DEAF KIDS NEWS

 

2000/11

「聴覚口話法とは何か?本当に音声言語は大切か?」

 そもそも聴覚口話法というのは何でしょうか?
 90dBでも120dBでも全く聞こえていないわけではない(これを残存聴力と
言います)のだから、補聴器をつけて、聴く訓練をし、音声を聞き分け、声でしゃべ
れるようにするというのが基本にある考えのようです。
 これは人間は、赤ちゃんの時からお母さんや周りの人の多くのことばを聞くことに
よって、「言語」を獲得する、これが“自然”な方法なのだという考えがもとになっ
ています。確かに昔むかぁし言語学という世界では、ことばは環境によって獲得する
のだという考え方が長い間主流になっていたときがありました。日本人の子どもでも
生まれた時からアメリカにいて、周りにいる人が英語を話していたら、英語を話すよ
うになります。だからことばは環境が作るのだと・・・。だから言葉の風呂につけて
おけば聞こえなくても音声語を獲得すると・・・。それしか方法がないというのが聴
覚口話法です。

聴覚口話法の基本的な考え方は二つあると言えます。
 一つは言葉とは音声語だけを指すということ。ですから他のものはすべて「コミュ
ニケーション手段」と言っています。よくろう学校の先生の中に「手話は言語である
ことは認める。」と言いながら「手話を補助的なコミュニケーションとして用い・・
云々・・」という言い方をする人がいますが、これは矛盾しています。コミュニケー
ション手段という言葉がそもそも大変曖昧なのですが、つまりは言語ではないってこ
とです。キュードは言語ではないですよね。それなら「キュードと手話を併用し・・
・」という時の手話は言語ではなく、コミュニケーション手段であるということにな
ります。このあたり耳だけを使って聞いていると専門用語に惑わされてしまいますが、
コミュニケーション手段という言葉を使ったら、要注意!それはつまりは言語ではな
いってことですよ!
 もう一つは言葉は聞いて覚えるものであるということ。これを「自然法」なんてい
う人もいるそうですが、ろう児の耳は聞こえないんです。聞いて覚えることはできま
せん。考えてもみて下さい。聴者の平均聴力は0dBなのです。100dBというの
は、聴者の平均聴力0dBを標準としてそれに100を足した音なのではなく、その
100万倍の音圧を表します。しかも聴力測定の時に使う音は純音という音であり、
生活音ではないのです。まして多くのろう児の耳は単に音が小さくしか入らない伝音
性難聴なのではなく、感音性難聴なんです。感音性難聴の聞こえに近い音を聞いたこ
とがありますか?おそらく聞こえの教室やろう学校の幼稚部などで、ちゃんと研修し
ているところに行けば、少し古いものですが、聞こえの特徴によって聞こえがどう変
わるかというテープがあるはずです。例えば低音域の音だけを省いて聞くこともでき
ます。その音を聞いてみて下さい。これを毎日聞いていて音を認識するようになると
はとても思えませんよ。

 では言語指導がその重要な課題だと言っているろう教育者達は言語とは何か?聴覚
とは何か?それを本当に今まで研究したことがあるのでしょうか?
 もしも、日本語だけが日本では言語であり、この言語は残存聴力がほんのちょっと
でもあれば、補聴器をつけて厳しく訓練すれば自然?に身に付くというのなら、それ
を以下の立場から明確に説明して欲しいところです。
○言語とは何か?日本語の言語としての特徴は?(言語学、音声学)
○聴覚とは何か?(医学、解剖学、生理学、病理学、耳鼻咽喉科学、臨床神経学等々)
○発達とは何か?(心理学、心理言語学、発達心理学、認知心理学)
○音とは何か?(音響学)
○ろう者とは何か?(ろう者学) 
 これらの基本の上にろう教育ではさらに幼稚部段階の発達や保育学、小学部での発
達、教科学習、児童心理などなどの一番基本である教育学が必要です。しかし、高等
学校からろう学校に赴任してきて、いきなり乳児相談や小学部を担当する教員がいる
と聞きます。もちろんこういった先生方に責任があるのではありません。しかしだか
らといって「先生も一生懸命やっているから」という理由でなんにも知らない先生に
大事な我が子を託すことができるでしょうか?先生達の大切な子どもをそういった専
門性のない教員に預けることができるでしょうか?

 言語とは一体どういうものなのでしょう?心理言語学という立場から少し考えてみ
ましょう。

【心理言語学とは?】
 言語という認知能力の研究を通してヒトの認知能力の本質に迫ろうとする研究を心
理言語学(psycholinguistics)と言います。
 言語の機能は思考を明確にすることであり、思考はことばにするまで形がなく、自
分のことでもはっきりとは表現できません。そのために言語を用いているわけです。
ですからコミュニケーションという曖昧な概念も思考が明確になってはじめて成り立
つのです。
 そして言語の獲得について特に留意すべき基本的な事実を次のようにあげています。
(1)ヒトという種に特有で一様である。
(2)訓練が不要である。
(3)一定の年齢までに完成する。
(4)質・量ともに限られた資料に基づいて実現される。
(5)本質的な点で個人差が生じない。
つまり「言語教育」は、母語の獲得に対しては「無力」であり、言語に関する教育は
むしろ獲得した言語知識の適切な運用に力点が置かれるべきものであるというのです。
 そしてさらに読み書き能力と認識については、
 音声言語が言語の本来的・本質的な姿であるという主張には学問的な根拠がない。
また文字は音声を写す二次的な手段であるといういう主張にも学問的な根拠がないし、
さらに言えばヒトの大脳は音声言語に有利なように出来ているわけでもない、要する
に出現の順序とものの本質との間には取り立てて重要な対応関係にはないといってい
ます。(財団法人 医療研修推進財団 「言語聴覚士 指定講習会テキスト」より引
用)
 
 今世紀に入り、ノーム・チョムスキーという人が、すべての子どもは生来あらゆる
言語に共通する文法の青写真というものを持って生まれてくるという有名な言語本能
類似説というものを発表しました。また最近ではそれをさらに発展させ、言語獲得の
謎を解明したともいわれるスティーブン・ピンカーという人の言語を生み出す本能説
が定着しつつあります。
 つまり子どもは生まれる前から言語の素を持って生まれてくる、それが自分にあう
環境によって母語となり獲得していくのだというのです。
 聴覚口話法のいう「言語は聞いて覚えるもの」という考え方は、今では古い古い考
え方なのです。
 

2000/10

「地獄への道は善意の絨毯で敷き詰められている2」

 あるお母さんがおっしゃっていました。ろう学校が変だってことはよくわかってい
る。子どもに厳しく当たってばかりいる自分が嫌になることもある。でも、先生たち
は、毎日私たち親子を迎えてくれる。親戚や近所に気兼ねしたり、夫婦喧嘩して嫌な
ときも、先生だけは、私たち親子のことを親身に心配してくれている。だからろう学
校は間違っているかもしれないけれど、おかしいと言えない。先生に逆らうなんてで
きない。先生も一生懸命なのだから・・・と。

 今の教育システムでは、ろうの子どもはまずろう学校や難聴幼児通園施設等に行く
しかありません。すべて聴覚口話法オンリーの場所です。ろう学校の教育方針があわ
ないとか、担任の先生と意見が合わないと思っても、一般校に行こうと思えば、手続
き、学校探し、行政との交渉など、とても素人には難しいし、面倒なことばかりで
す。そしてほとんどが親の努力です。インテグレーションを選ぼうと思えば、親はす
べてを犠牲にして、ろうである子を聴の子のようにしなければなりません。そしてこ
の道こそ、聴覚口話法の究極の行き着く先です。行政は「聞こえないのだったら、ろ
う学校に行けばいい。」というアドバイスしかしてくれません。行政とていろいろな
選択肢を用意してはくれないのです。そういう中で聞こえない子を育てるには、唯一
専門家のいるところとなると、やはり聴覚口話法の道へと歩まざるを得ないのです。

 はじめて訪れた乳幼児相談や難聴施設では、「大丈夫、補聴器をつけて、できるだ
け早く訓練をすれば、話せるようになります。」と言ってくれます。教員や指導員の
この言葉に嘘はありません。彼らは本当に真剣にそう思って、そうなるように願って
指導してくれます。でもこの「話せるようになります。」という言葉の意味が、それ
まで難聴者の声を聞いたことのない親が想像する「話せる」言葉の度合い(意味・理
解・発音など)と、教員らが言っている「話せる」とでは大きく違います。おそらく
お母さん方は、「そうか、頑張れば私達と同じように話せるようになり、普通の子ど
もになるんだ。」と思うでしょう。しかし教員達が言っているのは「早くから教育す
れば、重度難聴者でもそこそこ話せるようになる人もいる。」または「まれに聞こえ
る人に近い発音の人もいる・・」という意味です。決して「誰もが聞こえる人並みに
話せる」のではないのです。
 では教員は嘘を言うのでしょうか?いいえ、そうではありません。教員達は毎日何
十人、そして今までに何百人というろうの子どもたちを教えています。ですからろう
の子どもの独特の話し方に慣れてしまっているのです。そして稀にかなり明瞭に話す
(といって聴者と同じではないのですが)子どもを知っています。しかも嘆き悲しん
でいるお母さんを勇気づけるには、希望を与えてやることが一番だと思っています。
そして彼らは聴者です。ですから彼らにとっても希望になるのは、本当に稀なたまた
まフィティングがピッタリで発音が明瞭な子どもとか、聴力が軽い子どもです。そう
いった例を持ち出してきて、親を元気づけてあげよう、育児に疲れてしまわないよう
希望を与えてあげようと励ましてくれているわけです。すべて教員の善意、親を思う
心なのです。
 一昔前の聴覚障害児の教育というような、ろう学校免許取得のための教科書にはほ
とんどこう書いてあります。すなわち聴の親の子がろうであるとわかったとき、初め
の何ヶ月かは絶望に襲われ、育児を拒否する親もいる。そういう親には暖かく励まし
て、訓練すれば話せるようになるのだからと、親に役割を与えよと。(余談ですが、
デフ・ファミリィの家庭のろう児の能力が高いのは、親が自分のろうだから、子ども
がろうでもショックがないのが、子どもに影響するからだと書いてあります。)

 そうして医者に見放され、お百度参りしても効がなく、途方に暮れて行ったろう学
校や聞こえと言葉の教室で、同じろう児を持つ親が家中に名前カードを貼り、大口を
開けて訓練している姿を見て、また教員や先輩の親たちから「あなたは一人じゃない
のよ、みんなで頑張りましょう。」と励まされ、親は救われた思いがするのです。初
めて出会った自分を越える大きな存在、自分を受け入れてくれた教員に、ただもうそ
れだけでありがたいと思い、救われたと思うのです。これは一種の刷り込みです。第
1号で洗脳と書きましたが、実際は洗脳よりはるかに強力な刷り込みがここで行われ
ます。

 その根底に流れるのは優性思想です。この子たちは本来あるべき姿ではない、なん
とかして本来の姿(聴者)に近づけようという考え方です。もちろん先輩の親も教員
もそんなふうには思っているとの自覚はないでしょう。本心から聞こえない子を受容
し、子どもたちが障害を乗り越えて自立できることを願っているだけなのでしょう。
 でもそもそも聞こえない子は、わざわざ受容しなければいけない存在なのでしょう
か?障害を乗り越えなければいけないものなのでしょうか?障害って何が障害なので
しょうか?誰に対して何に対して、ろう児は障害を持つというでしょうか?
 そして一番考えて欲しいのはこの子はどうして生まれてきたのか?ということで
す。本当は生まれてこない方が良かったのでしょうか?それとも障害を乗り越えるた
めに生まれてきたのでしょうか?障害を乗り越えたことを自分の存在意義にするため
にこの世に現れたのでしょうか?

 教員や先輩の親たちの親身な助言や指導は、新米ママにはとても心強いものです。
でも彼らは当事者であるろう者ではありません。しかもほとんどが自分の教育の成果
(つまり成人ろう者)すら知りません。ただマジョリティである健常者と呼ばれる人
が、自分のいる世界だけが正常な世界なのだからと、そこまで登ってくる道を示して
いるに過ぎません。その道は「お母さんのため」「ろう児のため」という愛情溢れる
善意の絨毯でできています。しかしその道の行き先は、行っても行っても中途半端な
聴者を作るだけの道でゴールはありません。なぜならその道のゴールは、補聴器無し
でしゃべる聴者なのですから。
 

2000/9

「地獄への道は善意の絨毯で敷き詰められている」

 お子さんが聞こえないとわかったとき、聴者の親だったら、本当にショックを受け
たと思います。
 でもそれはなぜでしょうか?もう一度よく思い出してみて下さい。それは単に聴力
が一般の聴者と違って悪いと言われたからですか?それよりも聞こえないことから来
る将来への不安、言語が遅れるとか、言葉が育たないとか、将来社会へ入れないとい
った聴者の親が想像できないこれからのことが大きくのしかかってきたからではない
でしょうか?男の子が欲しいと思っていても予想に反して、女の子だったとしても、
またちょっと珍しい血液型をしていても、それは命に関わることではないですから、
そんなにショックはないですよね。
 聞こえない子は他の子どもと違う、異質な子、障害を持った子、ハンディのある子
と言われたから、障害を持った子どもが果たして無事に育つのか、これからどうなっ
てしまうのかと親も不安になるのかもしれません。
 けれど、もしこういわれたらどうでしょうか?
 「お母さん、この子は耳を使ってない子ですね。この子はろうとして育ちます。ろ
う者には手話という言葉があって、その言葉を使って話したり、ものを考えたりする
ようになりますが、その他は他の子どもと同じように育ちますよ。よかったですねぇ、
お宅は二つの文化と二つの言葉を使える家庭になりますよ。」
 そんなこと言われるはずはない!!そう思われる方もいるでしょう。でも実際に北
欧のバイリンガル教育の進んだ国々では、こういってすぐにろう者コミュニティーや
ろう者について紹介したり、お父さん、お母さんのための手話講座、ろうの大人によ
る赤ちゃんの保育が始まるのです。

 日本にはおよそ35万人の聞こえない人がいると言われています。ですが、これは
高齢のために難聴になったり、病気などで難聴になった人も多く含まれていて、実際
ろう者として手話で生活している人は、このうちの4万人くらいと言われています。
そんなに少ない人しか使ってない言葉が社会で通用するのか?手話で不自由しない人
でもやっぱり障害者ではないか?社会的に不利な立場にあって不幸なのではないかと
思われる人は是非大人のろう者に会って下さい。意外と身近にいらっしゃるはずです。
そしてその人たちは聴者となんら変わらない普通のごく普通の生活をしています。ア
メリカ人の多くが英語で話すように、フランス人の多くがフランス語で話すように、
ろう者も手話で普通に話しています。聴者の中にもマスコミで活躍している人がいる
ようにろう者の中にも世界的に有名な俳優もいれば、ニュースキャスターもいれば、
弁護士もいます。口話法が始まる前まではろう学校の校長先生だったり、村長さんだ
った人もいます。

 まったく同じ人間なのに、なぜろう児を持つことは泣くほどに悲しいことになって
しまったのでしょうか?
 それは、ろうの子の周りにいる親切な(?)専門家の言葉です。「聞こえなくても
訓練すれば話せるようになる。」という言葉は逆に言えば「何にもしなくて普通にし
てると話せなくなってしまう。それは言葉のない子、知能の遅れた子になってしまう。
」という意味になってしまいます。「話せるようになれば、学力もつくし、普通の子
のようになる。」というのはもともとただの子どもだったのに、「話せないと学力が
つかない、そういう子は普通じゃない。」と言うことになります。
 
 聞こえないというのは、平均聴力0dBが多数を占めているこの社会の中で、たま
たま0dBの人に聞こえる音が聞こえないだけです。それ以外には何の障害もありま
せん。言葉がないなんて大嘘です。それは音声日本語を話さないことを言葉がないと
言い換えているだけです。
 「言葉がある」ということは、自分の気持ちを表す言語を持っているということで
すよね。だとしたらその表される言葉は日本語であったり、英語であったり、手話で
あっても同じ言語なのですから、ろうの子が手話で話していても、そこに「言葉はあ
る」のです。
 その言葉が自分たち親とは違う言葉だったとしても、その言葉=手話であれば聴者
の親と同じように何でも考えることができ、話すことができ、知識を吸収することが
できるのです。
 しかし、先生たちの薦める聴覚口話法で音声日本語で話をさせるように育てたら、
どんなに頑張っても聴者並にはなりません。発音の明瞭さも内容の深さも情報量も絶
対に聴者同士の話と同質・同量にはなりません。それなのになぜ手話を拒む理由があ
るでしょうか?手話を子どもから取り上げようとするのでしょうか?
 それは、聴者教員には手話がわからないからです。そして口話以外の方法でろうの
子どもを教えることができないからです。だからこの世の中の大多数の人間の代表の
ような顔をして、社会では通用しない言葉だとか、言葉ではないと言ったりするので
す。手話で話もできない、ろう者になったこともない、ろう者に会ったことさえない
人間にろう児の心の発達や学びの過程がわかるでしょうか?

 今では日本でも手話についての研究が進み、手話学会や手話研究所といった機関も
あります。また毎年、手話を学びたい、手話通訳者になりたいという聴者がたくさん
各地の講習会や勉強会に参加しています。東京都では抽選が開かれるほどです。手話
を学びたい聴者だけはなく、ろう者によるろう者学や手話言語学、手話文学の研究も
盛んです。世界で活躍するろう者も珍しいことではなくなっています。すでに手話は
市民権を得ているのです。
 それを知らない、いや本当は知っていて敢えて無視しているのがろう教育の現場に
いる人たちです。また騙されたまま、子どもを聴覚口話法で育ててしまい、今更修正
できなくなった先輩ママさんたちです。彼女たちは聴覚口話法に洗脳されていますか
ら、他の方法を認めようとはしません。我が子がここまで育ったのは先生のおかげだ
と信じて疑わないので、今までのやり方や教員の知識の無さ、本音が見えなくなって
しまっています。この両者が一番先にろう児を持ったばかりの親に出会うわけですか
ら、そこで刷り込みが行われようとし、実際、多くの親が一番身近な存在に感じて頼
ってしまうという悪循環に陥るわけです。

 確かに良い先生はいます。先生すべてがそうだと言っているわけでありません。し
かし先生が良いとか悪いとかろう教育とかいう狭ーーーい世界はひとまずおいといて、
冷静に世界の情勢や言語というものについて、または人としてどう生きるかについて
を考えてみましょう。そして近くにいるろうの人を捜して下さい。多くのろう者に会
って下さい。あなたのお子さんを本当に導いてくれる方がきっと近くで待っています。

 

2000/8

 「ろう教育という名の洗脳」

 「この子は言葉が少し遅いのではないか?」「周囲がこんなに騒がしいのにどうし
てこの子はすやすや眠っているのだろう?」そんな不安がやがて「もしかして・・・」
という確信に変わる頃、皆さんはどの門を叩きましたか?ある人は、病院、大学、聞
こえとことばの教室、そしてそこからろう学校を紹介されたのではなかったでしょう
か?白衣に身を包んだいかめしい顔の医者は、お母さんやお父さんの顔を心配そうに
のぞき込み、こう宣告したと思います。
「残念ですが、この子は高度難聴です。聞こえるようにはならないでしょう。」そし
て、「このまま放っておいたら、言葉が習得できません。聞こえない子は聞こえる子
どものように音を聞いて自然に言葉を身につけることはできませんから、とにかく一
刻も早く補聴器をつけて、ろう学校や言葉の教室に行って訓練を受けなさい。今は補
聴器の性能もよくなっているから大丈夫です。小さいときから訓練すればちゃんと言
葉を覚え、しゃべれるようになりますよ。」

 こうしてろう学校やことばの教室、難聴幼児通園施設を訪れたお父さんやお母さん
がほとんどでしょう。医者の言葉に励まされてろう学校に行き、補聴器を作り、小さ
いときからそれこそ血のにじむような思いで、今日まで愛しいお子さんを育ててきた
と思います。

 でもその時に医者や、ろう学校の先生はどれくらいの割合で聴者並にしゃべれるよ
うになると説明しましたか?補聴器のフィッティングは何割の子どもに合うと言いま
したか?そして聴者と全く同じようにしゃべるようになった成人ろう者に会わせてく
れましたか?幼い頃、口話教育をしても補聴器をつけても大人になれば、手話を使い、
手話で生活するようになるろう者が多いと言うことを教えてくれましたか?またろう
文化、言語としての手話、デフ・コミュニティや聾唖連盟などろう者の将来に関わる
ことについての話を聞きましたか?更に言えば口話教育をしても音声日本語を獲得し
えず、手話にも触れることのなかった子どもは第1言語を持てないセミリンガルにな
るかもしれないという話は聞いたでしょうか?

 私たちが今まで唯一無二の方法だと思いこんでいた聴覚口話法というろう教育は様
々な教育方法の中の一つでしかないこと、そしてそれは想像を絶する苦労の割に効果
の少ない方法であること、既に世界の多くの国では失敗であったと認められているも
のであることを知っていますか?しかし、現在我が国のろう児を育てるシステムはた
だひたすら聴覚口話法への道しか用意されていません。医者も先生も十分なインフォ
ームドコンセントをせずに、しゃべれなければ始まらないとしか言いません。それは
盲の子どもに字を読めといい、足のない子どもに走れと言う教育と同じです。聴覚口
話法とは何なのか?

 私たちが望むことはろうとして生まれた我が子が、この世に生を受けたことを感謝
し、当たり前の人間として独り立ちし、心豊かに人生を生きていくことです。そのた
めに親は最良の教育を求め、選択できる権利を持つはずです。ろう児にとって真に必
要な教育とは何かを皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

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