「 Vanity? Emptiness? 」



窓枠の向こうに、屋根の円い鉛筆ビルが見える。

薄曇りの空は白く、その妙な明るさが閑静な住宅街に落ち着きを与えている。

どこかで囀る雀の声が、穏やかな春の微風に溶け込んでいく。

窓枠のこちら側。陰気な教室。窓際の席。僕はぼんやりと外の風景を眺めていた。

僕の机の上には、真っ白なノートが無造作に広げられているだけで他には何もない。

教壇に立つ数学教師の声は段々と遠ざかり、僕と僕の周囲は虚無感で一杯になる。

熱心に教師の言葉に耳を傾け、せわしな気にノートを取っている他の生徒達の姿が、僕にはオートメ

ーション化された織機のように見える。

僕は何もせず、ただぼんやりと外を見るだけだ。

虚しさが込みあげてくる。

余りにも虚しい。

もう、どのぐらいこの虚しさの中に身を置いているのだろう。

そんなことだけをぼんやりと幽かに思いながら、僕は顎の下にはめていた頬杖を外し、顔を横向きに

真っ白なノートの上に乗せ、うつらうつらし始めた。

府内でも指折りの進学校と呼ばれるこの高校に入学して以来、僕は徐々にではあるが、確実に生き

る目的と意味を喪失してきた。

誰もいない部屋の中で人知れず増殖するカビのように、僕の中で版図を広げる無目的・無意味が、僕

の持っていた人や物事に対する関心を失わせた。

そうしてできた無目的・無意味・無関心が、僕に虚しさという形の無い在り方をもたらすようになったの

だ。千紫万紅の世界を映し出していた僕の網膜ディスプレイは、彩度を失い、モノクロームの濃淡さえ

判別できない灰白色の世界しか映さなくなった。初めに臭いと味、痛みが無くなり、次に音が無くな

り、全てがうつろにしか見えなくなり、今では微かに輪郭が見えるに過ぎない。


二時限目終了のベルが鳴る。

僕は、静かに席を立ち、クラスメートとの他愛のない会話の中で少し悪ふざけを言ってみたり、大袈裟

に笑ったりして短い休憩時間を過ごした。

しかし、僕には、この休憩時間における自分の行為が、ことごとく自分の所業であるとは思えなかっ

た。クラスメートとの会話に興じている自分は、別の自分であるに相違なかった。なら、僕本体は何処

にいるのか。僕本体は、別の僕と同じ場所で同じ身体を共有していて、ぼんやりと虚無の海に浸って

いるのだ。別の僕が何をしようと、そいつは何かを考えているわけでもないし、何かを感じたり興じたり

しているわけでもない。そいつはただ、何かのプログラムに従って極めて無機的に自動的に動いてい

るに過ぎないのだ。僕はそいつがすることをただぼんやりと見ているだけだ。

僕は何もせず、別の僕と他の全ては自動的に動いている。

三時限目開始のベルが鳴り、他の生徒達と同じように僕は席に着いた。

まだ、生物の教師は教室に現れない。

不意にすぐ後ろの席の女の子が、僕の肩を指でとんとんと叩いた。

「ねえ、教科書持ってないの? 」

別の僕がすかさず振り返り、愛想よく格好をつけて応対する。

「うん。教科書って重いだろう。だから、俺、持ってこないんだ。」

「ふうん、そうなんだ。でも、授業中は困るんじゃない?」

「そう言われてみれば、困るような気がするなあ。」

別の僕が、道化た調子で答えた。

「何すっとぼけてんのよ。しょうがないわね。一回百円で見せてあげる。」

「じゃ、お言葉に甘えようかな。お代は出世払いにしとくよ。」

「はいはい。それにしても、菊地君の真面目なところって、見たことないような気がする。」

「そうかな。」

「そうよ。だって、いつも授業中は何にもしないでそっぽ向いてるし、休み時間は男の子たちとふざけあってるし。」

「・・・・・・・・・。」

「ちょっと。なんで、急に黙っちゃうのよ。もしかして、気に障ること言った?」

「別に。」

「別にって・・・・・・。」

別の僕は、急に無愛想になった。

それにしても、別の僕は、無愛想で素っ気ない。僕なら、こんな場面では、ちょっとしたボケをかまして

彼女をからかってみるはずだ。でも、別の僕は、彼女の言葉に反応しない。会話に関心が無いのだ。

そう、いつも彼は、素っ気ない。僕と同じ身体を共有しているというのに、僕の対面などお構いなしだ。

何らかの自己主張があってのことなら、まだ話はわかる。ところがどっこい、この野郎、何のこだわりも

ない。何にも興味を示さないし、他人はおろか自分のことにさえ無関心だ。僕には、彼の神経がわか

らない。今のこの、後ろの席の女の子との会話だってそうだ。僕は、真面目で利発そうな彼女をから

かって、他愛ない戯れに興じたかっただけなのに、別の僕ときたら、「別に」などとぬかしやがる。

ほら、彼女は僕の態度の急変ぶりに警戒し始めたじゃないか。一方的に会話を中断されて、言葉に

詰まっているみたいだ。

このままでは、僕は彼女に危ない奴だと思われてしまう。

何とかしなければいけない。

ふいに、教室のドアが開き、生物の教師が現れた。

灰色のスーツの上から、薄汚れて灰白色になった白衣を羽織った生物の教師は、教壇に立ち、機械

的に授業を始める。

彼は、授業の内容を喋りながら、白いチョークを黒板に叩きつけるようにして板書してゆく。

白いものが多く混じった彼の頭髪が、幽かに僕の眼に入ってくる。

僕は、何をするでもなく、何もない机に頬杖をついて、灰色の頭を眺めている。

ふと、僕の脳裏に記憶の断片が浮かび上がる。

クラスメートの問いかけに対し、「別に」と応えた。

応えたという行為そのものに、ごく軽い疑問めいた感覚が起こり、消えてゆく。

僕は、頬杖をついたまま、窓の外に眼を移す。

相変わらず、薄曇りの空は白く、妙に明るい平凡な街並がじんわりと佇んでいる。

その平凡な街並に、屋根の円い鉛筆ビルが一本、にょっきりと生えている。

そのビルは地面が突出してできた細長い突起で、他の建物は地面についた苔だ。

蟻塚と苔とから成る大地が、まるで置き去りにされたかのように、白い空の下で、まるく孤立して

いる。

僕は、押し固まった大地と無限に広がる空との距離を何となしにぼんやりと感じている。



三時限目終了のベルが鳴った。

再び喧騒に包まれる教室。

別の僕がすぐ後ろの席の女の子と話している。

「悪い、悪い、さっきは急に黙っちゃって。」

「黙ったのはいいけど、その後の『別に』ってのは何よ。すごく冷たかった。」

「え?そんなこと言ったっけ。そう言われてみれば、言ったような気もするなあ。言っちゃったのならゴミンナサイ。」

もとの調子の僕の言葉に、彼女は安心したのか、クスッと笑ってから少し怒ったような顔をして応え

る。

「もう、またすっとぼけて。教科書見たくないなら、見たくないって素直に言えばいいのに。」

ふう、これで何とか対人関係を修復することができた。別の僕のせいで、彼女に一瞬抱かせてしまっ

た僕の素っ気ないイメージを、これで何とか払拭できたはずだ。全く、彼にめんどうを起こされること

は滅多にないけれど、今日の「別に」には、かなり頭に来た。もっとも、当の彼の方は、何も感じては

いないだろうけれど。とにかく、僕は上手くやらなければいけないのだ。そう、上手くやらねば。上手

くやらねば。上手くやるだけ。

別の僕が、またクラスメートと何かを話している。

ゴミンナサイという言葉が、上の方から幽かに降ってきた。

僕は、灰色のがらんとした空洞の中にいる。

白く鈍い光が、上の方からじわじわと、広がってくる。

別の僕は、何かしら、自動的に、作動しているようだ。

僕は、ただぼんやりと、それを、見るだけだ。

ただ、ぼんやりと、それを、・・・・・・・・・。

彼も、僕も、虚し・・・・・・・・・。

あ、あ、僕、が、無くな――――

ぼ、ぼ、く――――

――――

                         Fine




この作品の内容は、すべてフィクションです。念のため。(^^;)