附の處に本文書體*2や用紙*3の種類まで記してあるのも、流石だと思つた。

出版(3)

Mac OS Xに搭載されたヒラギノであれば、正字正かなでの組版は、ほぼ正しく置き換れば濟む話


プロの校正者編輯者も把握してゐないのを、さういふのになれない人間がどこまでできるか

正字正かなでの組版について

*1:2005年11月号Vol.89

*2:タイプバンクゴシック R、B、SL

*3:スマッシュ(四六版94.5 kg)

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