[ レポート集 ]

様々な文献や発表原稿などを掲載いたします。

「第14回 ろう教育を考える全国討論集会 分科会」 報告書

 日時:2002年 8月 9日(金)〜11日(日)

 場所:栃木県
    栃木県総合文化センター/宇都宮総合福祉センター
    宇都宮市中央生涯学習センター/宇都宮市冒険活動センター

 発表内容:

  (1)ろう教育の改革と私達の役割」 〜 ろう教育の専門性とは 〜

  (2)「バイリンガル教育を目指して」 〜 聴親がろう児にできること 〜

  (3)「ろう児にとって統合教育は望ましくない」

  (4)「働く親にできるろう学校幼稚部までの子育て」


第9分科会 【聴覚障害教育のシステム】

「ろう教育の改革と私達の役割」

    〜 ろう教育の専門性とは 〜

  1. はじめに
 私たちの子どもは「ろう児」です。つまり「耳を使わない」子どもたちなのです。その子どもたちにとってハンディのない言語は、視覚言語の「Japanese Sign Language」「日本手話」となります。その日本手話は母語となり、それを第一言語として獲得し、書記日本語を第二言語として獲得します。基本は日本手話と書記日本語の二つの言語であり、同時にろう文化、聴文化を学ぶ、いわゆるバイリンガル・バイカルチュラル教育を望んでいます。実際にろう児を育てた経験から、ろう児にとってバイリンガル・バイカルチュラル教育が一番適していると判断し、その教育を選択できる環境が整うことを望んでいます。
  1. 今までのろう教育
 耳の聞こえる子どもは、自分達の分かる言語で公教育をうけています。共通の母語を持った教師から学んでいます。では、ろう児はどうでしょう。ろう学校では音声言語がほとんどで、少々ましなろう学校で不完全な手指日本語(日本語対応手話とも言うがこれは手話言語ではない)を使っての授業が行われています。そのどちらもろう児にとっては分からないか、分かりづらい言語です。ろう児もはっきり分かる言語で授業が受けたいし、自分達と共通の母語を持った教師からいろいろなことを学びたいのです。これはひとりの人間として教育を受ける権利なのです。公教育の不公平さはこれに留まりません。ろう児は自分達の意思とは関係なく、自分達には聞こえない音声を強制させられ、一番大切な遊びの中から学ぶ時間を奪われています。子どもとして自由に遊びたい、分かる言語で楽しい絵本を読んで欲しい、分かる言語で勉強がしたい、分かる言語で日本語を覚えたい。そんな当たり前の教育を望んでいるだけなのです。そういった教育を受けられれば、歳相応の言語力や発達を経て、さらに学びたいと自らの意欲も湧くことでしょう。その意欲の一つが例えば残存聴力を生かした発音訓練や聞き取り練習であれば、それに対応し指導すれば良いのです。音声は決して強制するものではないと思うのです。
 ろう児の身体的特徴は「耳を使わない」ことと「発達した視覚をもっている」ことです。その特徴を正しく理解し、彼らの能力を伸ばすことのできる人がろう教育の専門家と呼ばれるのではないでしょうか。しかし残念ながら現在の日本のろう教育は発展途上にあり、専門化といえばオージオロジストが真っ先に出てくるような国です。オージオロジーが中心で、それのみがろう教育の専門性と勘違いされている節も見られます。補聴器、人口内耳、さらには内耳幹細胞の移植の研究と突き進んでいるようですが、私達親はそんなことはまったく望んでおらず、もしそのような予算があるのなら、バイリンガル・バイカルチュラル教育の研究に即刻、役立てて欲しいと願っています。実際に今日もどこかのろう学校で、分からない音声言語を聞かされ教室にただ座っているだけのろう児がいるのです。そんな公教育を70年間続けた結果として、ろうの子どもたちの学力不足、就職の不利益、セミリンガル(手話言語も書記日本語も不完全)、アイデンティティークライシスという不の遺産が数多く残されてきました。考えてみれば当たり前のことなのです。聞こえない子どもに、音声で授業をしているのですから。しかし最近ようやく聴覚口話法だけではダメだと気づき、その音声に手話単語を付け授業をしている学校もあるようですが、この方法もろう児にとっては曖昧で不適切なアプローチなのです。しゃべっている教師は自分の声が耳に入るので、きちんと伝わっていると勘違いをしているだけで、音声日本語に手話単語をいくらつけようが、不完全な情報でしかないのです。文法が不完全な言語をいくら与えても、その意味を理解することは不可能だからです。子ども達の脳はきちんとした文法を備えた言語を望んでいるのです。ろう児にとって100%見え、文法を備えた言語が視覚言語である日本手話なのです。
  1. 海外からの情報
 次に、海外からの情報として二種類のものを紹介します。Aは、イギリスの大学院のろう教育カリキュラム。実際にこのカリキュラムを学んだろう児を持つ親からの紹介です。Bはアメリカのろう教育に25年間携わり、現在大学でろう者と関わっている教授の著書です。

A イギリス・シティ大学(ロンドン)
<学部>社会と人間の科学
<学科>言語とコミュニケーション
<コース>人間のコミュニケーション
<単位>Deaf Studies・ろう研究 
<聾研究>
  1. この単位は次のことを目的としている
    • ろうの社会・文化・言語を含め、ろうに関する問題についてより深く理解できるようにすること
    • ろうを経験することについて洞察できるようにすること
    • ろう教育の過去・現在・そして発展的な未来について、知識を増大させること
    • ろう者のために働く行政部門・組織・機関についての意識を高めること
  2. 講義の摘要は次の諸問題を含む
     ろう・手話言語・ろう者の社会とろう者の文化(国内的及び国際的)・ろう文化における言語の役割(音声言語と手話言語)・手話言語の習得・ろうに関わる社会的医学的問題・ろう者の「心理学」・手話言語学の概念・ろうの経験・後天性失聴(言語習得以前と以後、先天性重度のろう)・聞こえない親と聞こえる親と・ろう者のために平等な機会や利用法(アクセス)・利用法に影響を及ぼす政策や法律(通訳、ノートテイクなどコミュニケーションのための人的援助)・ろう者のために働く行政部門、組織、機関
  3. ろう研究の目的
    @ ろうの概念の考察
    A ろう者及び彼らの言語・社会・文化の紹介
    B ろうとろう者に対する個人的な態度の探求を奨励
    C ろう者に対する態度の歴史的変遷を観察
    D ろうとろう者についての一般的な理解の考察
    E 以下の紹介 
      1)ろう社会の構成員であること
      2)ろうのモデル
      3)聴覚学的定義と文化的定義の意味するもの
  4. 講義の予定表
    @ コースの紹介 聾についての問題     
    A 手話言語                
    B 言語の役割 (音声言語と手話言語)   
    C ろうの経験               
    D ろう社会と聾文化
    E 聾に関する社会的医学的問題
    F 聾の心理学
    G 手話言語の習得  
    H 政策と法律
    I ろうとメディア(テレビ・新聞など)
B  『ろうの生徒の教育を見直す』   
   アメリカ・シティ大学(ニューヨーク)
   ラグアルディア・コミュニティ・カレッジ
   ろう成人のためのコースの教授
            スー・リヴィングストン 著
【目次】
第1章 ろうの生徒の教育の何が間違っていたのか、それはなぜか
  * 二つの基本的な誤解
  * 理論と実践が意図的で相互的であること
第2章 アメリカ手話の言語力を上達させる
  * 言語を教えないということ
  * ろうの生徒とどのようにして「話す」か? 〜通訳者としての教師〜
  * 生徒同士の会話
  * 言語使用者の評価
第3章 読み手として上達する
  * いろいろな言語学的経験  〜最適条件の方法論以下〜
  * 朗読
  * 読み方を教える
  * 読み手としての評価
第4章 書き手として上達する    
  * よく似た目標   〜よく似た教授法〜
  * 書き方を教えるための効果的状況
  * 評価
  * 対話の記録
第5章 学科領域において学ぶべき手話、読み方、書き方
  * 手話、読み方、書き方を学科領域に統合するための提案
  * 生徒が学んだことの評価
第6章 結論
  * その他いくつかの意見
  * ろうの生徒を教育するための意図的、相互的方法の展開

参考文献
補遺
  * 低学年の初歩の読み手のための推薦図書
  * 高学年(10歳以上)の初歩の読み手のためのシリーズ図書
  * 中学生の初歩の初歩の読み手のための言葉のない絵本
  * 大人の未熟な初歩の読み手のための推薦図書
  * 大人の未熟な書き手に書き方を教えるための模範となる小論文集
  * 子供向け情報絵本の出版元
  1. 改革したいろう教育の専門性とは
 上記の二つの情報からも示唆的なものを感じますが、最初に述べたように今後のろう教育は、バイリンガル・バイカルチュラル教育を基本としていただきたい。その目的は聴児と同じ、社会の一員としての人間形成と学力の向上です。そのためにはろうを知る教育を受けた教師を育てる。ろう歴史学、手話言語学、ろう社会学、ろう心理学などを学ぶことがろう教育の専門性のひとつであり、同時にこれらの学問を、ろう児にも年齢に合わせてカリキュラムを作り、幼いうちから学んでほしいと思います。これらは自分の存在や他者との関わりを思考するきっかけとなり母語の獲得とアイデンティティーの確立にも欠くことのできない学習となるのです。そして母語習得とアイデンティティーの土台ができれば、多言語獲得、多文化理解に発展させることができるのです。今までのろう教育の中心であったオージオロジーは、その母語の獲得を保障した上に発展する、多言語獲得の中にこそあるべきもので、決してろう教育の土台ではないことを改めて確認したいと思います。
  1. まとめ
 私達は実際にろう児を育て「子どもたちには素晴らしい能力がある。それを発揮できなかったのは、ろうである彼らが悪いのではなく、ろう教育の方法が悪かったのだ。」と言うことが分かりました。21世紀に入った今、今後も海外からの情報を得たり、過去のろう教育の過ちを検証し、理不尽で不公平なろう教育を直視し改革を求めなければなりません。そして未来ある子どもたちに、負の遺産を背負わせないためにも、公教育でバイリンガル・バイカルチュラル教育を選択・実践できるよう早急な改革の働きかけが必要です。子どもの成長は待ってはくれません。「木を見て森を見ず」=「内耳を見て、ろう者を見ず」にならないよう「ろう児のことはろう者に聞け」をモットーにしていきたいと思います。


第2分科会 【幼児教育とコミュニケーション】

「バイリンガル教育を目指して」

  〜 聴親がろう児にできること 〜

  1. はじめに
 「10人10色」という言葉があるが、私たちの子供の聞こえこそ、まさに10色だと思う。息子の場合、音声言語の習得にはかなりの困難が予想された。わが子にとって一番良い方法は何か?親なら誰もが考える。21世紀は、「個」の時代だと言われている。一般の小学校では「個性を大切に」「子供の良いところを見つけよう」「得意なことを伸ばそう」といったプリントが配られるほどだ。私たちは、ろう児にとって得意なこととは何か?を考えた。答えは簡単明瞭「目」だ!「目は口ほどにモノを言う」と言うではないか。様々な情報を集める中で、既に欧米で実績をあげている「バイリンガル教育」に挑むことを決めた。「バイリンガル教育」とは、第一言語(母語)として日本手話を獲得した後、第二言語として日本語を習得するというものである。ところが、残念ながら日本のろう学校には「バイリンガル教育」を実践しているところはない。しかし、息子にとって確実な方法はこれ以外にないと思った。
  1. 言語獲得の見本
 私には二人の息子がいる。7歳の長男(聴児)4歳の次男(ろう児)だが、この長男の言語獲得の過程が、実に良い見本となっている。特に5歳から6歳にかけて音声言語(喋り言葉)の成長には目を見張るものがあった。ろう児の次男が、これを追いかけたところで、追いつくはずがない。更に、長男の書記言語(読み書き)の獲得過程を目の当たりにすることで、音声言語と書記言語は別のものであること、喋れるからといって読み書きができる訳では無いとを実感した。小学1年生の長男には、学校から音読の宿題が出る。これは、書記言語と音声言語を結びつけるための訓練である。ある時期、私は「音声言語を身につけなければ、書記言語を獲得できないのではないか?」との疑問にぶつかった。しかし、長男の書記言語獲得過程を見ることでその疑問は解決した。「あ」からはじまる51音は音声言語と照らし合わせて習得することができるが、それが文章になったとき音声言語とはまったく別のものになる。それが証拠に、40年以上喋り続けている私でも、論文や資料、新聞記事など、一度読んだだけでは理解しきれないものがたくさんあるではないか。また、この原稿を書きながら書き言葉の難しさを実感している。というわけで、私たちは次男の大切な時間を音声言語の訓練に使う必要はなくなった。
  1. 母語としての手話言語
 北欧型の「バイリンガル教育」では親の手話学習が必須となっている。その代わり、学習機会が保障されているという。一方、米型の「バイリンガル教育」では、親の手話学習は各自の判断に任されている。もちろん、学習希望者はろう学校内で適切な指導を受けることができる。当然のことだが、日本には手話学習制度そのものがなく、私たちは独自で手話を学ぶことになった。当時、日本手話と対応手話の違いもわからないまま、とにかくろう者の家庭教師を探した。そして、わが家にやって来たのがネイティブサイナーのIさんだった。やはり言語を学ぶにはネイティブサイナーに限る。手話がこれほどまで情緒豊かで美しいものだと知らなかった。同じ手の動きでも、眉の上げ下げやわずかなうなずきで意味がまったく違ってくる。「手話は語彙が少ない」という人がいるが、とんでもない!聴者が読み取れないだけだとわかった。日常的に使う日本語に「いいよ」という言葉があるが、これは何通りもの意味をもっている。積極的な同意を表す「いいよ」から、仕方ないけど同意するという意味の「いいよ」、拒否を意味する「いいよ」というのもある。活字だけではその意味は図りきれない。なぜなら、私たちは無意識に音の強弱や微妙なイントネーションやアクセントによって使い分けをしているからだ。手話も同じことが言えるようだ。親子の会話には、この「いいよ」と「いい」が頻繁に出てくる。まさにコミュニケーションの基本といえる言葉だと思う。「いいよ」の読み取りや使い方があいまいだったり間違えたりすると、コミュニケーションは成り立たない。手話言語のおかげで、息子は2歳のときに「いいよ」を正しく使い分けられるようになっていた。現在、息子は4歳。彼は私の手話レベルをとっくに追い越し、確かな第一言語を獲得した。
  1. 人間形成
 息子はいま、誰とでも通じると思っている!先日、祖母と二人で買い物に行き迷子になったとき、店の人に「おばあちゃん、いないの」と手話っていたと祖母が話してくれた。これを「手話は社会で通用しない」と見るか、「臆さず伸び伸び成長している」と見るか?私は、4歳の段階では後者を尊重したい。やがては手話では通じないことに気づき、日本語の読み書きの大切さを知り、自分なりに筆談や携帯を使ったコミュニケーション方法を使っていけばいい。幼児期は、コミュニケーションに不安を与えるより、ストレスなく通じ合える環境を作ってやりたいと思う。その一つに、ろう児やろう者と過ごす時間というものがある。子供同士の会話は、子供社会に欠かせないものであり、子供社会は大人になるための準備として必要不可欠なものだと思う。また、大人のろう者と会うことで、私たち聴者には表現できない正しい手話言語を獲得し、社会の一員となるために必要な知識や常識を知ることになる。要するに、親の役割りの半分以上をろう社会にお願いしているわけだ。ろう者たちの積極的な援護やアドバイスがなければ、私たち親子の進む道はありえない。これには、とにかく感謝している。
  1. 好奇心
 手話を第一言語として育てるということに、「日本語への不安」を抱く方も多いと思う。もちろん、私もその一人だった。しかし、これは息子が身をもって解決しくれている。例えば、口話について。息子には、口話教育を行っていない。しかし、幼稚部1年の後半から、知らず知らずのうちに口形の模倣が始まった。コミュニケーションにストレスを感じない手話言語で育つと、やがて別のコミュニケーションにも興味をもつらしい。以前、NHKで放送されていた北欧のバイリンガル教育でも、同じことが紹介されている。
また、文字に対する興味も早くからはじまった。幼稚部1年の夏に、自分の名前を書きはじめた。「まだ活字を教えるのは早いだろう」と放っておくと、秋には、突然、兄の名前を書いて周囲を驚かせてくれた。さすが"目の人"である。幼稚部2年になって絵日記が始まると、日記帳の表紙に「品川ろう」と書いて、母親が目を丸くした。兄のために小学1年生の漢字表をトイレに貼ると、兄より弟の方が興味を示し次々に覚えていく。何事も提示はしても教え込もうとしないことが、好奇心を育てる秘訣だとろう者から教えてもらった。発表の頃、息子がどんな成長を見せてくれるか楽しみである。
  1. ロールモデル
昨年10月、わが家にカナダ人女性のろう者がやってきた。今年の8月中旬までのホームスティだ。彼女の両親も聴者。しかし、彼女は手話で育った事実上のバイリンガル教育を受けてきた。カナダのろう学校高等部を経て、アメリカのギャローデット大学(ASL(アメリカ手話)学を専攻)を卒業、ウエスタン・メリーランド・カレッジ(大学院)でバイリンガル教育法を専攻し卒業。9月から、カナダのろう学校中学部と大学で教鞭をとる。私たちが、バイリンガル教育をすすめるにあたって、日本のろう者に加え彼女との生活が大きな支えになった。@「ろう児を育てるには、何が一番大切か」A「バイリンガル・バイカルチャル教育とは何か?」B「バイリンガル教育の中に口話や聴能の時間がある」など、深夜までレクチャーを受けつづけた。また彼女の他にも、外国人ろう者から様々なアドバイスをもらった。
  1. 諸外国の様子
 ここ数年、私たちはITによって専門的な研究結果から諸外国の様子に至るまで、多くの情報をキャッチできるようになった。しかし、外国のろう教育の様子を知る機会は非常に少ないと思う。特に、欧米以外の国でどのような教育がされているのか?興味があった。そんなとき、世界60余の国を訪れ、その地のろう者、ろう文化、そしてろう学校を見てきたという方に出会った。今回は、数ある体験の中から3つのろう学校を紹介して頂いた。@ネパールのろう学校 Aパキスタンのろう学校 B西アフリカ・マリのろう学校。いずれのろう学校でも「ろう教師」による手話言語で授業が行われていることに、私はとても驚きました。
  1. おわりに
 最近、私は「手話を使えば良いというものではない」と強く思う。また「聴者は手話言語に対して謙虚になるべきだ」とも思う。聴者が手話を教えるということは、日本人が覚えた片言のフランス語をフランス人の子供に教えているのと同じだからだ。また、先ほど3.母語としての手話言語でものべたように、指導者は言語としての手話を使うことが必須だと思う。例えば「なに?」と「どうする?」や、「来た」と「来る」を日本語の口形なしで表現できなければ子供たちには伝わらない。一方、子供たちは手話言語で「なに?」と「どうする?」の違いと意味を正しく理解することで、いずれ学習する日本語も正しく覚えることができる、それがバイリンガル教育だと知った。レベルの高い母語を獲得していれば、日本語だけでなく、ASLや英語、フランス語など、希望すればいくつもの言語を習得することもできる。そして、何より自信をもって生きることができるのではないだろうか。

第8分科会 【統合教育 ……望ましいろう児の統合教育】

「ろう児にとって統合教育は望ましくない」

  はじめに

 私は聞こえない娘を聴覚口話法の早期教育で育てて、インテグレーションで普通小学校に行かせ、同時に別の小学校にあった難聴学級に通わせました。手話ではなくて口話、聾学校ではなくて普通校つまり統合教育というコースは「専門家」に勧められ、親としても娘のために良かれと思った道でした。しかしそれは聞こえない子供にとってはむしろ良くない選択だったことが、ずっと後になって判明しました。なぜ良くないと言えるのか? その根拠は次の通りです。

 娘の育ち方をずっと見てきてそう言える。聞こえる親である私が、聞こえない人としての娘の人格と人生を台無しにしてしまった、取り返しのつかないことをしたと思っている。

 イギリスの大学の大学院で聾教育について勉強した。聞こえない子供のための教育法としては聴覚口話法、トータル・コミュニケーション法、バイリンガル法の三種類がある。三番目の「バイリンガル・バイカルチュラル教育」日本語でいえば「二言語・二文化教育」こそ最善の教育法だとわかった。

 日本でも、 聴覚口話法で育ちインテグレーション=統合教育を経験して大人になった聞こえない人達自身が、自分が受けた教育に対して批判的ないしは否定的な発言をしている。

 従来の「聴覚障害教育」のありかたに疑問を持つ親達が、わが子をバイリンガル法で育てていて、いい結果が出ている。

「障害を持つ子供も普通小学校へ」という統合教育の基本理念には賛成します。けれども聴覚障害児と呼ばれる子供の場合は、話し言葉での相互理解が難しいという点で教育上の特別の配慮が必要なのです。障害を持っていても聞こえていて友達の話も先生の話もわかるという子供とは、必要となる配慮の質が根本的に違います。だからこそ聾学校が必要なのです。「ろう児にとって統合教育は望ましくない。望ましいのは聾学校でのバイリンガル教育である。」というのが私の提言です。その理由を以下の4点を中心に述べます。
  1. ろう児にとって最も大切なことは何か?
  2. 聾学校と普通校(統合教育)の言語環境としての違いは何か?    
  3. ろう児の母語となりうる言語は何か?
  4. ろう児の母語獲得を保障するためにはどうすればいいか?
  1. ろう児にとって最も大切なことは母語の獲得
 聴覚口話法の早期教育を受け、小学校・中学校・高校と統合教育を受けた人でも、コミュニケーションの手段が口話だけという人は珍しいでしょう。多くの場合どこかで手話に出会い、手話に活路を見出していきます。そういう人達は、手話で話す方が自分の心が解放されると言います。「どうしてもっと早く手話を教えてくれなかったんだ!」と怒る人もいます。この事実が聴覚口話法の限界を示しています。娘が聞こえないとわかった時に「専門家」が言ったように、本当に聴覚口話法で聞こえる人と同じように話せるようになるのなら、手話は必要ないはずです。

 高校生や大学生の段階で手話を覚えた人は、生まれたときから手話を使っているろう者(ネイティブ・サイナー)の手話に接すると、読み取れなかったり到底追いつけないと感じたりします。このことは言語学でいう「言語習得の臨界期」と関係があります。「言語の中核的部分の習得は、ある一定の期間内に行われる必要がある。その期間を外すと習得が困難になる。」と言われているのです。習い始める年齢が高ければ高いほど困難になるという意味です。日本人はふつう中学1年生から英語の勉強を始めますが6年後の高校卒業段階の平均的な実力がどの程度かを考え合わせると解りやすいでしょうか。

 コミュニケーションの手段として口話も中途半端で手話も不十分ということは、自由自在に使いこなせる自分の言葉、つまり母語を持っていないということです。これはアイデンティティ(自分が何者であるかということ)を確立できないということでもあります。自分は聞こえる世界に属しているのか、それとも聞こえない世界に属しているのか、あるいはそのどちらでもない第三の世界に属しているのか ….. と帰属意識がはっきりしないことに悩み、孤立感に苦しみます。最悪の場合、彼らはしっかりした母語を持たずに社会人になります。これは武器を持たずに戦場に行くようなもので、社会的に非常に不利な立場に立たされます。しかも本人はそれを自覚していないことが多いのです。

聞こえない子供にとって最も大切なことは母語を獲得することだと考えます。統合教育であれ聾学校の教育であれ、これまでの聾教育はこの点で成功していると言えるのでしょうか。大人になった本人達の意見を聞くことも含めて、教育の結果についての全国的な実態調査と客観的な分析が行われているのでしょうか。1993年(平成5年)の「聴覚障害児のコミュニケーション手段に関する調査研究協力者会議報告」も1995年(平成7年)の文部省による「聴覚障害教育の手引」も、そういうことには触れていません。
  1. 聾学校と普通校の言語環境はどう違うのか
 聞こえない子供にとって聾学校と普通校の一番大きな違いは、クラスに聞こえない仲間がいるかいないかということです。それは友達と対等に話せるか話せないかということを意味します。言語環境としてのこの違いは、成長期の子供にとって決定的なものです。聾学校に行った人か普通校に行った人かは見れば判ると言います。雰囲気が違う、聾学校出身の人の方が明るくて穏やかだと言うのです。そこに見え隠れしているのは言語心理学や言語社会学の分野で扱われるような複雑な問題です。

 聾学校に行く子供達はそこで本来彼らが帰属するべき社会集団を形成します。その中で安心して自己肯定感を持って仲間と自由にコミュニケーションをします。対等な立場でけんかをすることもできます。そうすることによって無理なく自然に子供らしく成長します。これに対して普通校に行く子供達は、自分だけが他のみんなとは違うことを自覚させられます。聞こえる友達と、話し言葉だけでコミュニケーションをするのはとても疲れることです。通じなければ対等にやりあうこともできません。話すことに対して消極的になって、いつの間にか孤立していく傾向があります。それだけでなく必ずと言っていいくらい、いじめを経験しています。
  1. ろう児の母語となりうるのは日本手話
 統合教育を受けた人はもちろん、聾学校に行った人も、学校で教わる言語は日本語の話し言葉と書き言葉です。話し言葉は聞こえる子供にとっては自然に習得できる母語です。けれども聞こえない子供にとってはそうではありません。にもかかわらず、話し言葉が聞こえない子供にとっても母語である、あるいは母語でなければならないという暗黙の前提が教育する側にはあります。しかし実際は日本語の話し言葉(音声日本語)とは別の言語を母語として育っている子供達がいるのです。それはろう者の両親を持つ子供達で、別の言語というのは日本手話のことです。

 聞こえない子供達の中で両親も聞こえないというケースは全体の約10%だと言われています。アメリカでもイギリスでも日本でもそれが統計的な数字のようです。親子とも聞こえない場合は家族でろう者の言語とろう者の文化が共有されます。ろう者の言語というのは手話言語で、アメリカならASL 、イギリスならBSL 、日本なら日本手話のことです。聞こえない両親に育てられた聞こえない子供は、聞こえる両親に育てられた聞こえない子供よりもすべての面において優れているというアメリカでの研究報告があります。言語力も知的能力も学校の成績も情緒の豊かさも社会性も優れているというのです。その理由は第一に聞こえないことが当たり前のこととして親に受け入れられているから、第二に手話言語を自然に確実に母語として習得するからだと考えられます。日本にもそのようにして育っている子供達がいます。聾学校で生徒達に日本手話を広め、リーダー的な役割を果たすのはこういう子供達です。

 ASL, BSL, 日本手話などの手話言語は、概念形成の道具としてもコミュニケーションの手段としても立派な言語であり、音声言語から独立した、それと対等な言語であることが言語学者達の研究によって明らかにされています。そのような研究論文を最初に発表したのはアメリカのウイリアム・ストーキー教授であり、それは1960年のことでした。それから40年経っているというのに、日本ではまだ日本手話が言語として正式には認知されていません。そのために聾教育は聴覚口話法から抜け出せず、世界の聾教育の水準から遅れてしまっています。

 ここで日本語対応手話について触れておく必要があるでしょう。日本で使われている手話は日本手話と日本語対応手話の二種類に大別できます。日本手話は手話言語ですが日本語対応手話は手話言語ではありません。手話単語を日本語の語順でつないだだけのものです。手指で表わした日本語という意味で「手指日本語」と呼ぶべきものです。言語として分類すれば日本語に含まれます。表現する時は声を出して日本語を話しながら、その語順で手話単語を示していきます。口話の音声日本語が主で、その理解を助けるための補助手段として手話単語を使うのです。手話単語だけ日本手話から借りて、日本手話の文法的な要素(頷き、表情、語順など)は切り捨てます。従って両者は見かけは似ていますが、中身は全く違うものです。

 ところが現状としては「手話」とは日本語対応手話のことだと思い込んでいる人が圧倒的に多く、手話論議には誤解と混乱がついてまわります。このことは日本手話が言語として認知されないことと無関係ではないでしょう。

 聾学校でも「手話を使っています。」と言われますが、そのほとんどは日本語対応手話です。これは教える側の聞こえる人=日本語をすでに獲得している人にとっては都合のいいコミュニケーション手段です。しかしながら言語そのものをまだ獲得していない、あるいは言語の習得過程にある聞こえない子供達にとっては有効な手段にはなりません。相手の言うことを理解する手がかりが音声だけの聴覚口話法よりは、手話単語を取り入れた日本語対応手話でのやりとりの方が通じやすいということはあるでしょう。けれども文法を無視した単語の羅列が言語学習につながるのか、逆に混乱させていないか、慎重な検討が必要です。

 それについての教訓がアメリカの聾教育の歴史のなかにあります。アメリカではそれまでの口話法では生徒達の言語力や学力が伸びなかったため1960年代の後半にトータル・コミュニケーション(T.C.)教育が台頭しました。T.C. 教育の理念は、「どのようなコミュニケーション手段であれ、それぞれの子供にわかる最も適した手段を採用する」というものでした。その手段とは、話し言葉・書き言葉・キュードスピーチ・指文字・手指英語(手指日本語つまり日本語対応手話にあたる)・手話言語(ASL)など、あらゆる手段を含んでいました。理念としてはそういうことだったのですが、実際の授業場面では聞こえる先生が英語を話しながらASL の手話単語を英語の語順で示すという、いわゆるシムコム(同時的コミュニケーション)の形が主流になってしまいました。その教育結果については、T.C.教育を採用して約20年後の1988年、聾教育審議会が「受け入れがたいほどに不十分である」と報告しています。手指英語では子供達の言語力は伸びなかったということが14年前にすでに証明されているのです。
  1. ろう児の母語獲得を保障できるのは聾学校でのバイリンガル教育
 アメリカでは T.C. 教育の失敗を受けて1990年代からバイリンガル・バイカルチュラル教育が盛んになっていきました。この教育では手指英語は使わず、ろう者の手話であるASL だけを使います。バイリンガルとは二言語、バイカルチュラルとは二文化という意味です。日本で言えば二言語は日本手話と日本語、二文化はろう者の文化と聴者の文化をさします。

 この教育では、聞こえない子供達がまず日本手話を母語として獲得できるように言語環境を整え、次に第二言語として日本語の書記言語を導入します。音声言語については本人の適性に応じて学習するという柔軟な対応をします。「話せなければ困る」と考えるのではなく、学校でも職場でも手話通訳者を利用できるよう保障するのです。聞こえない人が苦痛を伴わずに聞こえる人と共有できるのは音声言語ではなくて書記言語であることに注目し、社会人としてファックスやコンピューターを使いこなすためにも書記言語に習熟することが重要と考えるわけです。

 このバイリンガル教育を聾学校で実践すれば、聞こえない子供達は日本手話という母語を獲得できます。母語の基礎がきちんと身についていれば、第二言語の習得が容易になります。書記言語で勝負できれば大学への進学率も伸び、社会で活躍する範囲がひろがることでしょう。

第1分科会 【最早期の両親支援とそのシステム】

「働く親にできるろう学校幼稚部までの子育て」

  1. はじめに
 ろうである子どもがろう学校幼稚部に入ることのできる年齢(3歳)になったら、ろう学校に入って、ろうの子どもたちとの関係を深めることがとても重要です。小学校に上がり、どんなに配慮してくれる学校が地域にあったとしても、同じ目線で同じコミュニケーション手段を使って、対等に語り合うことのできる複数の友達を得ることはまずできませんし、聞こえる人に囲まれた生活からは残念ながら協調性や社会性といったものを身に付けることはできないのです。(資料1 抜粋参照)

 それではろう学校はろう児にとって最も適した教育を行っているのでしょうか。現在のところ、教育そのものは残念ながらそうとはいえません。しかし、ろう学校のなかには対等に語り合うことのできる同じろう児がいます。その存在が「子どもの成長」にとっていかに重要でなくてはならない存在であるかをしっかりと認識しなくてはいけません。それをしっかりと踏まえた上で、ろう児をもつ親、特に働く親がどのようにろう児を育てていくべきか、そのシステムはどのような問題をもっているのかなどを述べさせていただきたいと思います。
  1. 「母子癒着」から「子育ての社会化」へ
 多くのろう学校幼稚部が現在もなお「母子通学」を行っており、ろう学校に入る前に通う言葉の教室やその他の通園施設等も母親がろう児の子育てに深く関わるよう強く求めています。「子育てに深く関わる」と聞くと一見良いことのように聞こえますが、そのほとんどが、「親を教育者にさせるための訓練」になってしまっています。「わからなかったら言葉を繰り返して」「マッチングが大切なの」「しゃべれるかどうかはお母さんにかかっているの」といった母親へのプレッシャーは昔も今も変わらず行われているようです。
 こうした「ろう児のいる家庭」に限らず、「母親と子どもとの関係」は社会的に起きている子どもに関する多くの問題の根底にある重要な事柄であるため、さまざまなところで研究がなされてきています。前家庭教育研究所主幹研究員 目白学園女子短期大学教授の中野由美子氏は著書(資料2)のなかでこのように書いておられます。「母親が一人で熱心に育てればいい子になると思い込む。実は、これは極めて危険なことである。子どもが母親一人の影響を過剰に受けることは、母子の癒着を生みやすく、母親の心理的負担を増し、母親から子どもへの過剰教育につながりやすいからである。」

 今のろう児をとりまく育児・教育環境はまさしくこの「母子癒着」を招く環境ではないでしょうか。親からの過剰な抑圧が、ある時期「いい子」を作り上げることができたとしても、その抑圧が大きければ大きいほど後になってから大きな反動となって親やまわりの人に振りかかってきます。

 精神科医の吉田修二氏はこのように言っておられます。「過剰適応者(周りからは適応しているいい子として見られているが、本人からみれば『適応を超えていた状態』にある者)は『いつもいい子のふりをしてきた』とか『仮面を被っていた』とか『本当の自分が分からない』と訴える。そして『自分がないから訳の分からないことをしでかしてしまったのだ』と茫然自失となる。このように過剰適応はいわゆる不適応よりずっと分かりにくく深刻である。」(資料3)

 幼い子どもがどこに行っても何を口に出しても、教育者となった母親がその発声についての指摘をし、聞こえなかったとしても、「聞かなければいけない」「聞こえていなければいけない」という「いい子」として過剰に適応しなければならない状態、また、眠くてたまらない夜11時、12時まで予習や復習をして幼稚部や言葉の教室の授業についていくことがほめられる、そうした環境におかれたろう児たちの心がいかに抑えつけられたものになってしまっているのかに気づかなければいけません。

 「母親から子どもへの過剰教育」について、臨床心理士の鳥越氏は著書の中でスウェーデンの親たちの言葉を載せてこのように言っておられます。「バイリンガル教育になって『教師はやはり教師、親はやはり親、子どもたちはやはり子ども。そこに立ちかえったのではないか』という声もよく聞きました。過去のろう教育では、親が最良の教師だということで、親の役割ではなく教師のような役割を担わされていました。教師は教科指導よりも言語指導ばかりをしていました。子どもはいつも訓練や宿題が与えられ、子どもらしい生活ができませんでした。しかし、手話を導入することによって、あるいはバイリンガル教育に移行することによって、教師は教師としての役割を果たし、親は親としての役割を果たし、子どもは子どもとして生活できるようになったというのです。」(資料1)

 文部科学省の「今後の家庭教育支援の充実についての懇談会」についての調査研究協力者会議が発足し、今年の3月に中間報告がなされました。そのなかで次のように述べられています。「家庭教育支援については、行政の取組だけでは限界があり、直接子育てに関わっていない大人も含め、市民一人一人の活動、子育てネットワーク、サークル等の主体的な活動を基盤として、その連携の下に共同して取り組んでいくことが不可欠です。そうした観点で、子育てを社会全体で支えていくこと、いわば『子育ての社会化』を促すための機運を醸成していくことが求められます。『子育ての社会化』を図るためには、社会全体の課題として、家庭における子育てや教育の問題点についての意識を共有することが必要ですが、現状は、親世代の未熟さの指摘に偏っている感が否めません。このため、行政関係者等が子育ての現状についての理解を深め、意識を変えていくことが求められます。」

 ろう児に対する子育て・教育は単に「聞こえに関する母親の教育方法」についての議論が必要なのではなく、子どもの心の成長や人間形成といったことを含めたもっと広い範囲における「子育て・教育」についての議論を深めていかなくてはいけないのではないでしょうか。そしてそれは聞こえる子どもについて議論されている「子育て・教育」に関するものと、「言語が手話」であり「文化がろう者の文化に基づくもの」であるということ意外は大きな違いがあるわけではないのです。今までのろう教育・特殊教育が行ってきたことを知ったうえで、これからはろう児の子育て・教育を決して母親のなかに押し込めることのないよう地域社会全体が見守っていく必要があるのではないでしょうか。そのためにも今のろう児とその家庭が置かれている育児・教育環境について少しでも関心をもっていただき、一人でも多くの方が「子どもの子どもらしい成長」という視点で「ろう教育」を見つめてくださればと切に願っています。
  1. 最早期のろう児の子育てについて
 最早期のろう児の子育てにおいて必要な制度はたくさんあります。「ろう発覚時のろう者からのアドバイスが聞けるシステム」「親の手話習得支援策(ろう者によるもの)」「ろう児が成人ろう者と交流できる場を保障するシステム」「ろう者から学ぶ子育て支援」そして、働く親の場合それに加えて「手話習得・子育てのための就労時間短縮」「親の就労時間内の子どもの保育」等が必要です。こうしたことを実現していくためには、ろう児にとっての「手話の重要性」「成人ろう者との交流」「ろう者による教育・保育の必要性」等がもっと認識されていかなければなりません。私たち親はろう児にとって何が必要なのかということを、日本よりも数十年進んでいるろう教育先進国であるスウェーデンやデンマークといった北欧の国々や米国などからもっと学んでいく必要があるのではないかと思います。

 働く親のもとに生まれたろう児が幼稚部に行くまで(幼稚部では保育園との二重保育制度が必要)行くことができる場は現在のところ保育園しかありません。現在の状況のなかで働く親がろう児を育てるためには、最低でも、どのような障害をもった子どもでも保育園で預かるシステムが必要です。我が家の場合子どもの障害が理由で、保育園入園を認められなかったという経験がありますが、そのことがきっかけで、地元の保育園での障害のある子どもの受け入れについての改善活動を行うことになりました。その活動により今年度、受け入れを前提とした「実施要綱」への改訂と受け入れ人数の30%増を実現することができました。各地域におけるこうした働きかけが今後必要になってくると思います。
  1. 「あそび」と「おしゃべり」の重要性
 ろう児の子育てを考える上で、ろう児が「子ども」であるというごくあたりまえのことをしっかりと知っておく必要があると思います。ろう教育における多くの場面で「聴力をどのように活用するか」「いかにして日本語力を身につけるか」といったことが主目的であるかのように語られています。そのために学校のなかにおいても親に付き添いをさせることによって教育の一部を担わせ、いかに椅子に座らせて、いかに声を出させるかという教育方法を親が学ぶことになってしまいます。手話を使っているというところにおいても、「手話単語を使って聴者が口話訓練をする」ことにとどまってしまっている場合が多くあるようです。言語力・思考力・想像力..といったものはこうした訓練によって身につけるべきものではないはずです。

 鳥越氏は「リテラシー(読み書き能力)をどう捉えるか」という文章なかでこのように書いています。「結論としては..やはり『遊び』と『おしゃべり』、この二つが大切です。そういうものが子どもたちの成長の基盤になっているのではないかと、手話を導入しているろう学校幼稚部の子どもたちの生き生きとした活動を見ながらそう感じました。」(資料1)

 また行政が出した資料のなかにも「子どもは、遊びを通して自らの限界に挑戦し、身体的、精神的、社会的な面などが成長するものであり、また、集団の遊びの中での自分の役割を認識するなどのほか、遊びを通して、自らの創造性や主体性を向上させてゆくものと考えられる。このように遊びは、すべての子どもの成長にとって必要不可欠なものである。」とあります。遊びの重要性はまた、「幼稚園教育要領」や「保育所保育指針」のなかにも述べられており、乳幼児教育者・保育者は十分にそのことを理解し、日々の「あそび」を発展させ、新たな興味へと子どもたちを導いています。

 ろう児にとっての「あそび」の大切さをもっと認識し、そしてろう児同士が対等に手話で「おしゃべり」できる環境を整えることがとても大切ではないでしょうか。
  1. 父親の役割
 よくテレビや新聞で、家事や育児を積極的に行っている父親や、育児休暇を取って子育てした体験記を載せている父親が紹介されます。本当に素晴らしいなあと思います。そうできらたいいだろうなあと思うおとうさんはたくさんいるのではないでしょうか。そのようなことがあたりまえにできる社会にしていくことはとても大切なのですが、現状では、そこまで育児に参加することができない場合がほとんどだと思います。家事を分担したくてもいつも夜が遅かったり、子どもと関わりたくても会うことすらできなかったり、出張が多くて会うたびに子どもが大きくなっているように感じている方もいるのではないでしょうか。

 中野氏の著書のなかで、おとうさんたちにとってとても興味深いレポートが載せられているので紹介します。「Yさんは自らの修士論文で、母親の自己評価とソーシャルサポートや子どもの気質との関係を研究しています。その主たる結果のひとつは『夫の育児・家事協力より夫婦の満足度のほうが母親としての自己評価への影響が強かった』というものです。『夫が子どもの遊びにつきあってくれる』とか『買い物に一緒に行ってくれる』ことよりも、妻が夫婦関係に満足していることのほうが重要だったというわけです。」

 「Tさんの研究も興味深いものでした。彼女は母親の家庭に対する肯定感と、夫や夫以外からのサポートとの関係を調べました。その結果、母親が受けるサポートのうち情緒的サポート(元気づけてくれる、尊重してくれるなど)とコンパニオンシップ(一緒に外出する、一日の出来事を話し合うなど)が重要でした。家事育児サポート(毎日の家事育児に関するもの)や育児援助サポート(育児に関して困ったことが起きたときに関するもの)の重要性は低かったのです。Tさんは、母親としての役割を支えるサポートよりも母親を個人として支えるサポートのほうが、母親の家族に対する肯定感を高めるために必要だと言っています。」(資料2)

 夫婦関係をいかに良いものにしていき、母親の精神的な面においていかにサポートしていくかが、私たち父親にとっての最大の子育て支援になるということのようです。
  1. おわりに
 ろう児はろうである前に一人の子どもです。そのことを認識することがとても大切だと思います。ろう児の子育て・教育を考える上で単に「聞こえの良し悪し」「障害の克服」といった視点から捉えるのではなく、子どもの全人格的な成長において大切なものはなにかということを、聴児を含めたすべての子どもについての「育児/保育/教育」として考えなければいけないのではないかと思います。繰り返しになりますが、違いとなる重要な点を決して忘れないでいただきたいと思います。それは、@「言語が手話」であるということ、A「文化がろう者の文化に基づくもの」であるということです。このことを、ろう児を育てる親である私たち一人ひとりが、ろう者と実際に交流するなかで体験として知り大切にしていく必要があります。
そしてぜひ知っていただきたいことは、子育ては決して眉間にしわを寄せて、子どもに同じ事を繰り返し教えるといったものではないということです。子どもとの限られた時間をぜひ楽しみましょう。親を慕って抱きついてきてくれるのもそれほど長い期間ではないものですから。
  1. 参考文献
(資料1 抜粋)
「手話・ことば・ろう教育」(日本手話研究所)鳥越隆士 著:
(インテグレーション(地域の学校に入った)小学3年生の例)
「相談室に入ると次から次へとそういうお話(カラスが群れて何かをつっついていたなど)をします。いっぱい話したいことがあるのですね。でも発音が少しわかりづらくなっていますので、話を聞いていてわからないこともあります。そういう時は「ちょっと待って。今のはわからないから、もう一度言って」と聞きな直します。でもこれが通じないのです。とにかく自分の言いたいことを一方的に話すだけで、相手がわかろうがわかるまいが一向に気にしません。またひととおり話を聞いて、今度はこちらが話そうとしても、...それも受け付けることができません。これでは対話になりません..。問題はやはりコミュニケーションです。日本語という言語はそれなりにもっているのですが、そして自分の体験を言語化することは何とかできるのですが、それを相手と共有することができない。...もっている言語力、日本語の力がコミュニケーションに生かせていないのです」
 「このような対話の中で子どもたちは体験を共有し、新しい意味を創造し、そして生きたことばを学んでいく。子どもたちのことばの学びを考えていくと、このような対話が生まれる環境を大人たちは作っていかなくてはいけないのではないかと思っています。そして、それには口話だけではなかなかうまくいかない。どうしても手話が必要になってくる。」

(資料2)
「21世紀の親子支援」保育者へのメッセージ ブレーン出版
中野由美子・土谷みち子 編著

(資料3)
「さよなら『いい子』キレていく私たち」 角川書店
吉田修二 著


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