ろう教育におけるろう者観・言語観の変遷

1)紀元前からルネッサンスまで

 紀元前にはすでにろうあ者について述べたものが見られます。

 アリストテレス(紀元前4世紀)は、「言葉は生まれつき備わっている能力であるから、
ろうあ者に言葉を覚えさせることはできない。」と言っていました。しかも、「神の失敗
作なので、我々人間にはどうしようもない。」とも言っていました。

 また、医聖といわれているガリヌス(2世紀、人間の身体を解剖して、身体の仕組みを
明らかにした人)も、「聴覚と言語中枢は一体である」という誤った見解を出していまし
た。

 一方、ローマ帝国のアウグスティヌス(4〜5世紀)は、「耳が聞こえなくても身振り
で立派に会話できるではないか。」とろうあ者も言語能力があることをほのめかしていま
したが、世間ではろうあ者は身振りしかできないというふうに誤解されていました。

 アリストテレスもガリヌスも高名な学者であり、中世を経て近代に至るまで、「ろうあ
者は言語をもたない」という彼らの説が信じられてきました。

 教会においても、ろうあ者は言語をもたないから、神のことばを聞くことができず、伝
道の対象外とされていました。(後にはろうあ者などの弱者の保護を訴え、救済を積極的
に行いました。)

 一方、医学の世界では、ろうは病気であると考えられており、騒音による治療や耳の浄
化剤として様々なものを詰め込む治療などが行われていました。


2)ルネッサンス期(13世紀末〜)
  
 時は移って、ルネッサンス。ルネッサンスでは、神や聖書を中心とした見方から、人間
や自然をありのままに見ていこうとする見方へ変わっていきました。ろうあ者に対する見
方も徐々に変わっていきました。

 レオナルド・ダ・ビンチ(イタリア)
「アリストテレスの説は変ではないか。ろう者も身振りを使えば言うことを理解できる。
ろう者は決して失敗作ではない」

 ジェローム・カルダン(イタリア)
「ろう者は言葉をきくことはできないが、書かれた言葉を物や物の絵に結びつけることに
よって、教えることができる。」 

 このように、ろう者でも言葉をもつことができると述べる人が現れてきました。

 それは、ルネッサンスになって、言語の本質について見直されるようになったことと関
係があるでしょう。長い間、「言語=話し言葉」と思われていましたが、ルネッサンスに
なって、「言葉には発声がなくても、サインや身振りなどで伝達できるのではないか」と
問われるようになったのです。

 また、ルネッサンスでは、書記文化が発展しました。本が普及し、人や物の流通が活発
になって都市が発展し、読み書きができないと不利な状態になっていきました。

 読み書きの発達は、後になってろうあ者に読み書きを教えようという試みを促すことに
なりました。

 医学では、ソロモン・アルベルティというドイツ医師が「聴力と発声は別個の機能であ
る」と述べました。


3)ろう教育の個人的試み(16世紀半ば〜)

  世界で初めてろう児に教育を行ったのは、ポンセ・ド・レオンというスペイン修道僧だ
と言われています。スペイン貴族のろう児の家庭教師を頼まれ、文字と物を使って、読み
書きと発音を教えました。

 その頃のスペインは最も繁盛していたときであり、裕福なスペイン人は、ろう児に家庭
教師をつけるようになりました。

・ろう児にも財産を相続させるため
・信仰告白によりキリスト教徒にさせるため

が目的でしたが、「ろう者でも言語をもつことができる。神の救いからもれない人間であ
る」ことを実証してやろうと奮発した教師もいました。

  カトリックの修道僧の間では、話すことが禁じられていたため、手文字を使ってコミュ
ニケーションしていました。メルチョール・デ・イェブラという修道僧は、その手文字を
標準化し、公表しました。死にかけた人や耳の遠い人の懺悔、ろう者の伝道などに役立つ
だろうと述べました。(その手文字はアルファベットの指文字に似ています。)
 
 スペイン貴族のろう児の教育に関する成功例は、ヨーロッパ諸国でも紹介されました。
イギリスのある人が「スペイン貴族の中にろう者がいて、教養があり、発声と読話で話す
ことができる!」と感嘆しつつ紹介したものなどがあります。


4)公教育への移行(18世紀後半〜)

 ろうあ児の教育は、西欧各国で個人的に行われていましたが、18世紀後半になって、
公的な施設教育へ発展しました。

 世界初のろう学校と言われているのは、フランス僧侶のド・レペが設立したパリ聾学校
です。宗教的使命感をもって、貧困家庭のろうあ児に対する無料教育と保護を始めました。
伝道が目的だったので、よりスムーズに神を伝えるため、ろうあ児が使っていた身振りを
もとにして手話法を考案し、教育を行いました。
 
 一方、ドイツでは、ハイニッケがライプチッヒ聾学校を設立しました。その頃のドイツ
は近代教育制度の基礎が固められる時代でした。
 ハイニッケはもともと聴児の教育専門家だったので、ろう児も聞こえる子どもと同じよ
うになることを目指していました。話し言葉を通して、知的な世界へ進むことができると
考えていたので、話し言葉の獲得を中心にしていました。話し言葉を目で理解し、声を出
して話すように教えました。

 ド・レペの手話法とハイニッケの口話法はしばしば論争しました。

 19世紀当初には、西ヨーロッパだけでなく、東ヨーロッパ・北ヨーロッパ・アメリカ
でもろう学校が設立されるようになりました。


5)口話法の普及(19世紀後半〜)

 教育を受けるろう児が増え、教師が不足するようになりました。口話法は多人数教育に
は向かないし高度な技術を要するために普及せず、手話法が広まっていきました。

  しかし、19世紀後半になって口話法が普及し始めました。1880年の第2回ミラノ
ろう教育会議において口話法が採択されてからは、ますます口話教育が普及し、手話は抑
圧されるようになりました。口話法の主張者は「ろう者も社会の中で生きる人間である」
ことを強調し、聴者と同じように社会で生きるようになることを目標としていました。

 20世紀前半になると補聴器や聴力検査の技術が発達し、口話教育は最盛期を迎えまし
た。


6)手話とろう文化の尊重(20世紀後半〜)

<トータルコミュニケーション>
  長い間、口話教育が行われましたが、成果は思ったほどにあがりませんでした。多くの
ろう児の言語力や学力は相変わらず低いままでした。

 1968年、アメリカのろう者のホルコムが「トータルコミュニケーション」という理
念を提唱しました。トータルコミュニケーションは、教師や親やろう児同士のコミュニケ
ーションが、もっと自由で分かりやすいものになるように、小さいときから手話や口話や
聴覚活用などのあらゆるコミュニケーション手段を認めようというものでした。

 トータルコミュニケーションはアメリカのみならず、ヨーロッパでもあっという間に普
及し、教室で手話を使う風景が見られるようになりました。

<バイリンガル教育>
 しかし、トータルコミュニケーションは、ろう者が自然に使っている手話を教室で使い
ませんでした。ろう者が使っている手話は音声言語より劣ったものであると考えられてい
たからです。ろう学校の先生たちは、ろう者の手話を使うと正しい音声言語を習得できな
くなってしまうのではないか、と恐れていたのです。音声言語に対応した手話を作り、そ
れを使いました。

 一方、アメリカのストーキーがろう者の手話を言語学的に研究しはじめました。その結
果、ろう者の手話は音声言語の劣ったものではなく、音声言語とは独立した、独自の文法
をもつ言語であることが分かったのです。

 また、これまでのろう者は、聞こえない者としてマイナスに捉えられていました。しか
し、ストーキーによって、ろう者は「自分たちの言語と文化をもった少数集団である」と
いう見方が新しく生まれました。手話を第一言語とし、音声言語を第二言語として教える
という、バイリンガル教育が主張されるようになりました。1980年初めには北ヨーロ
ッパでバイリンガル教育が始まり、1980年末にはアメリカでもいくつかのろう学校で
行われるようになりました。

 ★日本のろう教育★

 江戸時代の終わり頃から明治初期までは、海外のろう教育について紹介したものがいく
つか見られます。日本では、寺子屋でろう児を教えたという文献がいくつか残っています。

 明治維新後、欧米に見習って、日本でもろう学校を設立しました。明治11年に京都盲
唖院、明治13年に学善会訓盲院が設立されました。
 明治期後半になると、日本各地でろう学校が次々と建てられました。しかし、それらは
私財によって建てられたものばかりであり、ほとんどのろう学校では運営資金に苦労して
いました。

 大正時代になると、ようやく盲学校と聾学校の分離が認められるようになりました。ま
た、都道府県でろう学校を設置することが義務づけられました。

 日本のろう学校では、ほとんどが手話で教育を行っていました。A.K.ライシャワー
はろうの娘が生まれたことをきっかけに、欧米の口話教育の情報をもとにして日本聾話学
校を設立しました。 西川吉之助も、ろうの娘のために独自で口話教育を行いました。娘
だけでなく、すべてのろう児のためにも口話教育を行いたいと考え、私財を投じて口話法
の研究と普及に尽力しました。

 口話教育はしだいに普及していきました。ついには、大阪市立ろう学校をのぞいて、す
べての聾学校では口話教育が行われるようになりました。大阪市立ろう学校の高橋潔校長
先生は、それぞれの子どもに合わせて口話や手話を行うべきだと主張し、最後まで手話を
守りました。

 戦後も、相変わらず口話教育が盛んでした。昭和30年代になると、早期教育、聴能教
育が普及しました。聴覚活用の発達により、ろうと難聴が区別され、難聴学級が少しずつ
設立されるようになりました。統合教育も増加し始め、昭和40年代にはピークに達しま
した。

  一方、口話教育に限界を感じるろう学校がいくつか現れました。昭和43年、栃木ろう
学校が同時法を実施しはじめました。京都ろう学校や奈良ろう学校や千葉ろう学校では、
キュードを使い始めました。

 昭和50年代に、ろう教育国際会議が東京で開かれ、トータルコミュニケーションに関
する報告が出ました。奮発した一部の教師やろう者で「トータルコミュニケーション研究
会」を1977年に設立し、ろう学校への手話導入を目指して運動しましたが、なかなか
うまくいきませんでした。

 1993年になって、文部省が「聴覚障害児のコミュニケーション手段に関する調査研
究協力者会議」を報告し、手話の必要性がやっと認められるようになりました。しかし、
なるべく幼稚部や小学部では手話はなるべく使わない方がよいなど、消極的な内容でした。

 それでも、足立ろう学校や奈良ろう学校では、幼稚部から手話を使うようになるなど、
少しずつ手話に対する理解が広がりつつあります。

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