「天才変態エロシンガーソングライターダンサー岡村靖幸」 アーティストを語るエッセイを書くのは、本稿が初めてである。 しかも、岡村隆史でもなければ、岡村孝子でもなく、岡村靖幸である。 10代や20代前半の若者は、誰それ?と言うかもしれないし、 ボクから上の世代の岡村靖幸を知る人達も、忘れてたと言うかもしれないが、 ボクは、敢えて大いに、極めて主観的に語り、お節介ながらも紹介したい。 岡村靖幸の詞と曲の世界を。 僭越ながら敬愛を込めて、以降、岡村ちゃんと呼ばせてもらうことにする。 さて、岡村ちゃんだが、本人は自分のことを、 「シンガーソングライターダンサー」 と位置付けている。 随分、贅沢な肩書きだと言われそうだが、 ボクはそこにさらに、「天才変態エロ」を付け加えたい。 「天才変態エロシンガーソングライターダンサー」 (長すぎ…。) 天才・変態・エロの3要素を兼ね備えていることは、 ある種、芸術の究極形態の一つではないかと思う。 世の中に、変態やエロい奴は大勢いる。 ただの変態やただのエロには、あらゆる意味で輝きがない。 酷い言い方をすれば、ゴミクズ同然である。 しかし、そこに天才の要素が入ると、途端に無敵になる。 それは、社会的に成功することと必ずしも同義ではなく、 芸術性において唯一無二の無敵になるという意味合いが強い。 いわゆる、「こんなんこいつしかおれへん!」というやつである。 そんな怪しくもオンリーワンな岡村ちゃんだが、 1stアルバム「Yellow」を1987年にリリースして以来、 '88年に「DATE」、'89年に「靖幸」、'90年にベスト盤「早熟」をリリース、 そして同'90年に最強大傑作「家庭教師」をリリースした後、 5年のブランクを空けて'95年に「禁じられた生き甲斐」を発表、 しかしその後は、ほぼ音沙汰無しという、稀有な経歴を持つアーティストである。 全盛期は、若い女性ファンが多く、コンサートで、 「みんな!俺の子供を産んでくれ!」 と岡村ちゃんが絶叫すれば、数千人の女性ファン達が一斉に、 「キャー!産むーっ!産むーっ!」 と歓びにむせび泣いたという、凄すぎる伝説(たぶん実話)もある。 それにしても、何っちゅうフェロモン! 正直、うらやましい…。なんというかその、生物として。 それほどまでにフェロモン全開だった岡村ちゃんだが、 果たしてその音楽が如何なものだったのかというと、 明らかに、'80年代後半から'90年代初頭のJポップの水準を凌駕している。 時代の2、3歩先を行っていたと言ってもいいと思う。 岡村ちゃんは、デビュー以前に、渡辺美里への楽曲提供などをしており、 パフォーマーとして現れた時には、既に相当の表現力を持っていたようである。 1stアルバム「Yellow」を聴いても、80年代テイストながらも、 既にメロディアスなヴォーカルラインと個性的な歌唱力が感じられる。 2ndアルバム「DATE」では、アレンジ面でも岡村ちゃんらしさが濃くなり、 3rdアルバム「靖幸」以降は、全曲作詞作曲編曲プロデュースを一人でこなすという、 ほとんど和製プリンスとでも言うべき才能を開花させている。(当時は珍しかった) 特に、4枚目の「家庭教師」は、あの桜井和寿がヤラれたと言うのも納得できるほどの、 強烈な「岡村ちゃんオーラ」を放つアルバムである。 とにかく、21歳から26歳までの間にこれだけの独自性を発揮したのだから、 早熟の天才と思わずにはいられない。 と、うだうだと書いてきたが、ここまでの話は導入的な紹介に過ぎない。 ボクが最も言いたいのはこういったことではなくて、もっと微に入り細に入った、 岡村ちゃんの天才的変態性に関することである。 岡村ちゃんの詞は、よく変態チックだと言われる。 しかしボクは、変態チックというより、むしろそのものだと言いたい。 岡村ちゃんの詞を見ていくと、岡村ちゃんの精神構造というか、 興味の対象や欲求のようなものが見えてくる気がするのである。 興味の対象は、ずばり、可愛い女の子! 欲求は、ずばり、セックス! 思考回路は、常に性的欲求を原動力にして動いている! おそらく、岡村ちゃんの詞は、ほとんど「やりたい!」が土台になっている。 誰しも、性的欲求は多分に持っているし、異性に興味を抱くのも当たり前である。 しかし、岡村ちゃんの場合、ぶっちゃけ、「それしかない」ように思えてくる。 こう書くと、岡村ちゃんが、フロイト心理学の体現者のようになってしまうが、 岡村ちゃんの詞は、性を暗示しているような類のものではなく、 至極ストレートな、聴いている方が恥ずかしくなるほどの正直な詞である。 ここまで赤裸々というか、開放的というか、男として正直な詞を見たことがない。 上に述べた岡村ちゃんの詞のセクシャルな要素は、 いわゆる「エロ」である。 エロと変態は違う。 と、ここでは敢えて言いたい。 ってことは、エロとは別な所に、変態性があるのか? 答えは、否、エロと同じ場所に変態性が同居しているのだと思う。 つまり平たく言うと、 「エロくてヘンで、とっても恥ずかしい歌詞」 なのである。 大体、曲のタイトルに「大好き」と付けられる男性アーティストはそういないし、 これでもかと言わんばかりに突き抜けていく超絶ナルシスな歌詞も、他には見出せない。 そんなの、ダメじゃん。 と言われそうだが、岡村ちゃんの詞は、断じてダメではない。 まず、ポップスで使い古された表現を多用していない。 決してバランスの良い語彙とは言えないのだが、オリジナリティが溢れている。 誰でも言いそうなことはまず言わないし、何より、その常識を逸脱した詩世界が、 聴き手の心を絡め取りに来るのである。 変態エロティシズムは、詞のみに顕われているわけではない。 曲の展開・アレンジ、つまり音にも随所に散りばめられている。 執拗なまでのこだわりの感じられるベースライン。 当時のJポップとしては珍しい、細かいビートの詰まったリズムトラック。 ピンポイントで挿入されるサンプラー音源。 間奏時に突然展開するブラスバンドパートやマーチングパート。 (しかもブラスバンドパートの直前で『ブラスバーン!』と叫んだりする。) 他にも、コーラスに子供の声をワザとらしく使ってみたり…。 と、挙げだせばキリがないのだが、「靖幸」以降は、徹底的な凝りようである。 最近でこそ耳が慣れてきて、そう驚かなくなったが、岡村ちゃんを聴き始めた頃は、 音に関しても、「普通、そうくるか?」のオンパレードだったのである。 連続ホームランを打たれてぼーぜん状態の桑田真澄のように、唖然としたものである。 ここまで、かなり抽象的なレベルでの紹介に終始してきたが、 具体的なレベルでの紹介は、実は、アルバム単位、曲単位でしたいと思っている。 このアルバムのこの曲のココがすごい! というのを、別の稿でやるつもりである。 END 執筆: 2003/07/17 |