DEAF KIDS NEWS

 

2002/04

「バイリンガル・バイカルチュラル教育」

 バイリンガル・バイカルチュラル教育(以下バイ・バイ教育)を理解するためには、それまでのろう教育で行われてきた様々な教育方法とは、まったく視点が違うものであることをまず認識する必要があるのではないだろうか。
 これまでのろう教育界では、「手話」「ろう者」だけではなく「聴覚口話法」「キュードスピーチ法」などの専門用語も曖昧なまま、イメージだけが先行して使われてきた。バイ・バイ教育というと、聴覚口話法やトータルコミュニケーションなどの方法と並列に、ひとつの教育方法、教育手段であると見られがちである。
 しかし、今回は以下の4つの点から、改めてバイ・バイ教育とは何かを考えていきたい。

1】 ろう教育の目的を根本的に問い直す
2】 日本語とは何かを見直す
3】 手話という言語の存在を認める
4】 ろう文化の存在を認める




1】 ろう教育の目的を根本的に問い直す

  聴児のようになること

 聴覚口話法、トータル・コミュニケーションなど、これまでのろう教育の目的は、「日本語を身に付ける」ことであった。それは、バイ・バイ教育の目的と同じようにも思えるが、根本的な視点がまったく違う。
 これまでのろう教育の目的の「日本語を身に付ける」とは、聴者のように、日本語を聞き、理解し、音声で話し、読み、書くことである。聴覚に障害を持つということを認識し、その障害を克服することと同義である。言い換えればろうであることは、よくないことで、ろうは改善し、克服(障害を軽減すること)されるべきものであるという発想から来ている。
 子どもに合わせた様々な方法を取るというトータル・コミュニケーションもこの目的は同じである。手話も使うから、聴覚口話法とは違うという主張もあるが、手話を使って、日本語を習得させるという点では、口話法の場合と大差ない。
 これに対し、バイ・バイ教育では、ろう教育の目的は、聴児の教育の目的とまったく同じであり、日本語の習得は当然のことながら、学力、知力、精神的発達等、全人的な発達を全てのろう児で目指すことができる。


2】 日本語とは何かを見直す

  日本語が基本

 日本では暗黙のうちに、日本語が公用語となっている。確かに多くの日本人の読む文章は日本語で書かれ、日本国籍を有する人のほとんどが日本語の音声言語で話している。日本の学校の教科書も日本語で書かれている。
 しかし、これは日本に限ったことである。日本語が世界の公用語ではないし、世界のほとんどの人が日本語を話せないし、使えない。日本語が話せないからと言って、障害者と言われることはない。
 日本人のほとんどが日本語を話すからと言って、日本語が話せないと社会で生きていけないと考えることはできない。
 そもそも私たち日本人聴者がなぜ日本語を話せるかというと、たまたま日本という国に生まれ、育ち、日本語を母語とする親を持っていたからであり、音声言語である日本語を知らず知らずのうちに聞き、獲得したからである。日本語は音声言語という特徴がある。たまたま自分が生まれた国でもっともよく聞く言語が日本語で、その言語を聞く耳を持っていたから、日本語を獲得したに過ぎない。
 ろう児は日本語を聞く聴覚を持っていない。音声日本語を聞く聴覚器を持っていないだけであり、言語を持っていないのではない。言語を発達させる能力が劣っているのではない。音声語を聞く聴覚器がなくても、脳の言語野を使って、言語を発達させていく。どんな言語を発達させるか?
 まず聴覚器で獲得する日本語を自然に獲得することはない。(教えられて覚えたものは習得という)
 聴覚器を必要としない言語は手話である。だからろう児の自然言語、母語、第1言語は手話がもっともなりやすい。
 しかしこれまでのろう教育(口話法やトータル・コミュニケーション)では、自然な言語の獲得ではなく、意図的に音声日本語を習得させてきた。そしてそのためにろう児にとっての自然言語である手話を片隅においやって、あたかも日本語しかこの世に存在しないような、日本語ができなければ人にあらずというイメージを作り上げてきたのではないだろうか。


3】 手話という言語の存在を認める

  手話を使う

 日本手話は、日本語とはまったく違う言語である。(ただし日本人ろう者の使う言語であり、日本の言葉ではある。)文法も構造も違う。しかし、日本語と比べて遜色のない言語であり、それ自体でひとつの独立した言語である。(当然、一次的ことばも二次的ことばもあるし、生活言語も学習言語もある。聴者が使えないだけである。)
 このことは、つまりろう児にとって、日本語は二つ目の言語であり、日本手話が母語で、日本語は第2言語(外国語のようなもの)となる。
 くどいようだが、キュード、指文字、口話、対応手話は日本語であり、日本手話ではない。日本手話はとても上手な対応手話の延長上にあるのではない。英語と日本語ほど違うものである。
 このくどいことを、実感的に理解することが大切である。日本手話が日本語とは違う言語であることを認識すること、この当たり前のことができないと、日本手話もバイ・バイ教育も理解することはできない。日本語を話しながら、手話をすることは手話を使っているとは言えないが、声を止めてただ手話単語を並べてもそれは日本手話とはいえない。
 人間の発達にもっとも重要なものは、意思を伝え合う言語を持つことである。その言語は個人の持つ環境や文化を背景に、自然に獲得したもの=母語である。そしてろう児にとっての母語は手話(日本ならば日本手話)という言語である。
 日本語の「ナントカ」という単語や文章を手話でどのようにいうかを教えるのが、バイ・バイ教育ではない。


4】 ろう文化の存在を認める

  手話を使って、日本語を教える

 日本手話は、ろう者の歴史、ろう者の生活の中で育まれてきた言語である。日本語が他国の文化の影響を受けながらも、日本の文化を背景にしてできている言語であるように、手話もろう者の文化(ろう文化)を抜きに語ることはできない。
 たとえば、日本語の「ただいま」「いただきます」などに当たる英語がないように、日本語にあって手話にない言葉がある。同様に手話にあって日本語にない言葉も多い。それらは日本文化の影響を受けているものもあるし、日本文化と欧米文化の違いによるものもある。同じようにろう文化と聴文化の違いも当然ある。手話を知ることは、ろう文化を知ることであり、ろう文化を知ることは、ろう児を知ることでもある。
 自分の言語をはっきりと自覚し、自己の文化を認識することで、他者の文化、言語を学習する姿勢が生まれる。もし、自分の言語でないもの、文化でないものを強制させられるとしたら、それは植民地主義的な同化と同じである。

 バイ・バイ教育は、ろう児の言語=手話と、ろう児の文化=ろう文化を基本とした教育を受けることで、ろう児の暮らす社会のマジョリティである、聴者社会の言語=日本語と聴者の文化=聴文化を学ぶことである。
 バイ・バイ教育は何も聴者を拒絶し、聴者の親を排除する教育ではない。
 また、日本語を軽視し、ろう児をろう児だけの狭い社会に押しやるものでもない。
 聴児と同等の価値と存在意義をもち、ろう児のありのままの姿を肯定することで、ろう児の自然な言語発達を支援し、第2言語である日本語の習得をも支援していくことができる教育、それがバイ・バイ教育と言えるだろう。

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