◆今日のコラム◆
2005/06/13
「トリビアは無駄か?」
トリビアとは、「役に立たないどうでもよい無駄な知識」のことを言うらしい。
某テレビ番組のおかげで、すっかり有名になった言葉だが、内容の馬鹿馬鹿しさが面白さのポイントになっている。
元来、子供の頃から僕は、馬鹿馬鹿しいものが大好きだった。
例えば、
「マスオさんの声優は、増岡弘という名前」
「鉄人衣笠は、肉しか食べられない」
「11月17日は、将棋の日」
とか、どうでもよい知識を得ては、喜んでいる子供だった。
確かに、上に挙げた三つの知識が、何かの役に立ったことは一切ない。
そして、小学生の頃は、志村けんの足のサイズを知っていたし、ウルトラマンに登場する怪獣の名前も全て知っていた。だが、今は覚えていない。
そう、役に立たない知識は忘れる可能性が高いのである。
でも、「ザザーン」という怪獣の名前をふと思い出すこともある。
思い出したからと言って、何にもならないのだが、時々そういった忘却した知識の断片をサルベージした時、人間の記憶が持つ深い意味について、少し考えさせられる。
今、「深い意味」と言ったが、なぜ深いのかと言うと、意味がないからである。
よく思うのだが、意味のないものほど深いものは無い気がする。
理路整然と説明できるものには、思惟に限りがあるが、真に漠然としたものには、無限の思惟を致すことができる。たとえ、それが全く不毛な思惟だとしても、思惟する限りは、深いものであり続ける。
意味のないものと役に立たないものは似ている。
だから、役に立たないものも、何だか凄いもののような気がする。
それで飯が食えるわけではないし、飯が食えるネタが凄いという次元とは違った凄さを感じる。
いやまあ、とはいえ、「ザザーン」なんて、実にクダラナイ。
「巨人の小久保の弟は『いっこく堂』のマネージャー」とか知っていたって、どうということもない。これが深いなんて、全然思わない。
もし、この知識が実用面で役に立つとしたら、それはもう、「風が吹いたら桶屋が儲かる」的な、偶然に近いものになると思う。それは「世の中、何がどう転んでどうなるか分からない」という理屈で、物事の因果関係を説明しようとする発想である。
そう思うと、深いとか役に立つかとか、どうでもよくなってきた。
やはり、トリビアの魅力は、その無駄さとB級さ加減にあるのだと思う。
最初から、そう書けばよかったと後悔している。
ちゃんと読んでくれた方、すみません。
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