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私が寝台特急富士号を初めて意識したのは、別府に住んでいる叔父の結婚式に招待された時(1967年3月)のことである。当時、別府には叔父と祖母が住んでおり、上京の折には、必ず富士号を使っており、この時も私はすっかり東京から別府まで富士号に乗れると思っていた。 ところが、父親が用意してきてくれた切符は高千穂号のグリーン車。今となっては貴重な体験ができたと思っているが、当時は九州特急の切符を手に入れるのは至難の技で、実際、こうして私も富士号に乗れる機会はなかったのである。因みに帰りも富士号でなく、寝台急行の夕月号と新幹線を乗り継いで帰京している。一緒に結婚式に参列したもう一人の叔父一家は富士号に乗ってきており、この時ほど、悔しい思いをしたことはない。 |
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別府に住んでいた祖母は夏休みになるとよく富士号で上京して来た。1,2週間、東京の私の住む家に滞在し、富士号で帰って行った。帰るたびに私は祖母のために東京から別府までの時刻表を作ってあげ、そのおかげで富士号の出発時刻やら停車駅を覚えてしまっていて、いまだに富士号の東京駅発は18:40と思ってしまっている。 1967年9月の古い時刻表を見ると東京発が18:40だからその頃のことであろう。 |
1971年に中学生になると初めての一人旅が許され、夏休みに念願の富士号に乗れることになる。車両は当然20系。ナハネ21の3段寝台の下段だったであろうか、嬉しくて一晩中起きていて、通路の窓下にあった簡易腰掛に座って深夜のヤードにライトがこうこうと照っていたのを見ていたことを鮮明に覚えている。別府駅には叔父、叔母夫妻が迎えに来てくれていた。帰りも当然、富士号であった。 |
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初めての富士号の旅 大分駅にて 叔母撮影 1971年8月10日 |
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その時の寝台券 |
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高校生になりかなり自由に旅行をさせてくれるようになり、大好きな富士号を追っかけ、九州には何回か足を運んだ。 1975年3月には客車も24系となったが、食堂車も連結されており、風格は失われていなかった。その年の暮、DF50に牽引される富士号を日向沓掛で、ED76に牽引される富士号を大分付近で冬の寒いなかファインダー越しに記録していた。 |
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1975年大晦日、博多駅の寒いホームで紅白歌合戦をラジオで聞きながら西鹿児島行き夜行列車「かいもん」を待ち、乗車。1976年の初日の出を桜島を臨む城山公園で拝んだまではよかったが、西鹿児島駅から富士号に乗る時になって悪寒を感じ、せっかくの日本最長距離列車の旅に汚点を残してしまい、あまり楽しめなかったのは、今でも残念に思っている。前夜の寒い博多駅のおかげで風邪を引いたのである。 |
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その時の寝台券 |
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高校生時代は勉強もろくにせず、鉄道の写真を撮りに行ったりしていたおかげで大学生にはすんなりなれず、1977年は暗黒の浪人生活を送ることになる。何を思ってか、予備校の授業が始まるまでの春休みにまた富士号の乗りたくなり、今度は東京から西鹿児島まで前年の1976年10月に運用を開始したばかりのA寝台個室(今でいうシングルデラックス)に乗ってしまう。 |
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1978年春、無事大学生になり、やはり勉強そっちのけでまた鉄道を追いかけ始める。しかも仲間をたくさん見つけて。せっかくの大学生活なのでテーマを設け、富士号を追っかけることにした。自分で写真を撮るだけでなく、仲間からも写真を譲ってもらったり、ペンネームを「FUJI」などにして楽しい(?)大学生活を送る。そのうちのいくつかの写真が下の写真である。 |
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楽しかった大学生活も鉄道に明け暮れ、あっと言う間の4年間であった。何とか会社に就職でき、結婚もし、子どもにも恵まれ、趣味に没頭する時間も限られた。ただ、全く趣味を捨てたわけでもなく、許可をもらっては写真撮影に赴いた。 |
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鉄道に明け暮れた学生時代から約30年が経ち、富士号の行先も宮崎、大分とどんどん短くなっていった。自分自身、最近は、ようやく少し時間も出来てきた頃だが、そんな中、富士号の廃止のニュースが飛び込んできた。1965年の登場から44年。既に時代は寝台列車を求めておらず、東京発九州行きの最後の寝台列車も2009年3月14日のダイヤ改正をもって消えゆくこととなった。 1967年の初乗車を逃したこと、祖母のために時刻表を作ってあげたこと、中学生での初めての一人旅で一睡も出来なかったことが走馬灯のように頭の中を駆け巡る。いろいろな思い出を作ってくれた寝台特急富士号。長い間の活躍、ご苦労様でした。 |
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