Anchor and steem beer

密造本舗謹製





御試飲者各位
アルコールの記憶は,その時いた街,人の思い出と結びついている。 だから味を思い出そうとすれば,その時の体験や気分までついてくる。 わたしが味わった不思議な味のビールを、今夜は1杯。

「サンフランシスコに行くのなら,アンカー・アンド・スティームがうまい。ついでに君とよく似た女性に会って来るといい。」父の代理で,サンフランシスコに数日行くのだと話すと,クラスメートのジムはこう言った。

サンフランシスコは港を見下ろす坂の町。高い丘の上のホテルのバーからは,昼間青い海と橋,それに町並みがよく見える。夕方になるとその坂を海からの霧が白くひたひたとのぼってくる。最初は建物の間を白いリボンのように流れ,見る見るうちに一面を真っ白にする。その霧の上で,夕日が雲の合間に沈もうとしていた。ここでしか見られない光景。わたしは2杯目のビールを口に運ぶ。アンカー・アンド・スチーム、錨と霧。なんてこの街にふさわしい名前のビールだろう。入り口から軽やかに入ってくる女性の姿が見えた。ジムの紹介したカリーという名の彼女は、うれしい事にわたしにはあまり似ていなかった。不思議な美しさ。「場所を変えようか」とわたしがいうと、彼女はミュージシャンのやってるレストランや,アーティストの手がけたバーの名前を挙げてから,レズビアン・バーは?といって,いたずらっぽく笑った。

少し暗かったが,そこは普通のバーに見えた。点在するカップルも一見すれば男女に見える。もちろん実際は女性同士なのだろう。アンカー・アンド・スティームにスペアリブを注文する。セピア色のビールの少し強めの苦味によく似合う。穏やかな彼女の話ともビールはよく似合った。わたしたちは何杯目かのグラスを空ける。彼女が席をはずした間,わたしは店内をぼんやり眺めていた。
人の気配がして振りかえった。さっきまで彼女がいた場所に山があった。山の上にどうやら人の顔が乗っている。女性だ,ひどく太って大きい。わたしの知らない女性だ。口を開いて何やらしゃべっているが、よくわからない。名前を聞いているのかもしれない。てっぺんにあった顔が,急に近づいた。視界一杯に広がる。山が,いや,大きな体がのしかかってきた。襲われる! 恐怖で皮膚があわ立った。
一目散に外に出た。外は,白かった,霧だ。曇って周りがよく見えない。やみくもに走る。自分の心臓の鼓動だけが聞こえる。息が上がって,脂汗が出た。遠くにホテルの明かりが鈍く見えた。そうか、わたしは見知らぬ大きな女性に口説かれたのだ、ようやく事態がのみこめた。口に出せばコミカルな光景だが,パニックを起こしていた。怖かった。

見なれたホテルの入り口に、ようやく手を掛けると、誰かがわたしの肩をつかんだ。引きつって声もでない。振り向くと…懐かしい姿がある。カリーだった。「だいじょうぶ…」穏やかな声。カリーの顔が近づいた。それは霧でけぶって、わたしの顔に見えた。目の前の自分の顔が,静に微笑んだ。

サンフランシスコは霧の街。
アンカー・アンド・スティームは不思議な霧の味がした。