無人島奇談










第5話

”ああ、夏休み”










 白い校舎の彼方、遥かな上空は、雲一つない晴天である。

 比して下界は、熱を帯びた湿気の上に、刺すような夏の陽光が容赦なく照りつける。

 古びたレンガ造りの校門に覆い被さるように、木々の青葉が生い茂っている。

 その校門の内側は、ちょっとした前庭になっていて、春には華やかだった桜の木々も、左右対称に植わっている二本の大欅も、むさ苦しいほどに鬱蒼と葉を茂らせている。

 蒸せ返る前庭の奥に聳え立つ白い校舎を迂回すると、グラウンドが広がっている。

 普段のこの時刻には無人の砂漠のようなグラウンドに、全校生徒が整列している。

 壇上で空虚な演説をぶつ校長も、その後ろに控える教師陣も、暑さに顔をしかめる生徒達も、皆一様に全身と額から汗を噴き出させ、我慢大会の様相を呈している。

 皆で並んでいるから砂漠のようにこそ思えないが、だからといって涼しくなるわけもなく、そこが灼熱のグラウンドであることに変わりはない。隣りの生徒の影が自分の身体の一部を覆うのなぞ、気休めにもならない。

 しかし、暑さに耐える生徒達のしかめっ面には、どこかその先に希望を見出しているかのような疼きに似た雰囲気が滲み出ている。

 なぜなら、ここさえ耐えればあとは…そう、夏休みが待っているのである。

「で、あるからして−−−。」

 尚も続く校長の長話は、早く終われという皆の願いに抗うかのように、真夏の蒼穹にそらぞらしく響くのであった。









 一学期最後のホームルーム。

 このとき、教室の生徒達の顔色は二極化する。

 平然とした顔でいる者と動揺した顔でいる者に分かれるのである。平然組は、余裕と開放感に満ちた表情で、到来する夏休みへの希望に目を輝かせている。動揺組は皆一様に暗い表情で、溜め息をつく者さえいるが、中には開き直りか破れかぶれか、無理矢理明るく努めている者もいる。

 つまり、担任から手渡された成績通知表が、彼らの表情の明暗を分けているのである。 ミキオは机上の通知表を見て、ニコニコしている…のではない。いや、ニコニコしているには違いないのだが、皆がそれぞれの通知表に一喜一憂している中、彼一人が別の物を見て嬉しそうな顔をしているのである。彼の通知表は既に彼のカバンに仕舞い込まれている。

 彼が見ている物、それは、一枚の紙である。中学生が見て喜ぶ紙といえば、好成績の通知表かラブレターぐらいが思いつくが、彼が見ている紙は、無論そのどちらでもない。ゴールデンウィーク前と同様に、スケジュール表なのである。それは、夏休みのスケジュール表であり、すでにミキオ、キイチ、マユミのスケジュールは詳細に書き込まれている。そして、今、ミキオがそれを見てニコニコしているのは、既に三人で過ごすバカンスの行き先が決まっているからであり、そこへ行くのを楽しみにしてあれやこれやと想像に胸を膨らませているからである。

 彼の頭の中は、成績のことなどとうに掻き消えてしまい、楽しい夏休みのことで一杯になっている。だからといって、別に彼が現実逃避を決め込んでいるというわけではない。事実、一学期の彼の成績は、悪くなかったのである。良いというほどでもないが、真ん中よりもやや上に位置し、彼としては期末テストでかなり善戦したのである。

 そして、彼の善戦に多大なる貢献をしたのは、勿論、キイチとマユミである。












 期末試験の一週間前。

「あんた、中間があんな成績じゃ、夏休みの補習に行かなくちゃなんないわよ!」

 ヒステリックなマユミの声が、ミキオの部屋に響き渡った。

「うん。でも僕、補習、そんなに嫌いじゃないし。」

 とミキオが言った刹那、マユミは激しく机を叩いた。

「ばっかじゃないの!補習が何日あると思ってんの!15日もあんのよ!キイチはともかく、アタシは部活があって空いてる日が少ないのよ!そんなじゃ、三人でキイチんちの別荘に行くって話が無くなっちゃうじゃない!」

「あ、そうか…。マユミは部活が忙しいんだよね。どうしよう。」

 さっきまでのほほんとしていたミキオは、急に困り顔になり、悩み出した。

 マユミは、怒り心頭で両目に涙まで溜めている。

 それを見てミキオは、ますます困った顔になった。自分が情けなくなってくる。

 どうして僕っていつもこうなんだろう。

 考えが足りなくて、マユミを怒らせてばかり…。

 それに、キイチくんにだって迷惑かけてばかりいるし…。

 普段のほほんとしている分、ミキオは、一度自分を責めだすと止まらなくなる。

 そして、とうとうマユミより先に泣き出してしまった。

「ごめんね、マユミ、キイチくん。僕のせいで…。別荘は2人で行ってよ。」

 そこで、それまで黙っていたキイチがやっと口を開いた。

「ダメだよ、ミキオ。3人で行くんだ。期末テストで挽回すればまだ何とかなるはずだよ。だから、頑張るんだ。まだ、一週間ある。僕とマユミもサポートするから。マユミ、いいよね?」

 涙で赤くなっていたマユミの瞳に、光と力が戻ってくる。

「分かったわ。ミキオ、ビシバシ行くからね。頑張んのよ!」

 もちろん、二人にそこまで言われてこれ以上気持ちが後ろ向きになるミキオではない。 ミキオは試験勉強に善処することを誓い、涙で顔をぐしゃぐしゃにして何度も二人に礼を言うのだった。

 かくして、三人の期末試験大作戦が始まったのである。










 

期末試験前夜。

 ミキオは鉢巻をして、机に向かっている。

 その両脇には、キイチとマユミが真剣な顔つきで張りついている。

 ミキオは鉛筆を動かす手を止めて、ふと前方へ顔を上げる。

 いつもならここでぼんやりと空想に耽ったりするのだが、そうはいかない。

 前方の壁には「ボサッとしない!」と書かれた半紙が貼られている。

 その力強い毛筆の筆跡は、もちろんマユミの手によるものである。

 それを見て慌ててミキオは、机上のノートに注意を戻す。

 ここへきて、ミキオが左右によそ見をすることはまずなくなっている。

 右を見ればマユミの平手打ちが、左を見ればキイチの冷徹な視線が待っている。

 普通の勉強嫌いの中学生なら逃げ出したくなるところだが、ミキオはそうでもない。

 ミキオは平素、自分の集中力散漫なところに手を焼いていたのである。

 ヤル気がないわけではない。が、すぐに他のものに気が行ってしまう。彼の心はぼんやりと中空を漂っていることもあれば、ふらふらと右へ左へ流れていったりもする。

 行雲流水。と言えば聞こえが良いが、根無し草のように同じところに留まらないのだから、特に試験前など、本人も移り気な自分自身に手を焼いていたのである。

 そんな彼にとって、今のこの四面楚歌状態は、実に好都合な環境なのである。感謝こそすれ、逃げ出したいなどとは露ほども思っていない。おかげで、彼の試験勉強は思いの他はかどっている。

 この一週間ミキオにつきっきりのキイチとマユミも、彼の勉強を監督することが自分達の勉強になっていた。とはいえ、キイチとマユミは元々成績優秀であり、おさらい程度に試験範囲に目を通せば充分だったのであるが。

 キイチはミキオを見ていて思う。

 ミキオほど何においても未知数な中学生は他にいるだろうか、と。

 小学生の頃からキイチはミキオに対して、底知れぬ、得体の知れぬ、そして海のように空のように茫洋とした、温かく包みこまれるような、憧憬にも似た印象を持っていた。ミキオの人柄は、凡庸を絵に描いたように、単純で幼く人懐っこいのであるが、それでいてどこかが何かと違う、掴みきれない不思議さを無自覚の内に潜ませている。

 目下、ミキオに必要なのは、自立心や自我を育てることだろう。その点で、彼が一般的な中学二年生に比して特に遅れているというのが、キイチとマユミの共通認識である。

 しかし。

 と、キイチは思う。

 たぶん、それは些細なことだと。自立心や自我の形成などは、キイチ自身も含めて誰もが通る過程である。早いとか遅いとかいうのは、個人差の問題でしかない。だから、自立心や自我の形成が遅れていることが、ミキオの人間的価値を左右することはなく、もっと深い、自分の計り知れない、ミキオに対して感じている形の曖昧な印象、そういうところにミキオのミキオたる価値があるのではないか。キイチは、半ば漠然とそう考える。そこまで考えたところで、キイチは、ミキオの向こう側で気を張り詰めているマユミにちらと目をやる。

 マユミは、この二年ほどで驚くほど成長した。溌剌とした少女ではあるが、体型は女性らしさを増しつつあり、顔つきも美人らしくなってきた。さらに、彼女の成長はそんな見た目の変化だけではない。小学生の頃のお転婆さはまだまだ残っているものの、身なりに気を使うようになり、勉強とクラブ活動に励むようになり、今ではそのどちらも学年でトップクラスの実力を誇る。彼女の心の中には、自立心と自我が着実に形成されつつある。小学校ではあまり勉強が得意でなかった少女が、二年余りで今やトップクラスなのである。この急成長は、自立心と自我の存在なくしては説明できない。と、キイチは思っている。では、何が彼女に急な自立心と自我の形成を促したのか。はっきりとは分からないものの、おそらくミキオの存在が関係しているのだろう、とキイチは推測している。

 キイチは、マユミに対して淡い恋心を抱き始めているのだろうか。それは、キイチ自身にも、今のところはよく分からない。異性としての意識の芽生え、はあると思う。でも、恋というほどの強い気持ちはない。ただの友達から女友達へ。それぐらいの変化なのかなぁと今は思うことにしている。

 ともあれ、キイチは、そんなミキオとマユミを、友人としてこれから先もずっと見ていたいと思うのであった。

 一方、ミキオを挟んでキイチと反対側にいるマユミも、ミキオの机に頬杖をつきながら何やら考えに耽っている。

 ほんと、コイツ、ここまでしてあげないと頑張れないなんて…。

 情けないやつ、とまでは思わない。けれど、自分とキイチの世話焼きを必要としているミキオの現状には、強い不満を感じている。何事にも前向きな彼女は、ミキオのお気楽な性格に危機感を感じているのである。そんなことでは立派な大人になれない、と。今も、不甲斐ないミキオのために、自分が一肌脱がねばならないのだという義務感でもって、勉強を見てやっているのだと、彼女は真面目にそう思っている。しかし、本当にそれだけなのだろうか。という微弱な疑念が、彼女の胸の奥底に分子レベルぐらいの大きさで渦巻いている。その疑念の渦は、今のところ彼女にとっては、無視できるほどの微弱な存在でしかない。外見は女性らしさを増しつつある彼女だが、元来の男勝りな性質は色濃く残っているのである。だから、密かに思いを寄せる男子の一人もいなければ、ましてや白馬の王子様に憧れるような恋に恋するような情緒などあろうはずもない。のだと、彼女自身、自分で強く思っている。だから、胸の奥底にある微弱な疑念など、今のところ彼女にはほとんどどうでも良い存在でしかない。

 コイツは今んとこ、あたしとキイチがいなきゃダメなのよ!

という義憤で、淡い疑念など消し飛んでしまっているのである。

 小学校の頃からずっと、マユミはキイチに対しては一目も二目も置いている。自分などより、ずっと聡明で博識で大人びた分別を貯えている。そして、負けず嫌いな彼女がキイチを認めているのには、もっと他に理由がある。彼は、ちっとも嫌味がないのである。その証拠に、マユミはおろかミキオにさえ、軽蔑の目で見たことは一度もなかった。かと言って、わざと下手に出て卑屈になっている様子もない。彼のまなざしはいつも優しいのである。そんな彼をマユミは内心で尊敬している。もちろん、それを口に出したことはない。彼が彼女を上にも下にも置かない以上、彼女も対等でいようと思っている。きっと、その方が心地よい友達でいられる。と、彼女はキイチとの関係について感覚的な結論を出している。

 性質に違いはあれど、夏休みのレジャー云々を抜きにしても、キイチもマユミもミキオから目が離せないことだけは、ぴたりと一致した共通認識となっている。



 キイチとマユミがそれぞれの思考に耽っている間に、いつのまにかミキオは横を向いていた。その視線は、マユミの胸元、ボートネックのシャツの襟元と、豊かにふくらみつつある胸の谷間との隙間に注がれている。

 はっと我に返ったマユミが、間髪入れずにミキオの頬に平手打ちをお見舞いする。この一週間で最も強烈な一撃である。

「こんっのバカっ!どこ見てんのよっ!」

「ご、ごめん。なんか見えちゃった。」

 さすが、根無し草の心。随分、罪作りな行雲流水である。

「なんかって、何よ!なんかって!」

「そ、そんなこと言えるわけないよ。」

 マユミが下着をつけているのかどうかは、本人以外は、覗いたミキオのみぞ知るところだが、彼女の怒髪天を突く如くの様子からして、真偽の程は推して知るべしである。

 相も変わらず墓穴を掘ってしまうミキオの情けない声に、マユミの金切り声とキイチの諌める声が交錯し、ミキオの部屋はもうてんやわんやである。

 部屋の外、漆黒の空には、そんな騒ぎを見下ろすように下弦の月が浮かんでいる。

 その月明かりに裏から照らされた周囲の薄雲が、ゆっくりと墨のように流れていく。

 期末試験前夜は、どうにかツツガナク、刻々と更けて行くのだった。












 そういう経緯があって、今教室で、早々に通知表をカバンにしまい込んで、ミキオは三人分の夏休みのスケジュール表を机上に広げて、ニコニコして見ているのである。

 8月3日。その日から一週間、軽井沢にあるキイチの別荘に行くことになっている。

 ミキオは、軽井沢という場所を地理的にはよく分かっていない。海の方なのか山の方なのか…。ただし、有名なリゾート地というぐらいの認識はある。実際は、高原の避暑地であり、各地の資産家から皇族に至るまで、いわゆる上流と呼ばれる人々がこぞって別荘を構える土地であり、そこに別荘を持つことはある種のステータスであり、つまり、キイチの家がそういう家だということなのだが、それら諸々の世間的な事情など、ミキオの知るところではない。ミキオの頭の中を満たしているのは、テニスコートがあること、カブトムシがいそうだということ、プールがあること、などなど、或る意味で健全なものであり、それらは全てキイチから聞いた情報であり、子供が思い描く楽しい夏休みそのものである。

 空想に耽るミキオをよそに、担任教師による夏休みに向けての諸注意が坦々と続く。

 開け放たれた窓の外からは、競うような蝉の狂想曲が唸りを上げている。

 終業式の時には雲の一つもなかった晴天に、今は入道雲が湧きあがっている。

 担任教師の話が終わると同時に、ホームルーム終了を告げるチャイムが鳴り響いた。

 それは、生徒達の本当の夏の始まりを告げる鐘であり、三人の忘れられない夏の始まりを告げる鐘でもあり、そんなことを知る由もないミキオの耳にも、不思議と単なる期待とは異なる感傷にも似た響きを伴って、長く尾を曳いて残ったのだった。







END



執筆: 2004/03/14




次回予告
無人島奇談第6話「山といえば…」
   リッチなキイチの別荘は、山にあった。
   だって、軽井沢だもの・・・。
   なのに、なのにっ!なんでだぁっ!?←意味不明
   急転直下の次回を待て!



戻る     ホーム