自家製ダークモルト


密造本舗謹製



御試飲者各位

アルコールの記憶は,その時いた街,人の思い出と結びついている。 だから味を思い出そうとすれば,その時の体験や気分までついてくる。 わたしが味わったビールを、今夜は1杯。

もうずいぶん長いことわたしは部屋の中にいて,だれにも会っていないような気がした。
実際にはもちろん屋外にも出ていたが,1才と4才の子どもは24時間365日母親を必要とし,わたしの行動半径は極端に狭まっていた。この数年,寝込む事も,休むことも,自分一人で本を読むこともなかった。何より友人に会っていなかった。生活時間が違うため,彼らと電話することすら無くなって行った。子どもたちとの生活は楽しくないわけではなかったが,たった一人で,世界から置いて行かれたような,息苦しさを覚えた。一人でアルコールを飲んでも,酔わなくなっていた。そのくせ量だけは,間違いなく増えていった。
ある朝、テーブルにチラシが置いてあった。おおかた夫がどこかでもらってきたんだろう。チラシの見出しが見えた。
「手作りビール醸造へようこそ」


久しぶりに受話器を握り友人のナンバーを押した。「遊びにきてよ,鎌倉でビールを造ろう!」電話口でわたしは歌うように呼びかけていた。
第1回目の仕込みはそれから2週間後,通販で買った醸造セットが届くとすぐ,6家族で行った。あいにく出張が重なった夫は参加できなかった。お互いコブがついたり,相変わらず独身だったりしたが,久しぶりに会った仲間は,東京で飲んだくれていた時と,大して違わなかった。そしてなんだか皆久しぶりにわくわくしていた。鎌倉で,何かを皆で創る。それがファンタスティックな響きである事に,わたしは初めて気がついた。

キットに同封されていた説明書に拠れば,ビール作りは簡単だった。23リットルの20度ぐらいの煮沸した水を清潔なタンクに用意し,缶詰になっている水あめ状の麦芽の煮汁「ビールの素」をそれに溶かし入れ,砂糖を1KG加える。専用のイーストをふりかけ,ふたをして約1ヶ月で一時発酵が終わる。それをビンに移し少々加糖する(プライミング)。打詮して,約2ヶ月冷暗所に貯蔵,2次発酵させる。それでビールはできあがり。文章中ではなんのことなく簡単なはずだった。
だが実際はそれほど甘くない。まずすべての用具を消毒する。指定された消毒液にすべてをつけるのは,結構手間だ。用具が多かったのだ。次いで,煮沸した水23リットル,20度。23リットルもの水を一度に沸かせる鍋などない。大鍋に何度も沸かした湯をタンクに入れた結果,80度ぐらいの湯を満載したタンクができた。水温はなかなか下がらない。ついに風呂場に水を張り,タンクを入水させた。23リットル,20度の煮沸した水ができるまでに日はとっぷり暮れた。それでも6家族,約10人は飲み食いし,騒ぎながら作業を続ける。この間に飲んだビールは15リットルを越えた。久しぶりに友人と飲むビールでわたしは気分よく酔っていた。麦汁の缶を空け,イーストをふりかけ,ようやく一時仕込みは完了。開始から9時間たっていた。タンクは我家の厳寒の地、玄関に置かれた。23リットルの大きさは圧倒的だった。

翌日まだ夫は出張中だった。深夜,1才の下の娘の唸り声でわたしは目を覚ました。彼女は両腕を空に突き出したかと思うと、みるみるうちに白目をむいて痙攣し、泡をふいた。熱性痙攣だった。娘の名前を夢中でさけび、救急車を呼んだ。どうか死なないで、と祈りながら。病院で処置してもらうと,娘は落ち着き、再び寝入ったが,わたしは眠れなかった。夜が来るのが不安で,わたしは子どもたちと共に実家に向かった。タンクをそのままに。
3週間後,子どもは順調に回復した。鎌倉の自宅に向かう。久しぶりに玄関の扉を開けた。そこには,私が置き去りにしたタンクがあった。タンクはわたし達を出迎えるように「ぼこ」と静かに音を立てた。発酵してできた炭酸が,空気抜きのエアタップを通過する音だった。胎動,わたしの頭にそんな言葉が浮かんだ。ビールはタンクのなかで生きて育っていた。

タンクを見て4才の娘が言った。「またみんなでビールつくろうよ,ね,ママ」