| 「尾崎豊と僕」 ボクが尾崎豊の詞の世界に初めて触れたのは19歳の頃である。 高校を卒業して、浪人生活に突入したあたりである。 尾崎が死去したのが1992年、つまりボクが中学生の頃だから、 当然、19歳までに彼の曲を耳にしたこともあったし、 「I LOVE YOU」や「OH MY LITTLE GIRL」をカラオケで歌ったこともあった。 しかし、高校時代は、尾崎豊に関してはラブソングにしか興味を持たなかったのである。なぜ彼を象徴するプロテストソング的な曲の数々に興味を持たなかったのかについては、今だから分かる理由があるのだが、19歳になって初めて彼の世界に触れた時の感想は、 「あ、こいつ、俺だ。」 というものだった。 いつも、追い込まれた地点で生きていて、 大人、社会の枠に縛られていることに我慢ができなくて、 自分をどこか特別な存在だと思いたくて、 自己顕示欲の塊のような自分を持て余し、 型に嵌ることを拒み、自分を自分たらしめる生き方にこだわり、 とにかく自由を強く渇望している……。 高校生のボクそのものである。 奇しくも、考え方や音楽の道を志していたところなどに、共通点があり過ぎた。 ボクは、他人と同じであることに我慢ができない性質だったので、 高校生のボクは、無意識に尾崎豊に自分と似た匂いを感じ取っていたのかもしれない。 それを認めたくないがために、彼の詞の世界に触れようとしなかったのだと思う。 19歳で触れる気になったのは、高校を卒業して自由を手に入れた気がしたからである。 ボクは高校1年生で、人生初めての「挫折」と言える経験をした。 まあ、平たく言えば、勉強で落ちこぼれたのである。 それまで、ボクは「自分は頭がいい」と思い、おそらく、それが自分の軸だった。 おおよそ、その気になってできないことはないと自惚れていた。 それが、大阪府下有数の進学校に入学してすぐに、数学が分からなくなった。 小さなつまずきは、転がる雪玉のように大きくなり、授業から取り残された。 進学校の授業は、特急列車。途中下車をすれば、もう追いつくことはできない。 宿題ができない、復習ができない、予習ができない、そのループが他の科目にも波及し、気がついたら、無力の底を這いずり回っていた。 「授業に着いて来さえすれば、京大へ行ける。」という学校の方針を鵜呑みにし、 とにかく授業にしがみつこうとその一点に執着し、必死になった。 足がかりのない壁に飛びついたところで、這い上がれるわけがないというのに。 始めのうちこそ教師に質問をしに行き、執拗に食い下がったが、2学期の途中で、 教師の方が逃げ腰になり、サジを投げられる始末・・・。 16歳のボクは、孤立無援、四面楚歌、周囲には少しの悪友とろくでもない連中・・・。 「何もできない」という底知れぬ無力感、授業中は屈辱の嵐、粉々になったプライド。 教室という空間が、空虚以外の何者でもなくなっていく中、 ボクは、なぜこうなったのかと、自問自答を始める。 ここで初めて、ボクの中で、自我の覚醒が起こったのである。 初めて自分の存在を問い、なぜ自分がそこにいて、何のために何をしたいのか、 何も無い所から考え始めると、色々な外的制約によって抑圧される自分の姿が見えた。 画一的な授業、弱者を切り捨てる教師、そういう所から疑い始めて、 自分にとって本当に大切なことは何だろうと悩み抜き、 学校や社会の枠組みの意味を疑う所へ、辿り着く。 高校3年生の頃には、何にも縛られずに生きることが唯一の生きる指針となっていた。 始業時間を無視し、授業の内容を勉強することはなく、興味のある本を読み、 マンガを読み、音楽を聴き、ギターをガムシャラに弾き、詩を書いた。 仲間と呼べる人間は少なかったけれど、大切な恋人もできた。 「やりたくねぇことやってる暇はねぇ。」 「誰が決めた?」 が口癖になった。 「自分の生き方は、他の誰の意思でもなく自分の意志で決める。」 強くそう念じ続けた。 そんなうそぶきとは裏腹に、どんなにあがこうとも制約から開放されることはなかった。学校というシステムが自分にとって完全に意味を成さなくなったと感じたとき、 音楽への直線的な道を歩むため、自主退学を決意した。 周囲の反対に遭う中、音楽専門学校のパンフレットを集め、1日体験入学へ行った。 そこで、ある事実に気がついた。 負けたまま逃げようとしているという事実。 制約を否定する根底が、勉強に対する敗北にあることを強烈に意識した。 自主退学を思い留まり、卒業することにした。 音楽の道を目指す気持ちは、揺るがなかった。 だが、勉強に負けたまま学校を辞めるわけにはいかなかった。 卒業に必要な単位を取るのには、予想以上の困難を伴った。 夏休みの数学単位追認定試験へ向けての勉強は、高圧的な指導教師と上手くいかず、 独りで勉強することになった。 英語は、文法が理解できないので単語を丸暗記し、試験の出題範囲の文章を全て覚えた。教師の温情もあったかもしれないが、何とか卒業することができた。 「仕組まれた自由に 誰も気づかずに あがいた日々も終わる」 尾崎の「卒業」の一節だが、ボクが卒業式を迎えたときの気持ちに相当近いものがある。当時、ボク自身、似たような詩を書いていたような気もする。(見つからないが) と、まあ、高校時代のボクはそういう感じだったのだが、(今は全然違いますよ) 尾崎豊と決定的に違う点が幾つかある。 まず、「文才」である。 尾崎豊は、非常に早熟な文才というか詩才があった。 17、18歳の頃のボクの詩なんて、覚えたての語彙をムリヤリ使った、 グチャグチャドロドロの電波な、決して人様に見せられる詩ではなかった・・・。 根本的に、尾崎の詞は、多くの若者に自分の考えを伝えようとする、 メッセージとして大衆に届くことを意識したものなのである。 だから、しっかりとしたまとまりがあるし、語彙のバランスも良い。 しかも凄みのあるストレートな詩が多いから、やはり早熟の詩才ありである。 対して、ボクの高校時分の詩は、誰に何を言いたいのかが読む人に伝わらず、 しかも、世の中の常識というものをほとんど排除しているせいで、 誰も理解できそうにない情景描写があったり、今のボクが読んでも、 理解不能というか、何だこりゃ?な表現が多かったりする。 言うなれば、その様相は自慰的畸形文学といった感じである。 暗い十代の屈折した思いと、不安定で偏った叙情的要素がこねくり回され、 そこに若さゆえの青汁のような青臭さ(稚拙さとも言う)がミックスされた上に、 オカルティックな語彙の不自然な濫用も加わり、まさに脳味噌ぶっ飛び系である。 いい大人が書けば、変態呼ばわりされること必至である。 次に違う点は、「性格」である。 尾崎豊は、非常に直情的なタイプだと思う。 思ったことをストレートにぶつけずにはいられないようなタイプである。 そういう性格が詞に現れているように思う。 ライブで熱く観客に語りかけていたことからも、そういうタイプだと言えそうである。 非常に、考えも行動も外に向かっている、つまり、ストレートで外向的な性格である。 対する僕は、非常に回りくどい性格である。 人を傷つけることも自分が傷つくことも極度に恐れているので、 ストレートにモノを言うことはまずない。 本当に必要な時は、意を決して言うし、土下座だろうが裸踊りだろうがやってのけるが、普段は、非常に回りくどく物事を表現するタイプである。 まして、よほどの節目でもない限り、ライブで熱く語るなんてことはしない。 基本的に、あれやこれやと悩みまくり、煮詰まったところで外に出す、 つまり、ボクは回りくどく内向的な性格なのである。 結局アウトプットせずにはいられないのだが、とにかく回りくどいのである。 そして最も大きな違いは、「自主退学」にある。 尾崎が実際に辞め、ボクが辞めなかったという違いは、実は大した問題ではない。 問題は、その動機の純度にあったのである。 ボクの自我覚醒の引き金は、皮肉にも自らの未熟さがもたらした「挫折」だった。 挫折によって心の身ぐるみを剥がれたことで、根本から物事を見つめるようになった。 しかし、その段階が進むにつれて、「学校を否定して好きな音楽の道を歩む」行為が、 前向きさにおいて不純物を含んでいることに気づかされた。 つまり、「挫折」の原因に対して、何らかのケリをつけなければ、 前を向いてまともに歩けなくなると、感じたのである。 つまり、自らの屈折・卑屈さを正さなければ、進めないと。 一方、尾崎豊の関係書籍を読むと、尾崎の高校自主退学は、屈折がない分、 純度の高い前向きな選択だったことが伺える。 「俗世間」に対して純粋に対峙したことによる挫折はあっただろう。 金・愛・信念・欺瞞・夢、そういったものの間に横たわる矛盾への焦燥を、 既に尾崎は中学時代から心に抱いていたようである。 自我の覚醒が随分と早く、その引き金もおそらくは「挫折」ではなかった・・・。 つまり、尾崎の自我の発揚は、かなり自発的な性質を帯びていたのだと思う。 対するボクの自我発揚は、自発的には違いないが、その条件を満たす環境が整う、 即ち、無力の闇に包まれるまで発揚しなかったという点において、 外的要因に拠る性質を帯びていたのである。 尾崎豊は、27歳になる年、1992年に26歳で死去した。 11年後の今年、ボクも27歳になる。 もしかすると、ボクが、詩や音楽の才能が早熟でなかったことや、 性格が内向的だったこと、自我の発達過程に屈折があったことが、 ボクの命を救ったのかもしれない。 そう、今、場合によっては、彼と同じ道を辿っていたかもしれないという直感がある。 「力だけが必要だとかたくなに信じて」(尾崎豊「卒業」より) 17歳のあの頃、ボクもそのように思っていた。 しかし、尾崎は力を持ち、ボクは力を持てなかった。 無力な状況下にいることが、ボクに飛び立つことを思い留まらせた。 あの時に思い留まらなかったら、ボクは自分をどこまでも追い詰め続けて、 破滅的な道を突き進み、調度今頃、どこかで野たれ死んでいたかもしれない。 実際、思い留まったその後、時間を掛けてボクの視界は多様な広がりを見せ、 敬愛すべき人達との出会いや別れがあり、今尚その流れは続いている。 テレビや雑誌などで見聞きして、尾崎豊に思いを馳せる時、 ボクは、自分と彼の人生の分岐点を思わずにはいられない。 END (2003年5月執筆) |
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