サッポロ黒生

密造本舗謹製





御試飲者各位

アルコールの記憶は,その時いた街,人の思い出と結びついている。 だから味を思い出そうとすれば,その時の体験や気分までついてくる。 わたしが味わったビールを、今夜は1杯。

彼と出会ったのは銀座の画廊だった。アメリカの現代写真作家のオープニングパーティーがその日は開かれていた。わたしはあわてて入った, パーティーはもう終わろうとしていた。ワインとチーズで談笑する人々の間をすり抜けて,足早に作品を見て歩く。なにかにつまずいた。目の前をブルーの物体が横切り,部屋の隅まで飛んでいった。靴だ,わたしの青いパンプスだ。ワイングラスを片手に持った男性が,その靴を拾い上げてにっこり笑った。"I like your little shoe." 日本人に見えたその男性は英語で語りかけた。25.5cmの大きな私のパンプスを持ったまま。

Joe kosida(ジョー越田)と彼は名乗った,日系3世なのだと。写真家で,仕事をするうち日本まで漂ってきた,と笑いながら言った。パーティーの後で入ったのはガード下の居酒屋だった。オジサンが仕事帰りに1杯引っ掛けに寄りそうな店。そこで彼は冷奴だの枝豆だの肉じゃがだのを頼み,「これぞ日本料理だ」と言い切り、サッポロ黒生に狂喜した。普段アメリカでは何を飲んでたの,と聞くと,「ミケロブ・ドラフト」とこたえた。知人の会社なのだそうだ。ドラフトとは出荷の際に加熱処理をしてないビール。日本では生と呼ぶ。非加熱だから酵母が生きていて香りが良いのだと彼は語った。エール,ラガーなどさまざまな種類のビールにも,加熱、非加熱があるのだと教えてくれた。「でも,日本ではコレがおいしい。」と,つけくわえ,もう一杯飲んで見せた。

電話があったのは3週間後,彼の友人からだった。ジョーは病気で入院している、面会は今はできない,と。わたしは手紙を送った。また黒生を飲もう、と。2ヶ月後にわたしたちはまた同じガード下の居酒屋にいた。ジョーは痩せて縮んで見えた。9月だと言うのに毛糸の帽子をかぶっている。毛髪がなかった。わたしは彼の病名を察した。テーブルには前回と同じような料理,同じビールが並んだが,二人とも箸はあまり進まなかった。

1ヶ月後に電話は来た。ジョーは死んだ,去ってしまった,と。
家に帰って靴を眺めた。一人で黒生を飲んだ。
ビールは味がしなかった。




ジョー
あなた,いったい今どこを漂ってる?