[ レポート集 ]

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「第13回 ろう教育を考える全国討論集会 分科会」 報告書

 日時:2001年 8月 17日(金)〜19日(日)

 場所:石川県
    金沢市観光会館/石川県社会福祉会館
    石川県社会教育センター/金沢市中央公民館

 発表内容:

  (1)障害の捉え方で親が変わる」 〜親は子どもに何を望むか〜

  (2)「ろう児をもつ親の社会に対する働きかけ」

第五分科会 【障害認識】

「障害の捉え方で親が変わる」

    〜 親は子どもに何を望むか 〜

  はじめに

 親は子どもよりも先に障害の告知を受ける。その心理状態は複雑だ。しかし、子どもの将来の姿となる成人ろう者に出会うことで、その受け止め方が微妙に変わる。また〔ろう〕をどう捉えるかでさらに認識も変わり、意識も変化する。子どもたちの豊かな心と生きる力をはぐくむために、親達は何をすればよいのか。また親の心理的な作用が、子どもたちにどんな影響をもたらしているのか。これらについて、その経験や〔親の会〕での聞き取り調査などから、その一端を明らかにしていきたい。そして、子どもたちの生の声から、いまろう教育に望んでいることを述べてみたい。
  1. 告知から受ける親のダメージ
 まず医療機関、ろう教育機関で行われている告知や、親への支援方法に疑問を感じている。その告知のほとんどが「残念ながら耳が聞こえません補聴器や人工内耳をつけて訓練すれば、しゃべられるようになります」というものである。さらに
  • 現代の医学ではどうしようもできません
  • 今後、聴力はさらに落ちる可能性があります
  • 音声でしゃべられないと社会に出てから困ります
  • 手話は社会では通用しません
  • 残存聴力を使って教育しましょう
などもよく言われることだ。

 これら一連の説明で、親は〔聞こえない事〕つまり〔ろう〕を否定的に捉え、音声言語だけが人間の言語だと思い違いをすることが多い。告知後の親の気持ちを聞くと

「目の前の我が子が、かわいいと思えなくなった」
「子どもに何を言っても通じないんだと思うと悲しくなった」
「将来の姿が分からず不安でいっぱいになった」
「聞こえる子が羨ましく思え、なぜうちの子だけが?・・いったい誰のせいなのだと途方に暮れた」
「人生を怨み、笑うことさえ忘れていた」
「これからは何から何まで私が教えなければと、すべてを一人で抱え込み、つぶれる寸前だった」

などここから出発する親の心理は、すべて「聞こえない」というマイナスのイメージでしかない。そして不安ばかりが先行し固まっている。子どもも自分が一番大好きな親から、受け入れられていないことが直感で分かる。この期間が長ければ長いほど親子の心理に影響を及ぼし、子どもの生きる力、豊かな心の形成を阻むものになりやすい。〔ろう〕を否定的に捉えることは〔ろうとしてこの世に生を受けたわが子〕を否定することにつながる。何十年も続いているこの悪しき告知方法を何とか変える手だてはないものか。そこで医療機関、ろう教育機関全般にわたる視点の相違に着目をしてみた。
  1. 視点の拡大
 医師、専門家は『科学、専門性』と『心』を切り離してしまっているのではないか。これについては耳鼻科に限らず、いろいろな分野で問題とされているようだ。【資料1医学会からの報告】医の原点である一番の目的は救命であるが、その救命には生物学的、量的な命を救う局面と、その人のクオリティー・オブ・ライフ=生命、生活の質を救う面とがあるそうだ。つまり現代医学は患部だけを見つめ、その細胞組織を突き詰め、DNAにたどり着く医療といった『科学、専門性』のみ突き進み、人間とは何かという『ホリスティック』(全体論的)な発想からくる『心』の医療が見落とされている。これをあてはめれば、現状の告知は聞こえないことを人間の一部としてどう捉えるか。ろう児、ろう者はどう生きていくかといった実態にまで及んではいない。内耳という部分だけを、『科学、専門性』の観点から述べているに過ぎない。確かにそれも必要だが、それだけで終わっている方法には問題がある。例えば告知と同時にろう者を紹介し、ロールモデルに会わせることで未来を展望させるなど、親の気持ちが前向きになるような告知が必要ではないかと考える。医師、専門家に望むことは、〔ろう〕として暮らしている人々のことをもう少し知って頂きたい。そして同時に、親の心理をケアーするカウンセリングなども必要性ではないだろうか。あらゆる視点の拡大のためにも、全国のろう者に協力を求めたらいかがであろうか。ろう者と親と一緒になって医師会に申し入れをしたい。マイナスのイメージだけの告知は、一日も早くやめていただきたい。「聞こえない事は残念なことではない」実際にろうの我が子を育ててみてそう思う。聞こえない子というよりも「耳を使わないで生活していく子ども」「視覚が発達した子ども」と言った方が適切だ。
  1. 豊かな心と生きる力に必要なもの
 医師、専門家に限らず、親も視点を拡大する必要があるのではないか。子どもを障害者というより、ひとりの人間として捉え、その人間というものの全体性を見た場合(ホールネス)、発想の転換が図られる。親達も耳だけに捕らわれ、言葉の習得を子どもの目標と考えていなかっただろうか。もっと視点を広げて考えてみよう。すると親が子どもに何を望んでいるのかが見えてくる。それは、「ひとりの人間として人格を完成し、社会の中で真理を見極め、健康で自立した人間になって欲しい」ということである。それがつまり豊かな心と生きる力を得るということではないだろうか。人間が家庭や社会の中で他者と関わりながら人格を形成し、人間性をはぐくみ、豊かな心の成長を遂げるには、言語(母語)、文化、コミュニティーは不可欠なものだ。これらを基盤として成り立っていると言っても過言ではない。ではろう児にとっての言語、文化、コミュニティーはいったいどんなものかをさらに視点を拡大して考えてみたい。
  1. 子どもの言語(母語)に関して世界の言語学者の説を引用すれば、子どもに入る情報が個別言語として一つひとつ確実であれば、その脳内にある言語能力によって、自然言語を生み出していくそうだ。言語(母語)は、教えるものではなく自然に習得できるものであるという。そこから考えると聴覚口話法はいつも曖昧で不透明な個別言語しか入らない。だから能力も生かしきれずに母語さえも持ち得ないセミリンガルになってしまうのは、ある意味当然とも言える。ろう児が人間として本来持っている能力を100%生かし、さらに自然言語の文法を備えているものは何かと考えた時、当然のように視覚言語の『日本手話』にたどり着く。(先天性ろうの場合)
  2. ろう者と一緒にいると、様々な場面で聴者と違うなぁと感じる場面に遭遇する。良い、悪いという次元ではなく、行動様式の違いなのだと強く感じる。これは日本手話という共通言語をもつ人々が必要に応じて生みだし、受け継いできた文化であろう。聴者とくらべて少数者としての彼等の文化はとても貴重に思う。アイヌ文化を保護するように、『ろう文化』も保護、継承する必要があるのではないかと。そう考えると、ろうとしてこの世に生を受けた子ども1人ひとりが、その担い手として重要な役目を担っていることに気づく。
  3. 『日本手話』『ろう文化』を基盤とした文化的集団として確立していれば、目的によって様々な『コミュニティー』を形成することができると思う。例えば全国的な規模で、ろう者への理解を深める活動を目的としたコミュニティーは就職、政治活動、ろう者が関与する学校、福祉機関などの改善を求める字幕や手話通訳の必要性、聴者と同等の情報保障、手話やろうの歴史への社会的認知、欠格条項の改正などが含まれるであろう。
 言語(母語)、文化を習得していればその文化集団内において、他の人間のすべての文化と同じように個人の基本的欲求は満たされる(モノリンガル、モノカルチャー)。それが確立されることによりバイリンガル、バイカルチャーへと発展できると考える。さらには、己(ろう者)を知ることで相手(聴者)が見えてくる。その違いを見つめ、それがきっかけで精神を高めることもできる。そこから異文化との真の交流が始まるであろう。そんな大袈裟に言わないまでも、90%は聴親の元に生まれ、幼いときから聴文化にさらされているし、文字の日本語もあちこちあふれている。子どもたちは、もうとっくにその基盤を持っている。

 ろうとして生まれた自分を慈しみ、無条件で愛してくれる親を持ち、聴者の大勢いるこの日本で生きていく。ろう者として誇りを持ちながら、自分らしく生き抜くために『日本手話』『ろう文化』『デフコミュニティー』は欠かせないものであると考える。その基礎を作る場所こそがろう学校の役割ではないだろうか。
  1. その実践と成果の一部
 私はいままで、以上のような情報を知らずに、ろうの娘を聴覚口話法で育ててきた。2年前より新しい方法を取り入れ、同時にインテグレーションをやめ、バイリンガル、バイカルチャーを実践している。ろう児のためのフリースクールに通い親も日本手話を勉強中。この2年間の娘の変化に驚き、喜んでいる。
[ビデオ資料1][プリント資料1]
  1. ろう教育に望むこと
 家庭内で聴覚口話法、キュードスピーチ、手話単語を取り入れた会話などいろいろと実践してきたが、やはりろう児の母語は『日本手話』なのだとつくづく思う。今ろう教育界は混沌とし、変わる兆しを見せてはいるが、本人や親が望んでいる方向に進もうとしているだろうか。もう一度、親、本人、教師とで原点に戻って話し合う必要を強く感じている。ろう児が人間として必要な言語は『日本手話』であり、それを共通言語として生活できる学校、その上で個人のニーズに合わせて、口話、聴覚口話、発音の誘導にキュードなどを選択できる環境が望まれる。バイリンガル教育を望む親子の選択肢も作っていただきたい。ろう児の教育には、聴者の教師とろう者の教師が絶対に必要な事をご理解いただきたい。そのためには、ろう者教員を採用できる制度確立に向けての努力を惜しまない。親も手話を覚え、子どもが大きくなっても、いろいろなことを心おきなく話し合いたい。
おわりに

 我々はろう児と共に生活し、さらに自立するまでの長期間、継続して接することができる。つまり様々な側面からろう児を捉えることができる重要な実践者の1人であると思っている。過去の過ちや、足らない部分を補いながらその教訓を生かしてきた。学校などと違い体制に縛られない分、良かれと思ったことはすぐに実践できるメリットもある。なにより子どもの成長は待ってはくれないので実践するしかないのだ。今後もこのような我々の試行錯誤を医療機関、教育機関の助言を頂きながら『子どもたちの豊かな心、生きる力をはぐくむために』何が必要かを、一緒に探りたいと思っている。医療機関、教育機関、親そして本人が対等な立場で情報を交換しながら、討論できる関係を作っていくことが今後の課題ではないだろうか。

 10年前、「残念ですがお子さんは耳が聞こえません」と言われ途方に暮れていた親も、たくさんの情報と生き生きとした成人ろう者に出会うことで、今は異文化にふれる喜びをかみしめながら、子育てを楽しんでいる。ろうを知り、ろう者に出会い、ろうの歴史を学ぶ。そんな中から聴者の親も認識を新たにしてきた。これからもろう者に学んでいこう。我が子がろう者として、また人間として誇りをもって生きていけるよう心から望んでいる。 

   【参考文献】

【参考資料】
  • 深層心理学・河合隼雄その多様な世界
  • 1990日本救急医学会総会資料
  • スティーブン・ピンカー言語を生み出す本能
  • ノーム・チョムスキー言語本能類似説
  • ろう文化
  • 聴覚障害者の臨床心理
  • アメリカのろう文化
  • デンマークのバイリンガル教育


第一分科会 【親の役割】

「ろう児をもつ親の社会に対する働きかけ」

  1. はじめに
 我が子がろうとわかったときはとてもショックでしたが、多くのろう者との出会いによって、今までいかに自分の生きてきた世界が狭かったのかということに気づきました。それからいろいろな壁にぶつかりましたが、その都度たくさんの方が力になってくださり、新たな道を切り開くことができたように思います。今までに行ってきたいくつかの活動を紹介することにより、ろう児をもつ親である私たち一人ひとりの社会的役割について提案したいと思います。
  1. ろう児が誕生して
 子どもがろうと分かったのは子どもが7ヶ月のときで、はじめは大変ショックでしたが、その後たくさんの成人ろう者と知り合うことにより、ありのままの息子を受け入れることができるようになりました。そして、多くのろう者たちが誇りをもって使っている手話という言語が息子にとって最も大切なことばになるということを確信することができました。
  1. 保育園入園時の体験を通して
 息子がろうと分かって最初の壁は保育園の入園でした。我が家は共働きのため、現状では子どもを保育園に預けなければなりませんが、障害を理由に入園が認められませんでした。入園不承諾通知が来たのが妻の仕事復帰1ヶ月前で会社その他すべての準備を終えていただけに大変なショックでした。しかしその際、地元のろう協や聴覚障害者団体や全国のメール仲間が力を貸してくださり、自治体への陳情書やメールによって要望をしてくださいました。最終的には地元の市民団体があいだに入ってくださり、入園不承諾の撤回、第二希望園への入園が決まり、その後第一希望園への転園という形で息子の保育園入園が実現しました。そのような経験を通して初めて障害児をもつ家庭を支える社会システムの未熟さに気づくことができました。

 自分自身の問題についてはたくさんの方の支援を受けて入園を実現させることができましたが、同じような屈辱を味わっているたくさんの方々がいます。入園時面接をさせられ、障害のない子どもは必要ない「審査会」で落とされたり、何年にも渡って入園を断られたため裁判になっているケース(他の地域)や、入園はできたものの毎年継続審査のための面接で「(障害のない子ども)の待機児童がいるので退園して欲しい」と求められるなど、単なる入園問題というよりは「障害をもつ子どもやその家族の人権」に関わる大きな問題であると感じました。

 その後市民団体とともに全国の「障害児保育実施要綱」や障害児家庭支援システムの調査を行なうことにより障害児保育に関する問題を明かにした上で、今年行政との懇談会をもつことができ、障害児をもつ親の生の声を伝え、障害児家庭支援事業に関する提案を行なうことができました。現在こうした提案を受けて行政が障害児保育に関して検討してくださっています。これは「市民の意見を聞く行政」への変革と、積極的に勉強して提案する市民集団との連携で実現することができました。その調査結果や提案は保育に関する全国的な研究集会でも紹介される予定です。
  1. 「保育」・「教育」の視点から
 私たちはろう児はろうである前に子どもであるということを考えなくてはいけないのではないでしょうか。通常、子どもを教える立場にある保育・教育者は特別な勉強をしています。
 「保育」という分野においては保育士になる人たちに対して次のようなことが教えられています。
「子どもが自発的、意欲的にかかわれるような環境の構成と、そこにおける子どもの主体的な活動を大切にし、乳幼児期にふさわしい体験が得られるように遊びを通して総合的に保育を行なう」

「子どもが思考力を始めとした多くの能力を発達させるために必要な論理の展開も、子ども同士の社会的相互作用なしには経験し得ません」

「自分とよく似た視点を持つ他のこどもとの間で行なわれる社会的相互作用は、子どもの情緒的、社会的、道徳的な発達のみならず、知的発達にとっても不可欠な体験です」

「子どもの発達を促すためには、大人の側からの働きかけばかりでなく、子どもからの自発的、能動的な働きかけが行なわれるようにすることが必要です」
(保母試験に合格する本 保母試験合格指導会編 有紀書房)

 「教育」という分野においては、昨今社会的な問題が多々発生しているため、さまざまな分析や研究がされていますが、東京大学大学院教育学研究科助教授の汐見稔幸氏は「日本の教育と人格形成上に生じている問題」について書籍(「教育」からの脱皮 ひとなる書房)のなかで次の項目を挙げています。
  • 自己肯定感の育成(子どもが自分のかけがえのなさを深く信頼する)
  • 選択能力と主体の形成(人生の選択肢の多様化に伴う選択する力の育成)
  • 判断主体の形成(解を自分でつくる力の育成)
  • 学校化過剰(家庭と学校における「教育」のみを問題にする傾向)
  • 情報管理主体形成(情報を自前で生産し管理する力の育成)
  • 真性の文化体験(学校が「文化の変容」に充分対応できていない)
  • 家庭と育児の危機(学校を含めた社会が親の育児をうまく支えられていない)
 また、同書籍の「基礎学力概念の再検討」−単純な鍛錬主義をのりこえて−という部分で、必要な基礎学力は単なる読・書・算ではなく、「現代的リテラシー教育」が必要であることに触れ、「学びの主体としての子どもが、授業、鍛錬の対象として位置づけられるのではなく−鍛錬が大事だと思えば、それを子どもたち自身が相互発見しあえるような学習が保障されねばならないだろう−、基礎学力を身につけることが、文化の基礎部分を感動的に発見し身につけていくことに重なるような、学びの質を追い求める授業が大切になるだろう。」と述べています。

 「保育」で言われている乳幼児期にこそ必要な「乳幼児期にふさわしい体験が得られるための遊び」や、「自分とよく似た視点を持つ他のこどもとの間で行なわれる社会的相互作用」はどのような子どもにもあてはまるはずです。そして特にろう児の場合、乳児期においてお互いに対等で無理のない手話によるコミュニケーションができるろう学校という場(聴覚口話法のろう学校でも、モデルとなるろう者と接する機会があり、子ども同士の自由な遊びが保証されていれば効果がある)の果たしている役割は大きいと思います。そして、「教育」での問題点として汐見氏が挙げているすべてはろう教育においても点検し改善していかなくてはいけない部分だと思います。

 私の子どもは多くの方の支援により保育園への入園ができたのですが、対等な手話を使った友達関係を築いていけるようにするために、ろう学校幼稚部に入れる必要があり、現在乳幼児相談に通って準備をしています。親が働いているあいだ子どもをろう学校で預かってもらうためには、「ろう児を育てる共働き家庭への支援制度」が不可欠ですが、これについても今後提案をするとともに、具体的な手段を検討していきたいと考えています。
  1. 親同士の連携
 ろう児をもつ親にとって果たすべき役割はどのようなものなのでしょう。子どもの権利条約18条にもあるように「親双方が子どもの養育および発達に対する共通の責任を有する」わけですから、親は大きな責任をもっています。しかし、その際「子どもの最善の利益」が何なのか、子どもにとって、子どもの将来にとって何が必要なのかを、親である私たち一人ひとりが、「子どもにとって必要な基礎学力」という概念そのものが変化し、社会が求める人材もまた変化しつつある中にあって真剣に考えていかなくてはなりません。また、私たちの子どもはまぎれもなく大人のろう者に成長していきます。その事実は変わることはありません。そのことをいかに早く受け入れ、子どもの将来の姿であるろう者との交流を持っていくかということがろう児を育てる上で大切だと思います。そのうえで、ろう者の手話や文化について、障害一般について、教育について、育児について、地域社会と学校との関係について等幅広い学びをしていくことが大切ではないでしょうか。

 そして私たち親は単に自分の子どもの成長だけに関心を持つのではなく、クラスで机を並べている子どもたちについて、ろう学校に通う全ての生徒について、そして更には全国のろう学校のことも考え連携をとっていく必要があると思います。ろう児に対するろう教育の改善はそうした連携なしには難しいのではないでしょうか。昨年そうした思いを持ったろう児をもつ親たちが集まり「全国ろう児をもつ親の会」(http://www.hat.hi-ho.ne.jp/at_home/)を結成しました。全国の親たちが自ら勉強し、入手した情報をインターネットという形で全国に発信してろう児をもつ親たちすべてがろう児の子育てについての広い知識を持つことができればと願っています。開設当初から思いのほか反響が大きく、この1年のあいだに約2万件のアクセスがあり、全国の親から電子メールで協力をいただいたり、数々の相談をいただいております。最近ではろう学校の先生方からもメールをいただいたり、各種講演会等でホームページの資料を使わせて欲しいといった要望も来ています。

 親である私たち一人ひとりが更に勉強してお互いに連携を強めていったらもっと素晴らしいろう教育へと変えていくことができるのではないでしょうか。
  1. さいごに
 これまで、教育に限らず多くの公的分野において「一方的な提供と矯正」が行なわれてきたように思います。しかし時代の変化にともない、「上からのもの」と「下からの要求」に大きなずれが生じてきました。その結果親たちから教師に対する要求が大きくなったり、役所などの職員に対する不満が増してきたのではないでしょうか。しかし、こうしたことに対して苦情を言うだけが解決の方法ではありません。政府や地方自治体が市民の声に耳を傾け、学校では校長の公募や評議会の設置などが行なわれ、行政の多くの事業が民間に委託されるなど、「地域社会との協働」が求められるように変化してきています。そうした変化を私たち親・市民はもっと重く受け止め、一人ひとりが新たな意識をもっていく必要があるのではないでしょうか。これは「プライベイト・シチズン(個人の生活を大切にしつづける市民)」から「パブリック・シチズン(社会や身の回りのことに疑問を持って積極的に関与していくことの意識を持った市民)」への変革であり、私たち親・市民が担える部分を積極的に担っていくことにより学校や行政との協働を推進し、より良い学校や地域社会をつくりあげていく必要があるのではないでしょうか。

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